マチアス・ブラン1
マチアス視点です。数話続きます。
アンナが出て行った後の会議室は、戸惑う声でさざめいていた。
苦虫をかみつぶしたような顔をした相談員。
メンディスと名乗ったその相談員は、会議中ずっとマチアスを睨んでいた。
(この女性は、一体なぜこんなにも攻撃的なんだ?)
最初からマチアスに攻撃的だったメンディス女史は、アンナと対話して証拠を取ろうと息まいていた。彼女が来るまでの時間は、ずっと女史の独壇場だった。
誰かが口を挟もうとしても、犯罪者を庇うのかとヒステリックに喚き手が付けられない。反論の機会も与えられず一方的に攻め立てられ続け疲労困憊だった。
ところが、アンナが現れて状況が一変した。
彼女は最初から学校への不信感をあらわにし、これまでの学校側の対応の酷さとマチアスの潔白を主張してくれた。そして「退学する」と宣言したことで、メンディス女史は完全に沈黙せざるをえなくなった。
被害者本人から、虚偽通報の可能性が高いと指摘され、しかもそれはアンナへの攻撃のひとつかもしれないと責められたメンディス女史は、完全に初期対応を間違えたと周りに知らしめるかたちになった。
相談員でありながら、対応を間違え、生徒から退学を宣言される結果となったのだから、この会議の場にいる誰もが今は女史に対して白い眼を向けている。
最初からマチアス自身もその可能性を口にしていたのに、取り合わなかったのはこの相談員だ。いや、喚く声にかき消され彼女の耳には届いていなかったのだろうが。
まずい状況になったと焦る彼女は、慌ててマチアスを攻撃する材料を探し始めた。
「マチアス・ブラン助教授、アンナ・グレース嬢が辞めると言ったのは、あなたを守るためですよね? ただの生徒にしては、あなたに肩入れしすぎているように感じますが……何か日ごろから言い含めていたんじゃないですか? ふたりきりで過ごしていた時間、どんな会話をなさったんです?」
その言葉からは、マチアスとアンナが恋愛関係にあるように話を持っていきたい意図が透けて見える。呆れてため息をついてすぐに反論する。
「彼女が言った言葉をもう忘れましたか? あの子は級友から嫌がらせを受け続けて、教師たちに相談しても無視されてきた。そんな状況だったから、少し手助けをしただけの僕にも恩を感じてくれていたんでしょう」
「あ、あなたのために生徒が辞めると言い出したのですよ? その責任を……」
「元々彼女は事故後に辞めるつもりでいました。それを引き留めたのが、教務主任です。彼女は級友たちに恐怖心を抱いていたから、僕の研究室で自習するかたちでなんとか退学を保留にしてもらえたんです。それを台無しにしたのは、この嫌がらせのような通報だ」
怒りを込めて睨むと、相談員は悔しそうに唇を噛みしめた。
元々、この相談員はマチアスが有罪と仮定して話をしていた。通報者の名前も分からない真偽不明の話を信じ込み、ことを大きくしたのはこの女性だ。
アンナがだんだんと心を癒している最中に持ち込まれたこの通報に、マチアスは非常に腹を立てていた。
「こんなに大々的に調査をするのではなく、通報者から事情を聞いてから内々に僕の事実確認をすれば良かったでしょう。ひとりを吊し上げるような会議を見たら、アンナさんが学校側に不信感を抱くのは当然です」
「ですが、ブラン助教授は『前科』がおありでしょう……わたくしは生徒の安全を最優先に考えて早急に動いただけですわ」
前科、という言葉にベアトリスが椅子を蹴って立ち上がる。
「だからそれは冤罪だったと言っているでしょう! アンナさんが言っているはまさしくこういうことですよ! 冤罪でも一度ついた悪評はずっとついて回るんです。あの件だって、マチアスは陥れられただけだというのに!」
――前科。それはマチアスの思い出したくない過去。
メンディス女史は、マチアスが学生時代に性加害トラブルを起こしたことがあると会議の最初でいきなり暴露した。
それを根拠に今回も『有罪』だと決めつけて、マチアスを責め立ててきた。
