拠り所の在処
けたたましい着信音とともに携帯電話がテーブルの上で震えている音が、天秋の意識に覚醒を促す。
徐々に音量が上がっていく音楽と不格好なタップダンスの如き振動をものともせず襲ってくる眠気に抗いながら、携帯電話に手を伸ばした瞬間に時間切れだと言わんばかりに音がピタリと止まった。
画面の中には「岩久咲紀」の名前と時間、不在着信となったことを知らせる表示が一瞬浮かんで消えた。
消えた画面を見つめたまま、天秋はぼんやりと記憶をたどる。咲紀に何か確認したいことがあったはずだと。
(…聞くとか以前に、なんで咲紀から電話が…?)
まだ眠気に襲われたままの天秋に喝をいれるように、また着信音が鳴り始める。表示には再度、咲紀の名前がある。
名前を認識した瞬間、指は自然と受話ボタンを押していた。
「はい」
『天秋、おはよ』
常日頃とは似つかない、怒りを極力抑えたような声で、咲紀が今起きたのかと尋ねてくる。その声の調子と、今現在の様子を確認してくる流れが、過去の経験に検索をかけさせた。
何か、やらかした。
『午後から、大学に来れる? オープンキャンパスのツアーガイド、天秋にやってほしいの』
「オープンキャンパスの、ツアーガイド…?」
慌てて、携帯電話を耳から離して画面を確認する。
日付と時間が目に入った瞬間、ひっくり返ったような悲鳴が喉の奥から漏れ出た。
『午後のツアー、最初の組は13時半から。間に合うよね?』
「間に合う、間に合わせますっ!」
『三度寝しないでね。次は許さないから』
終話を知らせる音がして、画面は待ち受けに戻った。
咲紀の声には怒りがあり「三度寝」という単語が出てきたことに、まさかとメッセージアプリを起動する。
咲紀からは待ち合わせに来ないことに対する心配。そして、それに中途半端に返信している自分のメッセージと、5分ほどの通話記録を見て何があったのかを察する。
朝方にメッセージアプリを開いたタイミングで着信があったような気がしたことを思い出す。通話に出た記憶はないが、咲紀に話しかけられる夢をみたことが、無意識に受話ボタンを押した証左だろう。
急いで出かける準備にとりかかる。
通学に使っているカバンの中身を確認し、思い出したようにテーブルの上に置いてあったファイルと『会計入門』と書かれた本を追加で入れた。
「物理的な制裁受けませんように…」
玄関扉をくぐりながら、天秋は祈るようにつぶやいた。
ツアーガイドの役目と片付けが終わった後、打ち上げと称して場所を居酒屋に移し、開幕10分程で咲紀と帆菜実がそれぞれ2つ、3つとジョッキを空けていく様を天秋は慄きながら見守っていた。
天秋の寝坊を2人が午後からの参加となるように調整してくれたことに対する感謝と謝罪の場でもある。
「ふぅ、少しは溜飲下がったかな!」
「ありがとう、帆菜実! 誰かさんの代理、ホント助かった!!」
「ありがとうございます、寝坊してすみませんでした…」
「天秋が待ち合わせ時間に来ない。熱中症とかそういうの心配して連絡入れたら、寝ぼけてる返事したあげく、そのまま寝落ちるし…!」
「ごめんなさい」
「寝不足だったの? 理系の人達が『実験で寝る暇ない』って言ってるのは、たまに聞くけど。卒論、そんなにガッツリ調べる内容なんだ?」
帆菜実が卓上に並べられた料理から、フライドポテトを自分の取り皿に移しながら天秋に尋ねる。
巫にまつわる記憶を失った後、帆菜実には紙代村の件は卒論のための資料読み込みやフィールドワーク、あるいは就職活動のための調べ物だと伝えていた。
記憶を失うことで縁切りをしている彼女に詳細は伝えるべきではないし、何より陽大の存在に触れることなく説明することが難しい。
文系学部では、卒業要件に論文の提出が必須ではないことが往々にしてある。帆菜実と咲紀も、論文提出の代わりに指定の講座を履修している。そのため、卒論を書くことがどれほどの負担となるのかにイメージがつかなかったようだ。
「寝不足ってわけじゃないんだ。企業研究のために読んでた本が難しくて…気付いたら寝てた…」
「企業研究! そっか。後期始まったら、就活のこと考えないとだよねぇ…」
「バランスシートの見方が載ってる本を多賀良教授に紹介してもらったから私も読んでるけど、確かに眠くなるのはわかるよ。Not for meだなって」
天秋と咲紀が読んだ感想を言い合う。2人からすれば、それは分かりにくい学問に苦戦する共感だが、帆菜実はそれを静かに、懐かしそうに眺めていた。
「…帆菜実?」
「企業研究って大変なんだね。…前に大事な人のこと、忘れちゃったかもって話したじゃない? その人も唸りながら、同じこと言ってたなぁって」
「文系なら似た事思うもんなんだよ、きっと」
天秋が我が意を得たという調子で言えば、2人が可笑しそうに笑う。
数学嫌いすぎでしょと小突かれながら、天秋は咲紀と一瞬だけ視線を交わす。
陽大も公開されている財務諸表からシロマナの不正利益の存在にアプローチしようとしていたという情報は「ここが社会的制裁に繋がる入り口である」と2人に確信させた。
「あ。そうだ、天秋に渡さなきゃって思ってた物あるんだった」
「俺に?」
