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 別れ

 日が暮れた。感染者の数が明らかに増えてきたため、満達は喫茶店を出た。ミカエラが運転席に着き、助手席にマリンが座った。満は後部座席に着いて背後を振り返った。

 感染者の群の奥に、目的の無くなった大学が寂しげに立っていた。詩的に飾るつもりではないが、彼の墓標にも見えた。ミカエラはそれをバックミラー越しに暫し見つめていたようだが、ギアを入れて車を急発進させると、二度と振り向く事は無かった。

 闇に飲まれ、亡者が跋扈する。左右の脇道から湧いて出てくる感染者を避け、来た道を戻り続けた。

「所で、今日はどこで寝るの?」

「また昨日のモーテルでいいんじゃないか?今から近場を探す方が手間だし、リスクも大きい」

「確かにね。ミカエラ、昨日のモーテルへお願い」

「わかったわ」

 車は快調に曲がり角を左折し、街を抜けようとしていた。一日中探索と戦闘を続けた三人は誰もが疲労を滲ませていた。後部座席で周囲を警戒する満自身、幾らかまどろみかけていた。

 その眠気が、闇夜の中で遠くに見えた灯りによって吹き飛び、代わりに背筋に悪寒を感じた。

「何、あれ」

 ミカエラとマリンもその灯りに気付き、凝視する。

「ライトを消してくれ、すぐに」

 ミカエラは慌ててライトを消し、エンジンを切った。向こうが既にこちらに気付いているなら何かしらの動きがある筈だが、それが無かった。辺りは漆黒の闇に包まれており、車のヘッドライトは非常に目立つ。少しでも警戒している見張りがいれば、余程に怠けていない限り見逃す事は無いだろう。自分達の背後から西日の残光が差していたのが、カモフラージュになってくれていれば助かるのだが。


 動きは無かった。向こうは灯りを消す事もせず、その場で留まって何かをしているようだった。そして、一台だけではなく、二、三台は停車していた。一台に四人乗っていたとしてもこちらの四倍だ。とても勝負にはならないだろう。暗くて視認できないがその灯りが留まる場所はちょうどモーテルの辺りだった。正に今帰ろうとしていた場所である。十分な距離があるだけマシだった。もしミカエラがあの喫茶店に寄ろうと言い出さなければ、今頃は鉢合わせていた。

「くそっ、例のグループなのか?」

 映画館のグループに聞いた、この地域に存在する他の二グループ。特殊だがそれ程攻撃的では無いという森のグループと、工場地帯を根城にする危険なグループ。そのどちらかだと言うのか。

「とにかく、諦めるしかないな・・・かと言ってここから離れたくても下手にライトを付けられない。悪いが、今日はここで車中泊だな」

「贅沢言っている場合じゃなさそうね」

「このまま少しバックするわ。少しでも離れておいた方がよさそうだから」

「いや、エンジン音に気付くかも知れない。スタートの駆動音は騒がしいから、相手がこちらに来ない限りはこのままでいよう」

 幸い、モーテルには何も残していなかった。本来ならあのモーテルを拠点として余分な武器や物資を残しておくのだが、今回は偶然全ての武器と物資を積み込んだままにしていた。そうでなければ今頃多くの物資を失っていただけでなく、自分達の痕跡を残した事によって深刻な事態に発展していた可能性もある。

 やがて、モーテルの前に停まっていた車は次々と国道に戻り、走り去っていった。その方角は丁度、例の工場地帯があるという場所だった。

「危なかった・・・タイミングがずれていたらどうなっていた事か」

「良かった、もう戻ってもいい?」

「いや・・・残念だが、今日はここに残って車中泊した方がいいと思うぞ」

 集団は去ったが、また夜中に戻ってくるかもしれない。モーテルに物は残していないが、自分達が立ち入り、物資を漁った跡はある。勘の鋭い者なら待ち伏せする手段も取り得るだろう。

「そう。残念だけど、仕方ないわね」

「案外、外で寝袋を敷いた方が寝心地が良いかもね」

「取りあえず夕食にしよう。なるべく灯りは控えてな」


 簡素な夕食を摂りながら、三人で次の行動について相談した。もうこの地に用は無く、しかも危険なグループも存在するので、明日にもここを離れて次の州に向かう事に決まった。

「少し南部に下ってみる?六年前に聞いた最後のラジオだと、南部の方は検問も避難所もスムーズに運用されているような事を言っていたから」

「次は北部に行くつもりだったけど、南部に行ってみてからでも遅くは無いわね。北部に行ってからまた南部へ下ると移動のコストがかかり過ぎる。南部を見てから北上し続ければそれほどじゃないでしょう」

「決まりだな。国境見物が楽しみだ」

「楽しい旅行になればいいけど」

 ライトをそのまま点灯すれば感染者や略奪者を呼び寄せてしまう。そこで、フラッシュライトに灰色や黒い薄布を巻き付けて光量を落とし、車の陰で二つのテントを組み立てた。一人は交代で車の荷台から見張りにつく。最初の見張りはマリンだった。

 満とミカエラはそれぞれテントに入り、体を休めた。満はショットガンとナイフを枕元に置き、寝袋に入った。

 これでも、車が手に入ったおかげでかなり余裕のある旅ができていた。車が無ければ今頃もまだこちらへ向かって行軍していただろう。しかも、その結果は・・・あまりにも残酷だった。

 だが、いつまでもこうして旅を続ける事は困難だ。行く先々で必ずしも物資が手に入るとは限らないし、早く安定したコロニーに受け入れてもらいたい。さっきのようなグループに捕まってしまう事だけは絶対に避けなければならない。

 映画館のグループと合流するという手もある。森に住むと言うグループには接触していないが、わざわざ訪ねるまでも無いだろう。どちらのグループと合流したとしても、この地域はそれほど自給自走するのに向いているとは言い難い上、近くに工場のグループもいるのだから、仮に受け入れてもらっても危険性は払拭できない。

 やはり、南部の状況を把握してから北上し、条件の良いコロニーを見つけた方が良い。一度でも他のグループに入ってしまえば、それからは自分達三人の意思だけでは自由に動けなくなる。取り入る相手も慎重に選ばねばならないだろう。

 できる事なら・・・このまま誰も知らない場所で、三人でひっそりと暮らしていけないだろうか?この三人ほど軋轢も無く、死角の無いチームは無いと思うのだが・・・そんな訳にはいかないか。


 そんな事を思案している内に眠りに落ちた。


 朝を迎えた。夜中に見張りを二度交代したが、何者かがこちらに近づく気配は無かった。一度、モーテルの前を人影が動いたのでミカエラに確認させたが、一体の感染者が道路上を進んでいるだけだった。

「よし、朝食を摂ったら早速移動しよう。南の空に怪しげな雲が見える」

「本当ね、降っているのかも」

 マリンが果物の缶詰を荷台から下ろしながら南の空を見た。

ぬかるんだ道を走れば轍が残り、それは他の生存者に自分達の存在を知らせる事と同意だ。雨の中の移動は決して賢い選択では無い。

 朝食を済ませ、一行はハイウェイを南に向かって走った。途中、何度か土産物屋を通りかかったが、役立ちそうな物は何も残されて居なかった。南米産の葉巻などは一箱どころか一本も見つからず、満は少し残念に思いながら再び車に戻り、土産物屋で書き写した地図と見合せながら道を進んだ。観光用の地図は、先客によって全て持ち去られていた為、看板から写した。

 何度目かのガソリンスタンドに立ち寄り、店内の探索をミカエラとマリンに任せながら満は道の確認を済ませた。上空を見上げると、やはり暗雲が立ち込め、雨の気配を匂わせていた。

「これは確実に降るな」

 店内から二人が戻ってきた。手には何も持っていないので、大した物は見つからなかったらしい。

「残念、何にも無かったわ」

「ガソリンも、ね」

「そうだろうなぁ・・・」

「あ」

 車を出発させたその時、ボンネットに大きな雨粒が弾けた。続いて車体を強い雨が機関銃のように叩き付けた。

「おお、これは凄い雨だな」

 降り始めて数秒と経たない内に、ワイパーをフル稼働しても視界が十メートル以内という猛烈な雨が降り注いだ。


 道沿いの切り立った山の上を見上げると、どす黒い雲が空一面を覆っている。そこから降りしきる強い雨が満達の乗るトラックを執拗に叩きつけていた。

「この山、こんなに緑が多く無かった筈だけど・・・人が居なくなって環境が変わったら、植生も変わったのね」

「その内、森になるかもな。地図によるとこの先に集落があるようだが、今日は遅くなったし、視界もこの通りだからスタンドで夜営しよう。ここなら建物もある」

「賛成」

 スタンドから数十メートル離れた場所でトラックはUターンしてスタンドへと戻った。荷台にある荷物は大学から持ってきた軍の運搬ケースを活用して保管してある上、前の町で見つけた迷彩柄のレジャーシートを幌代わりに被せてあるので何も心配しなかった。しかも、今はスタンドの屋根の下に車を停めてある。

 三人で協力して寝床を作り、いつも通りに見張りの席も作った。二人が夕食を作る間、満はスタンドの奥にある作業場へ銃器を持って行き、残されているオイルや工具を利用して本格的なメンテナンスを施す事にした。

 金属の部品が触れ合う音と油の匂い。思い通りに解体され、従順に組み立てられていく銃。最早銃器のメンテナンスは満にとって必要不可欠な自身のルーティンであり、精神を統一する為の儀式とさえなっていた。

 ・・・そう、病的なまでに。

「満、できたよ」

「ああ、すぐに行く」

 三人分の拳銃整備を終え、満は食事を取りに二人の元へ戻った。

 夕食を終え、マリンは眠りに着き、ミカエラは見張り台に、満は作業場の隅でランタンを手元に置き、光を周囲に漏らさないよう段ボールを衝立代わりにして整備を再開した。

 ミカエラはブラインドを下ろした窓ガラス越しに外を見張った。構内に見慣れた鳴子が設置され、それに守られるようにトラックが停まっている。

 外の雨は一向に止む気配が無く、寧ろ強まっていた。時折、激しい稲光と共に轟音が響き渡る。雷鳴が轟く度にマリンが寝苦しそうな唸り声を漏らした。

「凄い雨ね」


「ああ、台風かな?生憎と天気予報はやっていないが」

「次は満でしょう?寝ずに交代するつもり?」

「ああ、今の内にこれを終わらせておきたい。ここで整備しておけばかなり綺麗にできる」

「今更だけど、あまり無理して体を壊さないようにね」

「分かっているよ、もうじき終わる。それに、これが趣味なんだ、俺は」

 ライフルの組み立てを終え、全ての銃器のメンテナンスが終わった。ランタンの明かりを消し、満も寝床に戻ろうとした。

 だが、途中で考え直し、ランタンをマリンの枕元に置いてからミカエラの元へ向かった。

「ミカエラ」

「ん、何?」

 ミカエラの隣に立ち、満は言い辛そうに切り出した。

「エヴァンスの事は本当に残念だった」

「ええ、分かってる・・・」

「勝手に俺が撃ってしまった事も・・・申し訳なく思っている」

「私は何もできなかった。してあげられなかった。でも貴方はそんな私を救ってくれたわ」

 ミカエラはかなり立ち直っているように見えた。だが、それも幾分かは無理をしている事は間違いなかった。実際、間近に見るミカエラの表情は疲れ、暗かった。

「差し出がましいようだが、一人で抱え込まないで欲しい。俺もマリンも君の気持を共有したいと思っている」

「ありがとう。でも今は自分で気持ちを整理したいから」

「分かった。何でも相談してくれ」

 寝床に戻ろうとする満に向かい、ミカエラは口を開きかけた。だが、結局何も言えなかった。

 雨はまだ、止まない。


翌朝になり、三人が朝食を終えても雨は一向に止む気配が無かった。昨日程の大雨では無いものの、決して視界は良くない。幸いにも人家の少ない峠道である為、感染者の気配は無い。

