泥中で咲けというならば
悪臭に耐えて辿り着いたカウンターには、黒衣で全身を包んだ司書と対面する形で異形の利用者が列を作っていた。
記録を受け取った利用者は、おどろおどろしい姿とは裏腹に怯えるように閲覧席へと向かっていった。
ぐちゃり、と泥の塊のような利用者が一歩進んで、カウンターの前に立つ。
「おあまえ、を…ねが…ぃま、す」
黒衣の司書が記名を求める。
泥の塊が触手のような腕を伸ばして、中空で何かをなぞると、いつもの紙にすうっと文字が浮かび上がった。
(陽大が書いてた文字に近い…かも?)
短期間で陽大が残した大量のメモを解読していた天秋は浮かび上がった字を何気なく解読しようとした。
つ、と鼻の奥から鉄の匂いと共に生ぬるいものが流れ出すような不快な感覚がして、首を傾げながら手を伸ばす。
指先についた暗い赤が目についた瞬間、頭の中を金槌で無作為に殴りつけられるような痛みが襲ってきた。
「…づぅ…な、ん…」
「天秋?!」
『なんだ、ヒトノコか? どこぞのヘビのニオイがするから、遣いかと思うたわ。そうそう。頭は垂れておけ。無闇に現世にはないものを見て、頭が破裂でもしたら司書どもが困るだろうて』
ねっとりとした泥を乱雑に掻き回す音だけが耳に届く。
相変わらず、ガンガンと金槌を叩きつけられるような痛みを感じながらも、届いた音はなぜか言葉として認識されていた。
たまに起きるトラブルのような軽さで、泥の利用者が言ったことに、天秋と咲紀は血の気が引いた。
異界の図書館であって生きた人間のための場所ではない。
これまでも何度も感じていたことだが、生きて帰れないかも、と危機感を持ったのは初めてだった。
『ヘビめの祝言以来、ヒトノコと縁ができたかよく見かける。うっかりシミになったり流されたりを見とうないでな、用が済んだら、疾く帰りや』
泥の利用者が天秋の頭を撫でるように触手を蠢かせると、割れるような頭痛がすっと消えた。
溶けたように流れ出ていた血も止まったようで、鼻の奥の不快感も同様に消え、天秋は驚きつつも少しだけ視線をあげる。
べチャ、ペチャと音をさせながら、泥の利用者がカウンターの更に奥にあるスペースへと移動していく姿が見えた。
「…大丈夫?」
咲紀が心配を滲ませた声で尋ねながら、ハンカチを差し出した。礼を言って受け取り、血を拭き取る。
「血は止まったみたいだ。…閉架記録庫、結構危ない場所だったんだな」
「さっき言われて気付いたけど、私達も他の利用者も、違う姿に見えてるみたいだね。さっきの利用者さんはニオイで気付いたって」
「だとしたら、司書も俺達が見えている姿と本来の姿は違うかもしれないのかもな」
チラリとカウンターに佇む黒衣の司書に視線を向ける。
黒いベールを被り、長袖の服を着ているせいで肌は見えない。布の下で時折蠢くものも、「屍者」だからとは限らないのかもしれない。
「…さっき、蛇の祝言からヒトノコ…つまり人間との縁が出来たって言ってたよな」
「うん。きっと、ミシロ様のことだよね」
その祝言の光景を知っている、という言葉を吐き出そうとして、失敗した。
頭痛の合間に泡沫がはじけるように一瞬だけ浮かんだ光景があった。
緋毛氈が敷かれた高台で、金屏風を背景に顔の見えない新郎新婦が盃を傾ける。そして、その2人を数多の着飾った異形たちに混じって、天秋も見つめていた。
一昨年の10月の記憶であり、なぜ「陽大が蛇の嫁になったことに疑問を持たなかったのか」の答えだ。
「陽大が巫になったことを1年半も忘れてたみたいだ。…なんで、俺だったんだろうな…」
「また後ろ向いてるよ、天秋。順番きたから、カウンターに行こ」
あまりの体たらくに落ち込みそうになったのを察したのだろう。
咲紀に背中を押され、黒衣の司書が佇むカウンターに向かって足を進めた。
図書館には音声記録や映像記録も収められている。知識として知っていたが、天秋はほとんど利用したことがなかった。
インターネットが当たり前のインフラとなり、ほとんどの音声記録や映像記録がストリーミングで提供される時代において、物理的な媒体での貸借はすっかりと姿を消してしまった。
文字記録でさえ、冊子という物理媒体は減って電子書籍に置き換えられていく世の中だ。
図書館は、そんな世の流れに抵抗する存在でもあるという印象があった。
だから、20cm近くの高さに積まれたDVDケースを見て、唖然とした。
隣におかれた書籍は厚みはあるが、1冊だけだった。
「…え、これ?」
「おあまえ、を…ねが…ぃま、す」
