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旅のしおり  作者: 大窟凱人


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6/10

小浦入口

 そんなことを聞いたら、手紙を読んだと気づかれてしまう。

 お母さんは助手席で、窓の外を見ていた。声をかけようとして、やめた。

 あの手紙を見つけてから、お母さんに何を聞けばいいのかもわからなくなっていた。


 菜々が頬に寝跡をつけたまま起き上がった。


「貝がら、いっぱいひろって、おうちのコップに入れる」


「いっぱい拾おうな」とお父さんが答えた。


「きれいなの、あげるね」


「父さんにか?」


「うん。おうちにかざって」


 お父さんが笑った。

 菜々も笑った。

 私は窓の外を向いた。

 菜々は本当に、帰ってから貝殻を飾るつもりでいる。悠も晴も、明日になれば学校で旅行の話をすると思っている。

 それが当たり前だった。私だって、ほんの少し前まではそう思っていた。

 菜々の声を聞いていると、急に泣きたくなった。泣いたらみんなに気づかれるので、窓の向こうの石垣を数えるふりをした。

 ここで車から降りられたら。

 そんなことを考えたのは初めてだった。

 だけど、降りてどうするのだろう。悠と菜々だけでも連れて逃げる? 晴は? お父さんが追いかけてきたら?

 振り返ると、晴は窓に額をつけて外を見ていた。悠は膝の上で指を動かし、菜々はぬいぐるみを抱きしめている。

 この三人を置いたまま逃げるなんて、できない。

 かといって、全員を連れて車から降りる方法も思いつかなかった。

 私はノートの「帰り」のページを開いた。

 お父さんは帰りの道を決めていない。私も、どこを通ってきたのか、ほとんど覚えていなかった。

 さっきの食堂は、どっち側にあっただろう。石垣の切れ目は、どのカーブの先だっただろう。

 思い出そうとしても、窓から見ていた景色がごちゃごちゃになっていた。

 それが怖くて、私は前を向いた。今からでも覚えなければと思った。


 左側に「小浦入口」というバス停が現れた。

 奥には低い屋根の商店があり、その隣に公衆トイレが建っていた。店の前には自動販売機がある。人影は見えなかった。

 誰かいるかもしれない。

 車がカーブで速度を落とした。私は窓に顔を近づけた。

 トイレの横手に、少し開いた窓が見えた。もっとよく見ようとしたときには、もう建物が後ろへ流れていた。

 あそこで車を降りられたら、店に行けるだろうか。

 でも、お父さんが降ろしてくれるだろうか。

 私は振り返って、悠と菜々を見た。二人とも何も知らない顔をしている。


 警察に電話できたら。でも、私にはスマホがない。中学生になるまでは持たせないと、お父さんが決めていた。

 誰かに助けを呼んでほしかった。お父さんでもお母さんでもない、知らない大人に、あの手紙を見てほしかった。


「お父さん」


「なんだ」


 呼んでから、何を言えばいいのか迷った。


「帰りにあのお店、寄れる?」


「何を買う」


「まだ決めてない」


「なら、必要ないだろ」


 それで話が終わりそうになった。

 私はもう一度、店の方を見た。木の枝に隠れて、屋根が少しずつ見えなくなっていく。


「ちょっと見るだけでも……」


「どうしてそんなに帰りのことを聞くんだ」


 お父さんがミラー越しに私を見た。

 胸がどきどきして、すぐに声が出なかった。さっきノートを裏返したときのことまで、全部知られているような気がした。


「おみやげ、見たかっただけ」


「土産なら岬にある」


「うん。そうだね」


 お父さんはしばらくミラー越しに私を見ていたが、次のカーブで前を向いた。

 ノートの端に「小浦」と書き、手のひらで隠した。助けを呼べるかもしれない場所が、また一つカーブの向こうへ消えた。

 あそこには人がいるかもしれない。手紙を見せたら、助けてもらえるかもしれない。

 どうにかして、もう一度あのお店へ行きたかった。

 でも、お父さんに引き返してもらうには、何と言えばいいのだろう。さっき断られたばかりなのに。

 私は窓の外を見た。岬へ向かう標識が、また一つ通り過ぎていった。

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