逃走
深夜になり、当番が回ってきたミカエラが見回りに出た。部屋から出て、満の打ち付けた扉に異常がないか確認して部屋に戻るだけだが、この貸し倉庫は他に出口が無い為、玄関の扉を突破されたら逃げ場が無い。その為、夜中も交代で見回りを行う事にした。一時間に一度、玄関と外の様子を確認してから部屋に戻るだけだが、その廊下を行き来する間も猛烈な寒気に見舞われる。
「よし」
ミカエラは扉の前に立ち、動かされた様子が無い事を確認し、それから扉に近付いて外の様子を覗った。斧で抉られた扉の隙間からは更に凍えそうな寒気が吹きこんで来る。その冷気を頬に受けながら、外の様子を覗った。
まだ暗い。一体の感染者が遠くに去っていくのが薄らと見える以外、何も見えない。吹雪も収まりつつあった。
「良い感じね」
幸先の良さに笑みを浮かべ、ミカエラは倉庫に戻った。
部屋に戻ると、満は床に寝袋を敷いて、マリンは子供用のベッドで寝息を立てていた。ミカエラはその間にあるソファに体を預け、三重の毛布に包まって目を瞑った。下には満の頑丈な胸板があるので、落ちても怪我をする心配は殆ど無い。それに、比較的落ち着いた寝相が自分の長所でもある。ベッドで寝ているマリンは悪い夢でも見ているのか、時折魘されながら寝返りを打っている。床で寝る満は時折寝返りを打つが、魘されている様子はない。それでも本人曰く、昔から良い夢を見る事は年に一、二度あれば良い方なのだとか。
自分とて、あの病院で焼き付けられた光景が何度も夢に出て、一時期は精神安定剤に頼っていた。
ミカエラは天井を見上げつつ、寝てしまわないよう、火を細めたランタンを近くのテーブルの上に置いた。ちょっとした熱源にもなる。
ただ起きているのも退屈なので、倉庫で見つけたコミックを開いた。見た事も無く、何故か続いた巻が無い為途切れ途切れの話しか分からないが、それでも無いよりマシだった。
やがて、続きが気になるラストを読み終え、満の持つ時計を確認した。
「満、起きて」
「お・・・う」
心地良い眠りから起こされた満は、寝ぼけながら寝床から上体を起こし、目元を擦った。
「一時間経ったわ」
「俺で最後か」
「外はだいぶ明るくなってきたし、そうなるわね」
「お疲れ、あと一時間、ゆっくり休んでくれ」
ミカエラの肩を叩き、満はショットガンを片手に起き上って部屋を出た。そして二回目の見回りに向かい、何も異常が無い事を確認してから部屋に戻った。
部屋に戻るとミカエラはまだ起きており、コミックを読み続けていた。
「寝ないのか?」
「何だか目が覚めちゃったみたい」
「二回も寝起きしたからな・・・マリンは気持ちよく寝ているようだが」
「疲れているんだもの、当然よ」
「そうだな。起こさないようにしよう。なにせ俺達のボスなんだから」
「ふふ、随分可愛いボスね」
「全くだ」
小声で昔話を語り合う内に夜は更けていった。マリンが目を覚ますのに合わせ、三人は朝食を取って外の様子を覗いに玄関へと向かった。相変わらず寒風が吹きこんでいるものの、猛吹雪という訳でもない。
「このくらいなら充分行けるな。朝食を取ったら早速出発しよう」
「賛成。どうせここにはこれ以上食料も無いから長居出来ないし」
雪が頬を撫でる。帰路は思ったより過酷な道だった。昨日から降り続いた雪が積もり、思い通りに動かない台車は満の腕を疲弊させた。
重い。ただただ、重い。しかしその苦痛を、満を心配してくれる二人の前で見せる訳には行かないと必死に堪えた。
ただ、これといった坂が無い事だけがせめてもの救いだった。天候も程良く雪が降り続けているので、感染者や略奪者が居ても音が響きにくく、視界も悪い為、戦闘を最小限に抑えてくれるかもしれない。その代り、こちらも相手を察知し難いので、不測の遭遇時には戦闘は不可避だ。
当然、身動きも取れず、疲弊しきっている満は事実上の戦力外となり、戦闘はミカエラとマリンに託される。守りが極めて手薄なこの状況が、家に到着するまで続く。天候が味方しているとはいえ、それを思うと一同の不安は拭い切れない物があった。
前を歩くミカエラが常に周囲に視線を動かして警戒し、後方にも注意を配るマリンが後尾に付く。建物が影になって雪が当たらない場所を見つけ次第、随時休憩に入った。冷水はあまり飲みたくないが、脱水しないように水の入った水筒を回して飲み、水分も補給した。
幸運にも、半分以上の道を進んでも敵と遭遇する事は無かった。ただ、天候は晴れつつある。晴天になれば、日光を求めて感染者が屋内から出てくる可能性もある。雪による目隠しが無くなり、敵との遭遇率も高まる危険がある。貴重な晴れ間に活動する略奪者が近くにいるかもしれない。現に自分達が外にいるように。
「そろそろ行こうか」
「そうね。でも満は大丈夫?」
「ああ、平気だ」
満は平静を努めたが、その疲弊は二人が見ても明かであった。かと言ってここで休み続けていて状況が良くなる訳でも無く、むしろ危険だ。役割を代わる事も出来ない以上、満には進んでもらうしかない。二人はそれぞれの銃を握り締め、再び満の前後を守った。
幸運も長くは続かなかった。二人が警戒していたにも関わらず、その監視の隙を突いて感染者が突進してきた。当然、その三人の中では最も物音を立てる満に向かってくる。
「頼むぞ!」
満の役目は一刻も早く家に辿り着く事。自分がもたもたしていては二人にも戦闘を強いる事になってしまう。
「私が!」
マリンがショットガンを構え、感染者を狙った。満まで十数メートルと言う所で敵の頭部に散弾が命中した。
その感染者が倒れると同時に、別の方向から新たな感染者が走り出て来た。今度はミカエラが持っていたライフルで咄嗟に応戦し、胴体に命中させた。無論それは動きを鈍らせるだけに留まり、今度はミカエラに向かって突進してきた。ミカエラが怯み、持ち替えようとした拳銃を取り落した。
「嘘ッ!」
感染者がミカエラに組み付こうとした。咄嗟にマリンが感染者の背後から羽がい絞めにして引き離そうとするが、感染者はマリンにも噛みつこうと暴れる。流石に大人の女二人がかりならば力負けする事無く押し返し、マリンが押さえつけている間にミカエラがナイフを側頭部に突き立てて始末した。
「二人とも無事かっ?」
「何とか!」
雪は完全に晴れ、暖かな陽光が照りはじめた。もう自分達を守る目隠しは無い。銃声も立ててしまった以上、最低でももう一戦は交え無ければならないだろう。
その一戦が人間相手で無い事を、満は強く願った。
なだらかな坂道に差し掛かる。ここが最後の難関だが、ここを通過すれば家までは近い。満は肩で息をしながら台車を押して坂を登り始めた。ミカエラとマリンも手伝いたそうにしてくれていたが、それは気持ちだけで充分に力となった。
むしろ、銃声を立てた上での見張りの方がリスクは高い。銃声を聞きつけた感染者が居る筈だ。一刻も早くここを通り抜け、二人を家に辿り着かせたい。感覚が無くなりつつある両腕と足腰を気合いと根性だけで動かし続ける。雪が解けつつある事だけが、唯一の救いだった。
だが、悪い予感は見事に的中してしまう。坂の上にある左右の建物から感染者が外に出て来た。日を浴びようとしていたのか、その動作は緩慢だったが、坂を上っている満達を見つけた一体が興奮しながら叫び声を上げて駆けだし、他の感染者もそれに釣られて満達を視認した。数は五体。これでも少ない方だ。
「畜生!」
流石に二人だけでは危険すぎる。満は坂の途中で台車を手放すか逡巡したが、台車に積んでいた農具を車輪止め代わりにタイヤに噛ませ、自らも鉈と拳銃を抜いて構えた。
ただ、いつものように敵に突進する気力は出ない。いくら体に命令しても、体がまともに動かないのだ。自分に向かって来る敵を迎え討つ程度の余裕しか無かった。
「二人とも、自分の身を守れ!絶対に捕まるな!弾も必要なだけ使え!」
二人に呼びかける最中に掴みかかってきた感染者を、鉈で切り払う。ミカエラに向かって走る感染者の足元に二発撃ちこんで転倒させ、マリンに迫る感染者の頭部に二発撃って仕留める。二人も奮戦し、それぞれ一体ずつ始末した。残る二体が満に向かってくるが、このうちの一体と満が揉み合いになった。
「くそ!」
普段なら力で押し返すどころか押さえつけてしまえるのだが、今は押し返す事すら困難だった。その醜悪な歯が並ぶ大口が肩口に迫って来ても、腕に力が入らない。徐々に歯が近付いて来る。どうにもならない、とはこういう事かと思い知らされる。
「満!」
「やばい・・・」
二人は直ぐに助けに行けなかった。他の建物からも日を浴びに表へ出て来た感染者が次々と現れたからだ。
「待っていて、すぐ行く!」
ミカエラがナイフを抜き、満に迫る感染者に肉薄した。ナイフを後頭部に突き刺そうとした瞬間、感染者がミカエラに振り返って大口を開けた。
血が飛び散った。
「ミカエラ!」
手を噛まれたように見えた。満が大急ぎでミカエラの手を確認した。
「危なかった・・・だ、大丈夫!」
「良かった・・・お前さんは俺の心臓を止めたいのか?」
本人の言う通り、無傷だった。手に返り血が付いている物の、そこに傷は無かった。昨日の怪我とも離れた部位だ。
「良かった・・・いや、まずいな」
感染者の数は増えていた。しかも、何体かはこちらに気付いてしまった。
「満・・・残念だけど、ここまでね」
マリンが名残惜しそうに台車を見る。
「ああ・・・すまない。それしかないようだ」
「誰も悪くないわ。ただ、運が悪かった。嘆いている暇なんて無いわ、行くわよ!」
台車に積んだ荷物を、各自で持てる物だけ持ってその場を離れる事にした。マリンが満にショットガンを返し、別の路地へと逃げ込んだ。ミカエラと満がそれに続く。
「こっちが近道!すぐに家に辿り着ける!」
多大な苦労が水の泡になってしまった。遠のいていく台車を尻目に、満は打ちひしがれながら晴天の空を仰いで走った。
「何とかなるわよ。命があってこそなんだから」
「運が良ければ、またあの場所に戻っても台車があるかも」
気を落とす満を励ましながら一向は家に入った。ミカエラは周辺に他の足跡が無いか確認して見回り、それでもバックパックに詰めた小物類を満が仕分けした。
「工具類は幾らか手に入れたから、チェーンで封鎖されている所にも侵入できるようになったな。まぁ、チェーンで封鎖されるような場所はろくな所では無いだろうが」
「電池もね。テントをバックパックに結び付けて置いたのは正解だったわね」
「ああ、春の移動に欠かせないからな」
そこへ玄関からミカエラが戻ってきた。
「外には異常なかった。暖かくなってきたわね」
「折角だから、今の内にカーテンを開けて布団を温めておこうかしらね」
台車を喪失した事もそれ以上気にすることなく、それぞれがやるべき事を果たして過ごした。満もそれ以上考えるのが無意味だと気付き、春の移動について考えた。ミカエラの恋人が住んでいたという隣の州への移動は、現時点では徒歩でしか実行できない。
次は、移動手段が必要だ。
車自体は道端に幾らでも転がっている。だが、その殆どは動かせない物、燃料が入っていない物ばかりだ。それでも燃料だけは残っている車を見つけ次第、ガソリンを抜いて集めておいたのでガソリンはジェリ缶一つ分溜まっていた。
夕食時、三人で食事を食べながら満はマリンに車について訊ねてみた。
「マリン、この辺に動く車は無いのか?」
マリンは暫く考え込んだが、苦い表情を見せた。
「当てになりそうなものは無いわね。動く物があったとしたら、それはボミットスの連中に押さえられているでしょうね」
「ボミットス?」
「それは地名だけど、この辺を仕切っている略奪者達よ。今の所、私達はビジネスの関係で付き合っているけど」
「じゃあ一応、話はできる相手なのね?」
「ただし、こちらにまだ他に数人、男手がいると思っている上での対応だ。こちらの実情を知っても紳士的であり続けるならば見上げたモンだが。向こうは人数も比較にならないし、軍用の装備や強力な火器を揃えている」
「・・・子羊が犬の皮を被って狼に会うような物ね」
「満抜きで交渉しに行っていたらどうなっていたか想像するのも嫌ね。かと言って行かないでいれば探しに来るかも」
「だから、奴らも動きやすくなる春までに移動手段を何とか見つけたいな。それがダメなら徒歩しかない」
「明日も晴れているようなら車を探しに行きましょう。どこか民家のガレージに残っているかも」
「決まりだな」
マリンから渡された地図を手に、満とミカエラは住宅地を進んでいた。どの家の前にも雪が積もっており、その雪の上には無数の足跡が残っている。比較的、新しい物だった。ただ、一面びっしりと足跡だらけ、という訳ではない。人数を特定するのは困難だが、せいぜい十数体程度だろう。それが一斉に襲ってくるのであればすぐにこの場を離れなければならないが、それらに気付かれないよう、一軒一軒を調べて行くのが今回の「仕事」だ。片端からシャッターを開けて行けば簡単だが、それは感染者を呼び寄せてしまう。どうしても家屋の中からガレージに入る必要がある。
