第一話後編
夜。
寺は静けさに包まれていた。
レイはすでに眠っている。
小さな寝息が、規則正しく響く。
ショコラは一人、縁側に座っていた。
足を投げ出し、空を見上げる。
月が出ている。
淡く、白く。
変わらない夜。
「……はぁ」
小さく息を吐く。
(なんでだ……)
拳を握る。
開く。
何も起きない。
(なんで俺だけ――)
そこまで考えて、やめた。
「……なあ、じいちゃん」
背後から、ゆっくりと足音。
隣に腰を下ろす気配。
「どうした、ショコラ」
「なんで俺だけ、何もねぇんだろうな」
少しの間。
福禄寿は、すぐには答えない。
夜風が、二人の間を通り抜ける。
「……怖いか?」
ショコラは、少しだけ考える。
「……わかんねぇ」
正直な言葉だった。
「焦ってんのか、不安なのかも……」
福禄寿は、静かに頷く。
「そうか」
否定しない。
肯定もしない。
ただ、受け止める。
そして――
「人はの」
ゆっくりと、空を見上げる。
「“持たぬこと”に、恐れを抱く」
その声は、どこか遠い。
「他と比べ、劣ることを知り」
「己の価値を見失う」
ショコラは黙って聞いている。
「だがな」
福禄寿の視線が、ゆっくりとショコラへ向く。
その瞳は――
どこか、人のそれではなかった。
底の見えない、静かな深さ。
「お前さんは、“空”ではない」
「まだ、“目覚めておらぬ”だけじゃ」
言葉は穏やか。
だが、その一つ一つが重い。
「力とは、与えられるものではない」
一拍。
「“在るものが、顕れる”だけじゃ」
空気が、わずかに張り詰める。
ショコラの背筋に、微かな震えが走る。
(……なんだ、この感じ)
目の前にいるのは、いつもの祖父のはずなのに。
どこか違う。
「お前さんの中には、既にある」
「ただ、それを“認める時”が来ておらぬだけじゃ」
福禄寿は、ふっと微笑む。
「安心せい」
「時は、来る」
その言葉には、不思議な確信があった。
未来を“知っている”ような響き。
「そうなのかな……」
ショコラは疑いながら、ゆっくりと目を閉じる。
そして深く、息を吸う。
(……ある、のか)
(俺の中に)
鼓動が、わずかに強くなる。
――その時だった。
ふと。
空気が、変わる。
風が、止まる。
虫の音が、消える。
世界が、一瞬だけ“静止”したような感覚。
「……?」
ショコラの眉が、動く。
違和感。
確かに、何かがおかしい。
ゆっくりと、目を開く。
その瞬間。
月が――
朱に、染まっていた。
白かったはずの月が。
血のように、赤く。
不自然なほどに、静かに。
「……なんだよ、これ」
言葉が、漏れる。
肌が、粟立つ。
空気が、痺れる。
見えない何かが、満ちていく。
ただ、ショコラよりも早く、この異様な空気を察知していた者がいた。
福禄寿だ。
福禄寿は、静かに月を見上げていた。
その表情からは、驚きは消えている。
ただ――
「……始まるか」
小さく、呟く。
それは予測ではなく。
確信だった。
ショコラの視界が、わずかに歪む。
鼓動が、一気に跳ね上がる。
胸の奥で何かが強く脈打った。
(来る……)
理由は分からない。
だが、分かる。
これは――
「……今だ」
世界が、息を止めた。
風が消え、音が途絶え、世界そのものが呼吸を忘れたかのような静寂が広がる。
ショコラはゆっくりと立ち上がる。
視界の端が揺らぐ。
胸の奥で、何かが脈打っている。
それは鼓動というにはあまりに強く、
まるで内側から叩き破ろうとする“力”だった。
(来る……)
理由は分からない。
だが、分かる。
これは偶然じゃない。
逃してはいけない“瞬間”だと、本能が告げている。
ショコラは縁側を飛び降り、庭へと足を踏み入れる。
土の感触が、やけに鮮明に伝わる。
指先が震えている。
恐怖か、期待か、それとも――その両方か。
ゆっくりと、息を吸う。
深く、深く。
そして、吐く。
目を閉じる。
(あるんだろ……俺の中に)
(じいちゃんが言ってた、“まだ目覚めてないだけ”の力が――)
鼓動が、加速する。
全身を巡る血が、まるで別の何かに変わったかのように熱を帯びていく。
その瞬間。
空が、鳴った。
音ではない。振動でもない。
だが確かに“鳴った”と感じる何か。
ショコラの目が、ゆっくりと開く。
その瞳は――朱に染まっていた。
「……っ」
自分でも分かる。何かが変わった。
いや、“変わり始めている”。
空を見上げる。
月が、朱に染まっている。
先ほどまで白く輝いていた月が、血を流したような色へと変貌していた。
異様な光景。
だが、それ以上に――
自分の内側の“変化”が、はるかに強烈だった。
次の瞬間、空気が裂ける。
ショコラの足元から、黒と金の閃光が迸り、地を穿つように走った。
稲妻。
ただの雷ではない。
重く、濃く、圧倒的な“質量”を持った雷。
