見つけてくださった方へ
お母さんが泣いていると気づいたのは、午後三時を少し過ぎたころだった。
助手席で窓の方を向き、ハンカチを口に押し当てている。菜々は私の隣で眠り、晴と悠も三列目で額を寄せ合っていた。
「お母さん、酔ったの?」
「違う」
「じゃあ、何」
「……ちょっと疲れただけ」
私はそれ以上聞かなかった。お母さんが何も話したくないときの声だった。
「泣くなよ。せっかくの旅行なんだから」とお父さんが言った。
お母さんはハンカチを畳んだが、肩がまだ小さく動いていた。
*
お父さんは少し先の駐車スペースに車を寄せた。展望台でも店でもない、道幅を広げただけの場所で、道路の反対側に古い自動販売機が立っている。
「缶コーヒーでも飲もう。母さんも降りておいで」
「私はいい」
「少し歩いた方が楽になるよ」
お父さんは外から助手席のドアを開けた。お母さんは何か言いかけ、結局、ハンカチを握ったまま降りた。
「梨央、みんなを頼むぞ」
「うん」
私はいつもの返事をした。お父さんはお母さんの背中に手を添えて道路を渡った。向こう側に車は来ていなかった。
悠が寝ぼけて「ティッシュ」と言った。鼻の下に赤い筋ができていた。私は手提げを探したが見つからず、助手席の前の収納に箱があったことを思い出した。
シートベルトを外し、お母さんの席へ移って収納を開けた。悠に数枚渡してから、残りを戻そうとすると、箱の下に薄い茶封筒があった。
『見つけてくださった方へ』
宛名の代わりにそう書かれていた。封はしていない。私はいったん箱を戻しかけた。お父さんの物を勝手に触るなと言われている。それなのに、指が封筒の口を広げていた。
中の便箋には、いつものお父さんの字でこう書かれていた。
『私たち家族六人は、これから死にます。事故ではありません。子どもたちは何も知りません。すべて私が決めました。妻にも責任はありません。』
家の住所とおばあちゃんの電話番号が続き、いちばん下に四つの名前が並んでいた。
梨央、晴、悠、菜々。
私の名前は、いつも「央」だけが少し大きい。菜々の「々」も、見慣れた形に膨らんでいた。お父さんが書類に私たちの名前を書くとき、私は隣でふざけて字の大きさを真似したことがある。お父さんは笑って、もう一度書き直してくれた。
もう一度、最初の行を読んだ。
六人。
私の後ろで、悠が鼻をすすった。ティッシュを替えてやらなければならないのに、私は動けなかった。菜々は眠ったまま、ぬいぐるみの耳を指に巻きつけている。握りすぎて白くなったその指を、ほどいてやることもできない。
さっきの食堂でお母さんが残した魚や、お父さんが二枚撮らせた写真が、頭の中で順番をなくして浮かんだ。道の駅で飲んだ牛乳の瓶。菜々の靴下を探していた私。お父さんが「なんでもいい」と笑った顔。
お父さんは、帰りの時間を決めなかったんじゃない。
喉から変な音が出た。鼻をすすったのは悠だったのに、自分の方が泣き始めたような気がした。私は手を口に当てた。お父さんに聞こえたら困る。聞こえる距離ではないとわかっていても、手を離せなかった。
窓の向こうで、お父さんが自動販売機のお釣りを探していた。お母さんは少し離れて立ち、お父さんの方を向いている。お父さんはいつも財布の小銭を数えるのに時間がかかる。何度も見てきた背中なのに、見知らぬ人の背中より怖かった。
お母さんが振り返った。
私はとっさにしゃがみ込んだ。便箋の端が手に食い込む。見られたかもしれない。収納の扉が開いている。お父さんが帰ってくる。お母さんも。
折った便箋をノートの間に挟み、空の封筒を箱の下へ戻して、収納を閉めた。シートベルトを締めるまでの短いあいだに、何度も手が滑った。ノートを開けばお父さんの字が見えると思い、閉じたまま膝へ押しつけた。
お母さんが先に戻ってきた。ドアを開け、私の顔を見る。
「どうしたの、梨央」
「悠が鼻血出して」
後ろを指さした。悠はティッシュを鼻に当て、半分眠った顔でこちらを見た。
「そう。止まった?」
「たぶん」
お母さんは私の額に手を当てた。その手がいつもどおりに冷たかった。手首を引こうとして、動かさずにおいた。お母さんが不思議そうに私を見る。
「顔色、悪いよ」
「車、暑いから」
「そうね」
お母さんは微笑んだ。私が熱を出したとき、寝るまで枕元にいてくれたときと同じ笑い方だった。さっきまで泣いていたのに、今は笑っている。その顔を見たら、何を知っているのか聞きたくなった。
聞いたら、答えを聞く前に、私が手紙を読んだことがばれる。
お母さんは助手席に戻ろうとして、収納の方に目をやった。いつも置いてあるティッシュ箱が少し斜めになっていた。私は直そうと手を伸ばしたが、お母さんが先に箱を押し込んだ。
何も言わなかった。
お父さんが缶を二本持って戻ってきた。
シャツの襟が片方だけ折れていた。
「どうした、梨央。元気がないな」
「悠が鼻血出して」
「お前は?」
「平気」
お父さんはミラー越しに私を見た。
「楽しいよ」
笑ってみせると、お父さんも笑って前を向いた。私たちの名前を手紙に書いた手が、ハンドルを握っている。
車が走り出した。お母さんが振り返ったので、私はノートを胸に抱き、さっきと同じ笑顔を作った。