昼前の明るさの中、感染者の姿は見えない。先日の陽光で充分日光浴を済ませたのか、家の中に戻っているようだった。殆どの民家の玄関口は開け放たれており、開いたドアの隙間に腐った肉片やどす黒い血痕が見える家もあった。
ミカエラと顔を合わせる。ミカエラは顔を青ざめさせながら苦笑した。
「怖いね」
「そうだな。入るのが嫌だったら外で見張ってくれてもいいぞ?」
ミカエラは少しの間逡巡し、満と離れる方が危険だと判断したのか、首を振って満に続いた。
一軒目の家に入った。玄関のドアは開いたままで、開け放たれて久しく、金具が錆びていた。玄関からリビングにかけての床面に黒茶に乾いた汚れが続いている。それが何であるかは言うまでも無く、二人は最初の部屋に当たるリビングに向かって進んだ。満はショットガンを肩に掛け、クロスボウを構えた。狩猟用と別に分けた矢を番え、リビングの入口に近付くと一気に中へ突入した。
ミカエラが慌てて後を追うと、既に満は一体の感染者に狙いを定め、矢を放っていた。その矢は見事に側頭部を捉え、感染者は棒を押したように床に倒れた。ソファの向こう側に立っていたもう一体がクロスボウの発射音に気付き、満に向かって来ようとしたが、ソファに引っ掛かって倒れた。その隙に後頭部をクロスボウの銃床で何度も打ちつけて始末した。
感染者を始末し、二人は聞き耳を立てた。新手が現れる気配も無かったので、矢を回収してから今度はガレージを探した。
家族の思い出の写真が飾られた壁の前を通り、キッチンを見つけて入りこんだ。ミカエラと手分けして棚や引き出しを開け、保存食が無いか調べた。
「砂糖とか塩だけね」
「無いよりマシだ、邪魔にならない程度に持って行こう」
満はチョコバーを数本見つけ、その内の一本をミカエラに放り、自分も袋を開けて齧りついた。
「ありがと」
再びガレージを探し、家の奥に向かった。二階には感染者の気配があったが、それは無視して進むと、広まった空間が見えた。ガレージだ。だが、肝心な車は無かった。カー用品が豊富に置かれているが、車が無くては何にもならない。諦め、その家を出た。
その調子で更に三軒、ガレージと手近な部屋を調べて回ったが、今度は車どころか飴玉一個さえ見つからなかった。代わりに感染者の数だけ増えていく。収穫どころか、満は貴重な矢を一本、撃ち損じてしまった。
「しくじったな・・・」
五軒目の玄関先で、満は破損した矢を後悔していた。よりによって石のオブジェに当ててしまったのが一層悔やまれた。ミカエラも二体始末し、鉈の血を雪に吸わせていた。
一度に遭遇するのが二、三体までなら二人で何とかできる。問題はそれ以上居た場合だ。その時はどうしても銃が要る。だが、発砲すれば離れた住宅に籠っている感染者が一斉に動き出す。それは最後にして最悪の手段だ。逃げられる状況ならまだいい。だが、自分かミカエラが捕まった時には置いていく訳にもいかず、発砲を強いられるだろう。
その時を覚悟しながら五軒目の家に入った。
抜き身のナイフを逆手に持ち、気配のあるリビングに忍び寄って中を確認した。
「くそ・・・ホームパーティでもしていたのか?」
広いリビングには十人近い感染者がひしめき合っていた。とてもではないが、銃を使っても倒し切れるか分からない。
良く見ると、リビングの少し奥まった場所の床に落ちている何かを食べていたらしい。決して新しい物ではないが、何かの肉片が散乱していた。
感染しないまま死んだ人間か、動物だろう。感染さえしていなければ、どんなに腐敗した肉だろうと感染者は夢中で貪り続ける。
見つかればすぐに中断して、この住宅地から脱出しなければならなくなる。それでも、ここに車がある可能性が否定できない以上、調べなければならない。
「・・・後回しにしよう」
ミカエラも無言で頷き、二人は音を立てずに玄関へ戻った。
その後も、危険地帯での緊張した昼食を挟み、民家を全て探して回ったが車は一台も見つからなかった。日が落ち始め、辺りが暗くなっても、二人は物資も車も見つけられずにいた。何体もの感染者を始末し、その脇を密かに通り抜け、二人の疲労も蓄積していた。
「まずいな・・・そろそろ帰らないと夜になる。次が最後だな」
「あいつら、寒くても夜は外に出てくるのかな?」
「だろうな・・・何せ、飢えている」
それ以上何も言わず、二人は問題の家に向かった。
時間が経っても感染者が減る事は無く、しかも家の中は更に暗くなり、気を抜けば感染者を見落としそうになる。
「よし・・・靴を脱いでくれ」
お互いに靴を脱いで持ち、そこからは一声も発さず、満とミカエラは奥へと進んで行く。リビングの戸口前を通る時は、姿勢を低くし、感染者がこちらを見ていない隙を覗った。
最初に満が行った。気付かれていない。
続いてミカエラが来る。これも気付かれなかった。
一旦安堵するが、まだ終わった訳ではない。更に家の奥へと進んで行くと、ガレージを見つけた。車の姿も見えた。しめた、と思いながらミカエラを振り返った。
瞬間、全身の血が固まった。
満同様、車を見て表情を明るくしたミカエラの肩に、手が乗った。続いて崩れかけた男の顔がミカエラに近付いた。
「あッ!」
ミカエラの短い悲鳴が響いた。外にまでは聞こえなくとも、家の中にいる感染者の耳には充分届いた。
すかさず男の頭部に突き立てたナイフを抜き払い、満はすぐにミカエラの肩を見た。
「痛・・・どうしよう、ダメかも・・・」
心臓が高鳴った。ミカエラの事。リビングから動き始めた大勢の気配。満は背と腹の両方からナイフを突き付けられたような寒気を感じた。
「待ってろ」
歯型と唾液がべっとりついた襟元を捲り、一心に祈りながらその白い肩を覗いた。…痛みはブラ紐の金具がズレたせいか?やがて、満の肩の力が抜けた。
「傷一つ、血一つ無い。セーフだ。…それにしてもピンチの連続ですな、姫様?」
無事を喜び合う暇は無い。ミカエラの腕を掴んで立たせると、すぐにガレージへと走り、ミカエラを車に乗せた。
「動いてよ・・・!」
ミカエラが運転席で鍵を探す間、満はガレージのシャッターを開けた。外にはいつの間にか感染者が徘徊し始めていた。ミカエラの悲鳴を聞き付けたのでは無い。もう周囲が暗くなっていたからだ。それらが一斉にこちらを振り返り、すぐに近寄って来た。
「ミカエラ、急いでくれ!」
「ちょっと待って!」
ガレージに入っていたとは言え、五年も放置されていたのだから、直ぐに動く筈が無い。これで動けば奇跡というものだ。
「ブレーキを外して、クラッチを踏んでくれ!」
クロスボウを肩に掛け、ショットガンを構える。シェルを送り、家の中から迫ってくる群に景気良く数発放った。感染者の進行が滞った隙を逃さず、トラックを押した。車体がゆっくりとガレージから外へと動き出す。段差が助け、更に車体が進んだ。ミカエラがキーを回すと、バッテリーの貧弱な駆動音と、すこぶる機嫌の悪いエンジン音が力強く聞こえて来た。大喜びで満も乗り込んだ。
「よし!いいぞ!…エンストだけはしないでくれ、止まったら二度と掛からないぞ…!」
追いすがる感染者を物ともせず、トラックは好調に走り出した。
「やった!」
「ああ、やってやったぞ!」
二人で手を叩き合い、快哉を叫んだ。シルバーのトラックは感染者が徘徊する国道を走り抜け、家に向かって凱旋した。
「乾杯!」
三人で祝杯を傾けた。食料を惜しみなくテーブルに載せて囲み、美酒を楽しんだ。
「やったわね。これでもう何でもできるわ。あのガスだって運べるし、車さえあれば、あとは天候が落ち着いてさえいればすぐにだって隣の州へ行ける」
マリンが興奮気味に今後の計画を語った。ボミットスの連中から離れられる事が嬉しくて堪らないという様子だった。
「ああ。慌てる事も無いが、これはかなり有利になった。強行軍をしないで済みそうだ」
「ミカエラも、やっと恋人を探せるわね」
「皆のおかげよ。そうでなければここまで生きていられなかった」
「それはお互い様よ。あなたにも沢山助けられたんだから」
「明日から荷物を整理して、いつでも出発できるようにしておこう。慌てる必要こそ無いが、万一このタイミングでボミットスの連中と出くわしたら面倒だからな。早めに出た方がいい」
「賛成」
「異議なし。じゃ、今日はたっぷり楽しませて貰うわ」
夜が更け、満はミカエラを抱き上げた。
「また一番に酔い潰れたな」
「この中じゃ弱い方ね。でも、疲れていたのもあったでしょうけど」
「今日も危なかったからな。ミカエラが噛まれかけた」
「この間と言い、危なっかしい子ね」
ミカエラをベッドに寝かせ、後はマリンに任せた。満はソファに戻り、再びグラスに酒を注ぎ足した。視界がふらつくが、何とも気分が良くて堪らない。明日には世界中の感染者が居なくなるのでは無いかと思う程の気分だった。
「飲みすぎじゃない?」
ミカエラの介抱を終えたマリンが釘を刺した。
「これで本日最後だ」
「多分、日付超えているわ」
「かもな」
そう言うマリンも自分のグラスに並々と注ぎ、それをあおる様に飲んだ。
「・・・やっとここまで来たな」
「ええ。本当に皆のおかげね。特に・・・満。あんたには私も彼女も心から感謝している」
「光栄だ。絶対にこの三人で生き残って、もっと仲間を増やして、それから人らしい生活を取り戻して行こう」
マリンは満を見つめた。ここに来た時、満には自分の意思が薄いように感じた。漠然と誰かの為に生きる。それも充分立派な決意だが、今の満には自分の意思が宿っているように感じた。それが今、満の語った事なのだろう。
「そうね。きっとできる。でも、今日はそろそろ寝ないとね」
「ああ、さすがに眠い」
毛布が降りかかった。
「風邪、引かないでね」
満は、朝の寒さに身を震わせながらリビングで身支度を整えた。カーテンの隙間から外を覗くと、曇り空ではあるものの、雪は降っていない。キッチンに戻り、薬缶を用意している所に、いい加減に衣服を身に付けたミカエラが唸り声を上げながら寝室から出てきてソファに座りこんだ。惜しげもなく谷間を覗かせるミカエラだったが、満に気付くとそれとなく衣服を正した。余程、参っているらしい。
「二日酔いには卵とか納豆がいいと聞いたことがある。納豆なんかあれば食べさせてやりたかったな」
「ナットー?」
ミカエラは頭を押さえながら満を見上げた。
「ああ。俺の母が納豆嫌いの為に作った納豆入りスクランブルなんて最高だろうな。俺は湯沸かしに行って来る。ゆっくり休んでいてくれ」
「オーケー、何か二日酔いに聞きそうな食材で朝食を作っておくわ。気を付けてね」
「ああ、行ってくる」
寒い。玄関先で肩を縮ませる。今日はクロスボウも持った。薄らと積もった雪の上にまだ昨日の轍が残っている。その上を歩き出す。
手に入れるべき物は揃った。後は時を待つのみだ。流石にこれ以上、必要な物など思い浮かばなかった。
通い慣れた店舗跡に入りこみ、周囲を確認してから火を起こした。
だが、何も心配が無い訳ではない。車はどうしても痕跡が残る。かつてのように車が星の数ほど動き回っていた頃には気にもならなかったが、それが希少な存在となった今、タイヤの後、ブレーキ痕、何より駆動音は人間のそれ以上に注意を引く。
ボミットスの連中が感染者との戦いや、街での探索に不慣れだという事はマリンやミカエラの話で裏付けられている。だが、人間相手となれば彼らもそう劣りはしないだろう。少なくとも、弱っているとはいえ軍や警察から物資を略奪するような連中だ。人間相手の暴力に関しては充分過ぎるほど優秀だろう。
今、自分達の暮らしは満たされているし、この規模で見れば資源比が極めて豊富であると実感している。それは逆に、外から見れば丸々と肥え太った家畜のようなものだ。武器に食料に車、極めつけに若い女が二人もいる。
勿論、マリン達がこの街から出る事など、ボミットスの連中は許さないだろう。車を手に入れた事を知れば、即座に捕まえに来るに違いない。そうなる前に、三人で無事に移動しなければならない。
充分に熱した薬缶を持って立ち上がり、その場を後にした。
「・・・そうね、満の言う通り、ボミットスの連中もその内来るでしょうね。ブルック達の顔が見えない事を、今頃怪しんでいるかもしれない」
三人でコーヒーを啜りながら今後について相談し合った。略奪の為に襲撃してくる人間は、感染者に比べて脆くもあるが、同時に手強い。
彼らの脆い点は、こちらが有利で強大であれば尻込みするという所だ。逆に、手強いのはこちらが不利な状況、弱体化している時を狙ってくるという所だ。いずれも知能を持つ相手の特徴だ。
「マリンもミカエラも射撃が上手だし、戦い慣れていてとても心強い。だが、あの連中は人間に対しては獰猛だし、武器も装備も豊富だ。とてもではないが、ここにいる三人だけではいざという時、身を守り切れない。俺は雪解け前、出来る事なら明後日にでもこの街を出て行く事を勧めたい」
流石に二人が顔をしかめた。満自身、この家は気に入っている。これほど住みやすく、かつ堅牢な住居はそう無いだろう。苦渋の決断だが、危険なグループが近くにいて、こちらの戦力が劣る以上、他に選択肢は無い。
「仕方ないわよね・・・満の言う通りだわ。私は賛成」
リーダーであるマリンが賛同した事で、チームとしての方針は事実上決定した。
