蛇が呑む心
女性陣に割り当てられた部屋に帆菜実を支えて連れて行く。帆菜実の顔色はまだ紙のように白いままで、1人にするには不安があった。男の自分よりも同性の咲紀が傍にいた方が良いかもしれない、と天秋は声をかけた。
「咲紀を呼んでくる。悪いけど、少し待っててくれ」
「……たの…」
「ん?」
「私、天秋たちにずっと隠してたの。本当は陽大に会っちゃいけないってこと。声を聞くのも、探すのもダメってわかってた」
「…わかってた…?」
天秋の上着を掴んで俯く帆菜実が零した言葉が、一拍おいてから天秋の頭の中を黒く染め上げていく。ボトルから墨汁が流れてでて、床に黒い水溜まりを作っていくように。
今までの帆菜実の言葉を振り返って気付く。
彼女が体調を崩していた頃は、険悪な雰囲気を漂わせていても、陽大の傍から離れようとしなかったように見えた。
当時、天秋は「陽大の交友範囲の広さが仇になって喧嘩し、陽大が見張られている」と思っていた。実際は体調不良から来る情緒不安定で、陽大を拒絶していたようだが。
だが、復学後の帆菜実は、陽大の動向を気にしていたことはあったが、会いたい、連絡を取りたい、とは言っていなかった。
「私が私じゃなくなっていくのが怖かったの。知らない女の人の声が、夢で襲ってくる白い蛇を『背の君』って呼んでて、私にも言えって」
それは、自身が内側から無理矢理作り変えられていくような感覚だったらしい。形の合わないパズルのピースを強引に嵌めて歪ませて接着剤で固め、できた隙間を雑草の根が混ざった水で埋め、いつしか根が隙間の存在を消しさり、根とパズルのピースは1つの塊になっていく。
陽大に向けていたはずの好意は、白蛇への好意に書き換えられ、気付けば陽大が夫を奪い取ろうとする女だと帆菜実には見えていたらしい。
刃物で斬りかかり、止められて正気に戻る。何度となく繰り返し、その度に「絶対になんとかする、諦めるな」と陽大から諭されていた、と話す帆菜実の顔は、自分の過失で直せない傷をつけてしまった大事な物をそっと撫でるような、愛しさと後悔が斑に混ざったようなものだった。
帆菜実の告白に、天秋は小さな相槌を返すだけになっていた。
思考の舗装路と足元の間の大きな溝には、今や墨汁の川が轟々と流れている。そこへ、浮島のように新しい道が浮かび上がってくる。
「背の君」は夫を指す古い言葉で、妻を指す「吾妹子」と対になっている。
陽大の画像と共に送られてきたメッセージだけでは、「吾妹子」が誰を指し示しているのか、天秋は確信できずにいた。だが、今はわかる。かつては帆菜実だったが今は陽大だ、と。
(内側から『妻』に替えられていく…陽大が…?)
どろりとした毒蜜のような雰囲気を纏いながら、蛇に向かって愛おしそうに声を掛けていた陽大の声が、不意に耳の奥に響く。
あの時は、背筋が泡立つような恐ろしさを感じた。
陽大が、帆菜実ではない相手に同等以上の愛情をーーそれも欲を感じさせるようなものをーー向けていることに。
胃の底が、ぞわりと蠢めいた気がした。
恐ろしかったのは、その愛情の熱量の高さに、だ。
帆菜実に出会う前は女性との縁に量を求めていた陽大が、彼女への想いを自覚してからは驚くほど一途になった。他の女性は目に入れず、下心を持って近づく男を蹴散らし、本人には慎重に怖がらせないように距離を縮めようとする姿は、天秋にとっては「こうありたい」と思うものがあった。
「入院が決まった頃は特に酷くて、断片的にしか覚えてないの。どこかの地下? で、白無垢みたいなの着てた、とか。私を庇うように立って、代わりになるって言ってた陽大の後姿とか。『君を思ふ 心は常に あれどもな』って贈ってくれたこととか。でも…手を離すって誓ったから、どんどん思い出せなくなってるの。忘れたくないのに…」
一途に想う女性のために、身代わりを買って出るような男が、心変わりした、心変わりさせられた。
それが恐ろしくて、そこにしか意識が向いていなかった。だから、気付いていなかった。
(どうして俺は、陽大が「蛇」の妻になっていたことを受け入れていたんだ…?)
