小浦入口
そんなことを聞いたら、手紙を読んだと気づかれてしまう。
お母さんは助手席で、窓の外を見ていた。声をかけようとして、やめた。
あの手紙を見つけてから、お母さんに何を聞けばいいのかもわからなくなっていた。
菜々が頬に寝跡をつけたまま起き上がった。
「貝がら、いっぱいひろって、おうちのコップに入れる」
「いっぱい拾おうな」とお父さんが答えた。
「きれいなの、あげるね」
「父さんにか?」
「うん。おうちにかざって」
お父さんが笑った。
菜々も笑った。
私は窓の外を向いた。
菜々は本当に、帰ってから貝殻を飾るつもりでいる。悠も晴も、明日になれば学校で旅行の話をすると思っている。
それが当たり前だった。私だって、ほんの少し前まではそう思っていた。
菜々の声を聞いていると、急に泣きたくなった。泣いたらみんなに気づかれるので、窓の向こうの石垣を数えるふりをした。
ここで車から降りられたら。
そんなことを考えたのは初めてだった。
だけど、降りてどうするのだろう。悠と菜々だけでも連れて逃げる? 晴は? お父さんが追いかけてきたら?
振り返ると、晴は窓に額をつけて外を見ていた。悠は膝の上で指を動かし、菜々はぬいぐるみを抱きしめている。
この三人を置いたまま逃げるなんて、できない。
かといって、全員を連れて車から降りる方法も思いつかなかった。
私はノートの「帰り」のページを開いた。
お父さんは帰りの道を決めていない。私も、どこを通ってきたのか、ほとんど覚えていなかった。
さっきの食堂は、どっち側にあっただろう。石垣の切れ目は、どのカーブの先だっただろう。
思い出そうとしても、窓から見ていた景色がごちゃごちゃになっていた。
それが怖くて、私は前を向いた。今からでも覚えなければと思った。
左側に「小浦入口」というバス停が現れた。
奥には低い屋根の商店があり、その隣に公衆トイレが建っていた。店の前には自動販売機がある。人影は見えなかった。
誰かいるかもしれない。
車がカーブで速度を落とした。私は窓に顔を近づけた。
トイレの横手に、少し開いた窓が見えた。もっとよく見ようとしたときには、もう建物が後ろへ流れていた。
あそこで車を降りられたら、店に行けるだろうか。
でも、お父さんが降ろしてくれるだろうか。
私は振り返って、悠と菜々を見た。二人とも何も知らない顔をしている。
警察に電話できたら。でも、私にはスマホがない。中学生になるまでは持たせないと、お父さんが決めていた。
誰かに助けを呼んでほしかった。お父さんでもお母さんでもない、知らない大人に、あの手紙を見てほしかった。
「お父さん」
「なんだ」
呼んでから、何を言えばいいのか迷った。
「帰りにあのお店、寄れる?」
「何を買う」
「まだ決めてない」
「なら、必要ないだろ」
それで話が終わりそうになった。
私はもう一度、店の方を見た。木の枝に隠れて、屋根が少しずつ見えなくなっていく。
「ちょっと見るだけでも……」
「どうしてそんなに帰りのことを聞くんだ」
お父さんがミラー越しに私を見た。
胸がどきどきして、すぐに声が出なかった。さっきノートを裏返したときのことまで、全部知られているような気がした。
「おみやげ、見たかっただけ」
「土産なら岬にある」
「うん。そうだね」
お父さんはしばらくミラー越しに私を見ていたが、次のカーブで前を向いた。
ノートの端に「小浦」と書き、手のひらで隠した。助けを呼べるかもしれない場所が、また一つカーブの向こうへ消えた。
あそこには人がいるかもしれない。手紙を見せたら、助けてもらえるかもしれない。
どうにかして、もう一度あのお店へ行きたかった。
でも、お父さんに引き返してもらうには、何と言えばいいのだろう。さっき断られたばかりなのに。
私は窓の外を見た。岬へ向かう標識が、また一つ通り過ぎていった。