だがベアトリスの言うように、あの事件は全くの冤罪だった。被害者の女性も虚偽の通報をしたことを認めて終わった件なのに、この女性はどこで歪んだ情報を得たのだろうか。
「落ち着いてくださいよ、ロア保険医。あなたはブラン助教授の友人だから公平な目で判断できないと申し上げたはずです。アンナ・グレースさんは被害を訴えていないけれど、彼女が性被害だと気づいていない可能性があるんですよ」
マチアスを見ながら意味ありげに笑う相談員に、ベアトリスの顔がさらに険しくなる。
「グルーミングだとでも? それこそ下種の勘繰りだわ。彼にそういった行動がなかったのは保険医として私が保証します。そもそもアンナさんのケアにマチアスを巻き込んだのは私です。彼はただ親切心で手助けをしてくれただけ」
「友人相手では庇う気持ちがあって公平な目で見られないでしょう」
相談員はマチアスを性犯罪者であると前提して話を進めている。ベアトリスがイライラしているのが分かるが、マチアスは口を挟むことができなかった。
(結局、ダメなんだな……)
なかったことを証明するのは難しい。悪魔の証明だとはよく言ったものだ。
――学生時代に、マチアスは性加害の容疑をかけられたことがある。
ベアトリスを含め、友人たちはマチアスを信じて冤罪を晴らそうと動いてくれた。彼らの尽力で被害を訴える女生徒の嘘や証言の矛盾を証明してくれたが、それでも女生徒の証言を信じる者がいた。
友人たちのおかげで、女生徒の訴えは事実無根と学校側は判断してこの件は終わったのに、『女生徒が涙ながらに訴えているのだから嘘なわけがない』とか、『庇う奴も共犯に違いない』などといい加減な噂をする奴は跡を絶たなかった。
冤罪だった事実を並べ立てて論理的に反論しても、そういう奴らには意味はない。『火のないところに煙は……』などと根拠のない言葉で、面白がって悪意のある噂を振りまき続けた。
あの時の冤罪事件が、こんなに時間が経ってから再び掘り起こされるとは思わなかった。
アンナが学校生活に絶望して、退学したいと言った気持ちが痛いほど理解できる。
事実でなくても、大多数の人が言っていたらそれが真実だと認識されてしまう。
彼女は根拠のない悪評に晒され、孤立無援の状態だった。
どれだけ辛かったか、想像するだけで苦しくなる。
マチアスが黙っていると、ベアトリスたちの口論に学校長が口を挟んできた。
「マチアス先生が学生時代にそういったトラブルがあったのは把握しております。ですが、女生徒自身がのちに嘘の証言をしたと告白したのでマチアス先生は何も悪くありませんよ。むしろ彼は被害者です。メンディス女史は発言に気をつけてください」
暗に、嘘を広めるなと相談員に釘を刺す。
学校長がメンディス女史を窘めたことで、口を挟めずにいた他の者たちもようやく発言し始めた。
「通報内容は、マチアス先生がアンナ・グレースさんに性的な行為を強要している……という手紙が相談室に投函されていたのですよね?」
「ええ、そうです。わたくしが手紙をみつけました」
「だが、手紙は匿名で、しかも具体的な内容は一切書かれていない。いたずらや嫌がらせの線から調査すべきだったと私も思います」
外部調査員がはっきりとメンディス女史を非難する。それに呼応するように教務主任が援護に入った。
「アンナさんが学校の対応に不信感を抱くのは当然です。マチアス先生のおかげで退学を思いとどまってくれていたのに、この場で退学を選択させてしまったのは我々大人の落ち度ですよ」
「そうですね……ですが、あの感じではもう彼女が退学の意思を翻すとは思えないですがどうしましょうか」
学校長含め他の者はもうマチアスの性加害疑惑について議論する気はなく、アンナの退学問題に話が移っている。メンディス女史は不満そうに歯噛みしていたが、学校長に窘められた以上黙るしかない。
「今回のブラン助教授の性加害疑惑は、恐らくアンナさんへ対する嫌がらせのひとつだと私は考えます。学校改革をしていると言ってアンナさんを引き留めていましたが、今回の件で彼女はこの学校に絶望しているでしょう。私はもう彼女を引き留めることができません」
