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旅のしおり  作者: 大窟凱人


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小さくて大きな

 車までの距離が、どんどん短くなっていく。

 お父さんの手が背中から肩へ移り、歩幅が速くなった。引かれるたびに、擦りむいた膝が痛んだ。


「車に乗ったら、便箋を返しなさい」


 声は小さかった。たぶん、駐車場にいるお母さんには聞こえない。

 お母さんはスライドドアのそばに立っていた。晴たちも車の中からこちらを見ている。


「梨央」


 お父さんが私を見下ろした。


「もう変なことはしないな?」


 私は頷きかけた。

 言うことを聞けば、お父さんは笑う。いつもそうだった。岬に着くまでは、きっと。

 服の内側で便箋の角が折れた。

 商店を振り返ると、ガラス戸の向こうに店員さんが見えた。レジの仕事をやめたまま、こちらを見ている。白い蛍光灯の下で、色あせたエプロンがよく見えた。


「梨央、行くぞ」


 お父さんが私を引いた。

 私は足を止めた。


「……待って」


「何だ」


「待って、お父さん」


 お父さんの眉が動いた。

 店員さんはまだそこにいる。ガラス戸一枚向こうに。


「お父さん、手、痛い」


 お父さんは肩から手を離した。その代わり、手首を握った。


「だったら、おとなしく歩きなさい」


 私は足を踏ん張った。

 お父さんが振り返った。


「梨央」


 家で聞くのと同じ、低い声だった。

 謝らなければ。

 その顔を見ると、いつも先にそう思ってしまう。口を開けば、あとは勝手に言葉が出る。ごめんなさい。もうしません。

 お父さんの後ろで、晴が窓に顔を寄せていた。何か言っているようだったが、聞こえなかった。

 私はガラス戸へ顔を向けた。


「――すみません!」


 思っていたより大きな声が出た。

 お父さんの手が少し緩んだ。

 私はその隙に、もう一度叫んだ。


「あの、聞いてください!」


 お父さんが腕を引いた。

 足がもつれ、擦りむいた膝を地面に打ちつけた。声が出るほど痛かった。


「梨央、いい加減にしろ」


 頭の上で、鈴が鳴った。


「どうしました?」


 店員さんだった。

 開いたガラス戸を片手で押さえ、私たちを見ている。

 お父さんが私を引き起こした。膝についた砂を払う暇もなかった。


「すみません、またお騒がせして。娘が少し取り乱してまして」


 さっきまでと同じ、丁寧な声だった。

 店員さんの目が私の膝に落ちた。


「また転んじゃったの?」


 私は首を振った。


「本当に、お構いなく。梨央、やめておけ」とお父さんが言った。


 手が手首から肘へ移った。


「……あの」


「梨央」


 お父さんが遮った。

 店員さんはガラス戸から手を離さなかった。


「何かあるの?」


 私は口を開いた。

 さっき店の中にいたときも、この人は私の話を聞こうとしてくれた。それなのに、何も言えなかった。

 今だって、お父さんがすぐ隣にいる。

 助けてと言ったら、お父さんは何をするだろう。店員さんが信じてくれなかったら。


「もう結構ですので」


 お父さんが私の腕を引いた。靴底が地面を擦った。

 店員さんが一歩、外へ出た。


「お嬢ちゃん」


 お父さんの手が止まった。


「さっき店で、何か言いかけたよね」


 私は店員さんを見た。


「今なら聞けるよ」


 その人は私に話しかけていた。お父さんではなく、私に。

 言わなければ。

 でも、何から。


「梨央!」


 お父さんが怒鳴った。

 店員さんが顔を上げた。

 お父さんは口を閉じた。店員さんと目が合うと、また困ったような顔になった。


「……すみません。言うことを聞かない子で」


 店員さんは返事をしなかった。

 私の肘をつかんでいるお父さんの手を見ていた。

 私は、つかまれていない方の手を服の中へ入れた。

 お父さんの目がそこへ落ちる。


「何をしてる」


 指が便箋に触れた。

 引き抜くと、折り目が開きかけた。


「梨央」


 お父さんが腕を引いた。

 私は紙を握ったまま、店員さんへ手を伸ばした。


「これ……」


 声がうまく出なかった。

 店員さんが手を伸ばしかけた。

 お父さんも動いた。


「これ、読んでください!」


 自分の声が、駐車場に響いた。

 お父さんが便箋を奪おうとした。私は腕を伸ばしたまま、身体を店員さんの方へ傾けた。

 紙の端を、店員さんの指がつかんだ。

 お父さんの手が空を切った。


「返しなさい」


 その声を聞いて、店員さんは紙を持つ手を胸元へ引いた。


「何ですか、これ」


「家のものです。娘が勝手に持ち出したんですよ」


 お父さんは笑おうとしていた。


「申し訳ありませんが、お返しいただけますか」


 店員さんはすぐには渡さなかった。折り目のついた便箋を見て、私へ目を移した。


「この子が、読んでって言ってますけど」


「子どものすることですから」


「でも」


「家族のことなんです」


 お父さんが手を差し出した。

 店員さんはその手を避け、開いたガラス戸から店内へ下がった。

 私はお父さんに腕を引かれ、後を追わされた。

 さっき逃げ込んだ店に、今度はお父さんと一緒に戻っていた。

 店員さんはレジの前まで下がり、便箋を開いた。


「ちょっと、待ってください」


 お父さんの声が変わった。


「それは読まないでください」

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