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旅のしおり  作者: 大窟凱人


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7/12

窓

 三ツ瀬岬まであと十七キロ。

 その標識が見えたとき、私はノートを開いた。お父さんがカーブで前を向いた隙に、便箋だけ抜いて服の内側へ滑り込ませた。紙の角がお腹に当たった。ノートは膝へ戻した。

 小浦入口の商店なら、四、五分戻れば着く。あそこには誰かいるかもしれない。この先にも店はあるかもしれないが、岬に着いてからでは手遅れになる。

 お父さんの予定では、あの岬が終点だったから。


「お父さん。トイレに行きたい」


「岬にあるよ」


「お腹が痛いの」


「もう少し我慢しなさい」


「さっきのお店に戻って」


 お父さんがルームミラーを見た。


「梨央がそんなこと言うのは珍しいな」


 私はお腹を押さえた。本当は痛くない。嘘だとわかったらどうしよう。目をつぶったまま、もう一度言った。


「我慢できない」


「そこで漏らしたら、どうするの」と晴が言った。


「晴、黙ってなさい」とお母さんが答えた。


 カーブを曲がるたび、ガードレールの向こうに海が広がった。


 昼間は波の白いところを探していたのに、今は道路と海の間にある柵ばかり目に入った。斜面はずっと下まで続き、波の砕ける場所が小さく見えた。

 私が顔を伏せていると、菜々が隣から背中をさすってくれた。


「おねえちゃん、おなか、いたい?」


「うん」


「かわいそう」


 私は菜々の手を握った。痛くないのに慰められるのが苦しかった。

 お母さんが振り返った。私の顔を見て、膝のノートを見て、それから前へ向き直った。


「戻りましょう。済んだらすぐ岬へ行けるんだから」


 お母さんがそう言うまで、車は岬へ向かい続けた。

 ようやく広い路肩で車が回った。白線が反対向きに流れ始めたのを見て、私は少しだけ息を吸えた。


「仕方ない。すぐ戻れよ」


「うん」


「ほかのところへ寄ったりするな。わかったな」


「わかった」


 お父さんはそこから先、何度もミラーを見た。私はお腹を押さえ続けた。


    *


 車が商店の前に止まったとき、手を離すのが怖くなっていた。

 山の影が、道路脇の小さな駐車場まで延びていた。色あせた看板の下に自動販売機が並び、ガラス戸の向こうには白い蛍光灯がついている。隣の公衆トイレは、外壁に黒い雨筋が残っていた。

 道路を車が一台通り過ぎた。店の前には誰もいない。

 あのガラス戸の向こうに、誰かいるだろうか。

 お父さんが先に降り、私の側のスライドドアを開けた。

 私もノートを抱えて降りようとしたが、お父さんの視線が表紙に落ちた。


「それは置いてけ」


「でも」


「トイレへ行くのに要らないだろ」


 車から見た公衆トイレが目の前にある。隣は商店だ。看板に丸一商店と書いてある。ガラス戸越しに明かりが見えた。十歩も歩けば届きそうだった。

私はそちらへ足を向けかけた。


「梨央、トイレはこっちだろ」


 背中でお父さんが言った。

 私は丸一商店から目を離した。

 お父さんは私についてきて、女子トイレの入口で立ち止まった。


「トイレくらい、一人で行けるよ」


「わかってるよ。でも、さっき我慢できないって言ってただろ。具合が悪くなったら、すぐ呼べる方がいい」


「……大丈夫だよ」


「中まで入るわけじゃない。ここで待ってるから」


 私はそれ以上何も言えず、トイレに入った。


 振り返ると、お父さんは入口の横に立ち、腕を組んでいた。丸一商店へ行こうとすれば、必ずその前を通らなければならない。

 中には洗面台と個室が二つあった。洗面台の蛇口から、ぽたぽたと水が落ちている。入口の扉にはすりガラスがはまっていて、外の明るさがぼんやり透けて見えた。

 私は奥の個室に入り、鍵をかけた。

 便座に座って耳を澄ませる。

 車が通り過ぎる音がした。遠くで鳥が鳴いている。お父さんの声は聞こえなかった。

 服の内側へ手を入れると、便箋が指に触れた。

 お父さんが書いた手紙。

 あれを誰かに見せれば、助けてもらえるだろうか。

 でも、どうやって。

 店はすぐそこなのに、お父さんが外にいる。

 私は立ち上がって水を流した。

 個室を出て、洗面台の前に立つ。

 鏡には、見慣れない顔が映っていた。道の駅で撮った写真では揃っていた前髪が、汗で額に貼りついていた。

 入口へ近づいて、そっと外を見た。

 お父さんはまだ同じ場所に立っていた。

 私が出てくるのを待っている。

 丸一商店は、その向こうだ。

 こんなに近いのに。

 私は入口から離れ、洗面台のところへ戻った。

 そのとき、横の壁に窓があるのを思い出した。

 曇りガラスの横長の窓だった。車から見たとき、少し開いていた窓だ。枠は私の肩くらいの高さにあり、下には掃除道具を置くコンクリートの台があった。

 私は台に置かれたバケツをそっと床へ下ろした。

 靴を履いたまま台に上がり、留め金に指をかける。

 動かない。

 錆びている。

 もう少し力を入れると、金具がきしんだ。

 私は慌てて手を離した。

 音がトイレの中に響いた気がした。

 入口を見る。

 すりガラスの向こうに、お父さんの影があった。

 私は台から降りた。

 しばらく立ったまま待った。

 何も起きなかった。

 もう一度、窓を見上げる。

 あそこを通れるだろうか。身体がつかえて、抜けなくなったらどうしよう。

 しかも、途中でお父さんが入ってきたら。

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