「私も。第一、私には目的があるし」
「そうだったな」
彼女はこれから、恋人の安否を確かめに行く。それはそれで彼女の精神を苛む事になるかもしれないが、それでも決心は変わるまい。
「決まりだな。それでは、急で悪いが明後日までに準備をしておいてくれ」
「まとめ切れるかしら?」
「思いの外、纏まっているものよ。家具とかは持っていけないけど、家には必要な物しか無いから」
「優先順位は武器・食料・その他必需品。単純さ。今の所、焦る必要は無いから、間に合わなかったら一日ずらしてもいいだろう」
翌朝から家の中が騒がしくなった。勿論、誰も派手に物音を立てるような愚行はしなかったが、それでも二人の働きにより、たったの一両日で家の内部は殺風景になった。元々、無駄な物など無かったせいもあるが、予定通りの出発が可能だろうと満は安堵した。自分の役割は武器類の整頓と運び出しの作業だけだったので、とりわけ楽だった。二人を手伝おうとしたが、寧ろ邪魔だと言わんばかりの空気に気押され、二日目の朝には家の周辺の警戒が唯一の仕事だった。
「レディは、仕事と割切りが速くて助かる」
リビングの隅に追いやられた満は、窓の外を眺めながら水を啜っていた。振り返れば反対側の壁際に持ち出す財産が整然と並んでいる。だが、自分だけ仕事をしていない訳ではない。三人の愛用武器はしっかりと検め、その使用する弾薬や矢は最低限必要な分だけ自由に取り出せるように仕分け、後は弾薬ケースや箱に入れて車に積み込めるようにしてある。
急襲を受けても十分以内に全員が全ての荷物を持って下のガレージでトラックに乗り込んで脱出できるだろう。既にそれだけの準備は整っている。
マリンとミカエラは自分の私物類を整理しているようだ。彼女達とて捨てられない思い入れのある品が幾らか有る筈だ。
自分には武器以外、何も無い。この国に来て作った思い出など、ろくな物が無いし、まともな思い出を作る時間も無かった。自分の思い出は祖国にだけ残されている。
『願わくば、せめて祖国と家族、人々の御無事を・・・』
ろくに祈った事も無いくせに、東の方向に向かって祈る。照りつける太陽がその願いを聞き届けてくれただろうか。
「意外ね。満は無信仰者だと思っていたわ」
マリンが膨らんだデイパックを片手に満の後ろのソファに腰掛けた。
「仏壇に毎朝拝んでいた祖父母ほど熱心ではないが、時折神の存在を信じているよ。目を開けば奇跡はこの世に五万と実在するからな」
「で、何を祈っていた訳?」
「秘密だ」
彼女らが穏やかに生を全うできますように・・・そう追伸を差し添え、満はマリンに向き直った。
「もういいのか?」
「約束通り二日目よ。どう?まだ昼だけど、もう出発可能でしょ?」
「ああ、文句無しだ。どうやら、ミカエラも整ったようだな」
マリンの後ろからミカエラも専用のデイパックを持って二人の傍に座った。
「全員揃ったな。まだ昼だが・・・昼食は取らずに行くか?」
一瞬、沈黙が支配した。誰も、好き好んでこの家を出て行きたい者は居ない。出来る事ならここで住み続けていたいだろう。
「・・・長居していたところで何も変わらないし、ね」
「行きましょう。さっさと割切ればそれだけ気が楽になるかも」
「オーケー。行こう、お譲さん方」
荷物を持ち出し、地下へと降りて行った。止めてある古びたトラックに荷物を詰め込む。一度では積み切れず、二度目の運び出しに全員が戻った。
「所で、運転は誰がする?正直を言うと、俺は運転があまり好きではない」
「私も」
「じゃあ、私で決まりね」
ミカエラが運転席に乗り込み、いつでも出発できるように備えた。
「万一の為にな」
ミカエラに拳銃と六発分の予備弾を渡し、満とマリンは最後の荷物を取りにリビングへと戻った。
主に寝具やテントといった生活必需品だった。
「いよいよ、この家とお別れね・・・」
「見収めになるだろう。よく焼きつけておけよ」
「今でも思い出すわ。あんたをここに受け入れた時の事」
「悪く無い選択だっただろう?」
「悪く無いどころか・・・ねぇ、何か聞こえた?」
「ああ、何か・・・」
二人は耳を済ませた。静寂の中に明かに別の音が混じっている。感染者の物音では無い、聞き慣れない音だった。
「まさか・・・」
「車だ・・・マズイ、奴らか!」
二人の背筋が凍りついた。慌てて地下へと降り、トラックに荷物を放り投げてからマリンが座席に乗り込む。満は大急ぎでシャッターを開けた。
「どうかしたの?」
地下室で、しかも車に乗っていた為、ミカエラは音の事について知らない。
「出してくれ!早く!」
隠れていても無駄だ。このタイミングで来ると言う事は、最悪の可能性が的中してしまった。轍を発見されたのだ。雪が幾らか溶けてきて、そのリスクが無いと思っていた訳ではないが、それにしても最悪のタイミングだった。
『全てが揃って、気を緩め過ぎていた・・・』
自分の迂闊さを呪いながら車を出させ、その荷台に飛び乗った。直ちに使える武器はショットガンが十四発分と、拳銃に装填している十発分のみ。後の武器弾薬はバッグや弾薬ケースに収めており、直ぐには取り出せない。
地下から出ると、住宅街に面した道を二台のトラックがこちらに向かって迫っていた。大通りはフェンスで封鎖されていた筈だが、どうやって車で来たのか。
「見つかっている!」
マリンが悲鳴を上げ、ミカエラは顔面を蒼白とさせながら車を走らせた。相変わらず不機嫌な駆動音と共に通りを走って逃げる。
追手の車がクラクションを何度も鳴らした。止まれ、という意味だが、従うつもりは無い。捕まってしまえば、後はお約束の事態を迎えるだけだ。
「逃げ続けろ、俺が食い止める!絶対に捕まるな!」
「でも、事故も起こさないでね!」
「厳しいわね・・・」
連射音。まだ数百メートルはある距離から、弾丸が高速で満達の乗るトラックを掠める。ライフル弾である事は疑いようも無い。
「くそ・・・いい物使いやがって」
軍用の自動小銃だ。それが散発的な連射でトラックを掠め、幾らかは被弾している。満は姿勢を低くしながら猟銃と弾薬ケースを探した。
更に数発の弾丸がトラックを襲ったが、ミカエラは大通りを逸れて市街地に出た。
「ど、どっちに逃げれば・・・」
「南に!そのうち陥没した川に出るけど、浅い場所があるから、そこから南に行けるはず!」
「未知のエリアだがな」
満の手に固い感触が当たった。それを引き抜く。アサルトライフルに比べればささやかな武器だが、高級感溢れる木製のライフルは幾多の戦いを経た老兵のようで、今は妙に頼もしく見える。ボルトを引いて弾丸を装填し、トラックのあおりを掩体にして構える。距離は幾らか縮まっていた。距離が短くなるにつれ、被弾率が高まってきていた。満の隠れるあおりにも穴が空く。
それに怯みながらも、スコープを覗いてレティクルを敵方のトラックに合わせる。人の顔までは確認できないので、威嚇になればそれでいいと、フロントガラスに向けて一発、撃ち込んだ。
フロントガラスに白っぽい、大きな亀裂が広がった。返り血は見えなかった。しかし、直後に撃たれた敵車両は不安定に蛇行し、傍の住宅に突っ込んだ。荷台に乗っていた人間が放りだされるのが見えた。
「あれで、当たったのか・・・殺したか・・・?」
集中力が一気に霧散した。何か、取り返しのつかない事をしたのだと、そう頭に浮かぶ。
もう一台の車は住宅に突っ込んだ車の傍で速度を緩め、追跡を続けるか仲間を救助するか迷っている様子だったが、追跡を断念して車から降り、負傷者に駆け寄っていった。
「助かった・・・」
「もう大丈夫だ、あの様子ならとてもじゃないが追跡はできない。安心して運転してくれ」
「わ、分かった」
速度を落とし、陥没してできた川沿いに進んでいく。寒かったので途中で停車させ、荷台を降りて車内へと移った。
「この町ともお別れだな」
「良くも悪くも、ね。複雑な気分ね」
「言えている」
見慣れた家が見えなくなる。二人と共に過ごした命懸けの日々を忘れる事はないだろう。
「あそこ。あの場所からなら進めるわ」
「雪解け水で水嵩が増していたりしないだろうな」
「大丈夫・・・だと思う」
「確認してみよう。万一にもこんな場所で立ち往生したら最悪だからな」
確かに水量はいくらか増えていた。念の為、満が車から降りてその浅瀬に近付き、深さを確認してみた。ブーツを脱ぎ、見るだけでなく実際に川の中を歩いて、車が移動しても問題ないか確かめた。冷たい水が脛まで濡らす。
陥没しているとはいえここは軽度で、沈んでいるコンクリートもまだ十分固い。タイヤがはまりそうな箇所も見当たらなかった。
「大丈夫だ、通って良いぞ」
ミカエラの運転するトラックが恐る恐ると川の中へと入っていく。満がその前に立って誘導する。
「オーケー、もう大丈夫!乗って」
「おお、冷たい。タオルを取らせてくれ」
荷台の荷物の中からタオルを取り出してから車に乗り込み、冷たく濡れた足先をしっかりと拭った。ミカエラが再び車を走らせた。
「ここから先は何があるか分からない」
「こればかりは行ってみるしかないわね」
静まり返った住宅街をゆっくりと通る。放置された廃車が道の左右に雑多に並び、時には侵入を防ぐ為か、バリケードとして路地を塞いでいた。どの車も塗装は剥げかけ、錆びも目立つ。静まり返った廃墟の町に、何かの気配を感じた。
満以外の二人もそれを薄々と感じ取っているらしく、不安そうに周囲を見回しながら進んだ。
「満、何かある」
助手席のマリンが後部座席に乗る満を呼び、満は窓を開けて身を乗り出した。五十メートル程先の路上にクリーム色の何かが横たわり、その周りに群がったカラスがそれを啄んでいた。動物の体毛に見えるが、全裸の人間にも見えなくはない。大きさも人間並みにある。
「動物か?」
「うん・・・分からない。ハッキリしないから」
「見てくる」
満が車から降り、その正体を確かめに向かった。近付いて覗きこむと、それは仔馬だった。腹を裂かれ、主要な臓器は殆ど無くなり、腐敗が進んでいたが、寒さのおかげで蛆は湧いていない。代わりにこのカラスたちが処理を進めている所だった。
「感染者にやられたらしいな」
カラスが好んで啄む目や内臓の他に、首筋や背中などにも噛み傷が多数見受けられた。その歯型は人のそれに合致する。
「行こう、仔馬の死骸だ」
車に乗り込む満を振り返りながら、ミカエラが不安そうな目を向けた。
「大丈夫よね?また感染者の大群に襲われたりしない?」
「万一襲われても、今度は車もある。逃げ切れるさ。それより気になるのは馬だ。野生なのか、それとも牧場から逃げて来たのか。もしかしたら人に飼われていたのかもしれない。馬は何かと役に立つからな」
「少なくとも、ボミットスの連中は馬は持っていないわ」
「ああ、あの連中が動物を飼いこなせるとも思えないが」
車が再び走り出す。
「何にせよ、もう後戻りはできない。行こう。まずは州越えだ」
運転するミカエラの表情が微かに曇ったのを満は見逃さなかった。彼女にとっては念願の旅路でもあるが、同時に最も過酷な運命との対峙にもなり得る。所々から雑草を伸ばした国道を進んで行く。通り過ぎて行く景色の中に目ぼしい商店も幾らかあるが、一々停まっていては先へ進めない。ボミットスの追手が再び追って来ないとも限らない。
運転手と見張りを交代しつつそれぞれ後部座席で休息することにした。最初に満が仮眠を取る。
寝心地は決して良く無かったが、それでも二人分の座席を使って多少は体を伸ばす事ができ、いくらかは体を休める事が出来た。
暫くの間、あまり心地良く無い夢を見ていたが、肩を突かれて目を覚ました。トラックが停車し、ミカエラが休憩に入り、マリンが運転を代わった。再び車が走り出す。
「気のせいかもしれないが、ミカエラが寝る時はいつも俺と君が起きているな」
「この三人しかいないんだもの、そうもなるわ。そもそも今はローテーションだし」
「確かにそうだな」
少しずつ日が落ちていた。自分が運転する頃には暗くなるだろう。街を抜け、いくらか雪の積もった道も徐々に田舎道へと変わってくる。建物も目に見えて減った。途方も無く長い一直線の道路が続いている。その道路も荒れており、強めの揺れが何度も車体を揺らした。一際強く車体が揺れると後部座席で寝苦しそうにしているミカエラが不快そうに唸った。
「親切なグループに会えると良いわね」
「そうだな。きっと何処かにはまだ良心的なグループもあるだろう」
「ボミットスの連中みたいな奴らはもう御免だけどね」
直接戦った事は無いが、そんな理性を持たない連中もいる。この世界で発狂したのか、元からそうだったのか。何れにせよ、ボミットスのチンピラや、前のグループを襲撃した集団が可愛く見える程の危険な連中。そんな相手もいるのだ。
前のグループに受け入れられる前、あるグループが壊滅した跡を通りかかった事がある。そこには皆殺しにした人間の死体をアートとでも言わんばかりに飾ってあった。馬鹿にしたような落書きを施して野ざらしにされた死体や、家族と思しき死体を裸にして並べ、その死体を切り刻んであったり・・・