それが、身体の内側から溢れ出す。
「ぐっ……あああああああッ!!!」
叫びが漏れる。
制御できない。
いや、そもそも“制御する術を知らない”。
全身に走る衝撃。
骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。
だが、それすらも押し潰すほどの“力”が、内側から溢れ続ける。
雷が、纏わりつく。
黒き閃光と、金色の光。
それらが絡み合い、渦を巻き、ショコラの身体を包み込む。
足元の地面が耐えきれずに沈み込み、遅れて砕け散る。
大地が唸るような破砕音が、周囲に響き渡った。
土が弾け、石が浮き上がる。
周囲の空気が歪む。
重圧。
その場にいるだけで押し潰されるような、圧倒的な存在感。
レイが、息を呑む。
「……なに、これ……」
肌が粟立つ。
本能が警鐘を鳴らす。
“近づくな”と。
福禄寿は、静かにそれを見つめていた。
その目に宿るのは驚愕ではない。
理解。
そして――確信。
「……神雷」
小さく、呟く。
「神の領域に触れた力……か」
ショコラの身体が、大きく揺れる。
「ぐっ……ぁ……!」
意識が、削られていく。
力が強すぎる。
器が、追いついていない。
暴走。
明らかだった。
「にいちゃん!!」
レイが叫ぶ。
だが、届かない。
ショコラの意識は、すでに現実から乖離しかけていた。
視界が白く染まる。
音が遠のく。
それでも、力は止まらない。
むしろ、さらに増していく。
空間が耐えきれずに歪み、軋む。
その歪みをなぞるように、雷が暴れ、周囲を引き裂いた。
福禄寿が、初めて声を荒げた。
「レイ!!!来るな!!」
一歩、踏み出しかける。
だが――止まる。
踏み込めば分かる。
あの雷は、触れた瞬間に命を奪う。
自分ですら、無傷では済まない。
「……くっ」
歯を食いしばる。
救えるはずの存在が、目の前で崩れていく。
それでも――手が出せない。
神でありながら、止める術がない。
その現実が、福禄寿の動きを縛っていた。
「レイ!!やめろ!!」
今度は、明確な焦りを帯びた声だった。
だが。
その瞬間。
レイが、動いた。
(そんなこと、言ってる場合じゃないだろ)
恐怖はある。
足が震えているのも分かる。
本能が叫んでいる。
“行くな”と。
それでも。
目の前で、兄が壊れていく。
それを見て、止まれるほど――
レイは、冷静じゃなかった。
一歩、踏み出す。
空気が重い。
皮膚が焼けるように痛む。
それでも、止まらない。
「にいちゃんを……止めるんだろ!!」
氷柱が形成される。
震える指先で、狙いを定める。
迷いはない。
――放つ。
氷柱が一直線に飛ぶ。
雷を――すり抜ける。
焼き尽くすはずの神雷の狭間を、わずかに逸れるように。
まるで、そこだけが“空白”であるかのように。
そして。
コツン、と。
あまりにも軽い音。
氷柱が、ショコラの額に触れた。
その瞬間。
張り詰めていた何かが――限界を迎える。
すでにショコラの身体は、耐えきれないほどの力を抱え込んでいた。
溢れ出し続ける神雷。
押し留める術もなく、ただ受け入れ続けた結果。
均衡は、とうに崩れかけていた。
あと一滴で、溢れる。
そんな状態。
そこへ――
ほんのわずかな衝撃が加わる。
それだけで、十分だった。
――決壊。
力の流れが、一気に崩れる。
制御を失った神雷が、内側から弾けるように消えていく。
「……っ」
呼吸が、途切れる。
全身の力が、一瞬で奪われた。
立っているという行為すら、維持できない。
膝が砕けるように崩れ、
そのまま、身体が支えを失って落ちる。
地面に叩きつけられたことさえ、認識できなかった。
雷が、消える。
重圧が、霧散する。
まるで最初から、何もなかったかのように。
ただ――
そこに残ったのは、倒れた少年と、静寂だけだった。
朱に染まっていた月が、元の白へと戻る。
風が、再び吹き始める。
虫の音が、帰ってくる。
世界が、呼吸を取り戻す。
レイはその場に立ち尽くしていた。
荒い息。
震える手。
「……にいちゃん……」
ゆっくりと、歩み寄る。
倒れたショコラの顔を、覗き込む。
意識はない。
だが、確かに生きている。
福禄寿が、その様子を見下ろす。
「……これほどとはの」
静かな声。
だが、その奥には、わずかな重みがあった。
「この子は、とんでもないものを目覚めさせてしまった」
レイが顔を上げる。
「じいちゃん……これって……」
福禄寿は、すぐには答えない。
ただ、空を見上げる。
すでに月は、何事もなかったかのように静かに輝いている。
「……いずれ分かる」
小さく、そう言った。
そして、視線をショコラへ戻す。
「これは――ただの力ではない」
夜が、再び静けさを取り戻す。
だが、その静寂の奥で。
確かに何かが、動き出していた。
――世界を変える、力が。




