昼過ぎの港
昼を過ぎると、海が見えた。
山の切れ目に細い帯のように現れ、晴が「海だ」と叫ぶころには杉林に隠れた。それから畑の向こうに白い波が見え、とうとう道のすぐ下まで近づいてきた。
お父さんは小さな漁港に車を止めた。ドアを開けると、潮と魚の混じった匂いがした。岸壁には小舟が何艘もつながれ、波に押されて離れては、ロープに引かれて戻ってくる。日差しが水面に跳ね、船の横腹にゆらゆら映っていた。
岸壁に沿って歩いていくと、小さな食堂があった。入口の生簀を悠が覗き込み、晴も隣にしゃがんだ。中では魚が狭いところをぐるぐる泳いでいた。
お父さんに呼ばれて店に入ると、六人分の定食を注文してくれた。余ったら自分が食べるからいいと言った。
晴の嫌いなわかめを自分の皿へ移し、悠の魚から骨を取り、菜々の湯呑みをテーブルの奥へ置いた。お母さんはほとんど箸を動かさなかった。
「お母さん、お腹痛い?」
「平気。朝ごはん、食べすぎただけ」
朝、お母さんは何も食べていなかった。
お父さんが会計へ行ったとき、晴は額に落ちた髪を払って、私に顔を寄せた。
「姉ちゃん。今日、なんか変じゃない?」
「何が」
「お父さん。会社、ずっと休んでたでしょ。なのに休み取ったって」
お父さんが仕事へ行かなくなったのは先月の終わりだった。家では有給を消化していると説明された。夜中にお母さんと話す声や、電話の相手を怒鳴る声は聞こえたけれど、私は理由を聞かなかった。お父さんが家にいるあいだ、晴たちを静かにさせるだけで手いっぱいだった。
「会社のことは、お父さんたちが考えるよ」
「そういう話じゃない」
「じゃあ何」
「お母さん、今日ぜんぜん楽しくなさそう」
お母さんは菜々の皿に残った魚をほぐしていた。もう食べ終えている菜々のために、小さな骨を一本ずつ取り除いている。お母さん自身の皿には、冷めた魚が丸ごと残っていた。
「車酔いじゃない?」
「お母さん、酔わないよ」
そうだった。お母さんは車に酔わない。
*
食堂を出ると、悠が沖のブイを指さした。
「あれまで泳げる?」
「無理」
「なんで?」
「見た目より遠いから」
お父さんが振り返った。
「そうだな。海は距離がわかりにくい」
それから岬へ続く道を指さした。
「あの先に、きれいな場所がある。日が沈むまでに行こう」
「帰りは真っ暗だね」と悠が言った。
「そうだな」
「おばあちゃんに、着いたって電話しなきゃ」
お母さんの手元で、紙の箸袋がくしゃりと鳴った。
「電波があるところでね」
私が答えると、悠は「うん」と頷いた。
お母さんは、しわになった箸袋を握ったままだった。
港を出ると道は海から離れ、家々がまばらになった。カーブの先に古いバス停があり、屋根の下では買い物袋を持った人がバスを待っていた。私は停留所の名前をノートに書いた。「小浦北」。こんな場所にもバスが通るのかと思ったからだ。
お父さんがミラー越しに私の鉛筆を見ていた。
「何を書いてる?」
「通ったところ。帰りに迷わないように」
「ナビがあるだろ」
「でも、電波がなくなるかもしれないし」
「俺が道を覚えてる」
晴が三列目で足を揃えた。お父さんの声がいつもより低かったからだ。
私がノートを閉じると、お父さんはもう何も言わなかった。
書かないことくらい簡単だった。お父さんが嫌がることをやめるだけで、一日が無事に済むことを、私はずっと前から知っていた。




