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異界の図書館

 たった24時間ほど前に訪れた時、混乱こそすれ大した恐怖に襲われていなかった。見知らぬ地に迷い込んでしまった不安はあっても、そこが危険な場所だとは思わなかった。自覚はなかったが異界だからと身構えたりしていなかった。

 それを今、天秋(たかあき)は実感している。

 最初は夏場のゴミ捨て場の側を通ったような臭いが微かにしていただけだった。だが、本棚の間を進むにつれて、それは生魚を放置したようなものが増え、カウンターが視界に入る頃には頭痛や吐き気を伴うほどの臭気となっていた。

 青いというよりは白い顔色の咲紀(さき)は天秋の服の裾を掴んだまま、黙っている。おそらく、吐き気が強くて、口を開く余裕がないのだろう。

 咲紀の手を引いて逃げたい気持ちに駆られているが、生憎、どこかにつながりそうな扉はなく、ただ本棚が続くだけだった。


「ヨ、ウコそ。こコ、ハ、閉架記録庫、でス」


 カウンターに辿り着くと、全身に黒い布をまとった人物が椅子から立ち上がり、声をかけてくる。

 頭部から肩までを隠すように黒いベールを被っており、表情は見えなかった。

 腐敗臭としか言い様がない臭いに気を取られそうになるが、言葉の合間に粘液質な水音が混ざっていることに気づく。


「コ…ラニ記名ヲ、オネ…い、シぃます」


 声はひどく嗄れていて、単語はなんとか聞き取れるが、性別や年齢を類推することはできなかった。おそらく、この人物が今回の司書なのだろう。

 2枚の申請用紙と2冊の本に向かって、手を差し出した。


「ひっ!?」


 天秋が辛うじて飲み込んだ代わりに咲紀が小さな悲鳴をあげ、震えながらも強く天秋の服を握りしめる。


 黒い長袖から覗く手は、ぐずぐずに皮膚も肉も溶けて骨が覗いていた。袖の下で何かが蠢いていて、時々不自然に布が動く。

 屍人(しびと)と言うべき姿に、強い忌避感が沸いた。それは死への拒否反応だった。


「コ…ラニ記名ヲ、オネ…い、シぃます」


 司書は同じ言葉を繰り返す。語られた都市伝説にあったように、申請用紙に記名するまできっと繰り返すのだろう。 

 前回の司書は尊大で嫌な態度の男だったが、腹が立ちはしても、こんな恐怖は感じなかった。

 死臭と恐怖に耐えながら、天秋は自身と咲紀の名前をそれぞれ書く。ガタついた名前は2人の様子を表しているようだった。


「閲…覧席ハ、あチ…ラぁ、デス」


 紙に名前を書いたのを見届けた司書は、腐った手を持ち上げて2人の右後ろにある席を指した。

 本を掴み、天秋と咲紀はその場を急いで離れた。


 閲覧席に移動してから、それぞれが手にしていた本を開こうとして顔を見合わせることになった。

表紙から後表紙まで、まったく開かないのだ。


「読む本が決まってる、のかな?」

「そっち貸してくれるか? ……あたりっぽいな。これは開ける」


 咲紀から受け取った『神に成った蛇』という本は、特に力を入れなくても表紙を開くことができた。それぞれに読む本が決まっている、という咲紀の予想はあっているようだった。

 天秋が持っていた『妻に臨んだ乙女達の手記』という本を咲紀に渡す。後でどんな内容だったか咲紀に聞いてみよう、と思った。

 彼女の結婚願望を刺激するような内容なのか気になった、という理由は言えないが。

 

 『神に成った蛇』は、蛇の視点で己が祀られるまでの過程を描いた小説だった。

 天秋が普段読むジャンルは学術書が多いこともあり、この本も同様に学術書だと思い込んでいたが、物語として描かれても何ら不思議のない題材だ。

 

 森の中に棲んでいたアルビノの蛇が、人間に見つかり殺されそうになる。それを同じように「白い人間」によって神の遣いだと救われる。

 実際は神の遣いではなかったが、そう人間たちが思い込んだ事によって、他の蛇のように淘汰されることもなく快適に生活していた。

 寿命が近づいてきたある日、かつて出会った「白い人間」に、神として祀られて欲しいと頼まれる。


 そういう内容の物語だった。


(なるほど。『白くて珍しい』って共通点で、蛇が人間を識別した、というのが後々効いてくるのか。冒頭は、ただの蛇としての視点なのに、気付いたらものすごく複雑な感情まで理解するようになってるところで、祀られて神になっていくっていうのが現されてる)


 己と「白い人間」を同一視することがあったり、「白い人間」と「番」の仲を取り持とうとしたりという下りを経て寿命を全うする時、蛇神となり「白い人間」とその仲間を約束に沿って見守る。

 段々と神に近づいていく描写は、そのうち人を飛び越えて行くようだった。


 最後のページを捲り、裏表紙を閉じる。

 すると、肩に重みが加わった。視線をやると、咲紀が天秋の肩に頭を乗せて眠っていた。

 彼女が倒れてしまわないように抱き寄せると、肩が少し濡れていることに気付く。咲紀の閉じられた目からは、涙が溢れていた。


「咲紀…?」


 起こすかと僅かに迷ったが、すぐに天秋も強い眠気に襲われて目を開け続けることができなくなった。

 眠気に抗い切れず目を閉じると、それまで感じていた悪臭が何か別の香りで上書きされていく。


(この匂い…焼香の時の匂いに似てる…)


 闇に落ちていく意識の片隅で、天秋はそんなことを感じていた。



 バイクの音が、薄暗い部屋の中に届く。

 時折、トラックが走っていく音がして、天秋はずいぶん早くに目が覚めたのだと気付いた。まだ眠気は近くて、手繰り寄せられそうだった。

 薄いタオルケットの中に潜り込もうとして、隣に誰かがいることに気付く。

 咲紀だ。

 一気に眠りに落ちる前の記憶が戻ってきて、飛び起きる。


 高見教授の研究室へ行ったこと。陽大(あきひろ)の私物として、ある村の郷土資料を受け取ったこと。陽大と連絡をとっていたことを咲紀に知られたこと。

 2人で閉架記録庫で、屍人の司書に遭遇したこと。


 だが、読んだ本の内容は、洪水で流された跡地のように、何も覚えていなかった。


最後まで閲覧いただきまして、ありがとうございます。

次回の投稿は7月3日 18時を予定しています。

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