無力
「わたし……この部屋ダメかも」
男が部屋の奥へ消えて五分。あっという間に限界がきた。あり得ないくらい室内の空気が澱んでいるのだ。少し酸っぱいようでそれでいて生臭い。今まで嗅いだことのない臭いだが、今までで一番の臭さだった。
心なしか頭痛もするし目も霞む——これは嗅いでもいい部類に入るのだろうか。こんな環境下で研究を重ねている人間がいるなんて、到底信じられなかった。
一つテーブルを挟んだ向かう側では、シリンダーから青い液体が泡を立てながら溢れ出ている。どう考えても有害物質だ。少し灰がかった煙がこの臭いの原因なのは一目瞭然だった。
それに加えて、部屋に入ってから謎の声が永遠と聞こえてくる。この声がまた堪らないのだ。黒板を爪で引っ掻く音を本能が拒絶するように、この呻き声に対しても全身が粟立ち拒否している。
まるで拷問だ。ここで腰を落ち着けて話をしようとした男の気が知れない。スライムを入手出来なかった嫌がらせなのだろうか。
「勝手に出ていっちゃダメかな?」
「……」
「ダメだよね」
プニちゃんも限界なのだろう。表情険しく、先ほどから言葉を失っている。鼻がないとはいえ嗅覚が兼ね備わっているのは確かなようだ。死んだふりはとうにやめているはずなのに、未だにプルプルと震えている。
「後どれくらい待てばいいのかな。アビィと知り合いみたいだし、勝手に居なくなったら失礼だよなぁ」
鼻声でプニちゃんに問いかけるも相変わらず返事はない。既に気絶しているのかもしれない。だとしたらそれは幸せだ。この臭いと声を気にしなくていいのだから。
相変わらず謎の液体はブクブクと音を立てている。それに合わせるように呻き声は続く。
もう我慢出来そうにもなかった。せめて換気しようと考えたが窓は設置されていない。地下なので当然だ。しかし、あろうことか部屋には換気扇すらも見当たらなかった。
「そうだ! ドアを開けよう!」
しかし扉は内側からロックされており、押しても引いてもびくともしなかった。ここでようやく気づく。自分達が軟禁状態であることを。
一気に血の気が引いた。このままでは嗅覚と聴覚に加え、精神まで侵されてしまいそうだ。せめてこの部屋から移動しなくては。
「ど、ど、どうしよう!」アタフタとオロオロしていると、気絶したと思っていたプニちゃんが口を開いた。
「な、なんてことだ」気絶していたと思われたプニちゃんの声は震えていた。それは今まで聞いたことのない悲痛な声だった。
「プニちゃん! 良かった。ねえ、せめて奥の部屋に行こう——プニちゃん?」
「あれは……スライムだよ」シリンダーから溢れ出る謎の物体を凝視したながらプニちゃんは言った。
「あれが……スライム!?」
言葉にならなかった。それが本当だとしたらなんて残酷な……。いや、まだわたしはいい。もしも異臭を放つ物体がスライムなんだとしたら、プニちゃんにとってはかなり衝撃的な光景に違いないのだ。
わたしだってあれが同じ人間だと考えたら……絶望に打ちひしがれるだろう。きっと許せないし、忘れたくても忘れることの出来ないトラウマになる。
アビィが『魔物の命を軽視している』といっていたのはこうゆうことなのだ。この実験がなにが目的とするかは知る余地もないが、いざこうして目の当たりにすると凄惨過ぎるものだった。
「行こう。もうこんな所ある必要無い——」
「すごいよ!」
「だよね。すごいよね……は?」
プニちゃんはテーブルに駆け寄ると、目を輝かせてシリンダーを覗き込んだ。
「従来を上回る自在性もさることながら、その流動的なボディーは流れること水の如し。もちろんのこと潜在能力も爆上がりだ。惜しむらくは、その能力を活かしきれていない所だね」
「……生きてるの、それ?」
「それとはなんて言い草だ」
「だって気持ち悪いし」
思わず率直な思いを口にしてしまった。少しでもプニちゃんに同情した自分がバカみたいだ。
「ひどいや。確かにこの子達は一ヶ月は湯浴みをしていないだろう。まるで牛乳に浸した雑巾を梅雨の時期に箪笥にしまい続け、その上からお酢をかけて、更に温めて直したような臭いだけど彼らはちゃんと生きてるよ! 一生懸命生きてるんだ!」
