掴めたもの、掴めなかったもの
ゴゴゴ、と地響きのような音を立てながら、水が押し流されていく。
水の中に沈んで流れに翻弄された後、天秋は運良く本棚にしがみつくことができた。
水を吸った本は、水流の力で砕けるように溶けていく。
溶けて消えていく瞬間、淡く光ってはグニャリと周囲を歪めていった。
(記録が消えて…現実が、改変されていく…)
そこかしこで、淡い光が歪みを作り出しては消えていく。
歪みが、流れに乗って、歪みと融合して、より大きな歪みへと変わろうとするところもあった。
(あの歪みに巻き込まれたら…どうなるんだ? まさか、歪んだ形で変わって現実に戻される…?!)
水流の流れていく先に、特に大きな光を放ち、グニャグニャと蠢く空間がある。
このまま流されれば、その空間を避けることはできない。
(…くそ、陽大が見つからない…!)
天秋が流れに飲まれる前は清司が陽大を抱き支えていたのを見ているが、今2人がどうなっているのかはわからない。
立っていた位置から考えれば、天秋より先に水流の果てに流されたとは思えない。
しかし、水流の中で本やDVDなどにぶつかることで意識を失ったら。
歪みに巻き込まれてしまったかもしれない。
その可能性が、ぞわりと天秋の背筋を撫でていく。
「陽大っ…! どこだよ、陽大!! 答えて…!!」
声を限りに、友の名を呼ぶ。
叫ぶ度に口の中に水が入り、咳き込みそうになる。
「あき、ひ」
叫んだ瞬間に一際大きな波が天秋を襲い、水が体の中を蹂躙した。
喉の奥が閉じて、呼吸ができなくなった。
強い衝撃が背中に加わって、途切れていた意識が戻ってくる。
胸の奥から水が逆流して、咳き込む。
体の中から、余分な水分を追い出そうとしているようだった。
「清司さん、天秋の意識戻ったっぽい!」
「あき、ひろ…? あま、だき…せい、じ…?」
「陽大、ちゃんと掴まれ。流されるぞ」
「わかってる! 天秋、そこの棚に!!」
水を飲んで一時的に意識を失った天秋を抱えていたのは清司で、背中に体当たりをして水を吐かせたのは陽大だった。
清司は自分の体を堤防にして陽大を支えつつ、天秋の脇腹に右腕を回して、引き上げようとしている。
近くの棚に天秋が掴まり流される心配がなくなると、清司の腕が天秋の体から離れた。
「陽大、良かった…無事で…」
「体はこの通りだから、清司さん頼みだけどな。天秋も無事で良かった」
「陽大が沈むの選ぶかも、とか書いてて、俺…おれ…」
「…んぇ?! な、なんで、それ知ってんの?!」
「え、日記…」
「日記?!?! …実家に送った分…? いや、書いてあったのは送ってないやつのはず…」
日記と聞いた途端に狼狽しだした陽大の様子を見て、やっぱり見られたくなかったか、と天秋はバツの悪い思いに囚われた。
陽大の様子を見るに、彼が意図して渡したものではなかったということだろう。
「取り込み中に悪いが、脱出の方に思考を割いてもらえるか? 日記については後にしてくれ」
「う…了解…」
「俺の後ろに、大きな空間の歪みがあるな? この位置だと、水流に押し負ければ取り込まれてしまう。だから、あちらの本棚に移動したい」
清司が開いた右手で、向かい側の本棚を指さす。
陽大と天秋が差した先の本棚に視線を向け、こくりと頷いた。
「なんか引っかかってて、流れが不規則だねぇ」
「しかも、歪みもある。…あれ、触ったら、俺たちも歪んで戻ることになるよな?」
「多分、そうなる。歪みの元の記録によっては、オレ達が生きてた時間軸に帰れないかもしれないし」
「つまり、迂回が必要というわけだ。流れに逆らってから、大きく距離をとって向かいに渡る」
全身を使って棚に掴まっている天秋を見て、陽大が困ったように呟いた。
「…この流れを戻れるのって、清司さんだけじゃ…?」
「お前が動ければ、もう少しやりようもあるんだが」
「右腕以外動かない戦力外でスミマセン!」
「…五体満足なのに戦力外でスミマセン…」
右腕以外の手足が動けば、陽大も戻れるだけの体幹があるのだととれる清司の言葉に、天秋はいたたまれなくなった。
同年代の中では平均より少し良いくらいの運動神経のはずだが、この苦境を生き抜くには足りないらしい。
「ちょっと、ウチの弟分泣かせないでくれます!?」
「泣かせたのはお前だ、阿呆。…仕方ない、それぞれ放り投げて反対側に向かうか」
「清司さんが、オレ達を抱えて戻る方が安全じゃない? おんぶにだっこでちょいと申し訳ないけど」
そもそも、流れに対して垂直に体勢を維持できているのだから、そのまま進めば良いだろう。
