旅のしおりの最後のページ
「一緒に行きましょう。私のそばを離れないでね」
店員さんと戸口まで行き、晴の名前を呼んだ。声が掠れたので、もう一度呼んだ。
「晴! 悠と菜々を連れて、こっちへ!」
晴が車の窓から顔を出した。
「姉ちゃん、どうしたの」
「降りて。今すぐ」
「お父さんは?」
晴は店の中を覗こうとした。私はその前に立った。
「あとで話す。悠の靴、履かせてあげて」
晴は私の顔を見た。何か聞きたそうだったが、車のドアを開け、悠の靴を探し始めた。
悠は眠たそうに目をこすり、菜々はぬいぐるみを抱いたまま降りてきた。
「おねえちゃん、ひざ、いたい?」
「ちょっと転んだの」
「だめじゃん」
「そうだね」
いつもなら言い返すところだった。菜々は私の膝を見て、ぬいぐるみの耳を握り直した。
三人を店へ入れると、店員さんがレジの奥へ案内してくれた。お父さんが倒れた場所は棚に隠れていた。お母さんはまだ、そばにしゃがんでいる。
悠の靴紐がほどけていた。
結んでやろうとしたけれど、指がうまく動かなかった。
「姉ちゃん、手、震えてる」
晴がしゃがみ、代わりに結んでくれた。
立ち上がった晴は、レジの端に置かれた便箋を見つけた。
「それ、お父さんの?」
「うん」
「姉ちゃんだけ、知ってたの?」
「……うん」
「いつから?」
「途中で見つけた」
晴は私を見た。
「俺も読む」
私は少し迷った。晴は四年生で、悠や菜々よりずっといろいろなことがわかる。だからこそ、読ませたくなかった。
「怖いよ」
「俺だけ知らない方が嫌だ」
私は便箋を晴の前へ寄せた。
晴は最初の一行を読んだ。それから目を下へ動かし、自分の名前のところで止まった。
しばらくして、紙を裏返した。
「今日、楽しかったのに」
私は何も言えなかった。
*
救急車がお父さんを運んでいった。
私も首を診てもらった。警察官が来て、お母さんや店員さんと話し始めたころには、窓の外が薄暗くなっていた。
店員さんは麦茶を出してくれた。何杯飲んでも喉が渇いた。首に触れようとすると、さっきのお父さんの手を思い出して、指が止まった。
警察官は私にも質問した。
お父さんが何を言ったか。どこで手紙を見つけたか。どうしてトイレの窓から出たのか。
私は便箋を渡した。
警察官は折り目を伸ばし、一行ずつ読んでいた。
お父さんが昔、自転車を直してくれたことは聞かれなかった。聞かれても、今は説明できなかったと思う。
悠は椅子で足をぶらぶらさせていた。菜々はぬいぐるみの耳を伸ばしたり、丸めたりしている。
しばらくして、悠が私の隣へ来た。
「姉ちゃん、鼻血、もう出ないよ」
私は悠の鼻の下を確かめた。少しだけ乾いた跡が残っていた。
「うん。止まったね」
悠は頷いて、元の椅子へ戻った。
車の中で、私が鼻血のことを忘れていたのは、悠には言わなかった。
「おねえちゃん」
菜々が私を呼んだ。
「おうち、かえらないの?」
「今日は、別のところに泊まるかも」
「ホテル?」
「違うかもしれない」
菜々はぬいぐるみを抱え直した。
「おふとん、ある?」
それなら、答えられた。
「あるところに行こう」
菜々は頷いた。
お母さんが警察官との話を終え、私の前にしゃがんだ。結んでいた髪がほどけ、膝のあたりが汚れている。
「梨央、ごめんね」
私は黙っていた。
お母さんは手を伸ばしかけて、引っ込めた。
「お母さんも、行くつもりだったんだよね」
お母さんは頷いた。
「最初から?」
「……お父さんと話して、二人で決めたの」
私はお母さんの顔を見た。
泣いていた。私の知っているお母さんの顔だった。
「途中で、やめたいって思ったことは?」
お母さんはすぐには答えなかった。
私も、その先を聞くのが怖くなった。
「何度も」
お母さんが言った。
「でも、私には教えてくれなかった」
「……うん」
お母さんはそれ以上、何も言わなかった。
私も聞かなかった。
店の外は、すっかり暗くなっていた。
大型車が通るたび、ガラス戸が低く震えた。私はそのたびに入口を振り返った。お父さんがもう来ないとわかっていても、顔を上げずにはいられなかった。
レジの端に、私のノートが置いてあった。
晴が車から持ってきてくれたものだった。
開くと、出発時刻や道の駅、食堂の名前が並んでいた。菜々と数えた柿の数。晴の描いた魚。悠が間違えて書いた歌の歌詞。
今朝までのことだった。
菜々がページをめくり、「帰り」のところで止めた。
「ここ、まっしろだから、こわい」
私は鉛筆を取った。
「おうちまでは?」
「まだ、わからない」
菜々は空いたところを指でなぞった。
悠が窓の外を見ていた。
「お姉ちゃん、帰るとき、あの車なの?」
駐車場には、まだお父さんの車が止まっていた。
「まだ決まってないよ」
「じゃあ、ぼく、お姉ちゃんの隣がいい」
「……うん」
悠は椅子を引き寄せ、私の隣に座った。
菜々もこちらへ来て、ぬいぐるみを膝に乗せた。空いている方の手で、私の袖をつかむ。
晴は向かいの椅子から、ノートを私の方へ押してくれた。
私は「帰り」の下に、今いる場所と名前を書いた。
『小浦。晴、悠、菜々。私もいる』




