忘却と崩壊への期限
夕暮れから蛇に苛まれ続けていた女性が、目覚めた途端に巨大な白蛇に見下ろされていると知って悲鳴をあげずにいられたのは、厳かな場の雰囲気がそれを許さなかったからに他ならない。
天秋の視界の中で、息を呑んで両手で口を覆った咲紀が彼に向かって「何が起きたのか」と視線だけで問う。しかし、答えようにも口を挟むことが許される状況ではなく、小さく首を横に振るに留めた。
帆菜実の意識は戻っていないのか、彼女の目は閉じたままだった。
白蛇の伴侶として、神意を伝える巫の役割をもつのだろう陽大が2人を一瞥してから、口を開く。
「我が紙代の鎮守、加巳之皓御霊は、平安は寛仁帝が治める頃に紙代の地に住まう者たちの招請により鎮守と成られた。本性はこの通り白蛇で、治水に関わる権能をお持ちだ。紙代の鎮守となられてからは身を削りながら大地にも加護を与えておられ、採れた作物を人が商うことで紙代の地を間接的に潤してきた」
陽大が残した郷土資料の中にも同じ様な来歴が残されていたことを天秋は思い出す。
「ミシロ様」は、真名を呼ぶのは畏れ多いとして、通称で呼ばれるようになったのだろう。
「招請に応じた際の約定により、加巳之皓御霊は紙代神社に社を構えられ、天瀧の当主がその依代を代々務める。また、この地に住まう乙女の中から、神の血を繋ぐ器として、妻たる巫を合議により見出す。
その契りによって産み落とされる吾子は、加巳之皓御霊の血を引く神の吾子に他ならない。されど約定は破られた。紙代の土民どもにより、神の血を引くその吾子は食い殺された」
続いた説明に、天秋も咲紀もギョッとして陽大を見てしまう。だが、その表情に変化はなく説明は続く。
初めは死して生まれた子ーーつまり流産した子供の遺体が、肥料の中に混ざってしまったことによる事故だったらしい。現代は倫理観や衛生観念が整備されきちんと弔われるが、時代を遡れば墓が用意されず杜撰な扱いになることは珍しくはなかった。
不作をもたらして約定違反を咎めたことは何度もあったが、それによる反省は長くは続かず同じことを繰り返すので、蛇神は罰を兼ねた警告を与えることにした。
紙代村の作物を食べ続ければ体内で銀の塊が育ち、いずれ死に至る。代わりに死した後は銀の塊を収穫できる、と。
作物の商売という間接的な利益だけでなく直接的な利益を与える代わりに、命を刈り取るというものだ。
ところがこの罰を兼ねた警告さえも、紙代村の者たちは他者に押し付けることで回避するようになってしまった。依代であるはずの天瀧の当主も、村人たちを諌めることをしない。
不正に罰を逃れようとするので、何度も洗い流してみたが、気付けば元に戻ってしまうという。
「今代においては、見出すべき巫の合議もなく差し出そうとし、秘事を私欲の資に変える始末。最後と選んだ巫は契りを交わすも子を成せない。故に来たる長月の晦をもって約定を破棄、違約には相応の罰を与え、加巳之皓御霊は鎮守の役から降るものと心得よ」
澱みなく続いていた説明が終わると、陽大の視線は頭上の白蛇の元へと向けられた。ちろり、と赤い二股の舌が動いたのを確認した彼は再び天秋と咲紀に視線を戻した。
そこに感情的な温度はなく、ただ役目をこなしている、といった様子だ。
「直答を許すとの仰せだ。質したき旨あらば、申し述べよ」
ジッと加巳之皓御霊が天秋を見つめてくる。縦に長い瞳孔は酷薄な印象を与えるが、どこか「何から聞きたい?」と言っているようにも見える。
ふと、天秋は「神に成った蛇も、同じように白い人間を見ていたのかもしれない」という考えが泡沫のように浮かんで消えた。