 これ以上待っても天候が好転しないと三人の意見が一致した所で車に乗り込み、スタンドを出発した。

「それにしてもよく降るわね。この辺は岩盤質だからそうそう土砂崩れは無いと思うけど・・・」

「落石の心配は?」

「うーん・・・」

 車がカーブに差し掛かると、見計らったようなタイミングで道端に岩が転がっていた。冷蔵庫程の、この車を屋根ごと座席まで押し潰すであろう重厚な大きさだ。満はハンドルを握ったままその巨岩を横目で見た。二人も無言でその巨岩を見つめている。

「どうかしら・・・」

 マリンも答えかねる様子でいた。とは言え、今更引き返すのも気が引ける。

「まぁ、大丈夫だろう。万一の時は直撃しない事を祈るさ」

 暫く進んでいると、次第に雨の勢いが弱まっていき、峠を登り切るという所では薄らとした霧に変わっていた。

それまで快調に進んでいた満がブレーキを踏んで減速した。ミカエラとマリンが身構えながら周囲を見回した。

「何かあったの?」

「検問所・・・というより関所だな。ここも封鎖ポイントだったのか」

「全く知らなかったわ・・・しかも、あの様子だとゲートもしっかり施錠されているわね」

「感染発生後に誰も来ていないか、若しくは誰かが管理しているって事だ」

「つまり、他のグループがいるかもってことね」

「恐らくな。だが、友好的である事を確認するまでは敵だと思って行動しよう」

 満は車のエンジンを切って降り、荷台から大型の工具を幾つか取り出して小脇に抱えた。

「ゲートは俺に任せてくれ。周辺の探索と警戒を頼む」

「オーケー、警戒は任せて」

 ミカエラがトラックの傍に立ち、今登ってきた峠道を見張った。マリンは関所の手前にある山小屋に近付いた。二人共、すっかり身のこなしまで戦士のそれに近づき、もう満が事細かに指示を出す必要はなくなっていた。自分で状況を把握し、自分のすべき仕事を理解している。顔つきまで凛々しく、頼もしくなった。


 このままいけば、彼女らがアマゾネスになり、自分は尻に敷かれるだけの召使になるだろう。

 マリンは小屋の周辺を注意深く調べた。窓は内側から板で締め切られ、中の様子は見えない。防音性が高いのか、何も居ないのか、聞き耳を立てても物音一つ聞こえない。出入り口にはボロボロになったシーズン毎の観光案内のポスターや注意書きが貼られており、更にその上から赤いスプレーで「立ち去れ」と書かれていた。

 その出入り口の扉を静かに開け、隙間から中の様子を窺った。埃が舞い、光も無く暗い小屋の中にはいくつものテーブルが置かれ、そのテーブルに突っ伏すようにして死体が残されていた。

 更に内部を調べようと足を踏み入れたマリンは、その死体の頭部や露出した肌を見て目を見開いた。その肌はミイラ化しかけながらもまだ僅かなハリがあり、何より首筋と肩から茸のような物が生えていた。

「マリン、何かあった?」

 ミカエラに非は全く無い。だが、最悪のタイミングだった。手前で突っ伏していた感染者が顔を上げ、よろめきながら立ち上がった。立ち上がった直後に椅子に躓いて転倒し、大きな物音を立てた。

 それに呼応し、小屋の奥に居た休眠状態の感染者が次々とこちらに気付いて立ち上がり、押し寄せて来た。咄嗟にドアを閉めようとするが、倒れた感染者が隙間から手を伸ばし、締め切る事が出来なくなった。マリンが幾ら体重を込めて閉めようとしても、その干からびかけた腕と芯である骨は丈夫で、千切る事は出来なかった。

「満、助けて!マリンが!」

 ミカエラが異変に気付き、拳銃を抜きながらドアに駆け寄った。

「待ってろ!今・・・」

 満も工具でゲートをこじ開け、持っていたバールを手に二人の元へ向き直った。しかしその直後、検問所の陰から現れ、不意に満の真横から掴みかかってきた感染者に阻まれた。

「くそ!物陰にッ!」

 不意討ちと言う事もあり、体勢は満の不利だった。しかも、警備兵の感染者であったため、筋力も充分に残されていた。噛まれないように感染者の顎と額を押さえるので精一杯になっている満は後ろへ押されて行った。

「な・・・」

 直後、体から重力が消えた。そう感じた。そう思ったのは一瞬で、次の瞬間から自分に何が起こったのか理解し、絶叫した。

 百メートル近くある峡谷。その谷間へと落下していく。それは死を意味している。


「畜生ッ!」

 呆気ない終わりだ、と情けなく思った。何処かに背中から叩きつけられた。痛い、と思う間も声を上げる事も無く、更に顔面をぶつけた。血の匂いが鼻の奥に染み込んでくる。体が惰性で転がり、一旦勢いが消えた状態から更に落下した。こんな痛い思いを何度もして死んでいくのか、と絶望する内に体が冷たくなった。

 水だ。

 体が水中深くに沈んだ。暗い水中で漂いながら、ぼんやりと自分の身に起きた事について考えてみたが、状況も整理できないまま水流に流された。

 かなり強い激流だった。昨日からの大雨で川が増水したのだろう。土石流で無いのがせめてもの慈悲だ。土石流だったならプロの水泳選手とて泳げず、助からない。必死に泳いで水面に顔を出し、息継ぎをした。

 パニックに陥りかけたまま前方を見ると、巨大な岩に猛烈な勢いで近付いていた。どうする事もできないまま、両腕と両足を盾にして叫んだ。

 強烈な痛み。冷たい激流に飲み込まれていきながら、意識を完全に失った。




 とてもでは無いが、人間一人の力でどうにかできるものでは無い。

それまで自身の体を用心棒代わりにして小屋の扉を押さえていたマリンは、体力の限界を感じて扉から跳び退った。

 同時に、扉を開け放って大量の感染者が小屋の中から湧き出した。

「ミカエラ、満はまだ?」

 振り返らず、小屋の内部から溢れ出し、狭い出入り口でひしめき合う感染者の頭部を的確に拳銃で処理していく。

 背後からミカエラの気配があった。一体の感染者を始末したようで、彼女の衣服には返り血が付着していた。

「お、落ちちゃった・・・」

「は?何が?」

 銃でも落としたのか、と思いながらマリンは聞き返した。今必要なのは銃ではなく、全員が揃って脱出する事だ。

「満が」

「え?」

 思考が途絶した。満が落ちた?どこに?

「が、崖の下に。新しい感染者に襲われて」

 考えてみれば、決して珍しい事では無かった。こんな世界で生きている以上、どんな理由であれ、死に繋がり兼ねない。今となってはそれが常識だ。

 だが、心のどこかで満を特別扱いしていた。彼は出会った時からとても強くて、この世界に於いてさえ、死とは無縁の存在にすら感じた。自分達をいつまでも守ってくれる守護神のように思い込んでいた。

 ”神”と名の付く物ほど、今の世界であてにならないものは無いというのに。

「・・・仕方ないわ。ゲートは満が解錠してくれたみたいだし、車に戻りましょう」

「で、でも・・・」

 ミカエラは狼狽したが、マリンはすぐに思考を切り替えた。例えどんなに大切なものであっても、失われたものを嘆く行為ほど無価値な行為は無い・・・緊急時に於いては。

「今、ここで私達ができる事は他に無いわ。行くわよ」

「わ、わかったわ・・・」

 ミカエラは満が滑落した崖の縁を見つめていたが、マリンに促され、トラックに戻った。


 「満の事だから、簡単に死んだりはしないわ。でも下流に流されているだろうから、できるだけ川沿いに進んで、流れが緩やかになるところでキャンプを張って待ってみましょう」

「そうね、私もそれが良いと思う」

 ゲートを超え、トラックは坂道を下って行った。軍が放棄したと思われる土嚢の銃座などが道の左右にいくつか設置されていたが、感染者も、人間の姿も見当たらなかった。

 チェックポイントは確かに機能していた。しかし、人間ならば岩肌をよじ登り、関所を跨いでこの先へと進む事も出来ただろう。

 右手の崖下に巨大な川が見えた。崖の岩肌には殆ど植物も見当たらず、硬い岩の斜面が遥か下の激流までかなり急な角度で続いている。

 満の痕跡は見当たらず、本当に彼が落ちたのかどうか、ミカエラが目撃していなければ信じられない程だ。

『夢であればいいのに・・・』

 生存は絶望的だった。

 それ以上は互いに口を開くことも無く、坂道を下り続けた。町へと続く道を通り過ぎ、川から離れずに進むと、三十分程してようやく川辺へと辿り着いた。当然、まだ濁流はその激しさを保ち続けては居たが、いずれは落ち着いてくる筈だ。浅い所も多く、二人は川に近づきすぎない場所に車を停め、テントを張った。

 暫く待っていれば、流されてきた満が打ち上げられる、などと絵に描いたような幸運に巡り合えるとも思えなかったが、それでも二人は他に術が思いつかなかった。

 雨も上がり、傾く陽の光に照らされた川を見つめ、言葉少なに簡単な夕食を終えると、満のしていた夜への備えを思い出しながら、武器・避難路の確認を済ませる。

 そして最初の夜が訪れた。二人にとっては初めての試練と言って過言では無かった。ミカエラもマリンも、基本的に街の中で、安全な拠点を見つけてそこで夜を過ごしていた。しかも、これまでは頼もしい満が居たが、今は居ない。そして今は、危険と隣り合わせの野宿をしている。

 頼れるのはささやかな武器と、残された自分達だけ。

 周りの虫の声さえかき消してしまう川の轟音。時折、草の擦れ合う音が二人の背筋を凍らせた。明かりを消したまま、交替で見張りと休眠を繰り返した。



 そんな日が何日も続いた。


 その間に二度、十数人の感染者の集団が二人の陣取る川辺に差し掛かった。その際、二人は身を寄せ合い、川辺にある葦の中に隠れてやり過ごした。

 とても、満の様にナイフや体術でどうにかできるとは思わなかった。また、そんな事の為にここで待っている訳では無いのだと自分に言い聞かせ、逃げ出したくなる恐怖と戦っていた。

 まるで鏡に映った自分のように、葦の陰で口元を引き結ぶミカエラと見つめ合い、マリンはふと思った。

『私は弱くなったのだろうか?』

 かつて、満やミカエラと出会う前は自分一人であの感染者の巣食う街で生きていた。嫌な人間とも駆け引きを行い、かつて仲間だった人々をも殺し、生き延びてきた。

 それが今、たった一人の仲間を、たった一人の男を失って、私達は進むべき道を決め兼ね、こうして枯れた葦の根元で震えている。

 ―私達は、弱くなったのだろうか―

 五日目の夜の事だった。

 いつものように車の陰で周囲の物音に警戒しつつ、五日前とは打って変わって穏やかになった川面を見つめていた。雨による激流が収まってからは、昼の間はどちらかが見張りに立ち、もう一人が川の中に何か手掛かりが無いか調べるようにしていた。