生きる為に襲ったのですらない。楽しむ為に殺した。それがありありと見える所業だった。とても人間のする事では無い。悪魔の所業だ。
―悪魔。それを自分が言うのか。
「大丈夫さ。俺だって受け入れられたんだから。きっと良いグループがある」
自分に言い聞かせるように呟き、沈んで行く夕陽と橙色に染まっていく景色を見つめた。
暗闇。ヘッドライトの明かりが無ければ何も見えない暗黒の世界になっていた。道程はまだ半分程度だが、夜闇の中を灯りを付けて走っていればほぼ確実に誰かに見つかる。その目撃者が善人である保証は無く、しかも追跡されないという保証も無い。何れにせよ車は目立つが、それでも自分も相手も互いに視認しやすい昼間の方がまだ安全だろう。廃れて気配の無いガソリンスタンド裏の駐車場に車を停め、店内で夜を明かす事にした。
「マリン、起きて」
ミカエラがマリンを起こし、満は鍵を抜いて運転席から降り、付近に落ちている板やトタンを運んでトラックの荷台に被せた。武器を構えた二人が店内に入る頃には予め用意していた鳴子を敷地内の進入路に張っておいた。何者かが近付けば、ライトを照らさなければ必ず引っ掛かる。ライトを付ければこちらから先に相手を視認できる。
「何かあったか?」
「ううん、何も。ある物は足りている物ばかり」
マリンとミカエラは店の広くなったスペースにシートを敷き、寝袋を二つ並べていた。
「まぁ、そうだろうな」
予想はしていたので何とも思わなかった。店内にあった従業員用の丸椅子を一つ、見張り用に窓の傍に置いた。
「棚が盾になっているから、ここで食べましょ」
ミカエラとマリンが飯盒や食品を取り出し、夕食の準備に入った。
「俺はその辺を見回っているから、外で火を焚いていいぞ」
「ありがとう」
店から出て、ハイウェイに歩いて出た。ライトは点けず、微かな月明かりと夜目に頼って道路を歩いた。
辺り一面漆黒に包まれている。もし、自分達がこのガソリンスタンドに入ったのを目撃した者がいたら、この夜闇に息を潜めてこちらを覗っている事だろう。このサバイバル生活を始めて五年以上が経つが、さすがに殺気を読み取る芸当はできない。例え今、反対側の茂みの中から襲撃者が銃口を自分の眉間に向けていたとしても、気付く事無く殺される。
或いはそれが、この地獄と化した世界から逃げ出せる最も安寧な方法か。更に進み、スタンドの周囲にある建物を見回った。感染者の気配も感じないドラッグストアが一軒。それだけだ。あの大都会の中から半日で荒野の中に移動してきた。その景色のギャップに満は妙な違和感を覚えていた。
この国は日本と違い、街や都市の規模も巨大だが、同時に一直線の道に無人地帯、という環境も多々ある。この大陸の広大さを実感する。
「よくもこんな馬鹿広い国にこれだけの都市を築いたものだ」
独り言を吐きながらスタンドへと引き返す。敷地に微かな灯りが見えた。二人がコンロで夕食を調理しているのだろう。反対方向からも何かが来る気配は無い。運よく誰にも見られずに済んだのかもしれない。
「お帰り。大丈夫そう?」
「ああ、心配無さそうだ。明日の朝に薬局の中を調べてみるが、先客はいないようだ」
「この辺は感染者も少なかったね」
ここまで来る途中も感染者は殆ど見なかった。すれ違う感染者のどれもが腐敗の進んだ、かなり前に転化した様子なので、この方角には生存するグループが少ないのかも知れない。
「グループで無くてもいいから、情報が欲しいな。この先の都市の様子とか」
「行ってみるまで分からないわね。一応、地図なら取ってきたわ」
「地形はミカエラが知っているが、あって損はしないな」
「明日の朝に出れば、昼過ぎには到着するわ。ただ、事件直後は封鎖されていたけど」
「軍が?軍ならもうとっくに・・・」
「あ・・・しまった、言っていなかったわ」
ミカエラが青ざめて俯いた。
「何を?」
レトルトのパックを温める湯が噴きこぼれた。マリンが慌てて火を止め、それを三人分の容器に移した。
「最初は確かに軍だった。でも、その後略奪者の集団がその場所を占拠したらしいの。病院で生活していた時に軍の無線で最後に聞いた情報だけど」
「軍とはいえ、勢いづいた連中は手に負えないからな」
この国は日本と違い、一般市民が当たり前に銃器を所有している。市民が本気で暴徒と化したら、日本では考えられない大暴動にも発展するし、ミカエラが言うように軍の部隊を制圧する事も有り得る。
「今はどうか分からないけど・・・まだいるのかな」
「接近してみないと分からないな。なるべく遠目から様子を覗いながら近付くしかない」
「計画に変更無し。心配しないで、いざとなれば満がスパっとやっつけてくれるから」
「ここまで来て引き返しても行く場所も無いしな。さて、食べよう」
「ありがとう。でもあなた達って、本当に度胸が据わっているわね」
「俺はともかくボスの方がな」
レトルトのシチューを口に運びながら満は店内に戻った。
「こら、ちゃんと明るい方で食べなさいよ。この暗いのによく手元が見えるわね」
「視力は無いが、夜目が利く方でね」
簡単な夕食を済ませ、交代で見張りを置きながら眠った。あの家の寝床には及ばないが、車の中で寝るよりは遥かに心地良い眠りを味わえた。隣で眠るマリンに肘鉄を食らうまでは。
ようやく辺りがライト無しでも充分に視認できる明るさになった頃。額にガーゼを当てた満がドラッグストアに侵入した。殆どの棚が空になり、床には医薬品の空箱が散乱している。棚に残っている物は入浴剤や洗剤・・・サバイバルでは優先順位の低い物しか残っていなかった。それでも店内を一通り回って見ることにした。ミカエラとマリンは洗剤と入浴用品を幾らか入手していた。
陳列棚は全て見て回った。続いて店の奥にある倉庫へと進んだ。そこも空で、何も残されていなかった。空の段ボールが空しく転がっている。
結局、この場所で手に入れたのは洗剤を除けばスタンドで手に入れた予備のスペアタイヤ一組だけだ。もうここに用は無い。
「トラップも引き上げたし、朝食も取った。出発しよう」
「了解」
「・・・うん」
マリンだけいくらか声を小さくして弱弱しく答える。満は額を押さえながらトラックへと戻り、荷台の板やトタンを取り上げて放り投げた。順番通り、満から運転席に座り、マリンが後部座席に座った。ミカエラが満とマリンの様子を訝り、その理由を訊ねようとした所で満がエンジンを始動し、車は快調に走りだした。エンジン音は最初に比べ、随分と機嫌が良くなってきている。
目的の封鎖ポイントまであと数十キロと言う所でマリンが苦しげに切り出した。
「その、満、昨夜は本当にごめんね?」
「ん?」
「ほら、昨日、私が寝ぼけて肘打ちしちゃって」
「ああ、まだ気にしていたのか?この通り、手当もしてもらったから大丈夫だよ」
「私、子供の頃から本当に寝癖が悪くて・・・」
助手席で満は地図を開きながら苦笑した。
「俺もさ。今でもあまりいい方じゃないが・・・それでもマリンには負けるな」
「言わないでよ。封鎖ポイントはあと十キロで着くわ」
「あと十キロか・・・」
最悪、人間との戦いになるかもしれない。このチームには人間グループとの戦闘経験は無い。経験を持つのは満だけだ。それまでの和やかな雰囲気から一転して全員の間に緊張が走った。あと三キロという所まで近付き、そこから双眼鏡で様子を覗った。
「うーん・・・だめね、よく見えない。少なくとも、外で動き回る影は無いわね」
「そうだな。仮設の兵舎が何棟か立っているから、この位置からじゃ中に誰か潜んでいても分からないな」
「・・・と言う事は?」
「ああ。一か八か、突撃するしかないな」
「見た所、ゲートは閉まっていないみたいだけど・・・」
だとすれば無人の可能性もある。何れにせよ、ここから脅威は確認できない。
「行ってみよう」
再び車を走らせ、ゲートまで進んだ。詰所の窓から中が見える距離になっても人影は見えない。ゲートも開いたままだった。
「罠?」
「かもな。どれ、俺が様子を見てくる。緊急時には発砲するから、その時には走り抜けられるようにしておいてくれ」
「分かった。気を付けてね」
満がショットガンだけを持って車を降り、詰所に忍び寄った。とは言え、白昼に正面から忍び寄ったのでは、もし屋内からこちらを見張っている者が居れば丸見えだ。この不気味な静けさは敵がこちらを完全に包囲するまで誘っているのか、或いは単に敵が居ないだけか。
二人はトラックの中から、建物の中へ入っていく満を見守った。
満はショットガンの銃口で開きかけのドアを軽く小突き、開いたドアの隙間から中を覗った。詰所に人の気配は無い。棚などには埃が溜まり、それほど新しい痕跡は無い。一安心しながら一通り内部を見回してから詰所を出た。次に仮宿舎を適当に二、三部屋開けて内部を調べた。そこも毛布やゴミが残されているだけで、人の気配も、目ぼしい物も無い。グラマーな裸の女優がポーズをとる雑誌が何冊か捨てられているだけだ。
前までここに誰かいたのは確かだが、既に引っ越した後のようだ。恐らく、封鎖して旅人を襲っていた連中も、餌となる旅人が来なくなって引き揚げたのだろう。
「大丈夫だ、何も無い!」
満が車を誘導し、再び車に乗り込んだ。無人の検問所を通り抜け、目的の街へと進む。
「取りあえず、何も無くて良かったわ」
「そうね。でも安心できない。この先の街にそいつらがいるかもしれないから」
「注意して進むしかないな」
一時間ほど車を走らせ、いくらか砂埃が積もったゴーストタウンに到着した。賭博場で栄えていた名残を見せる町並みは、あの町とは全く違う雰囲気を湛えている。広い道路の至る所に錆びたドラム缶が置かれ、最近まで火を焚いていた痕跡が残っていた。
「確かに生存者がいる。道路で堂々と焚くぐらいだから、それなりに余裕があるのかもな」
砂埃に咳き込みながら満は周辺を見回した。余裕があるグループだとしたら、罠を設置していても良さそうな物だが、ここまでそれらしい物は見当たらない。検問所を制圧したグループも一度はこの町を通り抜けた筈だが、まだ人の気配は感じない。
「もう少し進んでみるか」
高級感のあるホテルや喫茶店、劇場が立ち並ぶ。何れも出入り口は椅子や家具を組んだバリケードで内側から塞がれており、入る事は出来ない。だが、中に人がいる様子も無い。
「あれって、建物の中に籠城しているんじゃないの?」
「いや、裏の勝手口が開いているようだ。ホテルと食堂にはもう誰も居ないだろう」
「じゃあ劇場は?」
劇場の非常口は閉じている。
「確かめてくる。閉じていれば中に誰かいるだろうし、開いていたら中を調べる必要は無いだろう」
満が車を降り、ショットガンを手に裏口へと向かった。二体の感染者が遥か先の路上をこちらに向かってふらふらと歩いて来ていた。ミカエラとマリンはそれを監視しながら満の帰りを待った。
扉に辿り着いた満はドアノブに手を掛け、ゆっくりと回して引いてみた。開かない。中に誰か籠っている事は確実だ。
一旦車に戻り、ミカエラに窓を開けさせて顔を突っ込み、車内の二人に報告した。
「中に誰かいるようだ。生者か感染者か、人数も分からないが・・・ここを守っていてくれるか?」
「私も行かせてくれない?」
ミカエラがシートベルトを外し、身を乗り出した。
「マリン一人では・・・」
「私なら大丈夫。行かせてあげて。万一の時には発砲してその辺を逃げ回るわ」
マリンが後部座席から降り、ミカエラが外に出た。
「分かった。気を付けてな」
「ありがとう!」
満が先頭に立って劇場の裏口に進んだ。その途中、回転拳銃を構えて続くミカエラを呼び止めた。
「何、満?」
「中に大勢いるかもしれない。その拳銃だと装弾が少ない。今回はこっちと交換しないか?」
満は自分の九ミリ拳銃を見せて提案した。四発しか違わないが、それでもいざという時には決定的な違いになるだろう。
「いいの?ありがとう」
拳銃と予備弾を交換し、扉の前に立った。
「ピッキングなんて出来るの?」
「いや、やった事は無いし、針金も無い。海兵隊の動画で見たことがあるから、こちらを試してみる」
満はショットガンの銃口をドアの鍵部分に押し当てた。
「危ないから離れていてくれ」
「大丈夫なの?」
「多分・・・な」
動画で見た通りに実践して見た。一発目では上手く破壊できず、二発目でようやく鍵部分を破壊することができた。
「中にいるのが良い人達だったら、悪い事したね・・・」
「その時は何か代わりに防御できる方法を探して償うさ。問題はその逆だった場合だ。今の音を聞きつけて襲ってくるだろうな」
ミカエラが息を飲んだ。
「だから、いざという時はミカエラの援護が必要だ。お互い、警戒し合いながら進もう」
「ええ任せて」
後ろから頼もしい返事が返ってきた。その声を頼りに満は暗い館内へと足を踏み入れた。
窓には板で塞がれ、外の日光が差し込み難くなっているものの、感染者や人間の侵入を困難にしている。蓄光式のシールやソーラー充電式のライトが通路の足元に等間隔で設置され、夜間でも歩きまわれるようになっていた。
「シアターはあっちね」
音に気付いたのであろう人の気配が、「シアター」と案内板が下げられた通路の向こうから感じられた。