どこで知ったのかわからない、詳細な内容も思い出せないが、蛇が同じ特徴を持った人間に出会い寄り添っていく小説を思い出す。
冷たく突き放すような態度であっても、人間のことを嫌っているのではなく、ただ期待することを止めただけなのかもしれない。
「違約には相応の罰をと言うが、俺も咲紀も帆菜実も紙代村の出身じゃない。当事者に伝えるべきじゃないのか?」
「此度ばかりは『相応の罰』を必ず受けてもらう。故に逃亡できぬ依代と巫を除き、知らせぬ」
「…相応の罰は、知れば逃げてしまうものなのか?」
「直接命は奪わないが、再起は許さない。そういったものだ」
天秋が問うと、陽大が加巳之皓御霊を仰ぎ、彼を通して答える。それを繰り返していく。「再起を許さないとはどういうことか」と問えば「社会的な死と守護する者の喪失、具体は答えられない」と。「罰の対象は」と問えば「土民どもと意思を等しくする者、追従する者。お前たち3人は含まぬ」と。「罰を他者に押し付けたとは」と問えば「何も知らぬ新参者に作物を食わせ銀を収穫しつづけていること」と淡々と陽大の口から告げられる。
問答を繰り返しながら天秋は、はたと気づく。
(…陽大と天瀧清司は、罰の対象なのか…? 帆菜実を巫にしないようにしていた。そういう意味で2人は『意思を等しくする者』じゃない。…でも『追従する者』にはなるんじゃないのか…?)
「銀を収穫し続けている、ってことは…今も罰は与えられているってことだよな。もしかして、シロマナの野菜が、そうなのか…?」
「然り。知らせれば逃げる、具体は答えられぬとしたのはそういうことだ」
加巳之皓御霊の回答を聞いて、天秋は初めて閉架記録庫を訪れた時に読んだ料理本を思い出した。「丁寧な暮らしの料理〜加巳之皓野菜編〜」と銘打たれたそれに、やけに頻出した「ご利益」という言葉。あれは、新規移住者に積極的な加巳之皓野菜ーーいや、シロマナ野菜の摂取を促し、「銀塊を育てる」ためのものだった、ということだ。
そして、加巳之皓御霊の言葉通りなら、今もシロマナ野菜を食べ続けることで命を失っている者がいる、ということになる。それに、シロマナには紙代村と関係ない者も就職している。彼らも「追従する者」になるのではないのか?
それほどの人間が、一斉に社会的な死に見舞われるとすれば、シロマナという会社が倒産する、ということではないか。
(それに「秘事を私欲の資」ってあの動画のこと、だよな。でも「ご利益の範疇じゃない」って陽大は言っていた。…まさか…売った側…?)
「秘事っていうのは、神事の切り抜き動画のこと、で合っているか?」
「…然り。ただし、土民どもの総意ではない」
どんな質問をしても、途切れることのなかった陽大の反応が一瞬止まる。その反応を見て、ずっと陽大がまったく感情を見せないようにしていたと気づく。
かの動画を見たと天秋が言った時も酷く動揺していた。
それまで、天秋と加巳之皓御霊のやりとりを黙って聞いていた咲紀が初めて声を出した。
「今代の巫は、帆菜実になるはずだった。けれどそれは合議によらないもので、合議で決まったのは陽大、ということよね。陽大も紙代村の出身じゃないし、何より『乙女』じゃない。…なぜ巫として選んだの?」
「…『乙女』って、重要なことか…?」
「神の血を引いた将来の器を産む相手として、紙代村に住んでる若い女性であることが必須条件ってことだと思うの。…今の陽大の姿を見たら、どうやって女性と誤認させたのかは予想がつくけど」
「え? …え!?」
「今も紙代村の総意として『罰の押し付け』をして不正に『ご利益』を得てるなら、陽大が巫になることはないでしょ。だって、次世代が絶対に生まれないもの」
