知ってるよ
お父さんが私を見た。
「……帰りたい」
腕を握る手が、少し緩んだ。
「ほら、本人もそう言ってますから」
「違う」
私は店員さんを見た。
「晴たちと、おうちに帰りたい」
「お父さんとは?」
首を振った。
お父さんの指が、また腕に食い込んだ。
「もういい。行くぞ」
「待ってください」
店員さんが便箋を持ち直した。紙の端が震えていた。
「その子の腕を離してください」
「私の娘ですよ」
「わかっています」
「だったら」
「離してあげてください」
お父さんは店員さんを見つめた。
冷蔵庫の唸る音が続いている。
やがて、お父さんは手を離した。
「これでいいですか」
「はい」
「じゃあ、手紙を返してもらえますね」
店員さんは答えず、私に手を差し出した。
「お嬢ちゃん。こっちへ来て」
「梨央」
お父さんが呼んだ。
足が動きかけた。さっきまで腕をつかまれていたところが、まだ痛い。
「こっちへおいで」
店員さんがもう一度言った。
私はお父さんから目を離し、一歩進んだ。
お父さんの手が動いた。
肩がすくんだ。けれど、何もされなかった。
店員さんが私の手を取った。
そのままレジの内側へ入れてくれる。
「ちょっと待ちなさい!」
お父さんが追ってきた。
店員さんは私をカウンターの奥へ下がらせ、自分はその手前に立った。
「何のつもりですか」
「警察に電話します」
「は?」
「私には、この手紙が本当かどうかわかりませんから」
店員さんが受話器を取った。
お父さんがカウンターに手をついた。
「待ってください。うちの娘のことで、どうして警察なんですか」
店員さんは電話を耳に当てた。
「警察ですか。小浦入口の丸一商店です。子どもが一人、助けを求めていて……」
「電話を切ってください」
お父さんはまだ丁寧な言葉を使っていた。
店員さんが、店の場所を伝え始めた。
「切れと言ってるだろ!」
お父さんの手がカウンターを叩いた。
店員さんが身を引いた。受話器のコードがレジの角に触れ、小さな音を立てた。
私は棚の陰へ逃げようとした。
「梨央」
いつもの声ではなかった。
振り返ったときには、もう腕をつかまれていた。
「お前が……」
お父さんの顔がすぐ前にあった。
「お前が全部台無しにした!」
ガラス戸の向こうには、お父さんの車が見える。
晴たちが、まだ乗っている。
私はお父さんの顔を見たまま言った。
「帰りたくない」
指が止まった。
「何だと」
「お父さんと、岬に行きたくない」
お父さんの口元が歪んだ。
「俺はお前たちの父親だぞ」
「知ってる」
自分でも驚くほど、声が小さかった。
「知ってるよ」
「だったら、どうして言うことが聞けない!」
肩を押され、背中が棚にぶつかった。
菓子の袋が落ちた。足元で瓶が割れ、何かが靴にかかった。
お父さんの手が首にかかった。
息を吸おうとした。
吸えなかった。
私はその手をつかみ、指を外そうとした。
動かない。
お父さんの顔が近かった。口が動いている。何を言っているのか、聞き取れなかった。
背中で菓子の袋が潰れる。
足が床を滑った。
店員さんの声がした。
「やめて! その子を離して!」
お父さんは私を見ていた。
首をつかむ指に、さらに力が入った。
そのとき、鈴が鳴った。
「あなた!」
お母さんだった。
ガラス戸のところに立っていた。私の顔を見て、それから、お父さんの手を見た。
「梨央を離して」
「お前は黙ってろ!」
お母さんの足が止まった。
いつもなら、そこで話が終わる。
お母さんは口を閉じた。
私は息を吸おうとした。喉の奥で、変な音がした。
お母さんが一歩近づいた。
「あなた、もうやめて。帰ろう」
「帰る?」
お父さんが笑った。
「どこに帰るんだよ」
お母さんはすごく悲しそうだった。
それでも近づいてきて、お父さんの手首を両手でつかんだ。
「離して。お願いだから」
「触るな!」
お父さんが片腕でお母さんを突き飛ばした。
お母さんはガラス戸の脇によろめき、壁に手をついた。
私はお母さんの方を見ようとした。
目の前が暗くなり、棚も床も、どこにあるのかわからなくなった。
お母さんが戻ってこない。
お父さんの手だけが、まだ首にあった。
視界の端で、赤いものが動いた。
お母さんが消火器を両手で持ち上げていた。
お父さんは私の顔を見たままだった。
鈍い音がした。
首から手が離れた。
私は床に崩れ落ちた。
息を吸った途端、咳が出た。何度吸っても足りず、喉の奥がひゅうひゅう鳴った。床に手をついたまま、身体を丸めた。
お父さんが棚にぶつかっていた。
「お前……」
お母さんは消火器を抱え直し、私とお父さんの間に立った。
「そんなもの置け!」
お母さんの手は震えていた。
お父さんにそう言われたら、お母さんはいつも言うことを聞いた。
けれど、消火器は下ろさなかった。
お父さんが棚に手をつき、身体を起こそうとした。
「誰のおかげで……」
お母さんが消火器を構え直した。
お父さんは動きを止めた。
そのまま棚に背中を預け、膝を折った。身体が横へ傾き、床に倒れた。
お母さんはまだ消火器を握っていた。
私は何度も咳をした。
冷蔵庫の音が聞こえた。店の外を、車が通り過ぎていく。
「梨央」
お母さんが振り返った。
涙が頬を伝っていた。
私に手を伸ばしかけたので、身体を引いた。
お母さんの指が止まった。
私たちはしばらく見つめ合った。
お母さんは消火器を床へ置いた。金属がコンクリートに当たって、重い音がした。
それからお父さんのそばへしゃがんだ。
胸に手を当て、顔を近づける。
「あなた……」
返事はなかった。
「ねえ、あなた」
お父さんの胸は、かすかに動いていた。
私は床に座ったまま、その様子を見ていた。
さっきまで首を絞めていた人が、目を閉じている。
それでも、近づくことはできなかった。
店員さんが電話に向かって声を上げていた。
「首を絞められたんです。子どもです。救急車もお願いします」
それから、こちらへ駆け寄ってきた。
「大丈夫? 息、できる?」
私は頷こうとした。
咳が出た。
「無理に話さなくていいからね」
店員さんが背中に手を添えた。
レジの内側へ連れていってくれる。さっきお父さんが飛び込んできた場所だった。
もう、お父さんの手は届かなかった。
私は店員さんのエプロンをつかんだ。
「……晴」
「え?」
「晴と、悠と、菜々……」
声がかすれた。
「車に、いる」
店員さんがガラス戸を振り返った。
お母さんも顔を上げた。
店の外には、まだ車が止まっていた。
晴が窓からこちらを見ている。
菜々はその隣で、ぬいぐるみを抱いていた。
私は立とうとした。
膝に力が入らなかった。
店員さんが私の身体を支えた。
「わかった。あの子たちも、ここへ連れてくるから」
私はその人の腕を握った。
店員さんは、私の手を振りほどかなかった。