そう陽大が言えば、清司が苦い顔をした。
「俺はここから移動できない。…良く見えてないんだが、左膝から下が何かに挟まってるようで、動かせないんだ」
協議した結果、時間がかかっても清司の自由を確保して移動しよう、ということになった。
動けないからと清司を置いていくことはしたくない、と陽大が強く主張したからだ。
清司は天秋と陽大が2人で脱出すべきだと主張していた。
どちらかと言えば天秋も同じ気持ちだったのだが、その理由を採用するなら自力でその体を動かせない陽大も同じく脱出を諦めるべきだ、と言われて反論できなかった。
「陽大を置いて行くのは考えられない。俺が来た意味がない。天瀧清司を置いて行くのは、寝覚めが悪い。…あと、俺だけで陽大を支えて帰る自信がちょっと」
「オレ、天秋よりも重いしな」
「機動力をとられた陽大が悪い。死守すべきだった」
「頭ん中溶けてたからだよ、ゴメンね!」
ヤケクソ気味に叫んだ陽大が、はぁ、と小さくため息をつく。痛みに耐えるような表情に、今もまだ「巫」として精神が歪められるような感覚が続いているのだと知る。
天秋が水の中に潜り、清司の脚を固定しているものが何かを確認する。
ぎょっとして水面に顔を出して、パクパクと口を開いては閉じた。水の冷たさもあるが、それよりも恐ろしさが勝っていた。
「ほ、本から、手が…」
「蹴り飛ばそうぜ」
天秋が怯えながらした報告に、陽大が間髪入れずに答えた。
それに清司が異を唱える。
「閉架記録庫の本だぞ。そのうち歪みになるんじゃないか?」
「光り始める前に蹴っ飛ばせばいいって。それか天秋が支えててくれんならオレが殴り飛ばす。ミシロ様、そのまま清司さんを帰す気ないんだよ」
腹立たしい、と続けた陽大を見た清司が、静かに笑った。
陽大の頭を両手でわしゃわしゃと撫でる。
犬を撫でるような、撫で方だった。
何をするんだ、と憤る陽大の体を天秋に押し付けて、対岸を指さす。
「え、ちょっ?!」
「清司さん! アンタっ」
「タイムアップだ。俺を置いて、2人で帰れ」
清司のいる場所が淡く光り始め、ゆらゆらと蠢いていく。
代わりに清司が差した先にあった歪みは消えていた。
迂回が不要になった今、清司がいなくても対岸に移動できる。
「清司さんっ!」
「前にお前が持ち込んだ、あのワイン。なんて銘柄だったか、覚えてるか?」
「はぁ?! 今それ」
「次に酒盛りする時に用意しておいてくれ。良いだろう? 誕生日なんだから」
唯一、自力で動かせる右手を伸ばそうとしていた陽大は、その言葉を聞いて、ぐっと手を握る。
「アンタの誕生日じゃなくたって、良い酒用意してやるさ。気が済むまで、飲んで、騒いでやる…だから! オレ達のとこに、戻ってこい!!」
「…俺は狐じゃないんだがな。谷縞、陽大を頼む」
清司が天秋に向かって言うと同時に、光と空間の歪みが彼を飲み込む。
ゆらゆら、グニャグニャとした歪みは、まだ足りないというように水の流れを進み、より大きな歪みへと飲み込まれていった。
大きな歪みを横目に通り過ぎると、ドドドド、と激しい水音がしていた。
「まさか…滝…?」
「滝、だなぁ…ほんっとに、あの蛇神は人間が脆い生き物なのすぐ忘れるんだから…」
「帰す気あっても、コレなのか」
「…水深的にギリ…いやでも、高さがな……あ。」
流石に引き攣った顔をしていた陽大が何かに気付いたような反応をする。
だが、天秋には陽大が何に気付いたのかはさっぱり分からない。
「よし、大丈夫そう。…天秋」
ニヤリ、と笑みを浮かべた陽大が、右腕を天秋の肩に回す。そのまま流れに逆らおうとしていた天秋の体を滝へと向かう流れに押していく。
「迎えに来てくれて、ありがとな。そろそろ帰ろうぜ」
「帰るって、ちょっ、滝っ…!」
「大丈夫だって。ちょっと落ちるけど、ちゃんと帰れるから」
「大丈夫って言われても! …ひっ!!?!」
流れに押し出されるまま、ぐらりと体が傾く。
一瞬の浮遊感。
反転して、水面へと引き込むような強い力に2人は捕まった。
『ーー本日未明、決壊が懸念されていた紙代ダムの放流が行われました。この放流により、旧紙代村周辺地域で土砂崩れが発生した模様です。自治体は、放流自体は必要なものであったとしつつ、当該地域を含め下流域への注意喚起は不足していたことを認めています』
『次のニュースです。ブランド野菜で知られる株式会社シロマナに税務調査が行われました。資産隠しの疑いがあるとのことで、今後、厳しい追及がーー』




