便箋
便座に座ると、膝の上に置いた両手が汗で湿っていた。
車に戻れば、連れていかれる。そのまま、岬まで。
菜々、晴、悠……
あの子たちは、まだ何も知らずに待っている。
「梨央、まだか」
入口の方から声がした。
「もうちょっと」
返事はなかった。
私は便座から立ち上がった。鍵を外し、洗面台へ戻る。蛇口を開けると、勢いよく水が落ちた。
その音に紛れて、もう一度、窓の留め金を押した。
指先が滑り、爪が金具に食い込む。力をかけ直すと、錆びた金具がわずかに動いた。もう一度押す。今度は留め金が外れ、窓枠が少し浮いた。
向こうに丸一商店の裏壁が見えた。手を伸ばせば届きそうな距離なのに、窓の下までは見えない。
私は窓枠に手をかけた。
そのとき、駐車場で車のドアが閉まった。
続いて、お母さんの声がした。何と言っているのかは聞き取れなかったが、お父さんを呼んでいるらしい。
入口のすりガラスを塞いでいた影が動いた。
足音が遠ざかっていく。
私は窓枠を握ったまま待った。
まだ近くにいるかもしれない。トイレへ戻ってきたら、窓を開けたことまで知られてしまう。
足音は聞こえなかった。
私はコンクリートの台に上がり、窓を両手で押した。
固い枠が急に動いた。
ガタン、と音が響いた。
息を止めた。
水道から水が流れ続けている。
外では何も聞こえなかった。
片足を窓の外へ出し、腰をずらす。窓枠がお腹に食い込んだ。もう少しで抜けられるところで、服が金具に引っかかった。
身体を引くと、布が裂けた。
その直後、また車のドアが閉まった。
私は窓に腰を乗せたまま、動けなくなった。
お父さんだろうか。
戻ろうとすれば、またお父さんの待つ入口へ出なければならない。
私はもう片方の足を外へ出した。
窓枠にぶら下がると、靴の先が宙に浮いた。下を見ても、雑草に隠れて地面がよく見えない。
指を離した。
砂利に膝を打ち、声が出そうになった。口を押さえて痛みをこらえる。
――便箋は?
服の内側を探ると、ちゃんとあった。よし。
雑草をかき分け、トイレの裏へ回った。
商店との間には、細い通路が続いている。湿ったコンクリートの匂いがした。建物の壁が両側に迫り、身体を横にしなければ通れないところもあった。
丸一商店の裏手に金属製のドアがあった。
取っ手を回す。
だめ。動かない。
ドアの向こうで冷蔵庫が唸っている。
叩けば、店の人が気づくかもしれない。でもそうしたら、お父さんも。
私は取っ手から手を離した。
通路を戻り、建物の角からそっと顔を出した。
駐車場に、お父さんの車が見えた。
お父さんはそのそばで、お母さんと向かい合っていた。お母さんが何かを手に持っている。お父さんはそれを見下ろし、口を動かした。
ここからでは聞こえない。
お母さんが頷いた。
そのとき、お父さんが顔を上げた。
トイレの方を見た。
私は壁の陰に引っ込んだ。
見つかっただろうか。
肩が壁に触れ、ざらついた塗装が腕を擦った。耳を澄ましても、車の走る音しか聞こえない。
もう一度のぞくと、お父さんが早足でトイレへ向かっていた。
私は壁から離れた。
お父さんが中を確かめるまで、あとどれくらいあるだろう。
商店の裏手を回り、反対側の壁に沿って進んだ。軒下には空のビールケースや段ボール箱が積まれている。狭いところでは肩が箱に触れ、私は慌てて手で押さえた。
遠くで、お父さんの声がした。
名前を呼ばれたような気がした。
振り返らなかった。
建物の角まで来ると、ガラス戸が見えた。
飲み物の広告が貼られた入口。その横で、アイスクリームの旗が風に揺れている。店内には明かりがついていた。
駐車場に目をやった。
お父さんはいない。
私はガラス戸に手をかけた。
押した。
開かない。
一瞬、鍵がかかっているのかと思った。
横へ引くと、戸はあっけなく動いた。
頭の上で鈴が鳴った。
私は中へ滑り込み、急いで戸を閉めた。鈴がもう一度、小さく鳴った。
店内は外より暖かかった。
棚にはお菓子や缶詰が並び、奥で冷蔵庫が唸っていた。レジの後ろには、四十代くらいの女の人がいた。短い髪を耳にかけ、色のあせたエプロンをつけている。
「いらっしゃいませ」
女の人が顔を上げた。
私は反射的に破れたズボンの膝を隠しかけ、途中で手を下ろした。
「……あの」
「何かお探しですか?」
レジのそばには、飴の袋がいくつも吊るされていた。私はその下の値札を見つめた。
警察を呼んでください。
それだけが、言えなかった。
服の内側へ手を入れ、便箋の端をつまんだ。
これを見せれば、きっと伝わる。
「あの、これ……」
背後で、ガラス戸の鈴が鳴った。