「行ってみよう。どうやらこの感じ、あまり大勢でも無いが攻撃的と言う訳でもないようだ」
ミカエラを促し、劇場へと進んだ。途中、壁に掛けられた上映予定だった映画のタイトル・・・CGアニメーションのキャラクターが大きく貼り出されていた。
「止まれ!」
シアターの扉を盾に、左右の影から銃口が二つ、こちらを狙っていた。こちらに遮蔽物は無いが、その行動だけでここにいるグループが話し合いのできる相手だと分かった。
「出入り口を壊してすまない。中の状況が分からなかったので、無理矢理開けさせてもらった。その分は後で償うつもりだ」
「用件は?」
「情報が欲しい。勿論、対価は可能な限り用意する」
やや時間を空けて、誰かが門番に駆け寄り、伝令を預かって走り去った。
「こちらのリーダーに取り次ぐ」
「ありがとう」
「そちらは二人だけか?」
「詳しい人数は明かせないが、残りは外で待機している」
見え透いたこけおどしに過ぎないが、念の為だ。こんな広い建物に男と女だけで乗り込んできた以上、誰が見てもこちらの戦力など多寡が知れている。それでも威圧的にならないということはやはり、このグループは理性的と言う事だ。
こちらを見張る門番の元にさっきの伝令が戻り、何事か囁いた。
「リーダーが来る。中に入って少し待て。こちらは扉を塞ぐ応急処置を施す」
「すまない。技術のある奴なら錠前周りの部品を仕入れれば直せるかもしれない。最悪、頑丈なバリケードで補強する事になるが・・・」
「随分と派手なノックだったな」
声の主を振り返ると、大柄な初老の男が立っていた。背中には屈強な薪割り斧を背負い、何か打ち合わせでもしている最中だったのか、手には丸めた地図を握り締めていた。
「まず謝る。些か乱暴すぎるやり方だった」
「正直な所、こちらも無駄弾を使う余裕が無いからという事もあるが、取りあえず不問としよう。世間話をするほど話の種も無い事だし、早速取引に入ろうか。情報が欲しいと聞いているが?」
「ああ。必要な情報に応じて段ボール一箱分の食料を渡す。それとは別に、鍵を壊した非礼の詫びとして鹿肉の燻製を十五キロ。それで手を打ってはくれないか?」
「こちらとしては充分すぎる見返りだ。で、何について聞きたい?」
ゴネない所を見ると、どうやらあの鍵を破壊した事についてはそれほど痛手では無いらしい。そうでなければ余程のお人よしか。何れにせよ、満は内心で安堵した。
「ではミカエラ。聞きたい事を聞いてくれ」
「ありがとう、満」
ミカエラは一歩前に進み、一呼吸置いてから口を開いた。
「私の名はミカエラと言います。エヴァンスという若い男の人を知りませんか?恋人なんです」
たったそれだけの情報。彼女は藁にもすがる思いだろう。満は相手の返答を見守った。
「エヴァンス・・・ここには居ないな。力になれなくて残念だ。一応、館内の奴らにも聞いてみるが・・・期待しないでくれ」
ミカエラの瞳に落胆と絶望の色が滲んだ。見るに堪えかねた満が割って入り、別の問いに切り替えた。
「では、この近辺で他にグループを知らないか?友好的・危険なグループを問わずに」
「ああ、それなら・・・山が見えただろう?あの山に向かって国道を進むと、古いモーテルが見えてくる。そのモーテルの脇にある道に入って更に進むと、その先に森林が広がってくる。その森の中にある集落を基地にしている二十人くらいの連中と、逆に山に背を向けて西に向かった先にある工業地帯を基地にしている連中がいるな。前者は変わり者が多いがそれほど攻撃的では無い。後者はあまり関わりたくない連中だ。今はお互いに協定を結んでいるが、物資が底を尽きればここを襲撃してくるかもしれん危険な連中だ。人数も定かではないが武装は充分にしているし・・・何より、若い女は放っておかんだろうな」
苦い表情でミカエラを見た。
『じゃあ、俺達のチームにとって相性が悪すぎるな』
「ありがとう。何とか探してみる。約束の食料を渡したい。二、三人付いて来てくれるか?」
「分かった。俺と・・・おい!お前達、手伝え」
歳は十七、八くらいだろうか、細身の男が二人、リーダーの男の後に続いて来た。リーダーの男は声を小さくして満に囁いた。
「・・・少々、戦力が不足していてな。ここにいるのは体が弱いか、昔から引き籠りだった非力な連中だ。正直な所、食料よりもお前さんのように戦い慣れした若い男が来てくれると助かるんだが・・・」
確かに、ここの人々は戦いには向いていないように見える。この大男を中心に何とか支え合い、辛うじて生き延びている雰囲気があった。
「いや、俺も強くはない。却って新参者が出しゃばって連携を悪化させかねないよ」
「ああ・・・こんな誘い方は糞だと分かっているが・・・若い娘もいるんだ・・・」
「助けになりたいし、実に魅力的なんだが、こちらもまだ人探しが終わっていないんだ」
リーダーの男はひどく残念そうな顔を見せたが、外に出て約束通りの食料を受け取り、納得してくれた。
「なるほど、こりゃ良い旅を満喫しているな。誘いに乗らない訳だ」
「尻に敷かれているがね」
「食料、確かに受け取ったぞ。当てが無くなったらいつでも来てくれ、歓迎するぞ」
「情報ありがとう。幸運を祈っている。もしも俺が後から泣きついてきたら、せめて彼女らの面倒は見てくれるとありがたい」
トラックに再び乗り込み、シアターを後にした。
「良い人達だったね」
「ああ、用事が済んだら来ないかって誘われたよ。親切で助かった」
「それで、これからどこへ行けばいいの?」
申し訳なさそうに口を開くミカエラに先んじ、満がミカエラに訊ねた。
「ミカエラ、ボーイフレンドの住所を先に当たってみないか?」
「い、いいの?」
「その為に来たんだからな。その彼氏が加わってくれればこちらも心強い」
「もちろんよ。でも満、燃料がもう予備の分くらいしか無いから、どこかでガソリンを見つけないと・・・」
「ガソリン・・・か」
主要なガソリンスタンドの在庫はほぼ全て、略奪されてしまっているか火災で失われている。泊まったガソリンスタンドも空だった。余程運がいいか、目立たない場所にあるスタンドならば手に入るかもしれないが。
「少し遅くなったが、適当な所で昼食休憩にしよう。その時に給油する」
「オーケー。ちょうどいいわ、あの駐車場、植木が目隠しになっていいんじゃない?」
「よし、そこに入ってくれ。俺は燃料を入れておく」
車が曲がり、かつてはレストランだった廃墟の駐車場に入った。建物とポプラの木が国道から死角を作っており、そこに車を停めた。レストランはパンデミックのせいで廃墟となった訳ではなく、既に閉店していたようだ。不良たちの仕業か、店の正面は落書きで埋め尽くされていた。国道と駐車場に挟まれてレストランが建っているため、仮に誰かが通りかかっても満達を視認する事は無い。
「これは丁度いい。正にランチタイムだ」
裏口の扉には鍵が掛かっていたが、既に南京錠が錆びかけており、満は周囲に感染者が居ない事を確認してから、車に積んでおいた鉄鋼用ニッパーで錠を破壊した。
「一日で鍵を二つも壊すのは人生初だ」
「いい記念になったわね」
「トロフィーは無いがね。さて、中で食事にするとしよう。俺のおごりだ」
軽口を叩きながら店の扉を開け、厨房の脇から店内へと進んだ。
「なんだかすごく懐かしい。何十年も昔の事に思えるわ」
店内は微かに黴の匂いが漂い、片づけられて殺風景だったが、それでも趣のある椅子やテーブルだけは残されていた。積み上げられ、埃を被っていたそれらを必要なだけ引っ張り出して三人で立て、空布巾で埃を払ってからテーブルの上に食事を並べた。
満は外で火を焚いて手早く湯を沸かし、インスタントのコーヒーを淹れて戻った。当然ながら店内には使える物など何一つ残されていなかった。
三人は食事を済ませ、満の淹れたコーヒーを啜りながら思い出話に浸っていた。飲食店で起きたハプニング、今も忘れられないメニュー、一緒に食事を楽しんだ人々との思い出。時間を忘れて語らう内に、日が傾き始めていた。西日に変わりつつある事に気付き、三人が席を立つ。元から正午を過ぎた昼食だったのだから、当然日が落ちるのも早い。車に戻り、ミカエラとマリンが運転席に着き、満は後部座席に座った。
「現実に戻るが、食料の余裕はどのくらいだ?」
「さっき渡したけど、まだ余裕があるわね。一ヶ月分近くある」
「それでも大分少なくなってきたわね。まぁ、満に会うまでは私もその日その日の食べ物を探すのに必死だったから、それに比べれば裕福ね」
「食料も探しておかないとな」
運転を交代したミカエラが車を走らせた。駐車場を出て、再び国道を走る。
「彼の住所はこの先よ。住宅街の中にあるんだけど・・・」
住宅街はどこの地域においても常に危険地帯となっている。感染者に過去の記憶の残滓があるとは思えないが、何故か住宅密集地は感染者の密度が異様に高い。
「まずは遠巻きに様子を見てみよう。感染者が多いようなら一旦出直して作戦を立てるし、或いはミカエラの自宅に行ってみるのもありだろう。恋人が何かメッセージを残してあるかも知れない」
「的確ね。それ以外無いわ」
マリンも賛同し、ミカエラは恋人の家がある住宅地へと車を進ませた。
「やっぱり・・・いるか」
まだ日暮れ前だと言うのに、住宅の前を感染者が多数徘徊している。中には重装備の警官の姿も見られたが、リスクが高すぎる為、捕えるのは断念した。特に、防弾ベストと防護ヘルメット、それに身に着けている予備弾丸は魅力的だったが、百体を超える飢えた感染者が周囲の住宅内外をうろついている以上、近付く事は不可能だ。リスクも割に合わない。
満は小さく舌打ちし、ライフルのスコープでミカエラから教えられた目的の住宅を覗いた。
「なかなか良い家だな。恋人は何の仕事を?」
「仕事の話はあまりしなかったけど・・・家がお金持ちだったみたい」
「成程な。さすがに家の中には居ないだろうが、何か手掛かりが無いか調べたいな。でもこれから夜にかけて敵は増える一方だ。何とか連中を陽動する方法を考えよう」
「花火でも上げる?持っていないけど」
マリンが冗談交じりに言ったが、満は、
「さすがボス。それだ」
と真顔で答えた。
「ミカエラ、近くにそれらがありそうな場所は知らないか?」
「えぇと・・・ああ、湖の近くにある雑貨店。あまり流行っていなかったから、あそこなら、しかも花火ならあまり略奪されていないかも」
「日暮れまで時間が無い。行ってくれるか?」
「勿論よ。ここから十分くらいで着くわ」
Uターンする車に気付いた感染者が何体か歩いて来たが、追いつく筈も無い。夕暮れが迫る中、一行は湖畔にあるという雑貨店に向かった。
国道を逸れ、雑木林に面した狭い道に差し掛かった。舗装もされず、砂利だらけの道の両脇に数体の感染者が徘徊していた。
「こっちに来るのは観光客くらいで、その雑貨店と湖以外何も無い場所よ。夏になれば観光客でそこそこ賑わっていたけど」
「観光か。生きている内にもう一度したいものだ」
まだ日は落ちていないが、雑木林の木々に日光が遮られて薄暗い。林を抜けると少し、眩くなった。西日を反射する湖面が一面に広がる。
「なるほど。酒でもあおりながら釣りをして過ごしたいな」
「残念だけど、ここは環境保護区域だから駄目ね。ほら、あそこ」
湖畔の水辺にコテージ風の小さな建物があった。軒先の「ケニー雑貨店」と書かれた看板が少し傾きかけている。店自体もガラス窓が割れていたり、店先にある客用のテーブルが幾つか倒れていたりと、荒れているが、略奪に入られたかどうかは分からない。
「店の前が喫茶店みたいだな」
「観光客向けのカフェも兼ねていたから。中は大丈夫そう?」
「先に見てくる。二人はここで待っていてくれ。マリンはここで周囲を見張ってくれるか?」
「ええ、分かったわ」
マリンとミカエラを残し、満は店の入り口に忍び寄った。割れたガラスのドアから店内を見回し、動く物が無い事を確認してから手招きした。合図を見たミカエラが満の元に小走りで寄ってきた。
満が店内に入り込み、まずカウンターや棚の裏といった死角から虱潰しに見て回った。その間にミカエラは店の中から目ぼしい物を探した。しかしここも既に荒らされた後で、酒・日用品や食品類は殆ど無くなっていた。ガムすら残っていない。
「あまり期待していなかったけど、やっぱり雑誌くらいね・・・でも、本命はあったわ」
店の玩具コーナーにあった花火を全て抱きかかえ、満を呼び戻した。
「湖の周り、公共の場、住宅地などで使用するな、火の後始末を忘れるな・・・か」
花火コーナーに張り付けられた、店主の手書きと思しい張り紙を見ながら満は苦笑した。
「よし、行こう。もう時間が無いから、車内で作戦を打ち合せよう」
店を出ようとした満の袖を細い腕が掴んだ。花火が幾つか落ちた。
「ねぇ、満。危険なんだよ?どうしてマリンも貴方もここまでしてくれるの?」
満は不思議そうに振り返った。実際、ミカエラのその問いかけを心から不思議に思っていた。
「何故って、ミカエラ。君には散々助けられた。その恩返しさ。それに、これからも出来る限り一緒にいて欲しい」
