記録されない少女
「お前、名前なんだっけ」
朝。
リオが聞くと、少女は黙ったまま栄養ゼリーを吸っていた。
数秒後。
「今はミラ」
「今は?」
少女――ミラは当然みたいな顔で言う。
「名前は変えるものだから」
リオは理解できなかった。
⸻
軌道都市では、
個人情報は国家管理だ。
名前。
住所。
職歴。
感情傾向。
全部データ化される。
ユニオンでは、
“記録されること”は当たり前だった。
だがミラは違う。
彼女は端末登録すら持っていない。
戸籍もない。
指紋も偽装。
顔認証も妨害。
存在そのものがノイズみたいだった。
⸻
「セパラってみんなそうなのか?」
リオが聞く。
ミラは肩をすくめる。
「地域による」
「私は“反保存圏”育ち」
「反保存?」
「記録を嫌う文化」
リオは顔をしかめる。
「なんで」
ミラは即答した。
「記録は支配だから」
⸻
彼女は壁にもたれながら続ける。
「ユニオンは全部残すでしょ」
「会話」
「感情」
「行動履歴」
「脳波ログまで」
リオは否定できない。
実際その通りだった。
ユニオンでは、
“何かあった時のため”に
市民の情報が膨大に保存されている。
犯罪予測。
感情分析。
危険思想検知。
全部エンパシアと繋がっている。
⸻
ミラは小さく呟く。
「データは死なない」
「だから怖い」
その声は、
初めて少し人間らしかった。
⸻
リオはなんとなく端末を向ける。
「写真撮っていい?」
ミラの目が変わる。
一瞬だった。
次の瞬間。
ガンッ!!
端末が壁へ叩きつけられていた。
「うおっ!?」
画面が割れる。
リオは絶句。
ミラは真顔。
「撮るな」
「いや冗談やん!?」
「消えないから」
「普通そこまでせんだろ!」
ミラは数秒黙る。
そして小さく言う。
「……昔、それで死んだ人を見た」
部屋が静かになる。
リオはそれ以上聞けなかった。
⸻
昼。
リオはミラを連れて下層市場へ向かう。
隠れ続けるにも物資が必要だ。
市場は騒がしい。
蒸気。
ネオン。
油の匂い。
上層の綺麗な都市とは別世界。
ここでは違法改造部品も普通に流通していた。
ミラはフードを深く被って歩く。
やたら周囲を警戒していた。
「そんな見られてねえって」
「見られてる」
「気にしすぎ」
「あなたは気にしなさすぎ」
⸻
その時。
大型モニターが点灯する。
ユニオンニュース。
そこには美しい女性が映っていた。
白銀の制服。
穏やかな微笑み。
アメリア・ヴァイス。
ユニオン中央議会代表。
“共感の聖女”と呼ばれる女。
《市民の皆様》
《昨日の同期障害は既に収束しています》
《不安を共有し、支え合いましょう》
市場の人々が安心したように頷く。
空気が落ち着く。
リオは毎回不思議だった。
アメリアが喋るだけで、
本当に都市の雰囲気が変わる。
まるで感情そのものを操っているみたいに。
⸻
だがミラだけは、
露骨に顔をしかめていた。
「嫌いなのか?」
「怖い」
「え?」
ミラはモニターを睨む。
「“みんなで同じ気持ちになりましょう”って、一番危険」
リオは苦笑する。
「でも平和じゃん」
ミラは即答した。
「静かなだけ」
⸻
帰り道。
二人は検問に遭遇する。
保安局だ。
「身分証提示を」
リオは端末を出す。
問題なし。
だがミラは動かない。
空気が張る。
保安局員が眉をひそめる。
「君もだ」
ミラの指先が僅かに動く。
ナイフを抜く前兆。
リオは慌てて前へ出た。
「こ、こいつ病気なんすよ!」
「は?」
ミラが睨む。
リオは続ける。
「神経系のやつで!外部通信苦手っていうか!」
「……診断コードは?」
「えーっと……」
終わった。
と思った瞬間。
別方向で怒鳴り声。
「スリだ!!」
保安局員たちがそちらへ走る。
検問が崩れる。
リオは即座にミラの手を掴んだ。
「走るぞ!」
二人は雑踏へ飛び込む。
⸻
数分後。
人気のない通路。
ミラが壁へ寄りかかる。
呼吸が少し乱れている。
「……なんで助けるの」
またそれだ。
リオは頭を掻く。
「だから知らねえって」
ミラは少し黙る。
そして初めて、
わずかに笑った。
「変なやつ」
その瞬間だった。
リオの脳裏に、
ノイズみたいな映像が走る。
白い部屋。
誰かの声。
『同期拒絶反応を確認』
『被験体R-09――』
頭痛。
リオはふらつく。
「っ……!」
ミラが支える。
「どうした」
映像は消えていた。
リオは息を荒くする。
「……いや、なんか」
今のは何だ。
記憶?
夢?
分からない。
⸻
その頃。
ユニオン中央同期塔。
巨大なサーバ空間。
暗闇の中。
無数のモニターがリオを映している。
歩く姿。
会話。
脳波。
感情反応。
全て観測されていた。
機械音声が静かに告げる。
《観測対象R-09》
《自己認識変動を確認》
《N.O.AH適合率、上昇》
そしてモニター奥。
誰かが呟く。
「ようやく起き始めたか」




