綺麗なものだけ見せたいんだ
突然泣き出した私にマチアス先生は、ぎょっとして慌てて椅子から立ち上がる。
「だ、大丈夫かい? ああ、どうしよう泣かせるつもりじゃなかったんだ」
先生がものすごく困っている。泣き止まなきゃと思うけど涙が止まらない。
その時ドカドカと大きな足音が廊下から響いてきて、ハッとして顔をあげた。
「マチアスー! 遅くなったわー! アンナさん来てるかしらー?」
バーン! と音を立てて扉が開く。
ベアトリス先生だった。急いで走ってきたらしい先生は、泣いている私を見て、すんっと真顔になる。
「マチアス……アンタなんでアンナさんを泣かせてんのよ」
「待て、違う。いや違わない? のか?」
「あの、私が勝手に泣いただけで、先生は何も悪くないんです」
違う違わないの応酬がしばらく続いていたが、マチアス先生が事情を説明するとようやく理解してもらえた。
ココとの関係について悩んでいることを話すと、ベアトリス先生にも慰められた。
「そのココさんって子が一体何を考えているのか私も理解できないわ。可能なら、一度ちゃんと訊いてみたいけど……まあ無理でしょうね」
「そうですね。セナが許さないと思うので」
腹を割って話すことができれば、ココと本当の友達になれるかもしれないけど、セナがいる限りありえない。
それでも、これでいいのかと葛藤する気持ちは残っている。特に、あの笑顔を見てしまうと自分がひどいことをしている気がする。
「それにしても、保健室でアンナさんを受け入れられなくてごめんなさいね。個人情報を扱うから、生徒に室内を掃除させては駄目だっていわれちゃってね。停学になった子たちのカウンセリングもあるし、こちらへの出入りはしばらくむずかしいのよ」
「あ、はい。だからマチアス先生が急ぎで依頼を出してくださったんですよね」
「ええ。ここから保健室は近いし、手が空いた時は顔を出すわね」
ひとりの生徒だけを贔屓していると思われないために、奉仕活動の依頼は週二回まで。けれど、放課後と昼休みに作業を分割しておこなってもよいことにしてくれた。マチアス先生の依頼がある日は昼と夕方の両方ここで過ごすことができる。
「本当にありがとうございます。依頼のお仕事は全力で務めさせていただくので、なんでも頼んでください」
ぺこりと頭を下げると、先生たちは二人して困った子をみるような目で笑っていた。
「……仕事以外でも、いつでも来ていいから」
小さな声でマチアス先生が言う。
それには返事せず、曖昧に微笑んでみせた。
本当に『いつでも来ていい』わけがないけれど、そう言ってもらえるのが嬉しかった。
こうして私は、初めて学校で心安らげる場所を得たのだった。
***
翌日、私はAクラスの前に来ていた。
いつもはココがBクラスまで誘いに来てくれるため、こうして私からAクラスを訪れるのは初めてだった。
授業が終わり、Aクラスの生徒たちが教室から出てくる。
廊下で待つ私を見ると一様に顔をしかめていくので、非常に居心地が悪かった。出てくるのを待つのではなく声をかけるべきか……。
教室の後ろのドアから中を覗き込もうとした時、出てきた生徒に足を踏まれた。
「つっ……!」
思いっきり踏まれて、痛みで声が漏れる。
踏んだ男子生徒の顔を見ると、私を睨みながら無言で通り過ぎていった。
入り口にいて邪魔だったのかもしれない。後ろに下がろうとしたら、男子生徒に続いて出てきた子たちが順番に私の足を踏んでいく。
「あー、邪魔だなー」
「ゴミ落ちてんだけどー」
彼らは私を見ずにそんな言葉を吐いて通り過ぎていく。
怖くて後ずさったが、わざわざ足を伸ばして踏んで行かれた。それで諦めて、彼らが通り過ぎるまでじっと耐えることにした。
Aクラスの人たちと交流はないけれど、ココたちにつきまとう女として顔が知られているのだろうか。知らない人たちにこれほどまで敵意を向けられるとは思っていなかった。
結局、六人くらいから足を踏まれてようやく終わった。
爪先がジンジンと痛む。
男子生徒たちが通り過ぎたあと、顔を上げると少し離れたところにいるココと目が合った。
「コ……」
「あー! アンナったら迎えに来てくれたのっ?」
満面の笑顔で駆け寄ってくる。
いつもと何も変わらない無邪気さで。
顔を上げた時、ココはこちらを見ていた。彼女の位置からなら、私が何人もの人に足を踏まれていく光景が見えたはずだが、何も気づいていないような反応だった。
見えなかったのだろうか? いや、それほど遠い位置でもないから、踏まれるたびに痛みで歪めていた私の顔も見えていたと思うけど……。
でも何も気づいていない様子だから、本当に見ていなかったのかも。
「お昼何食べるー? ちょっと遅くなっちゃったから、カフェテリアは混んでるかなあ」
「あ、えっと……どうかな……」
足跡がついた自分の靴が気になってココの言葉が耳に入ってこない。
私の目線につられてココがちらっと足元に視線を落としたが、何も変わらず可愛い笑顔のままだった。
「席ないかもしれないし、また中庭で食べる? アンナはお昼何がいい?」
「ねえ、ココ。今の、見てなかった?」
どうしても聞かずにはいられなかった。
足跡がたくさんついた私の靴を見て、どうして何も言わないのか。
クラスメイトたちが私の足を踏んでいったのに、どうしてそれに触れないのか。どうして笑顔のままでいられるのか。私がココの立場だったら、足跡がついた靴を見てにこやかに笑ってなんていられない。
「アンナ」
ココの表情が変わる前に、セナが私たちのあいだに割り込んできた。
「放課後の奉仕活動、新しい仕事が増えたんだって? ちょっと忙しすぎない?」
「っ、いえ……増やしたんじゃないわ。変えただけ。人数が多いところは別にこなくてもいいって言われたし……」
「そっか。それなら良かった。放課後、予定がない日もできるってことだよね」
「ええ、まあそうだけど」
「ねー! みんな早く行こうよぉ。歩きながらでも話せるでしょ」
「腹減ったし早く行こうぜ。待たせてごめんなアンナ」
立ち止まっている私たちにしびれを切らしたココとルイが急かしてくる。それでこの会話は打ち切られ、ココにした質問も結局うやむやになる。
前を歩く二人の少し後ろについていくと、セナが小さな声で釘を刺してきた。
「余計な質問をして、ココを困らせないでくれよ」
「困らせるって? 私まだ何も言ってないけど」
「男子たちに足を踏まれた件だろ?」
「まあ……そうだけど」
「踏まれたのは君で、ココには関係ないことだ。それともココにどうにかしてもらいたの?」
「そういうことじゃなく……」
「ココには楽しくて奇麗なものだけ見せたいんだよ。この話は終わりだ。いいね?」
なにひとつ良くなかったが、セナにこう言われれば頷くしかない。忠告だけして、彼はココの隣に行ってしまった。




