言えない
息が止まった。
「持ってるんだろ」
お父さんが返事を待つあいだ、レジの方で値札の紙が擦れる音がした。
「お母さんが気づいたんだ。お前、車で何をした?」
「梨央。お父さんの顔を見なさい」
静かな声だった。家でお母さんに話しかけるときと変わらない。顔を上げられずにいると、肩にあった手が首の後ろへ移った。
「怒ってないよ」
その言葉に、少しだけ息ができた。
「ただ、家族のことを知らない人に話すのはよくない。わかるね」
私は頷いた。
「晴たちも待ってる」
お父さんは店の入口へ目をやった。
「お前が戻らなかったら、あの子たち、どうなると思う?」
首の後ろに指が触れたままだった。
「お母さん一人じゃ、三人の面倒は見られないだろ」
「……やめて」
指が止まった。
「何を?」
自分の声に驚いて顔を上げかけたが、お父さんを見ることはできなかった。
「……なんでもない」
「そうか」
お父さんは手を離した。
「もう帰るぞ」
棚の間を抜けると、レジが見えた。
店員さんは値札の束を揃えていた。色のあせたエプロンの胸元に、赤いインクのついた指を当てている。そのすぐ横には電話があった。
お父さんが私の肩に手を置いた。
「すみません。娘の怪我は車で手当てしますので」
さっきまでとは違う、よそ行きの声だった。店員さんが私の膝を見る。
「お嬢ちゃん、本当に大丈夫?」
「ええ、もう落ち着きましたから」
「お嬢ちゃんに聞いたんです」
お父さんの手は動かなかった。
私はその上着をつかんだ。店員さんが見ているのに、離せなかった。
「さっきから、ずっと震えてるみたいだけど」
握った布が小さく揺れていた。
「寒いんですよ」とお父さんが言った。
店内は暖かかった。奥の冷蔵庫が低く唸っている。
「暖房、強くしましょうか」
「いえ、すぐ車に戻りますので」
「そうですか」
店員さんは値札を一枚手に取ったが、貼らずに置いた。
「お嬢ちゃん」
私は顔を上げた。
「転んだの、トイレの中?」
「ええ、そうなんです」とお父さんが答えた。
「窓のところ?」
お父さんの手が肩から離れた。
私は店員さんを見た。
「さっき、裏で大きな音がしたんです。トイレの方から」
店員さんは私の破れたズボンに目を落とした。
「そこから落ちたんじゃない?」
「どうしてそんなことを?」
お父さんの声が少し硬くなった。
「いや、膝を怪我してるから、そうかなと思って」
「まさか。そんなことする子じゃありませんよ」
お父さんは笑った。
「なあ、梨央?」
私は頷きかけた。
「でも、さっきからお嬢ちゃん、何も言わないから」
店員さんは私に向き直った。
「本当に、トイレで転んだの?」
服の内側には便箋がある。手を伸ばせば取り出せる。
お父さんは、まだ笑っていた。
「……はい」
それでも店員さんは私を見ていた。私は便箋に手を伸ばさなかった。
冷蔵庫の低い音だけが続いた。
「そう」
店員さんは小さく頷いた。
「でも、怪我してるから。絆創膏、持ってくるね」
「いえ、もう結構ですよ」
「すぐそこなんで」
店員さんがレジの下にしゃがんだ。
その途端、お父さんの笑顔が消えた。私の方を見ている。
店員さんが立ち上がると、また笑った。
「親切にどうも」
「いえ」
店員さんは小さな箱を開け、絆創膏を二枚取り出した。
「はい。これ、持っていって」
私が手を出すより先に、お父さんが受け取ろうとした。
「ありがとうございます」
店員さんは手を引かなかった。
「お嬢ちゃんに渡しますね」
お父さんの手が止まった。
「……ああ、はい」
私は絆創膏を受け取った。
店員さんの指が私の手に触れた。親指には、まだ赤いインクが残っていた。
「ほら、行こう」
店員さんは私を見ていた。
帰らなくていいと言ってほしかった。
「梨央」
お父さんに呼ばれ、目を離した。
「……うん」
背中に手が回った。
ガラス戸の向こうに、お母さんが立っていた。いつの間に車から降りたのだろう。
目が合うと、お母さんは一歩こちらへ来かけて止まった。
お父さんが戸を開ける。
「すみませんね。お騒がせしました」
「いえ……」
店員さんの声は小さかった。
*
外へ出ると、冷たい風が膝に当たった。
「梨央、膝……」
お母さんが私の足を見た。
「大丈夫なの?」
「大丈夫」
お母さんは私の顔を見つめた。何か言いかけたところで、お父さんが口を開いた。
「さあ、車に戻ろう」
お母さんは黙り、それから私の手を握ろうとした。
私は手を引いた。
お母さんの指が、宙で止まった。
お父さんは振り返らずに歩き始め、私はその後を追った。背後でガラス戸が閉まる。
振り返ると、店員さんがレジの向こうに立っていた。
目が合った。
そのすぐ横に電話がある。
受話器は置かれたままだった。
私は前を向いた。歩くたびに膝が痛む。お父さんの声はもう穏やかで、私もいつものようにその後ろを歩いていた。
車まで、あと少しだった。
晴が窓を開け、手を振った。その後ろから菜々がぬいぐるみを持ち上げる。
二人とも笑っていた。
私は手を振り返せなかった。