咲紀の視線が、陽大に向けられる。その視線は、知っているのだろう、と責めるものだ。
「…合議は当初から依代と加巳之皓御霊の間でのみ行われる。依代側の要望の方が通り易い」
「通り易いだけで、加巳之皓御霊が認めないこともあるでしょ?」
「ある、が…今回は約定を破棄するため、だ。帆菜実を差し出した時点で、依代側の要望を無条件で受け入れることにした」
「…次が私からの最後の質問。天秋以外の『罰の対象外』になってる人から加巳之皓御霊に関わった人の記憶が消えているのは、『長月の晦の約定破棄』に関係してる?」
咲紀の質問の答えは、陽大の様子を見るまでもなかった。悠々と見下ろしていた加巳之皓御霊がニタリと嗤った。
『我が依代は、選ぶべき碇を誤ったな。この娘の方が遥かに意に添うだろうに』
突然、頭の中に響いた声は、空気が漏れるような音が混じっていたが清司の声によく似ていた。だが、声に含まれた圧迫感と悪意は人間が出せるようなものではなかった。
『もちろん、関係しているとも。既に罰は下されておる』
「背の君、それを明かしては…!」
『此奴らに明かしたとて、結果は変わらぬ。お主も我と共に眠るのだろう? それとも、誓約を忘れたか?』
ぎろり、と加巳之皓御霊が陽大を睨むと同時に、陽大が苦悶する。支えるように巻きつかれていた蛇の体はいつしか締め上げられ、ミシミシと体が軋む音が離れた天秋たちにも届くほどだった。
『人間はすぐに約定を忘れる。お主も忘れたなら、思い出させてやろう。なに、頭の中を少しいじってやれば…』
「ふ、ざけんな…の、きお、くに…手ぇ出すんじゃねぇっ!」
『強情な男よ。…此度はかの娘の記憶で手打ちとしようか、どうせ消すのだ。良いな、陽大』
「…っ…承知しました…」
ぐ、と言葉を呑んで承諾を返す陽大は、悔しげな表情を隠さないまま、目に焼き付ける様に帆菜実を見つめていた。
そんな様だから食い殺しそうになるのだ、とぼやく声が小さく響くと同時に天秋たちの足元から、小さく、だが強く渦巻く風が巻き上がった。
『誓約により、帆菜実なる娘の『巫』にまつわる記憶を召し上げる』
蛇神の告げた言葉に驚愕して、慌てて帆菜実に視線を向けると、咲紀が駆け寄っていた。
帆菜実の閉じた目からは大粒の涙が次から次へとこぼれていく。忘れたくない、消さないで、と。
渦巻いていた風は、まっすぐに立っていることもできないほどに強くなり、3人の体を包むと唐突に消えた。
「…ここ…合宿所…?」
帆菜実を抱き抱えていた咲紀が呆然と呟いた。高台にいたはずの天秋たちは、いつの間にか合宿所の前に立っていたのだ。
月は地平の彼方に消え去り、煌々とした太陽が山の稜線から顔を覗かせようとしている。埋め尽くすほどの蛇は姿を消していたが、代わりに壁を緑の蔦が這い周囲の薮が建物を飲み込もうとしていた。
「後は頼んだ」と帳簿のようなものを渡される運転席に座る大耕、陽大によって車の中に強引に押し込められる自分、そして廃墟となった合宿所の中へと進む清司と陽大の後ろ姿が、天秋の脳裏に浮かぶ。赤く色付き始めた木々だけが違っていた。
一昨年の8月末ではなく、10月だったのだと気付く。
再び陽大、清司とともに旧紙代村を訪れ、何かの神事を見た。その後、重要な何かを託され、逃げるように去ったのは。
「…陽大、全然平気じゃなさそうだったね」
「あぁ」
「天秋は、助けたいんだよね」
「もちろん。…手伝ってくれ、咲紀」
期限である9月30日まで、残りは2ヶ月半を切っていた。
2026/08/16 大作→大耕 に修正 (名前を間違えてました…)