改めて帆菜実に、咲紀を呼んでくる、と天秋は断って通路を戻る。
帆菜実を1人にするのは気が引けたが、不安がぐるぐると内蔵をかき回すような不快感が強く、独りになりたかった。
玄関ホールに向かう通路に出てから、深いため息を吐く。そろそろ陽が落ちる頃なのか、赤く染まった陽光が差し込んでいた。
建物の構造から来る見通しの悪さを補うためか、大きな姿見が目に入る。そこには、玄関ホールに佇む清司の姿が映っていた。
(あの人、まだあそこにいるのかよ…)
先程の帆菜実への態度や言葉を思い出して、苛立ちが戻ってくる。
天秋達が置かれている状況を知っていたにも関わらず、知らないフリをして陽大を引き離そうとしている。
警戒しながら売店の駐車場で話した時に悪い印象を抱かなかった分、騙されていたのだと今は怒りに近い感情がある。
ゲホゲホ、と咳き込む声が聞こえた。鏡の中の清司も、体が揺れていた。
咳き込む音が続く。最初はザマァみろ、と考えた天秋も、1分、2分と続いて、流石に救急車を呼ぶことが脳裏によぎった。いくら悪感情が湧いていても、命の危険に関わるなら放置はできない。
その中に、カツン、と小石が跳ねるような音が混じった。
カツン、がつん。ごとん、ごとり。
小石の跳ねるような音は、次第に重く硬いものが落ちるような音に変わる。
咳き込む音も変わらずしているが、天秋はただ音を立てないように後退る。
鏡の中に映る清司の頭は、人のそれというよりは、蛇のものになっている。口はかぱりと大きく開かれて、その奥から大小の銀色の塊が吐き出され続けている。
(…俺達が、話していたのは…)
天瀧清司は化物だったと考えて、違うと否定した。
帆菜実は、困惑していた。その場にいなかったはずの人間が、何故知っているのか、と。
神でも巨大でも元は蛇、と親友は言っていた。
天瀧清司の姿を借りた、別の何かーー恐らく、蛇神が接触してきた。
蛇の体では、話せないから。
震える体で距離をとり、どうなってるんだを合唱しようとする頭を無理矢理働かせて考える。
陽大からの通話を衝動的に切った時よりも激しい警鐘が脳内で鳴り響いている。
間違えたら、死ぬ。その恐怖が、足元から這い寄ってくるのを感じる。
ふくらはぎから太ももへと巻き付いていくように、柔らかい強靭な肉の塊が蠢いて登るように。
あまりにもリアルな触感に、ぎょっとして鏡から視線を外す。
ぼとり。
目の前を緑色の細長いものが通過し、床に落ちた。しゅうしゅう、と音を鳴らし、赤い二又を素早く動かし、周囲を探るそれは、天秋を見つけて、鎌首を擡げる。
「天秋、そのまま!!」
咲紀の声が響くと同時に、足に巻き付いていた肉の塊ーーもう1匹の蛇が無理矢理剥がされて、床に叩きつけられる。
視界の端で細長い木片、いや、自在ぼうきの柄が引き寄せられた。
「ッセイ!!」
裂帛の気合と、ダンッ、と床が震えるほどの踏み込みの勢いで、自在ぼうきが振り下ろされ、鎌首を擡げていたものとまとめて、蛇の頭を床に縫い止めるように抑えつけた。鞭のように体をしならせ、逃げようと暴れている。
激しく動き回る姿に慄いた咲紀は、先程までの凛々しさは消えて、ほうきの柄から距離を取ろうとしている。それでも押さえつける力が緩んでいないのは流石だが。
「ひぇっ?! た、天秋、助けてぇ…」
礼を言いながら押さえつける役を代わる。
少し呼吸を落ち着けてから、咲紀が調理場に大量の蛇が侵入してきたので、大耕は清司を、咲紀は天秋と帆菜実を探していたらしい。
はっとして、姿見の方を見ると、清司の姿をした何かは映っていなかった。見間違いだったとは思いにくいが、そこにいないことは確かだろう。
天秋が押さえつけたことで、力の伝わり具合が変わったのか、蛇達はぐったりとして動く気配はなかった。
「帆菜実と合流しよう。もしかしたら、向こうにも出てるかも知れない」
「うん。あ、毒があるかも知れないから、他にもほうきあった方がいいよね。…え、あれ…帆菜実?!」
通路の窓からは、帆菜実がいる部屋が少しだけ見えた。窓越しに、帆菜実が怯えながら何かを避けている姿が見えた。
咲紀と顔を見合わせ、通路を全力で駆け抜ける。
女性陣の部屋の前に辿り着くと、部屋の中から溢れ出したように床を埋め尽くす蛇が蠢いていた。
部屋の中にはそれよりも多くの蛇が侵入しており、帆菜実は窓際に追い詰められている。
入口側の蛇達が天秋達に気付くと、鎌首を擡げてシャーシャーと威嚇音を出し始めた。
咲紀が窓を指差しながら叫ぶ。
「帆菜実、窓開けて! 外!!」
怯えながらもコクリと頷いた帆菜実が窓ガラスを開けた。外に蛇はいない。
部屋を安全のために2階にする話もあったが、この状況下であればこのままで正解だったろう。窓から外に出ても怪我はしない。
天秋が、ほうきの柄を握り締め、ブラシ部分で床に蠢く蛇達を払い飛ばす。突き飛ばされた蛇達は、壁に当たり、ズルリと床に落ちた。
帆菜実を見ていた蛇達が、一斉に天秋と咲紀を見た。
多くの蛇が天秋達に向かって鎌首を擡げ、ゆらゆらと揺れている。
壁にあたった蛇の一部はそのまま動かなかったが、他は不満そうに改めて威嚇してきた。
「今のうちに外に!」
咲紀の言葉に帆菜実が頷き、窓枠に手を掛けた。