「どうしても今日行う必要は無いよ?それに、あの家にエヴァンスは居ない。手掛かりもあるかどうか分からないのに、無理に行かなくてもいいわ。二人を危険な目に合わせたくないし、やっぱり・・・止めない?」
「だからこそだ、ミカエラ。手掛かりがあるかどうか分からないから確かめに行くし、明日、実行に移せる保証なんてどこにも無い。縁起でも無いが・・・君が死んでしまう時、後悔だけはして欲しく無い。それは必ず、残される俺達二人の一生の悔いにもなる」
ミカエラは何も言い返せずに満を見つめ返す事しかできなかった。
「俺達は既に運命共同体で、家族同然だ。一人で悩むことはない」
朗らかに言う満とマリンはミカエラの肩を叩き、先に店を出た。待たせていたマリンに合図し、二人で車に向かって行く。
ミカエラはその後を追いながら、依然として何も返す言葉が無かった。そしてその胸中に、言い知れない靄のような感情と不安が生まれ、大きくなってきていた。
満の言葉は心から嬉しかった。それは真実だ。言っている事も正しいと思う。彼は清廉無私な聖人君子では無かろうが、善人か、正義の味方である事はミカエラにとって疑いようもない。
だからだろうか。尚更この計画が不安に思えた。そんな善人であり、かけがえの無い二人を失ってしまう事になるのではないか、と。だが、それだけではなかった。
遅れて車の後部座席に乗り込み、複雑な心境のまま暗くなっていく湖面を見つめた。
エヴァンスは良い人だった。勿論、思い出も忘れてはいない。楽しい日々、寄り添った時間。肌の温もりも覚えている。
なのに、何故だろう。
最初は何とも思わなかった。どこか哲学者のような雰囲気を持っていながら逞しさも兼ね備えた、親切で紳士的な、風変わりな異国人。
相手のせいにするようだが、入り込まれた・・・そんな表現が相応しい。何時の間にか心の中心を彼が占めつつあった。
恋人と離れた中、目の前で仲睦まじく過ごす者達への嫉妬からなのか。自分の薄情で、心の浮き易い卑しさからなのか。或いは・・・それだけ彼が魅力的だったのか。こんな世界になってしまったからなのか。理由は幾つかある。
言い訳は幾らでも作れるが、無意味だ。それに、自分はまだ一線を踏み越えた訳では無い。何れにせよ、卑しくも神を慕う者にあるまじき事だ。
「よし。ミカエラ、用意してくれ」
「え?」
一瞬、混乱した。満の言葉の意味も分からず、自分が何をすべきかも忘れて狼狽した。
「花火だ。打ち合わせ通り、東側に向けて断続的に撃ってくれ。マリンは車とバックアップを頼む」
「了解よ」
自分の役割を思い出し、ミカエラは慌てて手元の花火が入ったナップサックとライターを掴んだ。マリンが車を停め、満が銃を手に降りた。ミカエラもバックアップ用の花火とライフルをマリンに渡してから車を降りた。
「凄い数・・・」
「分かってはいたが、ここはこの辺でも特別酷いようだな」
一時間前に見た時より、明らかに増えていた。銃で武装した兵士が十人いても、正面からではとても太刀打ちできないであろう、無数の感染者が住宅地を埋め尽くしていた。恐らく、建物の中にも多かれ少なかれ居る事だろう。
「行くぞ、ミカエラ。マリン、後を頼む」
「二人とも、無事でね!」
「マリンもね!」
ミカエラは意を決し、花火を東の空へ向けて火を点けた。何本ものロケット型の花火と導火線を括っており、ほぼ同時に発射されて上空でけたたましい爆裂音を発した。こちらに気付いていた感染者も、そうでない感染者も、一斉に東側を向いて覚束ない足取りで音源を探りに移動しはじめた。
ミカエラはそのまま更に数回、花火を東に向けて発射した。日が落ちて暗くなっている事もあり、感染者は夢中で音源を追って行く。
それでも住宅街にはまだ多数の感染者が移動し続けていた。が、それでも幾らか活路は見えて来た。
「よし・・・行こう」
頷き、ミカエラは満の腕を掴んだ。ここからは会話を極力控えつつ、互いに離れてしまわないよう、常に相手の手を掴んでいる必要がある。
手近な感染者を殴り倒して頭部を踏み潰し、まずは無関係の民家の敷地へと入り込んだ。塀に隠れて進み、隣の家へ。その要領で繰り返し、感染者から発見される事を防ぐ。
やがて、目的の家に近付いて来た。白い壁には赤いペンキで、家の中に居る人数と救助を求めるメッセージが書かれていたが、今となっては不要な情報だ。問題は安否の確認と、生きていた場合の行き先だ。
あと二軒の敷地を乗り越えれば辿りつけると言う所で、庭先に立っていた感染者に見つかった。満とミカエラの姿を見ると幾らか活発さを取り戻した様子で二人に迫ってきた。それを蹴り倒そうとした時、他にも感染者が居る事に気付いた。三人、感染者が居た。まだ銃を使うには早い。満は鉈を抜き、ミカエラは腰からナイフを抜いた。ミカエラに格闘戦を強いるのは避けたかったが、満でも三対一はリスクが高すぎる。感染者との格闘戦ならせいぜい二対一までが限度だ。
「老婆の方を始末してくれ」
体格もミカエラに劣った、白髪の老婆の感染者をミカエラに割り振った。自らは男の感染者二人を相手に、片方を鉈で斬り付けた。反対側から襲い掛かってくるもう一体の感染者も蹴りで牽制して距離を保つ。
「このッ!」
ミカエラも苦戦しながら感染者との揉み合いに打ち勝ち、その頭部にナイフを突き立てた。それと同時に満ももう一体の感染者の頭部に鉈を斬り込ませて始末した。
「ミカエラ、大丈夫か?」
「ええ、満は?」
「大丈夫だ。花火をまた頼む」
「分かったわ」
ミカエラは腰のベルトに挟んだ花火を数本抜き取り、東の空へ向けて地面に刺し、ライターで導火線に火を点けた。五秒と経たずに花火は打ち上がり、閃光と破裂音を発して感染者を誘き寄せた。
「近くにいる奴は聞きつけてこちらに来るかもしれない。行こう」
休む間もなく再び塀を乗り越え、次の家へと入り込んだ。そこは無事に通過し、更にもう一軒の敷地の様子を覗いた。
「大丈夫だ、行ける」
ミカエラと共に塀を乗り越え、その家の庭から隣の家を見上げた。家を見上げたミカエラが小さな溜め息を漏らした。
「懐かしい・・・五年ぶり・・・いえ、六年近くなるのかな」
満は塀に向かい、邸宅の様子を窺った。庭先には一体の感染者が俯き加減に震えているが、他に感染者は見当たらず、物陰に潜んでいる様子も無い。あとは屋内にいるかどうかだが、玄関の扉は閉まっていた。
「ミカエラ、いよいよだ。心の用意はいいか?」
「ええ、大丈夫。行きましょう」
塀を乗り越え、敷地内に侵入した。振り向いた感染者に満が突進して押し倒し、腰から抜いた大型ナイフを眉間に突き立てた。体重が味方し、重厚なナイフは一撃で死者を動かしている脳を破壊する。感染者の活動が完全に停止した事を確認してからナイフを抜き、周囲を見張るミカエラに向き直った。
「気付かれていないか?」
「大丈夫。一体も来ないわ」
「よし。では・・・」
二人は玄関口の前に立った。打ち合わせ通り、ミカエラがドアに張り付いて片方の扉の取手に手を掛け、ショットガンを構えた満が突入の態勢を取った。
「三・・・二・・・一・・・ゴー!」
勿論、小声である。ミカエラが扉を開けると同時に満が突入した。一階の見える範囲には人影も無く、床には薄らと埃が積り、人のいる気配は無い。
「クリア」
満に促され、ミカエラも家に上がった。ドアを閉め、念の為に鍵を掛けて置いた。玄関からリビングまでの安全を確保し、満はリビングの真ん中でポケットからトランシーバーを取り出し、電源を入れた。
「マリン、無事か?」
『平気よ。車の周りにも居ないわ。そっちは?』
「家に入れた。今の所、感染者は居ない。これから調べて、家を出る時にもう一度連絡する」
『了解』
さすがに家の中なら呼び出しが掛かっても外には聞こえないだろう。電源は切らず、満はミカエラに続いて家の中を探索した。
「一階には誰も居ない。俺は二階を見て来る」
「わかった、気をつけてね」
満は二階の部屋を見て回ったが、どの部屋も慌てて支度をしたのか、散らかっているものの、目ぼしい物は何も残されていなかった。調べるまでも無く、それらの部屋に満達に有益な物は残されていない事は理解できた。
ただ、ミカエラにとっては別だろう。部屋にいくつか残されたミカエラと恋人の写真があった。どの写真も、映っている二人は幸せに満ちている。
果たしてこの恋人は今、どこにいるのか。見つける事は出来るのか。この広すぎる大陸を端から端まで探し出す事は流石に出来ない。だが、彼女の為にも見つかって欲しいと思う。
「・・・無事でいろ」
答える筈も無い写真に向かって呟き、満は一階に降りた。
下ではミカエラがリビングのソファに座り、膝の上に置いた何かに見入っていた。
「どうだ、ミカエラ。何かあったか?」
「ああ、満。これを見て」
ミカエラは膝に置いていたノートを満に手渡した。そこには殴り書きで大きく「ミカエラへ。軍と一緒に大学へ避難する。何とか連絡をくれ、すぐに救助を要請する」と書かれていた。
「あったな」
満はそのノートをミカエラに返した。
「これで次の行き先も決定だ。学校は何処にあるか分かるな?」
「ええ・・・でも、さっき映画館にいた人達は学校なんて一言も言わなかったわね」
「生存者を全て把握している訳じゃないだろう」
「そう・・・そうよね!」
その顔に幾らかの笑顔が宿った。満は頷き、再び無線を取った。
「マリン、そっちはどうだ?」
『異常ないわ』
「手掛かりを手に入れた。これから戻るが、危険になったらこちらから連絡する。また連中の脇を抜けて戻るから、引き続き、そちらからのコールは必要最低限で頼む」
『OK、気を付けて』
帰りは来た時よりも楽だった。花火による陽動が功を奏し、死者の行進は満達とすれ違うように逆方向へと向かって進んでいた。
どうやら、群が進むと感染者は自分自身で何らかの情報・・・物音や獲物の姿などを確認しなくても、釣られて付いて行ってしまう性質があるようだった。今回はこちらに利したが、逆に言えば先頭集団に捕捉されている限り、文字通りどこまでも大群が追ってくると言う事でもある。
来た時と同じように塀を乗り越えていく。感染者の群はこちらに気付かず、また住宅の敷地内に侵入している感染者も居らず、スムーズに進めた。
「花火作戦、大成功だったな」
「上手くいって良かったわ」
事が上手く運び、安心していたその矢先だった。音量を最小にしていた無線にコールが掛かった。『満、聞こえている?』
「どうした?」
マリンの声は幾らか強張っていた。通信を極力控えるよう伝えていた上での交信だ。緊急である事には違いない。
『ごめん、油断したわ・・・車の周りを感染者に囲まれた。いつの間にか死角から来ていたのね』
「車で逃げられそうにないか?」
『行けるかもしれないけど、転倒するリスクが大きいわ。一体何処からこんなに・・・』
「ざっと、何体いる?」
『二十・・・いえ、三十は居るかも。本当にごめんなさい』
「謝るな、君のミスじゃない。必ず助け出すから、そこで待っていてくれ。万一の時は転倒しても良い、とにかく無事に逃げられるよう、車で突破してみてくれ」
『ありがとう!』
ミカエラと満は顔を見合わせた。
「花火は使い切ってしまったし、一戦交える事になりそうね」
「刃物だけで倒せる数じゃないからな。マリンは身動きできない。俺達二人で助けるぞ」
釣りに行った帰り道、土砂降りの雨に遭った。まるで石で叩かれているかのような雨音が車中に響いたのを今でも覚えている。ちょうど、今もそんな音が聞こえている。
ただ、あの時と違うのは天国と地獄ほどの差がある景色の違いと、呻き声が加わっていると言う事だ。
死後経過によって輝きを失い、中には最早その眼球すら無くなった虚ろな目が、それでも輝きとは違う光を灯して車中にいる自分を見つめているような気がした。
マリンはトラックの運転席から後部座席の中央へと移り、拳銃と予備弾倉を握り締めた。仮に手持ちの銃弾全てを見事に頭部へ命中させても、この集団はそれ以上の数を擁していた。到底、自力ではどうにもならない。窓ガラスを割られた時が自分の運命が潰える時だ。命の壁であるガラス窓が頼り無く軋んでいる。
車体は揺らされ、不快な振動が伝わってくる。形容できない不安と恐怖が押し包む中、それでも自分が取り乱さずにいられるのは、絶対的な信頼で結ばれた仲間の存在があるからだと、今なら胸を張って言える。
こんな死に方はこの世界では当然のように起こり得るだろう。そして多くの場合、自分の立場になったら見捨てられる。だが、それでもマリンには自分を助けに来てくれる満とミカエラの姿を信じられた。
逆にあの二人が同じ状況に陥っても、勇気を振り絞って助けに行く自信がある。家族の絆に等しい絶対の信頼関係。それが自分達にはある。
満が、必ず助けに来てくれると約束した。それだけで十分だ。
銃声が響く。音に反応した感染者が一斉にそちらを見た。それと同じ方向を見たマリンは安堵の息を漏らした。
「左側から来る奴らを任せる。ヤバいと感じた時はすぐ叫んでくれ」
「了解!」
満は自分の拳銃と弾倉もミカエラに渡し、自身はショットガンを撃った。マリンに当たらないよう、車から離れた群の頭部に向かって撃つ。上手い具合に命中し、二体が崩れ落ちる。
