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旅のしおり  作者: 大窟凱人


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8/13

便箋

 便座に座ると、膝の上に置いた両手が汗で湿っていた。

 車に戻れば、連れていかれる。そのまま、岬まで。

 菜々、晴、悠……

 あの子たちは、まだ何も知らずに待っている。


「梨央、まだか」


 入口の方から声がした。


「もうちょっと」


 返事はなかった。

 私は便座から立ち上がった。鍵を外し、洗面台へ戻る。蛇口を開けると、勢いよく水が落ちた。

 その音に紛れて、もう一度、窓の留め金を押した。

 指先が滑り、爪が金具に食い込む。力をかけ直すと、錆びた金具がわずかに動いた。もう一度押す。今度は留め金が外れ、窓枠が少し浮いた。


 向こうに丸一商店の裏壁が見えた。手を伸ばせば届きそうな距離なのに、窓の下までは見えない。

 私は窓枠に手をかけた。


 そのとき、駐車場で車のドアが閉まった。


 続いて、お母さんの声がした。何と言っているのかは聞き取れなかったが、お父さんを呼んでいるらしい。

 入口のすりガラスを塞いでいた影が動いた。

 足音が遠ざかっていく。

 私は窓枠を握ったまま待った。

 まだ近くにいるかもしれない。トイレへ戻ってきたら、窓を開けたことまで知られてしまう。

 足音は聞こえなかった。

 私はコンクリートの台に上がり、窓を両手で押した。

 固い枠が急に動いた。


 ガタン、と音が響いた。


 息を止めた。

 水道から水が流れ続けている。

 外では何も聞こえなかった。

 片足を窓の外へ出し、腰をずらす。窓枠がお腹に食い込んだ。もう少しで抜けられるところで、服が金具に引っかかった。

 身体を引くと、布が裂けた。

 その直後、また車のドアが閉まった。

 私は窓に腰を乗せたまま、動けなくなった。

 お父さんだろうか。

 戻ろうとすれば、またお父さんの待つ入口へ出なければならない。

 私はもう片方の足を外へ出した。

 窓枠にぶら下がると、靴の先が宙に浮いた。下を見ても、雑草に隠れて地面がよく見えない。

 指を離した。

 砂利に膝を打ち、声が出そうになった。口を押さえて痛みをこらえる。

 ――便箋は?

 服の内側を探ると、ちゃんとあった。よし。

 雑草をかき分け、トイレの裏へ回った。

 商店との間には、細い通路が続いている。湿ったコンクリートの匂いがした。建物の壁が両側に迫り、身体を横にしなければ通れないところもあった。

 丸一商店の裏手に金属製のドアがあった。

 取っ手を回す。

 だめ。動かない。

 ドアの向こうで冷蔵庫が唸っている。

 叩けば、店の人が気づくかもしれない。でもそうしたら、お父さんも。

 私は取っ手から手を離した。


 通路を戻り、建物の角からそっと顔を出した。

 駐車場に、お父さんの車が見えた。

 お父さんはそのそばで、お母さんと向かい合っていた。お母さんが何かを手に持っている。お父さんはそれを見下ろし、口を動かした。

 ここからでは聞こえない。

 お母さんが頷いた。

 そのとき、お父さんが顔を上げた。

 トイレの方を見た。

 私は壁の陰に引っ込んだ。

 見つかっただろうか。

 肩が壁に触れ、ざらついた塗装が腕を擦った。耳を澄ましても、車の走る音しか聞こえない。

 もう一度のぞくと、お父さんが早足でトイレへ向かっていた。

 私は壁から離れた。

 お父さんが中を確かめるまで、あとどれくらいあるだろう。

 商店の裏手を回り、反対側の壁に沿って進んだ。軒下には空のビールケースや段ボール箱が積まれている。狭いところでは肩が箱に触れ、私は慌てて手で押さえた。

 遠くで、お父さんの声がした。

 名前を呼ばれたような気がした。

 振り返らなかった。

 建物の角まで来ると、ガラス戸が見えた。

 飲み物の広告が貼られた入口。その横で、アイスクリームの旗が風に揺れている。店内には明かりがついていた。

 駐車場に目をやった。

 お父さんはいない。

 私はガラス戸に手をかけた。

 押した。

 開かない。

 一瞬、鍵がかかっているのかと思った。

 横へ引くと、戸はあっけなく動いた。

 頭の上で鈴が鳴った。

 私は中へ滑り込み、急いで戸を閉めた。鈴がもう一度、小さく鳴った。

 店内は外より暖かかった。

 棚にはお菓子や缶詰が並び、奥で冷蔵庫が唸っていた。レジの後ろには、四十代くらいの女の人がいた。短い髪を耳にかけ、色のあせたエプロンをつけている。


「いらっしゃいませ」


 女の人が顔を上げた。

 私は反射的に破れたズボンの膝を隠しかけ、途中で手を下ろした。


「……あの」


「何かお探しですか?」


 レジのそばには、飴の袋がいくつも吊るされていた。私はその下の値札を見つめた。

 警察を呼んでください。

 それだけが、言えなかった。

 服の内側へ手を入れ、便箋の端をつまんだ。

 これを見せれば、きっと伝わる。


「あの、これ……」


 背後で、ガラス戸の鈴が鳴った。

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