炎の大魔導師、馬になる -1-
あれからどれほどのときが経ったのか、もはやわたしには知り得ません。
蹄でコンクリートをかき、尾でコバエを叩き、ピンと立った耳を左右に動かしながら、ただそこに立ち尽くしています。
顔には無口というベルトが装着され、その無口に引っ掛けられたチェーンが左右の仕切り壁に繋がれているため、顔は正面を向いたきり、長い首はほとんど自由に動かすことはかないません。
「毛づやピカピカだな。そのままじっとしてろよ、蹴るなよ」
男は土のついた作業着を着て、片手にブラシを持ち、わたしの毛並みをとかそうと腰をかがめました。先ほどのこの男によって体も洗われ、だいたいの汚れは落ちましたが、ブラシをかけることによって、さらに乾いて浮き出てきた汗の塩分や、取り切れなかった細かい砂ぼこりも落ちるので、さらに毛並みも整います。
もと炎の大魔導師であるわたしが、馬と成り代わって意識を取り戻してからというもの、わたしの世話はいつも厩務員のこの男がしています。
男は毎日ていねいにわたしのことを扱ってくれます。それゆえ、わたしがこの男を蹴り上げることはありません。
ここは競走馬たちが次のレースに向けて準備をするところ、栗西トレーニングセンター中にある、とある厩舎の洗い場です。
本日も坂路調教をこなしたあとであり、ブラシをかけられるのは気持ち良いものですが、反面身体はそれなりに疲労しています。
「よう、調子はどうだ、その馬、次の未勝利戦は勝てるのか」
厩舎に厩務員は何人もいます。そのうちのひとりが、わたしの担当の男に軽い口調で話しかけてきました。
「勝てるとも、勝てるに決まってるさ!」
「でもその馬、どんだけ走り込みしても筋肉がつかないんだろ? まるっきりヒョロヒョロじゃないか。そんなんで、本気で勝てると思ってるわけないだろ?」
「なにをいう! 筋肉はなくとも、この馬にはこの馬なりのいいところが……!」
「どこだよ? その貧相な牝馬のいいところって」
「⋯⋯レディに向かって貧相なんていうものではないよ。この馬に聞こえたらかわいそうではないか」
「悪かったよ、確かにそうだな。まあ、おまえもそんなにこん詰めるなって。勝てない馬に入れ込んでちゃ、つらくなるのはこっちなんだからな」
「……」
男はそれ以上、言い返せませんでした。
なんといっても、現在馬でありながら、もと炎の大魔導師であり賢いヒロイン枠であるわたしに、新馬戦や未勝利戦を勝つほどのトモの発達や、胸筋、強い心肺機能など持ち合わせているはずがありません。
炎魔法や魔道が使えなければ、そもそもが生き物として最弱の部類です。
そのような最弱さをベースにして馬に成り代わったのですから、競馬を一勝もできずして、登録抹消を迎える未来は明白です。