ミカエラは回転拳銃を腰に戻し、満から借りた拳銃に持ち替えた。その拳銃で車の左側面から向かってくる感染者を撃った。一発目は胸に当たったが、二発目からは眉間を貫き、三発目でもう一体の感染者のこめかみを撃ち抜いた。距離は五メートル程だが、見事な腕である。
「流石だ」
何より、この至近距離で感染者の群に対峙しながら落ち着いて当てられる集中力は驚嘆に値する。彼女ら二人は射撃のセンスが異常なまでに良い。こうして銃で戦えるのは、彼女らが弾を無駄にしないおかげでもある。
車の周りにいた感染者が少なくなった隙を見計らい、マリンが運転席に戻り、車を発車させた。背を向けている感染者を後ろから踏み潰し、後ろから追ってくる感染者をバックで轢き、それから群を迂回してミカエラと満の後方で停車した。
「乗って!」
満とミカエラは直ぐに銃撃を止め、マリンの運転するトラックの後部座席と助手席に乗り込んだ。それぞれが銃の弾を撃ち尽くした所だった。
「二人とも、大丈夫?」
「ああ、無事だ」
「マリンも無事で何よりだわ」
「本当にごめんなさい、油断したわ。感染者の群が大人しく移動していくか監視していたんだけど・・・いつの間にか背後から囲まれていて」
「一人で見張っていたんだ、無理もない。所で、ミカエラの彼氏の手掛かりがつかめた。この近くの大学に軍と共に避難したらしい」
「この様子だと、流石に軍は撤収しているでしょうね。でも、民間人のグループとして残っているかもしれないわね」
「そう言う事だ」
感染拡大初期、当時は軍や政府関係者と共に行動していれば安心だと思う人も多かった。しかし、軍とはいえ補給が途絶えるとその弱体化は避けられず、民間人を守り続ける余裕も無くなった。軍は民間人を学校や病院といった避難所に運ぶと、必要な人材だけ任意で徴兵すると、その他の者とは行動を別にした。悪い言い方をすれば、弱者は置き去りにされたのだ。
だが、軍と行動を共にしても安全という保証は無い。寧ろ、離れて自給している方が安全な事もある。軍は略奪者にとって脅威ではあるが、同時に物資の宝庫でもある。戦闘に強い集団とは言え、狙われない訳ではない。ボミットスの例もある。
「今日は遅い。一旦出直そう。まずは寝床を見つけないと」
「モーテルがあるわ。ここからそう遠く無い」
「行こう。そろそろ日が暮れる」
辺りはすっかり暗くなり、ヘッドライトの照らす視界だけが頼りとなっていた。それでもミカエラの道案内でモーテルの看板と建物の姿が見えた途端、一行は安堵した。
なるべく国道から見えないよう、車を建物の影に駐車し、三人は駐車場へ降りた。満は現金式の給油機を見つけ、それを確かめてみた。
「どうやら略奪されていないようだが、変質していなければ良いが」
「コップを見つけて来るわ。入れて見れば分かるかも」
「それがいいな。壊す為の工具も拝借してこよう」
満は先にモーテルの中を覗いた。気配は無く、見える範囲の家具には薄らと埃が積もっていた。気配は無い。普段なら自分が先陣を切る所だが、危険性が低いと判断し、ミカエラとマリンを呼んだ。
「今日は二人が前衛をやってみてくれ。ちょっとした訓練だ」
「オーケー、やってみるから、フォローしてよ?」
「勿論だ」
マリンがドアノブに手を掛けた。鍵は掛かっている。ミカエラが拳銃の銃把で窓ガラスを割り、そこからマリンが手を入れて内鍵を開け、扉を開け放った。その隙間からミカエラが滑り込むように突入し、マリンがミカエラの背後を守りながら続いた。
「おお、二人とも良い感じだ」
フロントのようだが月明かりすら無く、肉眼では殆ど何も見えない。マリンがライトを手に取り、室内を照らして回った。
鹿の剥製が飾られたフロント内は片付いたまま殆ど荒れておらず、奇跡的な事に感染発生直後から誰にも狙われずに済んでいたようであった。
「これはお宝が眠っているかもな」
「満、鍵棚があるわ」
「開いているか?」
「ここも閉まっている。非常時でも几帳面な主人だったのね」
ミカエラが呆れながら鍵棚を叩いた。
「非常時に仕事場へ戻って職務を全うする美人さんは?」
「・・・私は看護師だからいいの」
「どうするの?壊す?」
「そうだな。何か、バールのようなもの・・・でもあれば良いんだが。手分けして探してみよう。どこかに物置きか道具置き場があるだろう」
三手に別れて捜索を開始した。モーテルは二階建てで一階に十部屋、二階に七部屋あり、満は二階へと向かった。どの部屋も扉は閉まっているが鍵は掛かっておらず、一部屋ずつ見て回った。しかしどれも何も残されていない客室で、幾つかの部屋には人が泊まっていた形跡はあるものの、目ぼしい物は何も無かった。
「二階には無いな、一階はどうだ?」
「まだ探索中・・・あれ、一箇所、鍵が掛かっている」
訝しむマリンの声を頼りに、満もライトを点けながら一階に降りた。
「そこじゃないか?部屋の番号はあるか?」
「ここだけ無いわね。でもここが道具置き場だとすると、打つ手が無いわね」
「ちょっと外を見て来る。ミカエラと一緒に休んでいていいぞ」
「いいえ、私も行くわ。ミカエラ、少し中で待っていて」
「分かった」
マリンに足元を照らしてもらいながら満はモーテルの外を見て回った。モーテルの裏側には空瓶の詰まった箱や使えなくなった自転車などが放置されていた。蔦も伸び放題にモーテルの壁を這っており、ある種の趣すら感じられた。
「ん?」
蔦に覆われた壁の中に、ドアノブが突き出ていた。扉の輪郭が蔦に覆われて隠れていた。
「扉だ、開くかな」
マリンが扉を照らした。ドアの周りに張り付いている蔦をナイフで切り、ドアノブを回してみた。
「重いが開きそうだ。少し下がっていてくれ」
「気を付けてね」
マリンのライトに照らされながら、満はドアを渾身の力で引いた。ドアに固く絡み付いた蔦が何本か引きちぎられ、扉が開いた。
LEDの青白い光に照らされた、予備の椅子や非常用の道具、備品などが詰まれていた。段ボールの一つは非常食であった。
「ツイているな」
「本当ね。貴方が来てから結構運が向いているのかも」
「そうか?映画張りのピンチも多いように思えるが」
「・・・そう言えばそうね。でも、必要な物は順調に手に入っているわ」
そう言いながらマリンは非常食の詰まった段ボールを倉庫の奥から引っ張り出した。ナイフで封を切って箱を開けると、缶詰の非常食が大量に入っていた。スープとクラッカーがセットになった物であった。
「これはまた本格的な高級非常食だが・・・何だか、梅干しや沢庵が食いたくなったな」
「タクアン?ウメボシ?」
「ああ、沢庵はこっちのピクルスみたいな物さ。日本の伝統的な保存食だよ」
「それは美味しいの?」
「ふむ・・・沢庵はともかく、梅干しは君らにはショッキングな味だろうな。酸っぱくて塩っぽいんだ」
「うーん、ちょっと試してみたいかも」
満は備品箱からバールを引っ張り出した。上手くやれば鍵棚を破壊できるだろう。
まずはバールを持ち、鍵棚に向かった。鉄製の箱の隙間にバールを掛け、梃子の原理でこじ開けようとするが簡単には開かない。それでも何度も執拗に押している内、鍵棚を無理矢理こじ開けた。鍵は歪に曲がって破損している。
「開いたわね」
マリンが鍵棚の中から幾つかの鍵を取り上げた。タグに「燃料」とマジックで書かれた鍵を見つけ、それを持って給油機の前へと戻った。マリンが鍵を開け、満は周囲を見張った。程なくして、マリンが鍵を開けてチェーンを解いた。
問題はガソリンが無事かどうかだ。無事ならば物置きにあったホースを使って汲み上げられる。チェーンを解き終え、給油機の蓋を開けた。ライトで給油口を覗いて見るが、液体の水面は確かに確認できた。
「ガソリンは入っているみたいだけど・・・」
「汲み上げてみよう」
満はポリタンクとホースを取りに戻り、ホースを給油口に突っ込んでから片方を口に含み、吸い上げた。段差を利用してタンクにガソリンを入れさせる。あっという間にタンクは満タンになった。そのタンクからガソリンを少し、マリンの持ってきたコップに注いでみた。
懐中電灯に照らされた赤茶けた色のガソリンは、まだ使えるだろうと満は判断した。
「大丈夫だろう。入れられる容器に詰めるだけ詰め込んで、車のタンクも一杯にしていこう」
「万一の時はそれまでってことね」
「そう言う事だ。そろそろ戻ろう、ミカエラが心配する」
「一応、鍵を掛け直しておくわ」
夕食となる食料を降ろしに満は車へと戻った。その際、道路へ出て周囲を見渡してみたが、感染者も人間も近付いて来ている様子は無かった。安全を確認してからトランクを開け、食料を降ろして鍵を掛け直した。マリンも給油機に鍵を掛け直し、モーテルの入り口で満を待っていた。
ミカエラはフロントで床に新聞紙を敷き、その上で自分が常に携帯する救急キットの中身を広げていた。消毒薬やガーゼ、包帯や絆創膏は勿論、メスと鉗子、外科縫合用の針と糸もあり、更には解熱鎮痛剤や抗生物質の注射・錠剤などもしっかりと備わっていた。ミカエラはそれらの道具を丁寧に整理している所であった。
膝の上で医薬品を束ね、それをケースに詰めていく姿は奥ゆかしく、満は暫し見惚れていた。
『そう言えば、俺が昔惚れていた幼馴染も、よくこんな風に怪我の手当てをして看護婦さんごっこなんてしていたっけな・・・』
彼女が居れば万一誰かが傷を負っても直ぐに駆け付けてくれるだろう。改めて頼もしい存在だと思う。
「お疲れ、ミカエラ」
「ああ、満。ガソリンはどうだった?」
「大丈夫そうだ。鍵の掛かっていた物置にはホースくらいしか使える物が無かったよ。明日、燃料を詰め込む。夕食の準備をするから、もう少し待っていてくれ」
「オーケー、楽しみに待っているわ」
夕食を済ませ、それぞれが選んだ個室で夜を過ごす。非常用のキャンドルも倉庫にあったので、それを各部屋の灯りとして使った。カーテンを閉めさせている上、キャンドルの火も僅かな光なので外に漏れる心配も低い。
満の過ごす部屋は両隣のミカエラ、マリンに挟まれる形だが、ミカエラはマリンの部屋に遊びに行っているらしく、二人の気配は一方から感じられた。時折、楽しげな談笑や会話が断片的に聞こえてくる。
二人の楽しげな声をラジオ代わりにしながら満は就寝前の最後の仕事を終えようとしていた。明日の移動ルートの選定と銃器の点検だ。但し、二人の拳銃は無い。あの二人も自分の拳銃は自分で管理できるようになってきた。益々頼もしい限りだ。
移動ルートは二択だ。ミカエラから聞いた大学への通り道。国道に沿って直接向かうルートか、市街に出る、やや迂回するルート。前者は障害が予想される。大学は短期間ながら軍が駐留する避難所となっていた。とすればそこへ繋がる大通りは検問所やバリケードで封鎖されていると考えるのが妥当だ。そして、そうした堅牢な造りの場所には略奪者が住み付くか、感染者の溜まり場となり易い。
では迂回ルートはどうか。こちらも市街に接している以上、それらの障害は少なからず存在するだろうが、それでも直線ルートよりは障壁も少なく済むだろう。結局、どちらも同じ程度の時間が掛かる。
ルートを決定し終え、ベッドに寝転ぶ。寝袋とは比べ物にならない寝心地だ。マリンの家で過ごしていた時も満がベッドで寝る事は殆ど無かった為、久しぶりだった。
強張っていた背中や肩がシーツに溶かされるかのように感覚が薄れて行く。そのまま心地良い眠りに落ちた。
「冷蔵庫の中に、昨日の鯖が入っているよ。味噌汁は自分で温めておいで」
「おう」
変わらない朝。親父は居間の座布団で胡坐に乗せた新聞に目を落としている。
満が味噌汁を温める間、間の抜けた欠伸が居間から聞こえた。それから昨日のプロ野球の結果と自分の住む県のサッカーチームの結果に落胆した感想を漏らしている。
母が家族の人数分の洗濯物を肩に担いで玄関から出て行き、入れ違いに野良仕事から帰った足の悪い祖母がよろよろと辿り着いた玄関先で靴を脱いだ。
用意された朝食を手に卓袱台に行こうとすると、母が火にかけた薬缶が沸騰して、口先から湯をこぼし始めた。
「おい、消していいのか?」
母は居ない。親父も祖母も答えず、居間へと入っていった。
「まったく」
ガスの元栓を閉めた。
ああ、これから朝飯を食べたらまた似たり寄ったりの退屈な一日が始まる。やかましくて、悪戯ばかりする、やんちゃで可愛い豚達に餌をやって、畑に手伝いに行って。
泥と糞まみれになって、夕方には家族と飯を食って、夜は配信されている動画を見て過ごす。時々、豚や畑の様子を見回りに行く。そして一日を終える。
その繰り返しで俺も親父の後を追ってどんどん老いて行く。
セレブのように豪遊自慢をする事も無く、高い車を買える訳でもなく、とびきりの美人と結婚できる訳でもない。いや・・・結婚できる相手が見つかるかどうかも怪しい。
変わり映えの無い日常、輝きの無い人生だ。
つまらない一生だ、と思っていた。
それらがどんなに幸せな事かも気付かなかった。
どうせなら、刺激のある日常が良かった。いつも何処かで、少しだけそう思っていた。自分は生粋のお子様、中二病だった。
