大丈夫、我慢できる
「……分かった。セナのいうとおりにする」
私の言葉を聞いて、セナは満足げに微笑んだ。
「やっぱりアンナは賢いね。君を選んだ僕の目は確かだったな。いい子だ」
ご褒美とばかりに、頬にキスをされた。
「いやっ……!」
親愛のキスよりも、もう少し愛しさを感じるような熱量のキス。
もしこれが何も知らない状態でされたなら、彼のことを好きでなくても恋に落ちるくらい魅力的なキスだった。
ご褒美のつもりなのか。
それとも私がセナに惚れればもっと動かしやすくなるとでも思っているのだろうか。
彼の本性を知ってしまった今では、美しい顔も悪魔のそれに見える。セナが恐ろしくてたまらない。
キスをされても強張った表情のままなのを見て、セナは少し意外そうに目を瞠った。
奇麗な唇を歪めてクスクスと笑う。
「やっぱり君を選んで良かった。これからも仲良くしようね、アンナ」
「……っ!」
その言葉に返事をすることなく、彼の腕のなかから逃げ出した。
完全敗北。
彼に従う道しか私には残っていない。
おとなしくいうことを聞いて、彼の望む役割を果たしていれば最低限の日常生活は保証される。
行き過ぎた嫌がらせはセナが注意をしてくれると約束してくれた。
少なくとも、今より状況が悪くなることはないだろう……と期待するしかない。
そして、その翌日。
セナの約束は目に見えるかたちで果たされた。
私が教室に入ると、妙な空気が流れていると感じた。そしていつもなら机にゴミが乗っているのに、その日は奇麗なままで机に向かうまでも足を引っかけられることも肩をぶつけられることもなく、笑い声も悪口も聞こえてこない。
丸一日、誰も私にはなしかけないけれど、邪魔されずに授業を受けることができた。
この日を境に、物理的な嫌がらせは受けなくなった。
クラスメイトのほとんどは私なんて存在しないかのように振舞い、私の周りは突然静かになった。
ただ、友人たちは戻って来てくれなかった。
話しかければ一応返事はしてくれるが、ものすごく困って逃げたがっているのが丸見えだった。迷惑そうに顔を背けられては、諦めるしかなかった。
クラスで孤立していても、授業は受けられる。
卒業までの我慢だ。
学校の卒業資格が得られれば、将来の選択肢が増えるのだからと割り切って勉強に励むしかない。
ココたちとはそもそも家格が違うから親同士での交流はないし、卒業後のかかわりはほとんどなくなるはすだ。ココが安全に学校生活を送れるためという目的なら、卒業でこの役目を終えられる。
それからも時折女生徒たちから呼び出されて「忠告」をされることはあったが、少々小突かれるくらいで終わる。耐えられないほどではない。
大丈夫、我慢できる。大丈夫、大丈夫……。
そうやって私は、生贄としての役目を果たしながら学校生活を送ってきた。
***
「……というわけなんです」
私はセナたちとの関係を二人に語った。
無理やりやらされている『役目』についてのくだりに差し掛かると、二人の顔がみるみる青ざめていった。とても信じられないといった表情をしている。
「ひどい話だ」
マチアス先生がぽつりとつぶやく。
「そうですね……卒業までのあと二年、耐えればいいって思っていたんですけど、高等部に入ってからまた嫌がらせが悪化してきて。ココたちと一緒にいるところをみられると彼女たちを刺激しちゃうから、離れる口実を色々作っていたんですけど」
「それをセナ・ブランシェくんに咎められていたとこだったのね。大体の事情は分かったけど、これはちょっと放っておけないわ」
話を聞き終わったベアトリス先生が、重苦しいため息をついて額に手を当てている。
洗いざらい事情を説明して、気づけばずいぶんと時間が経っていた。こうして人に打ち明けてみると、胸のつかえがとれて楽になったと感じる。
一人で抱えるにはもう辛すぎて限界がきていた。
窓の外に目を遣ると、ずいぶんと日が傾いて暗くなり始めている。
奉仕活動は急遽休んでしまった。でもベアトリス先生が急病だと伝言してくれたので評価にマイナスをつけられることはないから助かった。
「この話、これまで教師たちに相談したことはなかったのかい?」
「中等部の頃、一度だけあります。でもダメでした。そもそも私とセナでは教師陣の信頼度が違いすぎますし、むしろ私が彼らにつきまとっていると信じこんでいて、迷惑をかけるなと叱られたので早々に諦めました」
「ううむ……」
質問をしてきたマチアス先生は難しい顔をして唸っている。
話を聞かせてと言った手前、何もできないとは言いにくいのだろう。
心配しなくとも、先生たちに何かしてもらおうなんて考えていない。
「セナが私にヘイトが向くよう仕向けているといっても、悪化しすぎないようコントロールしているのもまた彼なんです。実際、中等部では孤立気味でしたが暴力は一切なくなりましたし。今回もきっと、セナは暴力を振るった女生徒たちを窘めるはずです」
生かさず殺さず。長く使い続けるためにはある程度のメンテナンスは必要だ。
以前も私に怪我をさせた女生徒たちが別件で休学や転校になったことがある。そういうことが何度か繰り返されて、セナが手を回しているのだと判断した。
「いいえ、こんなの見過ごせないわ。そのセナって子は単にあなたを窮地に追いやって弄んでいるだけよ。それだけ他人を動かすことができるなら、ココさんへの嫌がらせだって解決できたはずよ。だからその子がしているのはただのいじめよ。今すぐセナって子を呼び出してお説教しなくちゃ」
「待て、先走るな。そんなことをしたら事態が悪化するだけだぞ」
拳を机に叩きつけて怒るベアトリス先生をマチアス先生が窘める。
「そのセナ君って子がアンナさんを利用した理由は、いじめじゃないよ」
「マチアス! あんた加害者の味方をするの⁉」
「違うって。……セナ君は幼馴染を守ることしか頭にないんだろ」
「だからなんなの? だからアンナさんを犠牲にしたことが許されるとでも?」
「落ち着けって。だからここでセナ君を注意しても問題は解決しないって言ってるんだ」
ごめんね、とマチアス先生は私に謝り、理由を説明する。
「嫌がらせをした子たちを排除しても、潜在的な不満が増すばかりで逆効果になる。それを分かっているから彼は悪意を『逸らす』方法をとったんだ。それだけ頭が回る子が、真っ向から注意されたからって反省するわけない」
「そうかもしれないけど……でも」
「僕が心配しているのは、秘密をばらしたアンナさんにセナくんが罰を与える可能性があるんじゃないかってことだ。裏から手を回して、今度こそアンナさんを完全な悪役に仕立て上げるとか」
「……で、でも私たちがアンナさんの味方になれば」
「ただの非常勤職員の俺たちに何ができる? 身近で守ってやれるわけでもない。ただ中途半端にかき回して、事態を悪化させて余計にアンナさんを苦境に追いやるだけだよ」
マチアス先生の意見はもっともだ。
セナはココのためという使命感を持って行動している。だから先生から注意された彼がするのは、反省ではなく次の手を考えることだ。
そして、役目を放棄して秘密をばらした私を彼は許さないだろう。今度こそ私は地獄に突き落とされる。
「私、お二人に解決してほしいとか思っていません。これ以上状況が悪化するほうが困るんです。でも心配してくださって嬉しかったです。話せただけでも気持ちが軽くなりましたから」
こんなに気にかけてもらえたのは初めてだった。嬉しいという気持ちに嘘はない。
けれど、先生たちに解決できる問題ではないから余計なことはしないでほしいとも思っている。