涙を流し熱弁するプニちゃんはさておき、命があったのなら何よりだ。臭いけど。
「目から鱗だ。まさかスライムと硫酸がここまで相性の良いなんてね」
「夢に出てきそうな呻き声を上げながら苦しんでるように見えるんだけど」
「喜んでるんだよ。歓喜の歌を奏でているのさ。声帯も安定してないし仕方がないよね」
「あっそ」
いまいちよく分からない。分かりたくもないけど。しかし、得体の知れない謎の物体の正体が知れたのは良かった。スライム自体得体が知れないと言われればそれまでだが。
「ミオの次の能力は【硫酸】なんていいかもね。『青』も大幅にパワーアップだ」
「嫌だよそんなの。硫酸なんてどっから出すのさ。手から硫酸出てくる女なんてもはや妖怪の類だよ」
「まさか。流石に口とかじゃない?」
「余計に嫌だわ」
はあ、なんだかどっと疲れた。幸い鼻が慣れたのか、嗅覚が故障したのかは分からないが臭いにはだいぶ慣れてきた。
とはいえプニちゃん達が同じ物体に変化してしまうのは共に行動を続ける上で多大な影響を及ぼしてしまいそうだ。グリモワールが露骨に嫌がる姿が目に浮かぶ。【硫酸】だけは覚えないようにしよう。
「……そういえばグリモワールって、本当にここにいるのかな」
「いるよ」
「即答だね」
「魔力を感じる。場所までは分からないけど」
「早く会えるといいけど……」
相変わらずシリンダーの仲間に夢中なプニちゃんは、一向にテーブルから離れる気配は無かった。しばらくここで足止めかなと思い、わたしは椅子に腰掛けた。
改めて部屋をぐるりと眺める。一体何を研究しているのだろうと、観察を続けていると壁に一枚の絵画が飾られているのを発見した。
額縁には蜘蛛の巣どころか、埃一つついておらず、とても綺麗に保管されているようだ。
「ん? んん?」
絵画には女性が描かれている。とても綺麗な人だ。しかしどこかで見覚えがあった。
「なんでグリモワールが」
髪の色も瞳の色も、それどころか年齢さえも違って見える。何より絵画のように微笑む彼女を見たことがない。だけどどう見てもグリモワールの面影を感じのだ。
わたしは吸い込まれるように絵画に近づいた。見る人を惹きつける力がこの絵にはあった。美術的センスや感覚は一才持ち得ないが、それでもこんなにも魅力的に見えるなんて芸術とは奥深いものである。額縁には名前が刻まれていた。
「エミーユ」
指でなぞりながら刻まれた文字を口にすると、ギギッと何かが動く音がした。すると、まるで回転扉のように壁と地面が連動しながらぐるりと動き出した。
「え? 何これ——」
真っ暗だった空間にパッと明かりが灯る。目の前には先が見えないほどの一歩道が現れた。
「……びっくり、したぁ」
「ちょっと、ミオ!?」壁の向こう側からプニちゃんの声がした。どうやら絵画は隠し扉だったらしい。わたしは一瞬で壁の裏側に移動してしまったようだ。
「ちゃんと生きてるの!? 壁に挟まれて圧死してないよね!? 全身複雑骨折くらいで済ませないとグリモワールに怒られちゃうよ!」
「わたしの心配なのか怒られる心配なのか分からないけど無傷だから安心して」
「良かった。ちょっと待ってね。壁壊しちゃうから」
「そこまでしなくても……プニちゃん?
会話が途切れたと同時に壁の向こうから野太い声が聞こえてきた。わたしは咄嗟に壁に耳を当てた。男達が会話をしている。次第に声は大きくなり、続けて物音が響く。
「ちょっと! プニちゃん!」
隠し扉は何をやっても反応しない。どうやら完全に閉じ込められてしまったようだ。
「……静かになった」
開かない扉と悪戦苦闘している内に、扉の向こう側は物音一つしなくなった。どうやら誰もいなくなったようだった。
「ど、どうしよう」
このままじゃプニちゃんが危ない。恐らく会話をしていたのはドゥライヤと黒髪の男だ。アビィの知り合いならば庇ってくれる可能性もあるが安心は出来ない。
「わたしだけじゃ何も……」自分の無力さを痛感する。結局わたしは一人では何も出来ないのだ。
「アビィかグリモワールを見つけないと」
わたしはランタンに照らされた一本道を走り出した。