 タイヤ、木片、使いようの無いガラクタ、ゴミ、破れた衣服・・・衣服が流れ着いた時はすぐに拾い上げ、それが満の着用していたものでは無いか確かめるが、それらしいものは見つからなかった。

 口にこそ出さずとも、二人も薄々と覚悟はしていた。だからこそ、その最後の決め手をその眼で見るまで、進む事は出来なかった。

 そんな二人を焦らすかのように辺りはすっかりと青白い月明かりに照らされていた。


 不意に水音が二人の耳に響いた。猟銃を手に車の陰で辺りを見張っていたミカエラが振り返り、マリンと目が合った。

 幻聴ではない。川の立てた音でもなく、意図的に出された音だった。それは川の中から聞こえてくるが、岩に当たる水の音や、水同士がうねり合う音とは明らかに違った。

 川に目を向けると、一つの影が川の中から立ち上がり、ふらつきながら岸を目指して向かっていた。

 二人は再び顔を見合わせた。

 こんな偶然が、奇跡があるだろうか。五日間待ち続けたのは無駄ではなかった。飛び上がって抱き合いたくなる程の高揚を抑え、ライトを点けて他の招かれざる客を呼び寄せてしまわないよう警戒を怠らないまま、二人は土手を降りて岸へと向かった。

 ミカエラより先に抱きしめてやるつもりだった。ひどく疲弊した様子で岸へと辿り着いた途端、砂と小石の中へと突っ伏してしまったその影に駆け寄り、すぐに抱き起した。

 

 喜びは一瞬で恐怖に変わった。


 全く知らない顔。それ以前に、腐敗が始まっていた。水をたっぷりと吸った体中の皮膚は膨れ上がり、灰色に濁った瞳はマリンをしっかりと捉え、食欲旺盛な口はやはりたっぷりと膨れ上がった唇を上下に大きく開けて迫ってきた。


「うっ!」

 水しぶきが顔にかかる。酷い臭気に顔を背けながらも相手の肩を押さえつけて接近を防ぐ。

 しかし思った通りに相手の体は腐敗が進んでおり、押さえつけてもその皮膚が崩れて滑り、思うように体術を活かせなかった。

「早く!」

 駆け付けたミカエラが背後から感染者を羽交い絞めにして引き離してくれた。すかさず腰からナイフを抜き取り、その側頭部を押さえつけ、反対側からナイフを突き入れた。これも腐敗が進んでいる分、楽に済んだ。

 撃退した。が、それ以上に空しさが込み上げた。目の前に横たわる物体が全ての答えを示しているように思えてならなかった。

 強烈な腐臭を放つ死体を挟んで向かい合うミカエラの顔にも同じ想いが感じられた。

 どちらが先に口を開くか、と思案していたその時、また水音が聞こえた。

 二人が身を凍らせながら振り向くと、次々と人影が水中から現れた。

「・・・ここの水、飲まなくて正解だったね」

「悪い冗談みたいね・・・行きましょう」

 二人は土手を駆けあがり、車へと辿り着いた。元々いつでも避難できるように荷物はまとめられており、ただ車を始動してこの場から離れれば良いだけだ。必要になるかもしれないとミカエラが用意してくれていた毛布と治療器具も、ミカエラが黙って片付けた。

「・・・これからどうする?」

 マリンにはすぐに答えられなかった。が、すぐに現状を理解し、次の目的地を答えた。

「町へ。通り過ぎてきたけど、近くに町へ行く道があったはず。とにかく、どこか少しでも安全な所へ」

 そんな場所、あるのかしら・・・と、ミカエラが呟いたように聞こえた。本当にそう言っていたかは分からないが、それを咎める気にはならなかった。自分自身、自分の言う「安全な場所」という目的地がひどく曖昧で空虚な幻想に思えてきてならなかったから。









 冷たい。









 真暗だ。








 日中のからりと乾いた暑さは一転し、心地よく涼やかな風が流れてきた。

 惜しむらくは、その涼やかな夜風が吐き気を催す程の生臭さと、呻き声を運んでくる事だ。

 投光器の明かりが煌々とハイウェイと、その脇から地平線を覆うような広大なトウモロコシ畑の一端を照らしていた。遠くには夜闇の中でも確認できる煙と、それを照らす街と炎の光、そして消防と警察車両から発せられる光、サイレンの音が聞こえてきた。

 ハイウェイと言っても、マイナーな道であったらしい。十分に広い道幅だったが車も滅多に通らず、徒歩で街へ向けて移動する市民の姿がまばらにあるだけだ。

 それでも道標と共に投光器が置かれているのは、当局の関係者か有志の者が避難者を導くために用意してくれたからだろう。ならば、このまま進めば安全を確保できるかもしれない。ボストンバッグを掛け直し、再び歩みを進める。

・・・尤も、今更引き返す気力も無かったが。

 ふと周りに目をやると、他の避難者も同じ様子だった。彼らは皆、何らかのトラブルで自動車を捨てて徒歩で逃げて来たのだろう。親子連れの姿も珍しくない。

 大きい道も幾つかあったが、軍や警察に封鎖されるか、深刻な渋滞、事故で交通網が機能不全に陥っていた。

 確実な移動ルートと思われていた主要幹線道路が悉く麻痺・封鎖されてしまった結果が目の前の状況なのだろう。

 パトカーが路肩に無造作に停車していた。中を覗くが、警官の姿は見えない。宙吊りになった無線機から英語で何か通信が聞こえてくるが、皆目見当もつかない。 車内を調べようとは思わなかった。こんな状況で、異国人である自分が警察車両の中を物色している所を警官に見られたら、余計なトラブルになる事は容易に想像できたし、帰国後に犯罪者扱いされるのも御免被りたい。

 ・・・それにしても、どうしたことか、この胸騒ぎは。

 トウモロコシ畑が風に揺られ、乾いた葉の擦れ合う音が聞こえていた。


 悪い予感は的中した。どこからか意味不明な怒号が響いてきたかと思うと、裸の上半身を血だらけにした男がトウモロコシ畑から飛び出してきた。

 自分を含め、その近くに居合わせた人々が茫然と立ち尽くす中、男は焦点の合わない目で、それでも間近にいた家族に突進した。

 先頭に立っていた父親は突き飛ばされ、次に悲鳴を上げるその妻の腕に噛みついた。

 悲鳴が絶叫に変わった。それを合図に人々はその脇を通り抜けて進むか、引き返すかを選んで一斉に逃げ出した。

 

 満も足を動かしていた。肩に掛けていたボストンバッグを提げ、今度はその傍らで泣きながら立ち尽くす少年に向おうとする男に肩から当身を食らわせた。男が起き上がる前にボストンバッグを顔面に叩き込み、抑え込んだ。

 横から衝撃。予期しない妨害に驚いて振り返ると、起き上がった父親が満に体当たりを食らわせていた。

 不意に家族が危害を加えられ、父親も混乱しているようだった。彼は家族を起き上がらせると、慌ててその場から立ち去った。

 我に返って気が付けば、方々で悲鳴が上がっていた。投光器に照らされる人影はどれも走っていて、遠目ではそれが逃げているのか追いかけているのか分からない。

 背後で男が起き上がる気配。

 もう何が何だか分からない。ただ一つ言えるのは、この世界がとんでもない状況に陥ってしまったらしいという事だ。そして自分も、その中で身を守らなければならない。

 男より先に起き上がり、満も一目散で走った。

 ダメだ、このまま道路を馬鹿正直に走っていてもいずれは狂人に捕まる。

 一か八か。道路脇に広がるトウモロコシ畑に飛び込んだ。あの狂った男が執拗に追いかけて来る。

 息を切らす前にある程度距離を取り、それから満はトウモロコシの茎や葉を揺らさないよう、慎重に移動した。男がついて来たであろうルートの直線状から真横に逸れる形で逃げる。


 男の気配が感じられなくなると、満は道路へと戻った。ボストンバッグを回収すると、再び道路からトウモロコシ畑の中に入り、道路に沿って移動することにした。

「何でこんな事に・・・」

 新たな狂人を招かないよう、小声で弱音を吐いたが、誰にも聞き取られることは無かった。


 二時間かけて街に辿り着いたが、酷いものだった。何らかのアナウンスも流れているが、自分には英語がろくに話せない。義務教育レベルの英会話さえ、既に体が忘れてしまっていた。

 よりによって、ベティの農場から去り、空港に向かう帰路でこんな大事件が起こるとは。

 自分を担当する現地職員との連絡もつかず、大使館からも何度か安否確認の電話があったが、迎えに来るとも来れないとも言い切れない様子のまま、こちらも連絡は途絶えた。

 空港まで逃げてきたは良いが、深刻なトラブルの発生を理由に空港は閉鎖され、別の街へ避難指示が下された。そこまでは数ヶ国語の案内があったおかげで理解できた。

 が、それ以降は周囲の様子と、アジア系の顔立ちをした者が日本語を喋れる人物であることを願いながら話しかけるしか無かった。これはうまくいかず、今自分が辿り着いた街がその避難区域なのかどうかも怪しいという状況だ。

 ベティと別れてから二日が経っていた。ベティから安否を心配するメッセージがあったが、携帯もバッテリー切れとなってしまっていた。

 既にあらゆるサービスが機能不全に陥っていた。場所によっては停電したまま復旧されない所もあり、交通機関も殆どストップし、仮に運行していたとしても、すぐに人で溢れかえり、真面目に順番待ちなどしている者には入り込む余地さえ無かった。 割り込む乱暴な人間がトラブルの引き金となり、事あるごとに病的な暴動が頻発していた。


 そんな状況下の事だ。其々の家族の安否さえ知れないのに、見ず知らずの異国人に構う余裕がある人など居る筈も無い。パトカーの中で所在無げに無線でやり取りをしている警官を見かけたが、片言の英語で状況を尋ねても早口の英語で怒鳴り返されるだけだった。何とか聞き取れた単語を反芻しながら分析して得たものは、「早く立ち去れ」という旨の内容だった。


 当然、軍も動員されていた。世界最強の軍事力を持つこの国の事だ、軍隊はこのような状況下でもその実力を遺憾なく発揮されると誰もが信じて疑わなかった。

 だが、それはあえなく裏切られた。

 確かに軍隊は強力だ。たかだか二、三倍の民間人や略奪者が束になってかかっても、悉く返り討ちにする。しかし軍隊の本質的な強さとは、武器の強弱ではなく、組織力と統率に尽きる。彼らは自分の家族が本国の安全な場所で庇護され、健全な指揮系統が確保されてこそ、その実力を発揮する。

 しかし、今のこの国はそのどちらもが危機に瀕していた。世界有数の人口を有する分、その深刻さは計り知れないものがあった。

 軍の上層部でさえ三割近い将官が感染しており、混乱は加速度的に広まっていた。指揮系統を喪失した部隊さえ現れ始めていた。その混迷の中、早期に持ち場を離れ、家族の元へ去った軍人も少なくはない。勿論これはこの国に限った事では無かったが。







  冷たい・・・






  何か、感じる。






「ふっ・・・」

 泥臭さに顔を背けると、西日が見えた。胸から上は自ら出ていて日の暖かさを感じられたが、その下はまだ強いうねりを残す濁流に浸り、感覚が今一つ戻っていなかった。

 それでも、蒼井満は自分が生きている事を再確認した。

 そうだ。自分は殺されても死なない、ゴキブリ以上のしぶとさを持つ生き物だ。死神も閻魔も毛嫌いする存在に違いない。

 あの崖から落ちて生きている。我ながら底なしの強運に驚嘆するが、意識が鮮明になるにつれ、左足に違和感を覚えた。

 一体どれほど気を失っていたのか見当もつかなかったが、あの崖で二人と離れてから少なくとも四、五時間は経っている。もしかしたら数日かもしれない。その間、ずっと水に浸かっていたせいだろうか?