「このノートなんだけど、字の癖が強すぎて全然読めないの。前にこんな感じで書いてあるメモがあったら、見たいって言ってたでしょ」
カバンから取り出されたキャンパスノートを受け取ってパラパラと捲る。見覚えのある暗号と化した癖字が目に入ってきた。
間違いなく、陽大が残したものだ。
ふと「巫の精神状態」という単語が目に飛び込んでくる。即座に脳裏に、錯乱した清司の母親の姿が浮かび、次いで閉架記録庫のことを思い出す。
以前、咲紀と共に閉架記録庫に行った際、彼女が読んだ記録はどんなものだったか。詳しくは思い出すことができないが、巫に関係するようなタイトルだった。
「どう? 何が分かりそう?」
「あ、あぁ。助かる。えっと…野菜の食べ過ぎに注意って書いてあるな」
「えぇ、そんなこと書いてあるの? あ、合わない野菜があるのは確かだもんね。このへんとか、レシピっぽいなって思ったんだ」
帆菜実が指差した部分を読んでみれば、大耕から教わったという出汁醤油の作り方が書いてあった。帆菜実の好みに合わせてどう味を調整するか、という情報も添えてある。
パタリとノートを閉じる。分厚いという程ではないが、翻訳をするにはそれなりに時間がかかりそうだった。
帆菜実に借りていいか確認すると、寂しそうにしながらも返さなくてもいいと答えた。
手放すことに悔いは残らないか、と咲紀が問う。彼女にとっては、帆菜実らしくない選択に思えたようだ。
「私が読んでいいものなら、私に読めるように書く人だもん。言ったでしょ、大事にされてたって」
居酒屋を出た後、最寄りの駅で帆菜実と別れた。
天秋が別路線の駅に向かおうと、咲紀に声を掛ける。だが、咲紀は帆菜実の消えた改札の向こう側を見つめたままだ。
「咲紀?」
「9月30日じゃ、遅いのかな…」
「陽大を助けるのが、ってことか?」
咲紀は静かに首肯した。ノートを受け取った時の帆菜実の言葉に、思うところがあったようだ。
陽大の支えは帆菜実を想う気持ちなのだろうと、咲紀は考えていたようで、「大事にしているからこそ、自身のマイナス面を見せるようなことはしない」という言葉に、危機感を持ったらしい。
苦しい、辛いと言った感情を受け止める相手がいないなら、決壊寸前まで溜め込んでいるのではないか、と心配になったという。
「詳しいことは忘れちゃったけど、神に身を捧げた巫女達の手記を読んだ時に思ったの。表面は誉れだって取り繕ってるけど、文字は滲んでたし、震えてた。心身共に捧げるって簡単じゃないって。
帆菜実も私も清斗くんも高見教授も、陽大を忘れちゃうと思うの。陽大は、大事な人に会うことも我慢して忘れられて、神様に一生を捧げようとしてて。折り合い、つけられることなのかな?」
「…それは…」
「私なら、つけられない。天秋のこと忘れて他の人と結婚しろって言われたら絶対に嫌だし、反抗するもん」
真面目な話をしているはずなのだが、自分以外の男と結婚する気はないと明言され、天秋は顔が熱くなるのを感じた。
頭の中では冷静にならなければと思うものの、喜びに叫びだしそうになるのを、必死に抑えつける。
「だから、天秋の側にいられなくなっちゃいそうな今がすごく怖い。紙代村のこと覚えていられないから、どうしても接点が減って、距離ができちゃう」
天秋にも、それは理解できる感覚だ。共有するものが減ることで心理的な距離が遠くなることは、人間関係では簡単に起こりうる。
それを恐れたからこそ、天秋は咲紀に手伝ってほしいと頼んで、距離が開きすぎないようにしようとしたのだから。
「確かに、9月30日じゃ遅い可能性はある。…ただ、天瀧清司次第なんじゃないかって気もしてるんだ」
「どういうこと…?」
一昨年の10月の記憶は、まだ完全には掘り起こせていない。それでも浮かんでくる光景の中で、陽大と清司は互いに信頼を向けていることが見て取れるのだ。
黄泉路と知りながら、軽口を叩きつつ進んでいる。
そんな印象が、2人の会話には強く焼き付いていた。
「天瀧清司を取り巻く環境を知って、陽大が知らんぷりするわけはない。だからって陽大に完全に寄りかかるとも思えないんだよ。…アイツ、勢いで走ってるなって時も結構あるし」
「確かに、目的地分からずに全力疾走してるハスキーみたいに見えることあるもんね。…天瀧さんがうまく手綱を握れているかもしれないってことね」
咲紀の言葉に同意しながら、天秋は移動を促すように足を進め始める。それに合わせるように、咲紀も足を動かした。
まだ「陽大を救い出す」ために必要なことは把握しきれていない状況で、楽観的な考えだという自覚がある。
焦る気持ちは天秋にも当然あるのだ。
「大丈夫だ、時間はある」
天秋は自分に言い聞かせるように、声に出した。
地下通路から地上に出るための階段を登る途中で、ガラスの扉に手を掛け力を込める。
扉の隙間から、湿ったような空気が流れ込んだ。
咲紀と扉を通り過ぎ、段を進む。
ザラザラとした石の踏み面が、気づけばリノリウムのそれへと変わり、登り切ると本棚の壁が目に入る。
「…また、このパターン…」
「電車代が浮いたって思おう…」
鼻の奥を刺激する生臭さに辟易としながら、天秋は咲紀とともに司書のいるカウンターを目指した。