「2人でこの枚数のDVDとその書籍を、ですか?」
「おあまえ、を…ねが…ぃま、す」
黒衣の司書は名前を書け、と促すだけだ。
試しにDVDのケースを1つとって、中身を確認する。刻印もラベルもない白いDVDが入っていただけだ。
ケースを閉じて咲紀に渡す。だが、彼女が開こうとしてもケースはぴくりとも動かなかった。
「映像が天秋、書籍は私、かな」
「みたいだな」
「おあまえ、を…ねが…ぃま、す」
まるで録音した音声を繰り返し流しているような調子で記名を三度、促される。
ため息をついてDVDの山を持ち上げると「コち、ラで」と別の司書が現れた。
「連れがいるんですけど」
「コち、ラで」
赤い上着の不機嫌な司書が現れることを祈ってみたが通じることなく、天秋は1人、オーディオ席へと案内される。
途中の通路で、ふと壁や床に大きな黒いシミが幾つかあることに気付く。
壁のシミの位置は、自分の頭の高さ付近のものが多く、しかも何かが飛び散ったような形状のものが多い。
泥の利用者が残した言葉が不意に蘇ったが、頭を振って無理矢理忘れることにした。
見事に命中したスイカ割りの的と同じ命運を辿ったように思えたのは考え過ぎなのだろう。
辿り着いたオーディオ席には、先客はいなかった。
天秋は両手で抱えたDVDケースを全て机の上に置き、椅子に座り込む。DVDケースには、市販のそれのようにパッケージはついておらず、管理するためのラベルもついていなかった。
見終わるまで帰ることができないというが、数時間どころか数日かかるのではないか。
咲紀に割り当てられた書籍は分厚かったが、流石に天秋よりも先に読み終わることを考えると、現実にはバラバラに戻ることになるのだろう。
はぁ、とため息をついてから、せっかく喝をいれてもらったのに、と苦笑する。
(本当に、なんで俺だったんだろう。咲紀なら、俺より早く真相に辿り着くのに)
プラスチックのケースをコツコツと指先で叩きながら、思考が走り始める。
さっさと見るべきだ、その疑問はあとからゆっくり考えればいい、と囁く理性が押しのけられて、疑問が溢れてくる。
(大体、咲紀の方が俺よりよっぽど優秀じゃないか。俺の方が詳しいのなんて、都市伝説とか怪談とそれに紐づいた知識くらいで。あと付き合いの長さと深さで陽大の悪筆も読めるようになったけど。でも、そんなのオカルトものが好きなら俺じゃなくても…)
そこまで思考が走って、ハタと気づく。
オカルトものが好きなら誰でも辿り着ける。おそらくそうだろう。
では、陽大の人脈の中で該当する人物はいるのか。
天秋が知る限り、この件に興味を持ちそうな陽大の知り合いは、ほとんどが当事者ばかりだ。
当事者でなく興味を持ちそうで、陽大が頼ってもいいと思える知り合いが、天秋しかいなかったのではないのか。
高見教授は興味を持つだろう。陽大だけでなく、清司も当事者なのだから。
だが、今まで天秋が経験してきたことを振り返ると、物理的な危険が多い。シロマナへの社会的制裁をより確実なものとしたかった加巳之皓御霊の意向を汲むなら、安全なところに居てもらいたかったはずだ。
咲紀は天秋が関わらなければ、怪談に繋がる話題に自分から触れようとはしないだろう。
今彼女が尽力してくれているのは、天秋が関わっているからだ。
では、天秋は?
興味を持つだろうし、体力もそこそこあって、多少の危険ならば自力で解決できる。
怪談を話題として振られれば、たとえ翌日に閉架記録庫に迷い込んでいなかったとしても、いずれ天秋は自分から関わっただろうと確信しているし、陽大も同じように考えたはずだ。
そうやって関わるのであれば、彼らにとって都合よく動いてほしいとも考えただろう。
(俺なら陽大がどういう意図で動いてたのかも、ある程度想像できる。しかも俺を主体に置いておけば、咲紀も巻き込んでサポートを頼めるって? おいおい、随分遠慮なく利用してくれてるじゃないか)
フラついていた気持ちが、あるべき場所に収まったような心地だった。
思考の舗装路は、未だに完全には繋がらず、舗装も歪な状態だ。
脇には思考のための材料が乱雑に置かれ、舗装路のどこに使えばいいのかもわからないものもある。
それでも、過去から現在は繋がり、未来へはか細くても繋がるだろう場所が見えている。
(全部終わったら、陽大のこと殴ろう)
避けられるだろうけど、と思いながら、一番上に積まれていたDVDケースに手を伸ばした。
2026/09/12追記 加巳之皓御霊の表記が誤っていたため、修正