 打ち上げられていた岸に背中を預けながら両腕の力で這い上がる。両足が水面から顔を出した時、自分は決して幸運なだけではないと思い知らされた。


 足の違和感は鈍くなった痛覚だった。あれだけの高さ、それも垂直に近い岩場から落下して、更に激流に飲まれて、無傷で済むはずがない。左足は明らかに意図しない方向を向いており、それが骨折しているのだと頭が理解した途端、激痛が足から脳へ駆け上がった。

 声にならない悲鳴を上げながら、兎も角、この場から離れなければと肘で這った。予備自時代に習った匍匐の要領を思い出す余裕など無かった。神経を抉られたような激痛に歯を食いしばりながら、川から離れる。

 

 既にこの状態で事実上の”死刑宣告”だった。歩けもしない体で感染者に遭遇すればどうなるか、考えるまでも無い。

 それでも運さえ味方してくれれば何とか撃退できるかもしれないが、二体以上の感染者が現れれば、運も見放したという事だ。

 勿論、身一つで崖から転落したため、何の物資も持っていない。食糧も水も、医薬品も、火を起こす道具も無い。あるのはずぶ濡れの衣服と靴、不満足な身体と・・・ベルトにしっかりと固定していた大型ナイフ。

 たったそれだけだが、ナイフを喪失しなかったのは最大の僥倖と言える。

 しかし、自分には助けが必要であることは変わりない。折れただけではなく、手足には大小の裂傷があり、その状態で不衛生な環境に晒されていたのだ。感染症は避けたい。このままでは無事に治るかどうかも怪しく、下手をすれば感染症によって手足の喪失…どころか死亡にもつながり兼ねない。

 

 自らが置かれている状況を理解するにつれ、もう一つの違和感にようやく気付いた。

 視界がぼやけている。手元を見る分には問題なく、十数メートル先を見る分には何とかなっていたので、脚の骨折に気を取られていたが、眼鏡を失っていた。

 考えてみれば当たり前の話だ。あれだけの激流に揉まれて、あんな華奢な道具を失わない筈が無い。

 しかしそれは折れた脚と同等か、それ以上に深刻な事態だった。これでは何をするにも不便すぎる。自らの体の出来を恨んだことは無いが、今、初めてこの目の悪さが呪わしい。

 まず、狩りはできない。この川に魚がいるかどうかすら知ることができない。離れた看板、高所にある案内板も判別することは出来ない。

 そして、どんな作業、行動をしようにも精確さを欠く。当然、銃などあっても遠くの標的を狙う事は不可能だ。こんな視力で銃を扱うくらいなら、素手で戦った方が圧倒的に利がある。

 いずれは迎える運命だと薄々感じていたが、それがよりにもよって今とは思わなかった。せめてマリンやミカエラに付き添われていれば良かったのだが。

 こんな、無いもの尽くしの状態で、どうすればいいというのか?決して多くは無い脳細胞を働かせ、今後の行動について考えてみた。

 少なくとも、ここで待っていても状況は好転しないだろう。こんな辺鄙な場所では、平常だった頃の世界ですら救助が来るか怪しい。

 ならば、あの二人に見つけてもらえそうな場所を探し出し、そこで待つしかない。


 とにかく、上へ。

 不幸中の幸いと言うべきか、自分達は川の流れに沿って移動してきた。ならば、追い越したか遅れているかは分からないが、二人の進んだ、或いは進むべき方向に自分も居るという事だ。

 足もろくに動かせず、文字通り這いずりながら、進めそうな場所を進む。

 流れ着いた場所は、崖の上に上がる道は無かった。ただの峡谷、その谷底に自分は居る。健常者でさえ、この岩肌を登るのは不可能だ。この先のどこかでなだらかな道、或いは斜面が現れるまで、こうして途方もない労力を費やすしか無い。

 こんな場所で、それも善人が通りかかって助けてくれるなど、空想すらしなかった。しかし流れ着いた岸から五、六百メートルも進んだだろうか。何度も休憩し、激痛と疲労に耐えながら進んでいると、前方に人影が見えた。

 が、全く期待はしていなかった。こんな何も無い場所に、どうして人が居るというのか。それも、人影の動き方は健常者のそれではない。

「いよいよツキも見放したか・・・」

 奥歯を噛み締める。

 感染者だ。距離は二、三十メートル程。顔は判別できないが、動き方からすると中~重度感染者か。浮ついた足取りながら、確実にこちらへ向かってくる所を見ると、まだ自分と同程度に目は見えているようだ。

 ナイフを抜きながら、相手に足を向け、仰向けになる姿勢で待ち受ける。

 傍から見れば品の悪いギャグか、オットセイのような姿だろう。しかし、今の自分にはこうするしかない。

 まだ動く方の脚で、近づく感染者に足払いを食らわせ、倒れてきた所で寝技とナイフの組み合わせで始末する。現状では自分の抵抗手段はこれ一つのみ。失敗するか、新手が現れた場合は助からないだろう。

 生まれて初めて味わう恐怖が、敵に向けた足先から背筋に這い寄ってきた。


 やはり、感染者だった。あと数メートルという所まで来て、その呻き声が明確に聞き取れるようになった。

「来るなら来やがれ・・・」

 このくらいか?動く方の脚を動かし、感染者の脚を払った。

 本来ならば測り間違える事の無い間合いだったが、わずかに遠かった。

 感染者は転ばず、動かない方の爪先に躓いて倒れ込んできた。予期しない動きに対応が遅れ、感染者が自分の動く方の脚にしがみついてきた。

「畜生!」

 噛まれてはたまらないとナイフを噛ませ、咄嗟に拾い上げた石くれで暴れる感染者の頭部を殴打する。そのまま二、三分もその感染者と揉み合いを続けた末、ようやく頭骨を砕いたか、感染者は自分の上に崩れ落ちた。

 ダメだ。思うようにいかない。今は運が良かったが、こんなことを繰り返していてはいくら命があっても足りない。傷からの出血もあり、これが感染者を呼び寄せている可能性もある。最低限の手当てをしようにも、手元にはそのための道具が何一つ無い。

 悪態を吐きながら再び先へと進む。片足の身に岩場は辛い。何度も意識を失いそうになりながら、それでも進み続けた。崖の上には時折、ガードレールが見え隠れしている。あの道まで戻る道さえ見つけられれば、誰かしらに見つけてもらえるかもしれない。それだけが希望であり、今にも折れようとする心の支えとなっていた。

 

 硬く、冷たい岩の感触。顔を上げると、既に日は落ち、辺りは無明の世界となっていた。川のせせらぎだけが聞こえる。後は何も無い。

 気を失ったのか疲労で寝てしまったのか、それさえも覚えていない。身を起こそうかとも考えたが、今は月明かりすらない、正真正銘の無明に包まれている。夜目すらほとんど効かず、余計な怪我を負うリスクを考え、その場を動かないことにした。 

 

 心細い。

 生乾きの衣服と乾いた夜の空気が容赦なく体温を奪う。世界全てが自分を見捨てたのではないかと思う程深い闇。手元さえ見えない。ふと、昔行った、長野にある寺の地下を思い出した。

 今度という今度は助からないのか。ここまで来て、こんな終わり方なのか。

 止まらない震えを抑えながら、自分の両腕を抱いて眠る。もちろん、熟睡などできなかった。


 夜が明けるまでに何度も目を覚ました。寒さと痛み、徐々に強くなる飢えに耐えながら、それでも余計な消耗を抑えるために無理矢理眠った。

 やっと肌が空気の温かみを感じはじめた頃、既に目は覚めていたが体を起こした。見えなかった足元も充分に見える。芋虫のような体を再び動かす。

 無限に続くかと思われた渓谷だったが、ようやく自分の体でも登れそうな道が見えてきた。

 内心で歓喜しながら適当な流木・・・恐らく、オークの木か・・・を拾い上げて杖代わりにした。足場が悪すぎる岩場では折角杖があっても片足が折れている為、殆ど用を為さなかったが、まともな道ならば今の自分にとって最大の助けとなる。老人か、敗残兵のように杖を頼りに上り坂を進むと、五十メートル程も歩いた頃、舗装されたアスファルトの道路が見えた。

 周囲には感染者の気配も無く、気を緩めたその瞬間、再び気を失った。





 町は静まり返っていた。

 どこの町もそうだろう。もし、賑やかだったとしても、それはかつて、この世界がそうであった頃のような、活気あふれた賑わいでは無い。

 生き血と肉を求め、飢えと渇きに突き動かされる死者の騒がしさだ。

 あの姿は昔、外国・・・アジア関連の文献で見た地獄の囚人・・・そのイメージに極めて酷似する。

 その文献の原本を書いた人物はこの事態を既に見ていたのでは無いか、と思う程、自分はオカルトじみた性格をしているとは思わなかったが、この状況ではそうも思いたくなる。

 どこも廃墟だ。そして、廃墟の中からは呻き声だけが聞こえてくる。

 しかし、懐かしさすらあった。満に会う前・・・仲間達をこの手で殺し、弔った後、自分はこんな町で一人、生きてきたのだ。

 だが満に出会い、自分は一人ではなくなった。彼のお陰で自分の暮らしは楽になった。孤独ではなくなった。それは新鮮で、もしかしたら世界が平常だった頃よりも輝かしい時間・・・だったかもしれない。

 それが、満が特殊な存在だったからか、自分が置かれた状況があまりに特異だったせいかは分からない。ただ、自分は今、かつてと同じ状況下に置かれている。

 隣にいるのは満ではなく、ミカエラだ。彼女も同じ事を考えているのか、深刻な表情を崩さずにこちらを見返した。


「どう思う?」

 先に口を開いたのはミカエラだった。彼女はライフルを油断なく構えたまま、周囲の廃墟を見回している。

「感染者は居るけど、なんだか配置があからさますぎる。通りには一匹も居ないし、ゴミも少ないわ」

 それはまるで、町そのものが管理されているように感じられた。感染者も”居る”というよりは”飼われている”と感じた。自分がそうしていたから、尚更分かりやすい。

「きっと、人が居るわ。多分、ボミットスの連中より強い生存者が」

「そう・・・親切な生存者だといいけれど」

「一人とは限らない。集団かも。慎重に行きましょう」

 車のガソリンも底を尽きかけていた。車が無くては、トランク一杯に詰まっている食料や武器、その他日用品といった物資を女二人で担いで旅するには流石に辛い。危険だが、この町を探索しなければならない。

 満が残してくれたショットガンを手に、感染者の呻き声がそこかしこから聞こえてくる通りを進む。

 やはり、襲ってこなかった。感染者は通りを挟む左右の建物内に一定数、声からすると一つの建物に一、二体程度配置され、何らかの方法で固定されている。感染者を番犬代わりにするという、非人道的な手法を思いつく人物で無ければ、こんな町に入りたいとは思わないだろう。

