窓
三ツ瀬岬まであと十七キロ。
その標識が見えたとき、私はノートを開いた。お父さんがカーブで前を向いた隙に、便箋だけ抜いて服の内側へ滑り込ませた。紙の角がお腹に当たった。ノートは膝へ戻した。
小浦入口の商店なら、四、五分戻れば着く。あそこには誰かいるかもしれない。この先にも店はあるかもしれないが、岬に着いてからでは手遅れになる。
お父さんの予定では、あの岬が終点だったから。
「お父さん。トイレに行きたい」
「岬にあるよ」
「お腹が痛いの」
「もう少し我慢しなさい」
「さっきのお店に戻って」
お父さんがルームミラーを見た。
「梨央がそんなこと言うのは珍しいな」
私はお腹を押さえた。本当は痛くない。嘘だとわかったらどうしよう。目をつぶったまま、もう一度言った。
「我慢できない」
「そこで漏らしたら、どうするの」と晴が言った。
「晴、黙ってなさい」とお母さんが答えた。
カーブを曲がるたび、ガードレールの向こうに海が広がった。
昼間は波の白いところを探していたのに、今は道路と海の間にある柵ばかり目に入った。斜面はずっと下まで続き、波の砕ける場所が小さく見えた。
私が顔を伏せていると、菜々が隣から背中をさすってくれた。
「おねえちゃん、おなか、いたい?」
「うん」
「かわいそう」
私は菜々の手を握った。痛くないのに慰められるのが苦しかった。
お母さんが振り返った。私の顔を見て、膝のノートを見て、それから前へ向き直った。
「戻りましょう。済んだらすぐ岬へ行けるんだから」
お母さんがそう言うまで、車は岬へ向かい続けた。
ようやく広い路肩で車が回った。白線が反対向きに流れ始めたのを見て、私は少しだけ息を吸えた。
「仕方ない。すぐ戻れよ」
「うん」
「ほかのところへ寄ったりするな。わかったな」
「わかった」
お父さんはそこから先、何度もミラーを見た。私はお腹を押さえ続けた。
*
車が商店の前に止まったとき、手を離すのが怖くなっていた。
山の影が、道路脇の小さな駐車場まで延びていた。色あせた看板の下に自動販売機が並び、ガラス戸の向こうには白い蛍光灯がついている。隣の公衆トイレは、外壁に黒い雨筋が残っていた。
道路を車が一台通り過ぎた。店の前には誰もいない。
あのガラス戸の向こうに、誰かいるだろうか。
お父さんが先に降り、私の側のスライドドアを開けた。
私もノートを抱えて降りようとしたが、お父さんの視線が表紙に落ちた。
「それは置いてけ」
「でも」
「トイレへ行くのに要らないだろ」
車から見た公衆トイレが目の前にある。隣は商店だ。看板に丸一商店と書いてある。ガラス戸越しに明かりが見えた。十歩も歩けば届きそうだった。
私はそちらへ足を向けかけた。
「梨央、トイレはこっちだろ」
背中でお父さんが言った。
私は丸一商店から目を離した。
お父さんは私についてきて、女子トイレの入口で立ち止まった。
「トイレくらい、一人で行けるよ」
「わかってるよ。でも、さっき我慢できないって言ってただろ。具合が悪くなったら、すぐ呼べる方がいい」
「……大丈夫だよ」
「中まで入るわけじゃない。ここで待ってるから」
私はそれ以上何も言えず、トイレに入った。
振り返ると、お父さんは入口の横に立ち、腕を組んでいた。丸一商店へ行こうとすれば、必ずその前を通らなければならない。
中には洗面台と個室が二つあった。洗面台の蛇口から、ぽたぽたと水が落ちている。入口の扉にはすりガラスがはまっていて、外の明るさがぼんやり透けて見えた。
私は奥の個室に入り、鍵をかけた。
便座に座って耳を澄ませる。
車が通り過ぎる音がした。遠くで鳥が鳴いている。お父さんの声は聞こえなかった。
服の内側へ手を入れると、便箋が指に触れた。
お父さんが書いた手紙。
あれを誰かに見せれば、助けてもらえるだろうか。
でも、どうやって。
店はすぐそこなのに、お父さんが外にいる。
私は立ち上がって水を流した。
個室を出て、洗面台の前に立つ。
鏡には、見慣れない顔が映っていた。道の駅で撮った写真では揃っていた前髪が、汗で額に貼りついていた。
入口へ近づいて、そっと外を見た。
お父さんはまだ同じ場所に立っていた。
私が出てくるのを待っている。
丸一商店は、その向こうだ。
こんなに近いのに。
私は入口から離れ、洗面台のところへ戻った。
そのとき、横の壁に窓があるのを思い出した。
曇りガラスの横長の窓だった。車から見たとき、少し開いていた窓だ。枠は私の肩くらいの高さにあり、下には掃除道具を置くコンクリートの台があった。
私は台に置かれたバケツをそっと床へ下ろした。
靴を履いたまま台に上がり、留め金に指をかける。
動かない。
錆びている。
もう少し力を入れると、金具がきしんだ。
私は慌てて手を離した。
音がトイレの中に響いた気がした。
入口を見る。
すりガラスの向こうに、お父さんの影があった。
私は台から降りた。
しばらく立ったまま待った。
何も起きなかった。
もう一度、窓を見上げる。
あそこを通れるだろうか。身体がつかえて、抜けなくなったらどうしよう。
しかも、途中でお父さんが入ってきたら。