ベアトリスの言葉に学校長は頷き返す。
今回のことも含め、アンナの退学は学校側の落ち度だ。このことが貴族たちのあいだで噂になれば、王立学校としての信頼が失われる。それでなくともここ数年、生徒間のトラブルが頻発して学校の質が落ちていると言われ、教育省から改善を求められていた。
「いずれにせよ、アンナ・グレースさんはもう通常通りにクラスで授業を受けるのは難しかったでしょうから、引き留めるのは彼女のためになりませんね。かといって、将来有望な子どもから学ぶ権利を奪うことはしたくないですね」
アンナの成績は優良で、嫌がらせによるマイナス点がなければもっと高い評価をもらっていたはずだろう。将来、有能な薬師になれる才能があるのにここで潰れてしまうのではもったいない。
「ではどうしますか? 別室で個人授業を提案しても、もう彼女は了承しないと思いますよ」
「留学制度を提案してみましょう。高等部の留学はまだ制度が整っていませんが、初めての試みとして彼女に行ってもらうのも悪くないでしょう」
「留学ですか⁉ それはまた……」
教務課主任が驚いた声をあげる。
アカデミーの学生が他国の学校へ学びに行く制度がある。学ぶと言っても、カールスレイ王国から技術提供というかたちで学生を派遣していると言うほうが正しい。
高等部まで優秀な成績を収めた生徒がアカデミーの学生となり、その中から優れた技能を持つ者が選ばれるのが暗黙の了解となっている。
その留学生に、まだ前例のない高等部の、しかもBクラスの子を選ぶのは異例の事態である。
「ちょうど高等部の生徒を交換留学したいとシビラ国から話が来ていたんだよ。アカデミーの学生とは違う、試験的な留学として彼女に行ってもらうというのはどうだろう」
学校長の言葉に皆が納得したように頷く。
マチアスはアンナの意見を無視して話を進めていくことに反発心を覚えたが、この留学の話は正直良い考えだと思った。
アンナは学ぶ楽しさを知っている。知識欲があり、勉強を楽しんでいる。
なにより、彼女には植物育成と調薬の『適性』がある。彼女が留学先でその才能を発揮できたら、彼女自身の自信につながるだろう。
「それでは留学について計画を立て、それをアンナ・グレースさんに提案してみます」
教務主任の言葉で会議が締めくくられ、皆が明るい雰囲気で席を立つ。
マチアスの性加害疑惑はすっかりなかったことになっているようだ。ホッとしたような、腹が立つような。
女性相談員のメンディス女史だけが、苛立ちをあらわにしながら会議室を出て行った。
はあ、と大きなため息をつくと、ベアトリスがポンと背中を叩いた。
「大丈夫? 嫌なこと思い出して気分悪くなったでしょ」
「ああ……まあ大丈夫だ。あのメンディス女史以外、誰も問題にしていないみたいだったからな」
「そうね。でも彼女が女性蔑視だなんだと騒ぐから反論しづらくてもな困っていたものね。それにしても、どうしてメンディス女史はあのトラブルを知っていたのかしら。当時の同級生でもないのに」
悔しそうに唇を噛むベアトリス。それを見てもマチアスは諦めの気持ちしか湧いてこず、苦笑いを浮かべる。
「仕方がないよ。火のない所に煙は立たぬって、当時もさんざん言われたからな」
「そんなの屁理屈よ。マチアスは被害者で……」
「ちょっと煙草吸って頭冷やしてくる」
ベアトリスの言葉を遮って、マチアスは足早にその場から離れた。
校舎裏の人気がないところまで来て、胸ポケットに忍ばせていた煙草を取り出しマッチで火をつける。
紫煙とともに大きいため息を吐き出す。
「あの頃の話が、蒸し返されるとはなあ……どっから調べたんだか」
あの女性相談員が口にした『性加害』の話は、マチアスが学生時代にほとんど面識のない女生徒から突然かけられた冤罪だった。
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