 皮肉にも、自分はそれを思いつき、実行もした女だが。

 すぐ近くのブロックにガソリンスタンドがあったが、燃料は一切残っていなかった。略奪のせいなのか、この町に潜む何者かが全て運び出したのか、それは分からない。

「そう上手くはいかないよね・・・」

 ミカエラが残念そうに呟いた。自分も同じ落胆を感じながら、次は町の地図を見つけられそうな場所を探す。バス停を見つけ、そこに掛けられていた観光客向けの地図をナイフで引きはがして手に入れた。

 二軒目のガソリンスタンドでも収穫は無かった。それほど大きな町でも無い。この調子ならば、ガソリンスタンドを巡っても徒労で終わるのか。

 路地から足音が聞こえてきた。続いて奇声。ミカエラがライフルの弾を装填し、路地の暗がりに向けて狙いを定めた。

 一体目の感染者は、路地から飛び出して数メートルも走らない内にミカエラの狙撃を眉間に受けて絶命した。だが、二体目、三体目の感染者が飛び出し、ミカエラは銃から顔を離し、マリンを見た。

「やばそうね、一旦逃げてやり過ごすわよ!」

「了解!」

 元来た道を辿り、適当な車の影に隠れた。二体の感染者はそのまま二人が逃げたと思わせた方向へ一心不乱に疾走する。今更ながら、あまりに滑稽で、哀れな姿だ。


「手を上げろ」

 ある意味、感染者よりも恐ろしい声が聞こえた。

 知らない声だった。声の主は小声で、しかし短く命じてきた。

「どうして?」

 今の所、相手は一人だった。マリンは武器を下げたまま、声の主を睨みつけた。

「ここは俺の町だからだ。武器も置いていけ」

 軍用のヘルメットにゴーグル、そしてやはり軍用の防弾ベストを着こんでいるが、身のこなしなどは軍人のそれではない。そう分かるのは、満の動き程しなやかでは無かったからだ。だが、男の気迫はボミットスの連中より遥かに場数を踏んだであろう雰囲気を醸し出していた。

「知らなかったわ。あなたがこの町のオーナーさん?私は昔、テレビ局で働いていたけど、そんな話、聞いた事も無いわね。そんなお金持ちさんにも見えないけど?」

 相手の武器は・・・ライフル、としか分からない。名前も、それが半自動なのか自動なのか、大口径弾なのか小口径弾なのかも自分には分からない。

 ただ一つ確かなのは、相手が上からバリケード越しに見下ろしており、既に自分に狙いを定め、潤沢な装備をしている事。こちらは二人とも銃を下げたままで、無防備に体を晒してしまっている。撃ち合えば確実に二人共殺される。相手はせいぜい、怪我程度で済むだろう。

「お喋りする気分じゃないんだ。生憎、女を抱く気分でも無い。欲しいのは武器だけだ。他の物資は・・・持っていなそうだしな。それで命が助かる。どうだ?」

「その気だったって、抱かせてあげる気も無いけどね」

 内心で歯噛みしながら、マリンはショットガンとミカエラの持つライフルを比べた。

 どちらも捨て難い。だが、ショットガンは強力だが、反動も大きい。そして、ミカエラの狙撃の腕は日に日に増している。満にさえ一目置かれるほどだった。ならば、ミカエラに猟銃を残しておいた方がいいのではないか?

「・・・良いわ。でも、ライフルはダメ。それは私達にも必要なの。代わりにこれをあげる」

―ごめん、満。大切にしていたのにね―

「・・・良いだろう。それで手を打つ。そこに置いて、振り返らずに元来た道へ帰れ。そして二度と戻ってくるな」

 言われた通り、手にしたショットガンを地面に置いた。

 言い様のない悔しさに打ちひしがれながら、何の収穫も得られないまま、二人は無言のまま元来た道を戻るしか無かった。





・・・なんと素晴らしい夢だろうか。

 それが夢だと分かるのは、普段見る悪夢では無いと分かっているからだ。

 白い砂浜。無人島だろうか、周りには人の気配も、建物も、一切無い。南海の植物が覆う自然豊かな島。貸切の砂浜では穏やかな波に白い脚を沈め、あの二人が惜しげもない水着姿で無邪気にボールを追いかけて戯れている。自分はそれを、砂浜のパラソルの下で眺めている。痛い程に冷やした地酒を片手に。

 最高の夢だ。もう、二度と目覚めなくていい。


・・・精神だけはモース硬度十を超える自分でも、流石に今回は現実から逃げたくて仕方ないらしい。目を開けると、枕代わりにしていたアスファルトが涎と血で汚れていた。早く死んでくれと催促しているのか、カラスが二羽、自分から一メートル程離れた路上で首を傾げてこちらを窺っている。

 日の高さからして昼前くらいだろうか。徐々に気温も高くなってきていた。路面から照り返す熱気が次第に不快な熱さへと変わってくる。

 体は思うように動かない。背筋には不快な寒気が染みついているのに、全身の肌は酷く熱い。典型的な感染症状だ。傷口から細菌が入ったのだ。分かってはいたが、酷く苦しい。抗生剤と鎮静剤・・・薬が欲しい。ミカエラが居れば・・・

 それでも耳は、遠くからこちらに迫る異音を捉えていた。

 上体を起こし、音の主が近づくのを待った。

 車だ。それも、トラックの音だ。自分達が乗っていた車と同等だろう。もしや・・・と期待を膨らませかけ、頭を振った。

 そんなに幸運が続く筈も無い。今や、生き残った生存者は略奪者か、それに近い者ばかりだ。親切な人間など真っ先に生贄となっている。

 車の姿が見えてきた。同時に、落胆した。

 期待していないと思っていても、心のどこかではどうしても期待してしまう。彼女らに再会できるのではないか、と。車が満の傍らで停車した。車から人が降りてくる気配。カラスさえも満を見限って飛び去った。

 

「よう?アジアの彼氏?」

 最悪だった。恐らく、これまでの人生で最も。最低最悪の再会だった。



 よりにもよって、世界で一番会いたくない連中との再会だった。

 ボミットスのギャング共は、相変わらずむさ苦しい顔を揃えていた。二台の黒いトラックに十四、五人で乗り込み、その内の三人が降りてきた。

「久しぶりだな。その恰好はどうした?赤ちゃんに戻ったのかな?」

「まぁ、そんな所だ。無駄な質問だろうが、鎮痛剤なんて持ってないか?」

「ああ、勿論。とびっきり良いやつを持っているさ」

 その中でも一人、相応の風格を持った男が現れた。この世界で、まるでギャング映画の中から出てきた”首領”のようにスーツを着込んでいる。とても自分には理解できないセンスだが、これがこの男のポリシーなのだろう。

『こいつがマリンの言っていた、ボスか・・・』

 ボミットスとの一度きりの食糧交渉の際、満は下の階で待たされてボスの顔を見る事は無かった。だが相手は、上の階の窓からこちらを見ていたのかもしれない。

 小太りの男・・・ボスは、路面に這いつくばる満を見下ろしていたが、コートの内ポケットから高級感溢れるウィスキーフラスコを取り出し、満の顔の前に見せつけた。

 酒。

 そう言えば、どのくらいか知れないが、食べ物どころか水も飲んでいない。あの川の水を飲むわけにもいかなかったので、意識が戻ってから文字通り何も口にしていない。

 酒でも、貰えるならばありがたい・・・

 次の瞬間、目の前が真っ暗になり、鼻先からキナ臭い匂いが染み渡った。何が起きたかは見ていなかったが、想像は付く。顔面を蹴られたらしい。

「どうだ?中々いい効き目だろう?」

 血糊が喉に詰まりかけ、情けなく噎せた。周りから男たちの嘲笑が響く。落ち着いた口内から血反吐を吐き捨て、満は表情を変えずに答えた。

「ああ。悪くない」

 酒にありつけないのは心から残念だったが、自分の血で十分だ。

「さて、今度はお前が俺に誠意を示す番だ・・・マリンはどこだ?」

 底冷えするような静かな声が、一瞬だけ川の喧騒を鎮めた。



「・・・見ての通り、捨てられた身だ。行先なんて皆目見当もつかないよ」

「ほう?」

「最後に何て言われたか・・・ああ、そうだ。確かこう言われたっけな。”足もナニも立たないイエローに用は無いわ”ってね。そっちこそ、あのアバズレの居場所を知らないか?」


―すまない、マリン。演技とは言え、許してくれ―


 自分の”演技”は受けたようだ。男たちは腹を抱えて笑った。ボスも哀れみとも蔑みともとれない表情で鼻を鳴らした。

「まぁ、そんな事だろうよ。だが、お前が知った所で、その体じゃそれこそ何もできないだろう?」

 悔し気に俯き、歯噛みする・・・フリをしておいた。

「よくぞ誠意を示してくれたな。お前には・・・前に殺された部下の仇と、哀れな身の上の同情として鉛弾をプレゼントしてやりたい所だが・・・生憎と俺達も物資が豊富じゃないんでな。そこでブッキョーらしく手でも合わせながらクソ犬なりクソ感染者なりの餌になりな」

 ボスは車へと戻った。降りて来ていた二人の男のうち、見覚えのあるあの太めの男が満の元に屈み込んだ。

「どれ、形見代わりに貰っておいてやろうか」

 腰に付けたナイフを奪われた。畜生め。

「履いているのはコンバットブーツだな。一応貰っていくぜ」

 ブーツまで奪っていく。服は生乾きの上に泥臭く、おまけに傷みが激しいため持って行かれなかった。

 ブーツの紐を解く男に仲間が「足ごと切っちまえよ」などと囃すが、「血が付いたら汚いだろう」などと応じていた。

「糞野郎どもが・・・」

 ささやかな命を除いて何もかも奪われ、取り残された満は演技では無く心からの呪いの言葉を呟いた。



 もう、芋虫の様に這いずる気力も体力も無かった。

 目の前を蟻の一行が通り過ぎていく。自分もただの肉塊になれば、この虫の餌になるのだろうか。

 ボミットスのトラックが去って一、二時間ほど経った頃、今度は控えめなエンジン音が聞こえてきた。これもピックアップトラックか。音からすると、かなり古いようだ。エンジン音だけでなく、車体のフレームが歪み、軋む音が混じっている。実家にある、四十年近く使い続けている中古のトラックがそうだったからよく分かる。

 そのトラックも自分の傍らで停車し、誰かが降りてきた。中折れ式の散弾銃だろうか。恐らくシェルを二発分詰め、ラッチを打ち合わせる音が響いた。

「・・・生憎だが、今日は店仕舞いだ。この通り、ろくな持ち物は・・・」

 そこまで減らず口を叩いて、意識が遠のいた。










―暖かい―

 




 そう言えば、まだ二十前の頃は、こうして日がな一日中自室で寝て過ごす事もあったか。早朝起きて、休日だと知って、二度寝したら・・・夕食の時間だった。学生寮での事だが・・・我ながら、勿体なく、贅沢すぎる時間を過ごしていたものだ。

 平和だったな・・・。

 仮に世界が平穏を取り戻しても、自分にはもう永久に帰らない時間だが、愛おしい日々が、俺にも確かに在った。



「坊や」


 暖炉の中で、分厚く割られた薪が火の粉を吐いている。ホテルのベッドとは言わないが、それを思い出させるほどに清潔で、温かい寝床に包まれていた。目の前にはトレイを持った老婆が立っていた。

