28
遠くの方から、何か音がした。
最初はまぐれかと思った。が、音が何度も連続するので、俺はふらつく足で踏ん張って立ち上がり、音の方へ向かう。
色素の薄い茶髪が靡くのが見えた、気がする。
「霞……?」
俺はその影を追って玄関の方へ向かう。急ぐあまり体が前のめりになって転びそうになる。
しかし、音の正体に気づいた時、俺は失望した。
「突然訪れてごめん、巡くん」
「……霞は?」
玄関に立ち尽くしていたのは、紛れもなく翠だった。
「?霞さん?が?どうしたの?」
「霞は……」
俺は咆哮する。
「霞は……!?霞はどこに行った!?」
俺が叫ぶと同時に、翠は肩を跳ねさせる。困惑する翠に構っていられる余裕などなかった。
「さっき、さっき久しぶりに!霞が!来てくれたんだっ」
「ど、どういうこと?霞さんはもう亡くなってるんじゃないの?」
「はあ?黙れよ……!」
もう頭の制御が効かない。自分が言ってはいけないことを言っていることも、ありもしない幻に取り憑かれていることも、理解したくなかった。
翠は目を丸くして、しばらく虚無だった。俺は部屋のあちこちを駆け回る。が、霞の姿は見えないまま。
「め、巡くん、わたし、言いたいことがあって来たの」
翠がリビングまで上がってくる。
俺は未だ部屋を駆けずり回っているだけだった。
「ねえ聞いてよ……!」
嗚咽混じりの声で、翠が叫ぶ。初めて聞く翠のそんなこええに、俺は動きを止めた。壁にもたれかかって、顔を手で覆う。
「……霞が、久しぶりに来てくれたんだ。邪魔すんなよ……っ」
罵声とも嗚咽ともとれるそれに、翠は反応した。
「何言ってるの……?霞さんなんてどこにもいないよ」
俺は耳を塞ぐ。言うな言うな言うな。俺はそんな残酷な救いなんて求めてない。
「ねえ、巡くん変だよ、霞さんはもう亡くなってるでしょ……幻覚だよそれ」
「ああああああああっっ!!」
俺は勢いよく、翠に飛びかかる。考えるより先に、というより、考えることができなかった。
「みんなみんな、そう言うんだ!俺はおかしいって!早く現実を見ろって!できるかよんなこと!なんでなんの罪もない霞が死ななきゃいけなかったんだ!?俺が気づけなかったからか!?俺が勇気を出してちゃんと霞のそばにいることができたら!霞は殺されずに済んだんだろう!?」
言い切るとともに、掴んだ翠の肩を吹き飛ばす。翠はされるがまま、床に転んだ。もう何も理解したくない。このまま何も思考せず、消えてなくなってしまいたい。
「はあ……っ、はあっ」
目眩と耳鳴りがひどい。頭痛もしてくる。どこから間違ってしまったのか。初めから?誰からも愛されることのない俺が愛したいと、そう思ってしまったのが間違いだったのか。
眩む視界に翠を捉える。翠は床に手をついたまま、涙目で怯えたようにこちらを見ていた。その表情を見て、やっと現実が突きつけられる。
――違う、俺はそんな顔をしてほしかったわけじゃない。
「ご、ごめん」
か細い声しか出なかった。俺は床に転げ座ったままの翠と向き合うように膝をついた。何を言えば、なんて言えば翠は泣き止んでくれる?
「俺、俺翠のこと好きだよ、好きだから、そんな顔しないでよ」
翠は潤んだ瞳を震わしたまま、何も答えない。
「ごめん、ごめん、こんなこと、したかったわけじゃなくて」
息を吐くように台詞がつらつらと出てくる。俺は両の腕で、そっと翠を抱きしめる。
体温が生々しかった。
「翠、好きだよ」
決して嘘ではない。翠のことは、本当に好きだった。ただそれは、霞とは別の“好き”なだけで。
翠は俺の腕の中で、小刻みに震えていた。自分より一回り小さい体を、俺はより強く、抱きしめる。腕を翠の腰まで滑らせる。体が密着して、少しの快感が走る。目を瞑ってしまえば、もう同じだった。呼吸も鼓動も落ち着くことはなかった。というのに、翠は俯いたまま俺を自分から引き剥がした。
「……え」
呆然とした。困惑のまま声が漏れる。やはり、俺の気持ちは拒絶されるしかないのか。こんな自分を受け止めてくれる人なんて一人もいないのか。そう思った矢先、翠は顔を上げた。顔は耳まで真っ赤に染まり、瞳からは大粒の涙を流していた。それでもなお、翠は真っ直ぐ俺を見つめて。
わけがわからなくて、やはり俺は呆然とするしかなかった。
「ずるいよ、巡くん」
泣きながら、翠は言う。
「わたしは、巡くんのことが好き。でも巡くんの好きは、わたしの好きと違う」
溢れる涙を拭いきれなくて、彼女は顔を覆う。小さい手から涙が溢れて止まらなくて、なんとなく幼さが垣間見える。
「わたしが巡くんを好きなのは、巡くんが霞さんを好きなのと同じだよ、でも巡くんはわたしのこと、そういう好きじゃないでしょ」
反論はできなかった。ただ黙って翠の声を聞くことしかできなかった。
「もういいよ、もう過去に囚われるのはやめてよ、わたしを見てよ」
翠は床に泣き崩れる。涙がカーペットに溢れて、シミになる。
「わたしと一緒に、今を生きてよ」
それからしばらく、翠は泣いたままだった。
泣き崩れたまま眠ってしまった翠を、俺はベッドまで運んだ。ベッドにそっと横たわらせたところで、翠は赤く腫れた目を開けた。
「え?ちょ」
「もう遅いし今日は泊まりなよ、俺はソファで寝るからさ」
「え?なんで……」
そんな深い意味なんてなくて、ただこの時間に翠を一人で帰らせるのは危ないと感じたからだった。翠は何か聞きたげに、俺をまっすぐ見つめてくる。
「心配しないでも、何もしたりしないよ」
言うと、俺は翠に背を向けてベッドを離れた。翠の返事を聞かぬまま、部屋を出る。
閉めた扉の奥から、鼻をすする音が聞こえた。俺はなんで翠が泣いたのかわからなかった。




