悪夢の呼び水
午後最初の講義が始まってから20分ほど経った頃、天秋は学食で資料を広げながら期間限定メニューの酢豚定食を食べていた。
陽大が残した資料は、本人が高見教授に申告していた通り、汚すことを躊躇うものだった。
ほとんどの資料が原本だったのだ。
役所に関連するような公的な資料に関しては流石にコピーだったが、当時の広報誌や村内部で作られたであろうチラシ、当時出版されたのだろう郷土史本の原稿など。
特に、土地神とされている「ミシロ様」に関する来歴や祭祀の内容などの十数冊の本は、すべて手書きのもので明らかに一点物だとわかる。
回収した資料と陽大自身も掘り下げて調べたのだろう内容が記載されたノートを見て、天秋が最初にしたことは手書き資料をすべて写真に取りPDF化することだった。
もっとも、PDFにしたところで陽大のノートは暗号の塊の様になっていて、「白蛇」「役割の変異」「流す」「実利が勝る」などの頻出する一部の単語しか読み取れない。進退に関わる提出物の可読性が低いせいで音読させられた男が書いた文字は個性的すぎた。
彼の書いたノートを読み解くためにも、まずは読める資料から、と公的資料と一部の郷土史本の内容を読んでいるが、「白蛇」以外の陽大が書いた単語につながる記述はまだ出てきていない。
ふう、とため息をついて、紙面から顔を上げる。
「ダムの底に沈んで30年以上、か…」
資料が指し示していたダム湖に沈んだ村は、紙代村だった。
1970年代から1980年代は、全国でもダムが多く作られた年代だ。紙代村を含む一帯がダム建設地と決まったのは、20年から30年に1度の周期で大規模な洪水が起きており、周辺集落を存続させるよりも、住民には下流域の代替地へ移住を促す方が利点が多いとされたからのようだ。
1970年代後半には準備工事が始まり、1980年代前半には住民の移住が始まっていたとある。
完成は1990年前半とあるので、紙代村が物理的に湖の底に沈んでからゆうに30年は経っていることになる。
(なら、一昨年行ったのは、どこだったんだ?)
自身の記憶にある、山の中のダム湖と滝、川。そして、徒歩で十数分しか離れていない過疎の傾向が見えるが、農業に力を入れているという村。
若い人はあまり多くなかったが、科学知識も取り入れた有機肥料の改良に老いも若きも一体となって取り組んでいた。
合宿所のような扱いになっている公民館で振る舞われた地産野菜をふんだんに使った食事の記憶もある。
だが、周囲の人間の記憶と差異が出ていることもわかっている。
公的に残されている記録はむしろ自分の記憶が間違っているのではないのか。
閉架記録庫に最初に訪れた時の、舗装された道ができた感覚は誤りだったのか、と天秋は己を疑う。
「…舗装された道の先は崖でしたって…ことか?」
「そんな危ないところに行く予定あったの?」
思わず呟いた天秋の言葉に、帆菜実から疑問の声が掛けられた。
驚いて声の方を見れば、キョトンとした顔で、天秋を見つめている。
彼女の手には、素うどんの器が載せられたトレイがある。普段からサラダや野菜の多いメニューを選ぶ彼女にしては珍しい選択だった。
「あ、咲紀との旅行計画立ててる場所にそういうところがあった、とか?」
「行く予定ないし、なんで咲紀と旅行って話が?!」
「昨夜、咲紀とお泊りデートしたんじゃないの〜?」
「っ!? な、なんで泊まっ?!?」
「さっき咲紀がおうちに電話してるのが聞こえたから、でーす。服も昨日着てたのと一緒だし。でもその反応からするとデートではなかったんだね。ふ〜ん? 残念だねぇ、意識してもらえなかったのぉ〜?」
ニヤニヤしながら帆菜実が種明かししつつ天秋をからかう。
彼女と出会った当時は、もっと遠回しな言い方をしていたはずなのだが、陽大と出会い交流を続けるうちに、いつしか咲紀と友人関係から逸脱していないことをこんな顔でからかうようになった。陽大の影響が大きすぎる。
「冗談はさておき。咲紀から伝言で、今日の午後はおうちに帰るって。天秋の家とはいえ、無断で男の人のところにお泊りしたから怒られてくるって言ってたよ」
「……俺は朝一に電話で厳重注意を頂いた。連絡しなさいって」
「泊まりはOKなんだ」
昨夜の雨は酷かったもんね、と隣の席に座ったので天秋は広げていた資料を片付けた。
ふと帆菜実が食べかけの酢豚を見て、苦い顔をしたのが目に入った。
「どうした?」
「それ、期間限定の酢豚定食だよね? 『シロマナ』ブランドの野菜のやつ」
「そうだけど。…帆菜実はブランド野菜は苦手か?」
「野菜はどっちかといえば好きだよ。高価くてもなるべく買うようにしてるし。…でも『シロマナ』ブランドは体にあわないみたいで、避けてるんだ」
「体にあわないって、何かアレルギーが出る、とか?」
「そうなのかなぁ?」
帆菜実が言うには、彼女が体調を崩し入院する10ヶ月程前から、陽大を経由して先輩からたくさんの規格外品をお裾分けされたとのことだった。
その先輩の家族が『シロマナ』ブランドで働いており、若い世代への知名度向上も兼ねてのことだという。
帆菜実のもとにそうしてブランド野菜が供給されるに至ったそれぞれの思惑も承知して受け取っていたらしい。
「普通に買ったら高価だし、調理は陽大がしてくれてたしで、ありがたく頂いてたんだよね。だけど、1ヶ月くらい経った頃からかな、体調が崩れやすくなったの」
頭痛の回数が増えた。体重が増えて、手足がむくみやすくなった。女性特有のトラブルも増えた。
料理担当となっていた陽大も自分の好みにあわせた調理が良くないのでは、と味付けや調理方法を色々と試してみたらしい。
それでも改善されなかったが、1週間ほど『シロマナ』の野菜を使うのをやめたところ、改善が見られたのだという。
「その頃は頻繁に悪夢を見るし、陽大にも八つ当たりをたくさんして、すごく不安定だった。私が私じゃなくなるみたいで怖くて。陽大のことも、大好きなはずなのに近寄らないでって、とっさに突き飛ばしたりして」
「え? あれ、ケンカしてたんじゃなかったのか?」
「うん、私が一方的に陽大のことを異常なくらい拒絶してたの。陽大が先輩と一緒にいるの見かけて無性に腹が立ったり、とかしょっちゅう。その先輩は男の人なのに、だよ? 浮気してる! って…」
まだ恋人じゃなかったのに、と自嘲する帆菜実の様子は痛々しい。後悔、という言葉では表しきれないようなものを感じた。
「入院するまでは、蛇に襲われる夢も見てたんだよね。入院してからは全然見なくなったけど。おかげで、蛇、すっかり苦手になっちゃった」
何故か閉架記録庫で見た白蛇がにたりと笑っているような気がした。