 これも夢か。しかし、老婆には見覚えが無い。上品な感じのある白髪を肩まで垂らし、高い鼻筋には特徴的なほくろが一つあった。

 実家の婆ちゃんとは大違いだな・・・

 しかし、姿かたちは違っても、祖母が持つ特有の匂いはこの異国でも共通していた。少年少女を甘やかす、甘えたくなる、例えようのない匂いだ。

 トレイからは良い香りが漂っていた。喉を鳴らす。口元を引き結んでいないと、牛のように涎を垂らしてしまいそうだった。

 シチューか?煮込んだ玉ねぎと人参、その時点でも自分の好物だというのに、過酷な世界に身を置いて過敏になった嗅覚には拷問にも近い、肉類の豊潤な香りも漂ってくる。


 酷い夢だ。


 人が腹を空かせているからと言って、こんな残酷な夢を見せるとは。


 大好物の夢を見る事は昔から、ままあった。が、それらを一口でも口に入れた事は、一度も無い。必ず、食べようとすると目が覚めるのだ。

 人の見る夢というものは、科学とかそういうものを超えた・・・神の悪戯、とさえ言えそうな不思議さを感じる。


 しかし、夢にしては鮮明だ。

 手作り感のある木製の家具に鹿の剥製、暖炉に丸太造りの内装・・・絵本か、古典的なRPGにでも出てきそうな家だった。自分はその家のリビングに隣接した一室のベッドに横たわり、傷口には消毒液の匂いが漂うガーゼと包帯で手当てされていた。

 ふと、リビングの椅子に腰掛け、上下二連式の散弾銃を抱えた老人と目が合った。どこか不機嫌そうに、こちらを見張っている。

「ここは?」

 まさか、夢ではないのか?微かな期待を抱きながら、老婆に問い掛けてみた。

「あら、英語を喋れる?良かった、私は外国語を知らないから。でも、夢だと思うなら、自分の頬をつねってごらんなさい?」

 自分は長い夢を見ない。断片的で、刹那的な夢ばかり見る。こんなに長く意識を保った夢など見たことが無い。

「本当だ・・・夢じゃない」

「さて、目が覚めた所でシチューを召し上がれ。ずっとお腹が鳴っていたわよ?」

 目の前に差し出されたシチューを見た途端、忘れかけていた空腹が怒涛の如く押し寄せてきた。

「い、いただきます」

 両手を合わせ、スプーンを取ると、二人の目も気にせずに一気にかき込んでしまった。

 シチューと言っても、日本で食べたものとは味が異なっていた。が、シチューには違わなかった。酷い空腹が調味料になった事もあるが、それを差し引いても美味かった。

「ご馳走様でした」

「お祈りはしないんだな」

 老人が口を開いた。相変わらず、勝手に家に上がってきた犬か猫でも睨むような顔つきだったが、咎めるような口調では無く、異国の習慣を尋ねるような穏やかな口調だった。


「ああ・・・日本では馴染みが無くて」

「スティーブ!いい加減にその物騒な銃を降ろしたら?この子が強盗に見える?こんな大怪我をして、目覚めたら銃を持ったあなたにそんな顔で睨まれていたら、怪我が良くならないわよ」

「・・・用心のためだ、マリア」

「ああ、その、お世話になりました。マリアさん、スティーブさん。ここは・・・」

 どこか、と聞こうと上体を起こしかけた所で、片足に激痛が蘇った。そうか、これも夢では無かったのか。

「ああ、ごめんなさいね。ここはウィルソン農場。で、あの仏頂面のお爺さんがスティーブ。ああ見えても照れ屋で、良い人なのよ。で、私がマリア。よろしく。ええと・・・」

「満です。ミツル・アオイ。この度は危ない所を助けて頂き、どうお礼したら良いものか・・・」

 日本にいた頃とて、ここまで改まって礼をしたことは無い。二人は文字通り、命の恩人だった。助けてくれたのはスティーブだろう。あのまま彼が見捨てるか、通りかからなければ、あのボスの言った通り、今頃は野犬か感染者の腹の中に居ただろう。

「いいのよ、お礼なんて。強いて言うなら・・・そうねぇ、好きなだけここにいて頂戴。スティーブ。彼が若いからって、仕事を手伝わせたらだめよ?」


「当たり前だ、人を奴隷使いのように言うな。片足が折れとったんだ、いくら何でも、仕事なんぞさせん」

 さすがにスティーブは些かムキになったように頬を紅潮させたが、マリアは慣れた様子で宥めた。

「冗談よ。あなたがそんな人じゃない事なんて、百も承知。そういう訳でミツルさん、家と、家の周りは好きに行動していいけれど、恐らく貴方は、当分は杖が無いと身動きできない体よ。無理をすればそれだけ体が元通りになるのも遅くなる。その間、ここでゆっくり体を休めなさい」

 よく見れば、折れた脚にはギプスも施されていた。

「・・・少なくとも一ヶ月はかかる。家畜用だが、悪く思うなよ?」

「貴重な資源を・・・ありがとうございます」

 一ヶ月。その間、自分は何の恩返しもできないまま、ここで療養しているしかないのか。何とも歯がゆかったが、確かに今、自分にできる事などたかが知れていた。

「だが一つ、聞いておきたい。お前の目的は何だ?」

 スティーブは警戒心を顕わに、満の目を覗き込んで問い掛けてきた。

「あんなところで倒れていたんだ。何かしらのトラブルには巻き込まれた筈だ。お前のこれまでの経緯を、包み隠さずに答えろ」

「ちょっと、スティーブ・・・」

「いえ、隠すことはありません。全てお答えします」

 文字通り、満はこれまでに起こった事を全て話した。国が企画する交流研修の最中で感染爆発に巻き込まれた事から、マリンやミカエラと過ごしていた事、そして取引していた悪党どもから追われているという事も話した。

 スティーブは黙って頷いていたが、最後に静かな目で満を見上げると、最後にもう一度、大きく頷いた。


「人は、何人殺した?」

「・・・敵を、ですか?」

「そうだ」

「スティーブ!」

「・・・少なくとも十人。絶命を確認した者に限り、ですが。全て武器を持った敵でした」

「・・・うむ」

スティーブは頷くと、白い毛が多く混じった口髭を揺らしながら続けた。

「これは儂の自論だが、手を汚さずに隣人を見捨てる者よりは、手を汚しても隣人を守ってくれる隣人を大切に。人殺しを讃える訳では無いが、お前さんを・・・信じたい」

「信じてください。決して、後悔だけはさせません」

 マリアも口を閉じ、二人の成り行きを見守っていた。

 スティーブは二呼吸、眼を閉じて黙考していたが、最後にもう一度だけ、首を縦に振った。

「分かった。ここで、骨折が治るまでしっかり休んでいけ」

「本当に・・・本当にありがとうございます」

 満は深々と頭を下げた。残念な事にそれ以外、今の自分にできる礼は何も無かった。


  やはり、一ヶ月という時間は長すぎた。その間、自分は松葉杖に支えられながら農場の中を散策したり、マリアのお喋りに付き合うのが日課だった。何一つ、仕事らしい仕事もできず、毎食、ただ飯を喰らうだけだ。

 また、農場の食事は、量こそ少ないが、野菜も肉もあり、充足していた。はぐれた二人にこそ食べさせてやりたかった。日が暮れ、ポーチから見える景色が暗がりに飲まれていく。今日も、一日が終わった。

 彼女らは無事だろうか。酷い目に遭っていないだろうか。すぐにでも探しに行きたいが、満の脚は言う事を聞かなかった。

 だが、リハビリだけは欠かさず、そして無理をせずに行った。良い手当に良い食事を与えられたお陰か、それとも元来タフな身体のお陰か、三週間を過ぎる頃には杖を使わずに歩ける程度に回復した。スティーブとマリアも驚きを隠せなかったが、二十三日を過ぎる頃にはリハビリを兼ね、農場の仕事を手伝い始めた。スティーブもマリアも「休んでいろ」と断ったが、半ば無理矢理仕事に従事した。

 

「若さがうらやましいよ」

 三十日目の夜、夕食後のポーチで共にウィスキーを傾けながら、スティーブが呟いた。

 薪割り、資材の移動、家周りの力仕事全般。家畜の移動、給餌、除糞。飼料の仕込み作業と搬送、農機具修理の手伝い。そしてマリアが受け持つ家事全般の、ささやかなお手伝い。ここで今、自分にできる事は全て行った。

 だがまだ足りない。暖かい寝床に食事の恩返しも一週間の労働では足りないが、自分は命そのものを救われた身だ・・・ここを去る前に、もう一仕事、彼らの為に何かしなければならない。

 ウィスキーを傾けながら、そんな事を考えている時の事だった。

「年配の方は皆そう言うが、皆さんだって平等にあった時期ですよ」

 満が返すと、スティーブは顔を綻ばせながら笑った。

「確かに!しかしな、やはり目の前でその若者の生命力を見せつけられると、どうしても羨ましくなるものさ。”ああ、俺ももう何十年若ければ・・・”なんてな。お前だって、あと数十年したら儂の気持ちが分かるさ」

「そうかも知れませんな」

 蛙と虫の声が農場のそこかしこから聞こえてくる。牛の鳴き声が一つ、響いた。

「この農場だけ、時が止まったようだ・・・ここには今、確実に平和がある。もう、味わえないと思っていた平和が」

 そう呟きながら、実家を思い出す。せめてあの、故郷の情景だけは今も残っているだろうか。

「・・・ここで住み続けるつもりは無いか?」

 驚いて、スティーブの顔を見返した。と言っても、眼鏡の無いこの目では、彼の詳しい表情までは読み取れなかったが。


「その、本気で仰っているんですか?」

 確かにスティーブは、初めて会った頃よりは会話するようになった。

 彼が根っからの善人である事は、疑いようも無かった。助けても何のメリットも、義理も無い異邦人を助け、こうして無謀にも自分の家に上げて面倒を見てくれている。

「・・・ふん。聞いてみただけだ・・・で、どうなんだ?」

「とてもいい所です。自分の故郷を思い出す。牛は飼っていませんが、実家の近くに牧場がありましてね。柵の外から物音を立てると、放牧中の牛達が興味深そうに寄ってきて・・・すみません。とても素晴らしい所ですが、俺は彼女らを探しに行かねばなりません」

「・・・そう言うと思った。笑顔でイエスと答えたら、今すぐ放り出してやるつもりだったんだが」

 冗談とも本気ともとれない口調で、スティーブは暗闇に飲まれた牧場の丘に目をやっている。

「お前なぞ居らんでも、今まで儂はこの農場を一人で・・・あの女房と二人で切り盛りしてきた。つまらん心配はしないで、脚に痛みが無くなったら、すぐにでも出ていけ」

 スティーブは飲みかけのウィスキーを手摺に置くと、椅子から立ち上がって家の中に入ってしまった。それとすれ違うように、マリアが困ったような苦笑を浮かべながら家から出てきた。


「まったく、意地っ張りなんだから。ごめんなさいね、あの人、素直じゃないのよ。私にだってそう」

 そう満に謝りながらマリアはチェアに腰掛けた。

「よくわかります。俺の祖父や親父がそうでしたから」

「それに比べてあなたは随分落ち着いているのね。あなたの方がお爺さんみたい」

「日本にいた頃、よく言われました」

「私達のカイルは活発過ぎるくらいだったけどね。たまに帰ってきても、夜になると若い子たちとよく遊びに出かけたもんだわ」

「カイル?お子さんが?」

 暗闇の中、マリアの表情が少しだけ陰った。しまった、と思った時にはマリアが口を開いていた。

「息子がね。もうずっと昔の話。世界がおかしくなる五年くらい前だから、もう十年にはなるのかしら。海軍に勤めていたわ。船乗りじゃなかったみたいだけど」

 虫の音が響く。口の中に残ったウィスキーがとてつもなく苦く感じられた。

「ある日、いつものように友達と遊びに出かけた先で乱射事件に巻き込まれて、店に居た客を庇って撃たれてしまった。悪戯好きで忙しない子だったけど、昔から本当にいい子だった。生きてれば・・・まぁ、あなたより一回りも年上でしょうけど、きっと仲良くなれたと思うわ」

