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旅のしおりの最後のページ  作者: 大窟凱人


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3/5

昼過ぎの港

 昼を過ぎると、海が見えた。


 山の切れ目に細い帯のように現れ、晴が「海だ」と叫ぶころには杉林に隠れた。それから畑の向こうに白い波が見え、とうとう道のすぐ下まで近づいてきた。


 お父さんは小さな漁港に車を止めた。ドアを開けると、潮と魚の混じった匂いがした。岸壁には小舟が何艘もつながれ、波に押されて離れては、ロープに引かれて戻ってくる。日差しが水面に跳ね、船の横腹にゆらゆら映っていた。


 岸壁に沿って歩いていくと、小さな食堂があった。入口の生簀を悠が覗き込み、晴も隣にしゃがんだ。中では魚が狭いところをぐるぐる泳いでいた。


 お父さんに呼ばれて店に入ると、六人分の定食を注文してくれた。余ったら自分が食べるからいいと言った。

 晴の嫌いなわかめを自分の皿へ移し、悠の魚から骨を取り、菜々の湯呑みをテーブルの奥へ置いた。お母さんはほとんど箸を動かさなかった。


「お母さん、お腹痛い?」


「平気。朝ごはん、食べすぎただけ」


 朝、お母さんは何も食べていなかった。

 お父さんが会計へ行ったとき、晴は額に落ちた髪を払って、私に顔を寄せた。


「姉ちゃん。今日、なんか変じゃない?」


「何が」


「お父さん。会社、ずっと休んでたでしょ。なのに休み取ったって」


 お父さんが仕事へ行かなくなったのは先月の終わりだった。家では有給を消化していると説明された。夜中にお母さんと話す声や、電話の相手を怒鳴る声は聞こえたけれど、私は理由を聞かなかった。お父さんが家にいるあいだ、晴たちを静かにさせるだけで手いっぱいだった。


「会社のことは、お父さんたちが考えるよ」


「そういう話じゃない」


「じゃあ何」


「お母さん、今日ぜんぜん楽しくなさそう」


 お母さんは菜々の皿に残った魚をほぐしていた。もう食べ終えている菜々のために、小さな骨を一本ずつ取り除いている。お母さん自身の皿には、冷めた魚が丸ごと残っていた。


「車酔いじゃない?」


「お母さん、酔わないよ」


 そうだった。お母さんは車に酔わない。


    *


 食堂を出ると、悠が沖のブイを指さした。


「あれまで泳げる?」


「無理」


「なんで?」


「見た目より遠いから」


 お父さんが振り返った。


「そうだな。海は距離がわかりにくい」


 それから岬へ続く道を指さした。


「あの先に、きれいな場所がある。日が沈むまでに行こう」


「帰りは真っ暗だね」と悠が言った。


「そうだな」


「おばあちゃんに、着いたって電話しなきゃ」


 お母さんの手元で、紙の箸袋がくしゃりと鳴った。


「電波があるところでね」


 私が答えると、悠は「うん」と頷いた。

 お母さんは、しわになった箸袋を握ったままだった。


 港を出ると道は海から離れ、家々がまばらになった。カーブの先に古いバス停があり、屋根の下では買い物袋を持った人がバスを待っていた。私は停留所の名前をノートに書いた。「小浦北」。こんな場所にもバスが通るのかと思ったからだ。


 お父さんがミラー越しに私の鉛筆を見ていた。


「何を書いてる?」


「通ったところ。帰りに迷わないように」


「ナビがあるだろ」


「でも、電波がなくなるかもしれないし」


「俺が道を覚えてる」


 晴が三列目で足を揃えた。お父さんの声がいつもより低かったからだ。

 私がノートを閉じると、お父さんはもう何も言わなかった。

 書かないことくらい簡単だった。お父さんが嫌がることをやめるだけで、一日が無事に済むことを、私はずっと前から知っていた。

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