「それは・・・お気の毒です」

「ありがとう。でも、きっとそんな事もあったから彼はあなたを放っておけなかったのよ」


 もしかしたら、スティーブは自分に亡くなった息子の姿を重ねていたのだろうか。自分が一人前の軍人だとは思えないが、軍人であったカイルの持つ雰囲気に似たものを、自分も持っていたのかもしれない。

「正真正銘の軍人だったのですね」

「・・・さて、今日はそのくらいにして、もう寝た方が良いわ。きっと明日は忙しくなるでしょうから」

「そうですね。明日は何の作業を行うか・・・牛の世話かな」

 マリアに促され、寝室へと戻った。その途中にある部屋のドアの隙間からランプの灯りが漏れていた。夫婦の寝室と繋がるスティーブの書斎だった。つい先週、中を見せてもらったが、農業書や機械整備の専門書、小説などが所狭しと本棚に詰め込まれ、骨董品じみた無線機まであった。テレビが無くなった今、夜はここでラジオで他者との交信を試みたり、本を読んで寝るまでの時間を潰すのが彼の日課なのだとマリアが教えてくれた。

「おやすみなさい」

 いつものようにドアへ向かって就寝の挨拶をするが、いつものように返事は無かった。それが彼なりの返事なのだと、マリアは呆れていた。

 部屋の前を立ち去り、与えられた部屋のベッドに潜り込む。寝袋とは比べ物にならない寝心地の良さと作業での疲労もあり、すぐに眠気に包まれた。

 亡くなってしまった息子の話と、あのスティーブの横顔が頭に残って消えない。

 自分にも父親が居た。短気で粗暴、わがままで意地っ張りと短所の多い父親だったが、家族を第一に考えて過酷な百姓を営んできた、良き父であった。

 自分もやはり、スティーブに自分の父を重ねていたのかもしれない。少なくとも今は、自分の第二の父だと思っている。

 

「いつまで寝とる。早く起きんか」

 不愛想な声に起こされ、満は布団から飛び起きた。まだ日の光が庭先の木々を照らし始めたばかりだが、農家・・・とりわけ農家の老人たちの朝は早い。

 だがこれまで、スティーブは満を起こしに来る事はなかった。うっかりしていると陽が高くなるまで寝過ごしてしまうこともあったが、スティーブは何も言わなかった。足の事があるとはいえ、一度も仕事を強いる事はなかった。

「おはようございます」

「ついて来い」

 部屋を出ると、それまで案内されたことの無かった部屋へと向かっていく。

スティーブがドアを開けると、その中を一目見てここが誰の部屋かすぐに理解できた。ビニールを掛けられた白い制服に制帽。海軍の正装だ。

 スティーブは壁に掛けられた制服に向っていき、その脚元にあるいくつかの保管ケースを一つずつ開けていった。

「サイズが合えばいいがな・・・」

そう言いながら男物の衣服を一つずつベッドの上に並べていった。

「試しに着てみろ」

「しかしこれは・・・」

「つべこべ言うな」

 自分が好んで着用するカーゴパンツをはじめ、実用的な衣服が多かった。スティーブに促され、それを次々試着してみる。多少、だぶつくが、どうにでもなる範囲内だった。沖縄土産か、「島人」とプリントされたTシャツもあったが、それは遠慮しておく。

「ふん・・・良さそうだな」

 次のケースからは軍用ブーツを取り出した。これも多少余裕があるが、贅沢な代物だ。

「さて・・・最後だな」

 一番頑丈そうなアルミ製のケースから取り出したものを、満に押し付けてきた。碇のマークが刻印された、使い込まれた軍用拳銃と、大振りなナイフ。最早返す言葉も無く立ち尽くしている満を尻目に、スティーブは手慣れた様子でマガジンに弾を詰め終え、満に渡した。

「ほれ、弾だ。予備は無いぞ」

「あ、有難いのですが、こんな大事な物を全部貰う訳には」

「拳銃は使わん。それに喜んでいる場合じゃないぞ。お前は今日、ここから放り出されるんだからな」

 やはり近くにあったバックパックを拾い上げ、その中に衣服を詰め込むよう促された。満が言われた通りにしていると、スティーブは部屋を出て行く。

「終わったらリビングに来い」

「はい!」

『すまないが、ありがたく使わせてもらうぞ、カイルさん』

 制服に向って目礼し、部屋を後にする。

 リビングではスティーブが地図をテーブルの上に広げて待っていた。キッチンにはマリアが立ち、何やら香ばしい匂いが鼻孔を刺激した。

「まぁ座れ。目が悪いままじゃどうにもならんだろう。ここから車を一時間飛ばした所に大きな病院がある。その近くには町もあるから、そこで何か探してみるのがいいだろう」


「仰る通りです。しかし、そこまでしてもらう訳にはいきません。そこまで歩いていきます」

「馬鹿もん、車で一時間の距離だ。歩けば時間を無駄にする。歩かせてもいいが、そんな事をすればアレにまた睨まれる」

 苦々しい表情のスティーブが顎でマリアの背中を示した。

「はは・・・そうかもしれませんね」

 そのマリアが調理を終え、サンドイッチを乗せた皿を運んできてくれた。

「ああ、おはよう、満さん。朝食をどうぞ。今日はこのむっつり顔のお爺さんとドライブだけれど、我慢してね」

「とんでもない。出発の手助けまでして頂いて、なんとお礼を言ったものか」

「お礼なんて言ってもこの人、またひねくれた事ばかり言うからいいわよ。でも、心では分かっているわ」

「・・・ふん」

 それから三人で朝食を摂った。朝食を終えると、別れを惜しむ間もなく出発の支度を整える。わざわざ普段より早めに用意をしてくれたのも、明るい内に少しでも動けるように、という夫婦の計らいだ。

「これは今日のお弁当。他に干し肉とパン、棚にあったクラッカー、それから自家製のドライフルーツ。あと缶詰も持っていきなさい。まだ色々あるのだけれど・・・」

 マリアは満のバックパックが十二分に膨らむまで食糧を詰め込んでいく。本当に実家の祖母を彷彿とさせる姿だった。

「気持ちは分からんでも無いが、そんなに詰め込んでも歩く時に負担になるだろう」

「食べれば軽くなるでしょう。それか、余裕があれば市街にあったあの自動車修理工場に行けば、何かあるんじゃないの?」

「ふん、それもそうだな・・・準備は良いか?」

「はい」


 スティーブの愛車である、古めかしいセダンに乗り込む。車には詳しく無いが、昔の洋画に出てくるような年代物であろうことは理解できた。

 燃料も限られた世界だが、ベティの家でもそうだったように、この国の大農家は自家に各種燃料を充分に貯蔵してある。燃料自体が変質さえしなければ、節約すれば暫くの間は困らない。

「どうか・・・気を付けてね。ガールフレンド達を見つけたら、またここへ皆で戻っていらっしゃい」

 玄関先まで見送りに来てくれたマリアとハグを交わす。母国では祖母を相手にハグなど考えたことも無かった。その習慣が無かったこともあるが、今となっては、もしも祖母や祖国の人々に会えるのならば、思い切り抱きしめ合いたいものだ。

 

 この祖母を思わせる老婦人にも、二度と会えないかもしれない。

 

 皺くちゃで細くて、その分愛おしい背中を抱きしめる。

「・・・こんなに良くしてもらって、ありがとうございました。行ってきます。約束はできないけれど、きっとまたここへ戻ってきます」

 別れを惜しみながらもマリアから離れる。

 助手席に乗り込むと、既に運転席で待っていたスティーブがエンジンを始動し、ギアを操作した。

 ゆっくりと農場が遠ざかっていく。

 奇跡的に・・・否、奇跡によってようやく出逢えた安息の場所だった。



 一時間も車に揺られていると、なだらかな丘の上から大きな病院が覗き込んできた。

「あれが市の総合病院だ。異変が起きてから入った事は無いが・・・」

「確かに大きいな・・・」

 前にミカエラの先導で潜入した病院を思い出した。あの病院よりも規模は大きく見える。あの時、三人もいてあれだけ死ぬ思いをしたのに、果たして無事に生還できるのか。

 スティーブの車が病院前の駐車場に滑り込んだ。広大な駐車場であったが、大量の廃車が出入り口前に殺到し、駐車場自体もスティーブの車でこれ以上進むのは困難な状態になっていた。押しかけてきた膨大な人々による駐車場内での混乱が、そのまま残されていた。

風雨で汚れたテディベアを尻目に、満は助手席のドアを開けた。

「内部の様子を探ってきます」

「くれぐれも気をつけてな」

「あまり長い間戻らなかったら、決して探しに来ないで帰って下さい」

「馬鹿を言うな!」

 ドアを閉め、迷路を形作ったような車両群をすり抜けていく。警戒しながら通りがかりに車内を覗くが、目につくのは損傷の激しい死体ばかりだった。

 割れた正面玄関のガラス扉が見える頃には、何故か横倒しになった救急車も見えてきた。一応中を覗いてみるが、緊急治療用の薬瓶は殆どが割れていた。やっと玄関前に辿り着き、割れた扉の隙間から内部を覗くと、予想通り酷い有様だった。

 一見すると静かな廃病院のロビーだが、よく耳を凝らすと衣擦れの音、小さく喉を鳴らすような声が方々から聞こえてくる。ロビーだけでも少なくとも数十体は潜んでいるだろう。

 だが、ここは荒らされた形跡がない。略奪者さえ危険と判断して近づかなかったのだろう。ならば物資は充分に残されている。

 市街の商店に行ったとして、専門店を見つけられるかも分からないし、そこで眼鏡が見つかるとは限らない。その点ここは病院。眼科さえあれば、可能性はある。

 音を立てずに中へ踏み込む。武器は十五発フル装填の拳銃とナイフのみ。

『前の病院がイージーモードに思えるな・・・』

 病院の規模からして前の病院以上の感染者が居るのは想像に難しくない。


 足音を抑えて物陰を進む。せめてもの救いか、どの感染者も腐敗が進んで動きは遅い。自分の目指す眼科までのルート上に大群が居なければ辿り着ける。曲がり角に居た感染者に忍び寄り、ナイフで仕留めた。

 幸いにも、大群に遭遇することなく眼科まで辿り着けた。あとは自分に使えそうな眼鏡と、念の為にコンタクトレンズを二箱回収した。

 最も度数が近い物でも、前ほど完全な視界は得られなかった。が、それでも遥かにマシになった。

 目当ての品を漁っていると、不意に別の気配を感じた。感染者では無いとすぐに分かった。あまりにも足音が軽く、隠密性が高すぎる。平穏な世界を過ごしていた頃の自分なら、確実に聞き落としていた。


 こんな隠形の技を為せるのは、一流の特殊部隊員か…肉食動物だけだ。


 背筋に悪寒を感じ、本能的に目だけで振り返った。部屋の出入り口にひょこり、とクリーム色の生き物が顔を出してきた。

 初めて見た感想を言えば、猫のようだった。ただ、猫と違うのはあまりに大きすぎるという事だ。かわいい、よりも、原始的な恐怖を感じた。

 まずい・・・

 チーターではあるまい。ピューマと言ったか。とても、ナイフ一本で対処できる手合いではなく、できれば相手にしたくも無いのだが、相手は違うらしい。

 ピューマは目をぎらつかせながら、慎重な足取りで病室内に入り込んできた。その口元はどす黒い血液で汚れ切っている。鈍い感染者を食らってきたのだろうが、人間以外の動物・・・少なくともヒト以外の哺乳類には感染しないのか。偶々ここへ入り込んできただけなのか。いずれにせよ、喰われるのも嫌だが、その汚染された牙や爪で怪我を負わされる訳にも行かない。


戦うか・・・?

 背を向ければ餌食になるのは目に見えている。しかし所詮、文明の利器にあやかってきた人間が、ナイフと拳銃程度で獰猛な野生動物に敵う筈が無い。

実際に肉食動物を目の前にして、その迫力に怖気づいたという事もあるが、傷つけられるだけで感染するリスクさえある。

 距離は四メートルほど。ピューマの目を見据えたまま、思い付いた方法を試そうとバックパックを降ろした。

 マリアが持たせてくれた干し肉を取り上げ、ピューマと自分との中間に放った。上手くいく保障など無かったが、他に手は無かった。銃声は余計な敵まで引き付ける。

「・・・」

 ピューマの注意は一瞬だけ満から逸れ、その肉塊に視線をやった。それから満と干し肉とを忙しなく視線を移していたが、鼻を動かしたかと思うと、眼にも止まらぬ速さで干し肉を咥え、こちらを警戒したまま大人しく病室から去っていった。

『命拾いした・・・』

 マリアが干し肉を入れてくれなければこうは行かなかっただろう。

 新手が来てはたまらないとバックパックを背負い直し、元来た道を急いだ。





「・・・よいしょっ」

 充分に膨らんだバックパックを背負い、立ち上がる。先の見えない道路が一直線に続き、左手には緑の生い茂ったなだらかな岩山が続き、右手には荒れたトウモロコシ畑が広がっている。空は一面真っ青に晴れ渡り、雲も殆ど見当たらない。

 しかし、胸の内はこの空模様と些か異なっていた。

「ここからは歩きか・・・」

 ミカエラが未練も露にトラックを見て呟いた。そう言えば、このトラックは満とミカエラで命からがら見つけてきた貴重な車だった。しかし、とうとう補給できず、燃料切れで立ち往生してしまった。ここまでだ。

 トラックの中には満のバックパックと衣類、そして持ち切れなかった食料が残されている。車体に立て掛けていたライフルを取り上げて背負い、ミカエラがマリンを振り返った。

「これからどうするの?」

「道に沿って行けばどこかしらの町に着くわ。そこが良い所かどうかは分からないけど」

 とりあえず、温和なグループに落ち着きたい。その後の事はそれから考えられるが今はまず、その場所を探さねば始まらない。

 もしかしたらそんなものはもう、どこにも無いのかもしれないが・・・

「了解」

 二人並んで歩きだす。勿論、道路沿いを行くという事はリスクも多分に含むことは承知の上だ。 

 調達に訪れた町を縄張りにしていたあの男に散弾銃を取り上げられてしまったのは痛かった。散弾銃があれば、こうした開けた場所では有利な切り札になった筈なのに・・・しかし、その分荷物が少なくなったという利点もある。それに、前にショットガンを撃った時は、肩が外れたかと思う程痛かったので、あまり使いたい代物でも無かった。


 ミカエラは時折、ライフルのスコープを覗いて遠方を警戒しているが、これだけ長閑な光景が広がっているとつい、ピクニック日和だと思ってしまう。

「ピクニックだったら良いけれどね」

 ミカエラにそう切り出され、内心でどきりとしながら取り繕う。

「そうね。風も穏やかで、今なら気温も丁度いいわ」

「サンドイッチでも作りたいな。今ある保存食じゃ、鹿肉のクラッカーサンドしかできなそうね」

「シッ・・・待って、何か聞こえない?」

「え・・・」

 澄んだ空気の中、明らかに自然の音とは違う物音が山肌に反響して聞こえてきた。聞き間違いではないと確信を持てた。ウサギのように耳を澄ませて物音を探っていたミカエラも気付き、困惑も露な表情でこちらを見上げた。

「ど、どうする?」

「取り合えずトウモロコシ畑に紛れ込んで、様子を見ましょう」

 枯れたトウモロコシを掻き分け、枝葉の影から音のする方向を探った。

 もしかしたら満かもしれない・・・そんな期待を排除しきれずにいた。程なくして、車の姿が見えた。

 車は自分達が乗り捨ててきたトラックに並ぶところで停車した。二台目の車が現れた。どちらも黒いトラックで、最初に停車したトラックにも、二台目のトラックにも大勢の男が乗り込んでいた。男達は車を降り、乗り捨てた車を取り囲んで物色し始めた。

「さ、最悪・・・」

「どうしたの?あの人達はなに?」

 一キロ以上もの距離があり、顔を確認することもできなかったが、するまでも無かった。上手くは説明できなかったが、どの人影も満の独特な動き方とは明らかに違ったからだ。それに、大人数の男には心当たりがある。

「町を出る時、あなたも襲われたでしょう?多分・・・ボミットスの連中だと思う」

「あの、撃ってきた奴ら?」

「ええ・・・捕まったら、私達なんて殺されるだけじゃ済まないわ」

「・・・」

「絶対に見つからないよう、もう少し畑の奥まで下がってやり過ごそう。あいつらも、まさかこの広い場所を虱潰しに探してはいかないだろうし」

「うん、私もそれが良いと思う」



「ボス!こいつは妙だぜ?」

「見りゃ分かる」

 俺の部下には馬鹿しかいないのか、と”ボス”は内心で溜息を吐いた。

 どいつもこいつも凶暴で、銃の扱いもそこそこ上手いが、如何せん頭が悪い。あの街では調達に兵隊を送る度、必ずと言っていい程その二、三割がヤツらのお仲間か肉片になった。

 その点、あのマリンとその仲間達は最高だった。この世界で肝心な弾と武器をたっぷりと持ってきてくれた。

 しかし逃げた。俺も馬鹿だったが、今にして思えば、仲間の方は殆ど死んでいたのだろう。こうなるくらいならあの最後に弾と武器を持ってきた時、あの鼠のような男を殺してから徹底的にヤッてしまえば良かった。

 しかしその男もマリンにボロ布のように棄てられていて、全くいいザマだ。

アレは久々に溜飲の下りるショーだった。そこへコレだ。

「それにこの車・・・お前らは見覚えがねぇか?」

「あるぜ。こいつはチャイナの車でたしかトヨタ・・・」

「馬鹿!そんな事じゃない!あのクソ街を逃げて行ったマリンの車だ!」

 泣きたくなる。こいつら、俺が居なければ今頃全員仲良く死体かゾンビのどちらかだ。オツムに至っては既にゾンビの仲間レベルだ。

「しかも見ろ、物資や食料まで残されているぞ。車内にも埃が積もっていねぇ。つまり、あの腐れアマは近くにいるだろう」

 ボスはゆっくりと車から離れると、懐から最後の一本を取り出して火を点けた。手下の木偶の棒たちが見守る中、頭に上りかけた血液を一旦凍らせ、少しだけ考えてみた。

 あの女を探すか・・・?

 だが、手持ちの”駒”は左右は見えても正面が見えない、正真正銘のポーンばかり。それが十数人居た所で、それを分散させるリスクの方が高すぎる。

 

 息を殺し、成り行きを見守った。これだけ遮蔽物に恵まれた状況であのノロマな連中を振り切れないとは思わなかったが、万一見つかれば命は無い。連中はこちらとは比較にならない程の武器を備えているのだ。

 その連中が車の中にあった満の衣服と余りの食料を回収して車に乗り込み、自分達の目の前を通過していった時、マリンとミカエラは心の底から安堵の溜息を吐いた。

「何とかなったわね・・・」

「ねぇ、あの人たち、何でこんなにしつこいの?確かに私達は彼らの仲間を殺したかもしれないけれど、あの時先に撃ってきたのは向こうでしょ?」

 ミカエラの疑問はもっともだ。彼女は奴らに一度も会っていないから。

「さぁ・・・ま、ある意味では私が悪いのかも。それより、今日の宿を探さないとね。もう車中泊すら保証されないんだし」

 ミカエラは納得しきった訳では無かっただろうが、これ以上無駄口を叩く気は無かった。よりにもよって、あの野蛮な連中が車を乗り回して自分を追ってきている。これまでにない恐怖を胸元に押し付けられ、先を行くマリンの表情は曇った。





「こんな所でいいのか?」

 しかし晴れ渡った空だ。こんな日には視界一杯の緑が広がる丘へピクニックにでも繰り出したいものだと、満は心から思った。

 ・・・結局、そんな経験は一度も無いままだったが。

「何から何まで御世話になりました。こんな所まで甘えてしまって、すみませんでした」

「・・・お前達日本人は謝るのが好きなのか?この国じゃ、こういう時はせいぜい”ありがとう”くらいでさっさと行っちまうもんだ」

「異国の地でも母国の習慣は忘れられないものです・・・永遠に。それは日本人に限った事ではない、万国共通の、人間の性ですよ」

 俺は恐らくそれを理解し、自覚している。だからこそ、こんな異常事態に遭遇して、孤立無援になった時も正気を失わずにいられた。それが唯一にして最大の心の支えだったから。

「ふん、生意気を言う・・・体に気を付けろよ。儂が死んでも女房は泣かないが、お前が死ねば泣くからな」

 最後まで素直じゃない人だ・・・

 別れは惜しいが、満はスティーブに向き直った。

「ありがとうございました」

 足を揃え、深々とお辞儀をした。格好良く敬礼で決めたかったが、慣れない仕草より、良く知った祖国の仕草で最大の感謝を表したかった。

「・・・気が向いたら戻ってこい」

 エンジン音が遠ざかっていく。ここからは本当に一人なのだと、改めて気を引き締め直した。


 「とりあえず、道沿いに行ってみるか・・・」

 二人と別れて一ヶ月以上が経つ。自分が滑り降りた崖まで戻るのが一番地道ながら確実な手順だっただろうが、それを踏まえるにはあまりにも自分が非力過ぎた。そこまでスティーブ達の力に甘える訳には行かない。

 それに、あの二人は自分が思っているより強い女性達だ。こんな危険な世界で、帰ってくる筈の無い男をいつまでも崖の上で待ち続ける愚行は取らない筈だ。

 となれば、先へ進むしかない。

 気掛かりなのはあの、ボミットスの連中がマリンを付け狙っていた事だ。そして、今度こそは自分の顔もしっかりと覚えられただろう。次に遭遇してしまえば命はない。拳銃一つで太刀打ちできる相手でもない。なにより、あんな連中とマリン達が鉢合わせた時の事を考えると、気が狂いそうになる。

 農場ではそんな嫌な夢も見た。

 地図を開くと、これから向かうべき方角に町がある事が記されていた。そこにはマリアの字で『危険かも!できれば無闇に近づかないで!』という字の上に、更にスティーブの雑多な字で『異変後に訪れたことは無いが、ペッパーだかラッパーだかを狂信する連中が多かった町だ、気を付けろ』と書かれていた。

「ペッパー?ラッパー?」

 何の事だろうかと訝しみながら足を踏み出した。


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