戦場で血に塗れながら、仲間を失いながらも敵に突撃して、華々しい戦果と共に讃えられて。最期は愛しのヒロイン達に惜しまれながら命を落とす。
そんな人生を送ってみたい、と思っていた。我ながら愚かだった。
『なれたじゃないか?散々殺して、夢にまで見た文句なしのヒロインにも囲まれただろ?・・・喝采を送る観客はいないがな』
自分自身が、その居間から出てきて満の肩を叩いた。体格も顔も同じだが、その顔つきはどこか鋭く、不敵だった。俺だが、俺じゃないのがすぐに分かった。これが夢でも妄想でも無い事も。
居間の中にはもう誰も居ない。変わらない日常を過ごしてきた家も、暗闇に消え去った。
『俺と違って・・・この世界のお前には重荷だと思うが』
間を置いて、自分自身が一言、ほんの一声、満に何か言葉を掛けたが、それは聞き取れなかった。
「ああ。思っていたのとは随分違った」
目元の雫を拭いながら体を起こす。丁度、朝日がカーテンの隙間から覗きはじめた所だった。キャンドルは燃え尽き、蝋の跡と僅かな芯を皿の上に残すだけだった。ベッドの中で朝の光を見つめながらぼんやりと物思いに耽った。
あの家に、マリンやミカエラを連れて行ったら皆驚いただろうな。婆さんなんて大慌てして腰を抜かしただろう。親父は英語は話せない、とか片言で連呼してそうだ。母さんは・・・まぁ、何だかんだで落ち着いてそうだな。
マリンを嫁さんにする、なんて言ったら大喜びしただろう。俺の独身を心配してばかりいたから。
「そうか・・・もう俺を心配してくれる家族も居ないのか」
残酷な現実に戻った。不思議と静かな気持ちだった。もう泣く気にはならない。
寧ろ、自分がしっかりしなくては、と思った。あの世で再会した時、家族に顔向けできるように。
「ん?」
ベッドから起き上がると、出入り口脇にある小さな棚にトレーが載っていた。その上には食事と手紙があった。その手紙を取り、広げてみる。
「朝食、食べておいてね・・・か」
モーテル備え付けのメモ用紙にマリンの字で短く書かれた一行。その手紙をポケットに入れ、トレーを自分のベッド脇にあるテーブルに乗せ、朝食の前で深く手を合わせた。それから食事に目を向けると、その中の一品を見て思わず笑みがこぼれた。
「偶然か?鯖の缶詰めとは・・・」
今日は良い日になるに違いない。そう祈った。
数ブロックを超え、満はハンドルを切った。大通りから外れた道を進む事一時間。徐々に道が開けてくる。町の小高い場所に立った大学が時折、開けた建物の隙間から見ることができた。大学には幾つかの棟があり、遠目に見てもその敷地は巨大だった。つまりここは学園都市という事になる。今回は用が無いが、この大学の所有する研修用の施設が郊外にもあるという。
「なるほど、大勢を収容できそうだ。それに、作りも堅牢だしな」
「設備も良いわ。確か、小さいけど風力とソーラー式の発電機もあった筈よ」
「それなら誰かしら住み付いているだろうな」
大学へ近付くに連れ、道が険しくなった。動かなくなった車をバリケード代わりにしたり、コンクリートのバリケードが道のあちらこちらを封鎖し、一直線には移動できなくしてしまっているからだ。予想通りだった。これも感染者が防衛線へ一斉に接近できないようにする目的だったのだろう。完全封鎖されていない所を見ると、大学に立て篭もる生存者がいたとしても、それだけの余力が無いのだと推察される。
「あ、ここのカフェ」
「来た事が?」
「ううん、その内行こうって話をしていたけど、結局来れなかったの」
「何なら寄ってみる?」
「ううん、後で良いわ。彼の無事を確認したら、ここで休めばいいから」
大学の裏門に近付く。敷地の外周は元からあった塀に加え、鋼板や鉄骨を溶接したバリケードで補強されていた。工業棟も敷地内にあったのだろう。外部からの侵入に対しては頼もしい防御力を発揮している。が、鋼材が足りない個所は木板で補強してあるだけだった。それでも、壊されていないので見た目より頑強に作られているらしい。裏門のゲート自体もやはり厳重に補強されていた。
しかし、ゲートの周辺には防壁が無かった。それ以前に、裏門が開いている。
その時点で満は内部の状況を理解できた。いや、マリンにも理解できているだろう。もしかしたら、ミカエラにも。
この世界で拠点の裏口を開けておくような馬鹿は一人も居ない。
それでも誰も、何も言わなかった。それに、中に誰も居なくても彼が死んだと確定する訳ではない。また手掛かりがあるかもしれない。
誰も居ない、開け放たれたままのゲートを潜り、満は大学の裏口から進入した。広い駐車場を通り抜け、構内を見通せる場所で車を停めた。だが車が停まる前にミカエラは待ち切れない様子で降車した。
「ミカエラ、待って」
マリンの制止も聞かず、ミカエラは取り憑かれたように心許なく歩き出した。
「早く探さないと・・・」
満が車を停めて降車し、ミカエラの前に回り込んだ。
「落ち着こう、ミカエラ。ここで君に何かあったら元も子も無い。慎重に、全て探して回ろう」
その言葉の後半は殆ど偽りだった。構内には至る所に人影・・・どう見ても生者では無いものがうろついている。十や二十では無いし、校内は更に多いかもしれない。
「でも、中に閉じ込められているのかも!」
そのミカエラの言葉は焦りから来る憶測ではあったが、可能性として否定できない。確かに、何らかのトラブルで裏門を突破され、校内で身動きが取れない状況に陥っている可能性もある。自分とミカエラが病院でそうなったように。
「そうだな。だとしたら尚更入念に偵察して、作戦を立てなければ助けられない。協力してくれるだろう、ミカエラ?」
「ええ・・・そうね、その通りだわ。もう大丈夫」
ミカエラが平静を取り戻したのを確認し、満もマリンも安堵した。
「まずは感染者を刺激しない程度に構内を調べて回ろう。まずは外からだ。二人は決して離れずに探索してくれ。俺は反対側の駐車場から見て来る。何かあったら無線で知らせてくれ」
「了解、また後で合流しましょう」
「何も無かったら三十分後、ここで落ち合おう。一応、キーは車の下に隠して置くからな」
二手に別れ、捜索に移った。マリンとミカエラを見送り、満は駐車場に戻った。裏門から一体の感染者が入ってくる所だったが、無視した。鉈を抜き身で持ちながら駐車場内に立つ感染者に見覚えのある顔が無いか探す。
彼氏に会った事は無いが、あの家で写真は見た。顔の面影さえ残っていれば分かる筈だ。しかし、駐車場に立つ感染者の全てが全くの別人だった。手掛かりも無い。落胆するべきか安堵して良いものか分からないまま、更に周辺を見て回った。
構内の一角、校舎寄りに立つ警官の姿があった。腰に付けている筈の装備は全て無くなっている。彼氏は警官では無いとの事なので無視する。
その後も周囲を見て回ったが、何の手がかりも得られないまま、三十分が経過した。一体の感染者を始末しながら合流地点に向かうと、反対側からミカエラとマリンがやってきた。二人とも、特にミカエラは浮かない表情で首を振った。成果を問うまでも無い。
「こっちもだ。これ以上は外を探しても何も見つからないだろう。仕方ない。装備を整えてから中を探そう。二人とも、拳銃にフル装填して、予備弾もしっかり持っていくんだ」
「ええ、分かった」
二人は車のトランクを開け、中から弾薬箱を取り出して開けた。ミカエラもマリンも拳銃にしっかりと弾を込め、満とマリンは薬室に一発送りこんでから弾倉を詰めた。
「マリン、ミカエラと拳銃を交換してやってくれ。代わりにこれを君に」
満は自分のショットガンをマリンに渡した。
「ストックには布を巻いたから、多少は衝撃も和らぐと思うんだが・・・万一の時にはそれでしっかり自身とミカエラを守ってくれ」
「ありがとう。でも、あなたは?」
「クロスボウに拳銃があれば何とかなるさ。鉈もある」
「頼もしいわね。それじゃ、行きましょうか」
「ああ、突入だ」
埃を被った扉がある。大きな、立派な扉だ。その扉が振動し、積もっていた埃がふわりと宙を舞った。それから二度、三度と振動した後、扉はゆっくりと開かれた。
「すごい埃だ」
口と鼻を袖で覆いながら内部へと侵入した。暗がりの中、ショットガンを背負ったマリンが胸ポケットからフラッシュライトを取り出し、闇へと向けて点灯した。
三十メートル以上離れた場所から感染者がよろよろとこちらへ向かってきていた。時折顔を上げ、こちらを見ながら寄ってくる。既に扉を蹴った物音で気付いている感染者もいるだろう。
「任せろ」
満は鉈を構え、感染者に歩み寄って間合いを取った。そして、渾身の力で頭部を叩き切った。まだ暗闇の奥には気配が感じられるが、その姿が見えて来るまで待つつもりは無い。
「・・・」
とても、人が住んでいる気配は無い。放棄されたのも一ヶ月やそこらの期間では無いだろう。ミカエラは落胆と絶望の色を顔に浮かばせながら崩れ落ちる感染者を見つめた。
「やっぱり、探すだけ無駄かな・・・」
「そんな事言うな、出来る限り確かめよう」
「そうよ、ここまで来たんじゃない。ここで探さないと、きっと後で後悔するわ」
「でも、こんな場所で・・・それに、二人をこれ以上危険な目に会わせられない」
「その議論ならもう終わっている。さぁ、行こう。きっと、避難者は広い部屋を避難場所にしていた筈だ。それらしい場所を重点的に見て行こう。また手掛かりがあるかも」
ミカエラの反論を聞かず、満は先へと進んだ。
全員、分かっている。探すだけ無駄だと。それでも、探さない部屋が一つでもあれば、それは延々と望み…未練となって、人を呪縛し続ける。
だからこれは合理性の話ではない。 ミカエラの決着なのだ。
表情は平静を保っているつもりだが、正直な所、極めて高いリスクを犯している事は百も承知だった。それに、極めて不可能に近い。これだけ広い校内の全ての部屋を見て回れば、どれだけの感染者と遭遇するか分かったものではない。しかも場所はこちらに不利だ。遭遇すれば逃げられない。遭遇した感染者は全て始末して進まなければならない。もしも放っておけば後で自分達を包囲し、逃げ場も失うだろう。そうなれば助かる見込みは無い。
それでも、ミカエラに決着をつけさせてやりたかった。ここで諦めて去れば、必ず後悔に苛まれる。それは満達にとっても堪え難い事であった。
前方の部屋から感染者が一体、出て来た。こちらに気付き、向かってくる。それに釣られたのか更に二体、感染者が教室から出て来た。
強行突破する覚悟はできている。ただし、感染者が一度に四体以上現れたら流石にどうにもならない。その時は撤退するしかない。
満は鉈を握り締め、手近な一体の頭部を叩き割った。マリンがもう一体を引き受け、満が教えた護身術を応用して感染者を倒れさせ、頭部にナイフを突き立てた。ミカエラはもう一体の後ろに回り込み、羽交い絞めにした。その隙に満が大型ナイフでその側頭部を貫いた。感染者を殲滅し、満は鉈を回収しながらその教室の中を覗いた。
「う・・・」
思わず声を詰まらせた。教室の中には予想を超える数の感染者が犇めき合っていた。この一部屋だけで十体は居るだろう。その扉を音がしない様に静かに閉め、満は二人に向き直った。
「行こう。引き続き、音は立てない様に」
「オーケー」
二人も内部の様子を察したようだった。実際、満は冷や汗をかいていた。その先の教室にも気配があった。扉は閉まっていたのでそこを静かに通り抜け、その先にあるホワイトボードを調べた。マジックで矢印と案内が書かれていた。
「どう?」
「一階は避難者受け入れに使っていたらしい。二階、三階は軍の拠点にしていたようだ」
「じゃあ、二階に行ってみましょう」
もしも・・・仮に、あの教室の中のように感染者だらけの部屋にボーイフレンドが混じっていたら、二度と会う事は出来ないだろう。あれだけの中から一人を探し出す事は出来ない。ここにいるのに、それに気付かないままここを去る事になってしまうかもしれない。
満は脳裏に浮かんだ不吉な考えを拭い、二階への階段を上った。階段の踊り場に食い荒らされた兵士が壁に背を預けて倒れていた。既に絶命して白骨化しており、装備品は全て回収されていた。骨まで齧られたのか、明らかに風化ではない欠損が目立つ。壁には一面に血の手形が付いており、その凄惨さを物語っている。
「ここで仲間に見捨てられたのか、それとも死んだ後で来た誰かに持って行かれたのか・・・」
後者ならばボーイフレンドを含めた生存者達がまだ生きている可能性が高い。満は先に二階へと上り、廊下の角からフロアの様子を窺った。やはり教室には気配があるものの、廊下には感染者は見当たらない。閉鎖された空間に滞留している群を除けば、後は校舎の外へと出て行ったらしい。階段で待つ二人を手招きし、満は弾薬ケースや銃器ケースが重なって置かれている多目的ホールの入口へと向かった。そこが軍の拠点となっていたであろう事は確かだ。当然、ケースは全て空だった。ホールの中は机や椅子が乱雑に転がり、幾らか争った形跡もあった。ホワイトボードには食料と物資の在庫や今後についての大まかな方針が書かれているものの、この大学で最後に何が起きたのかについては書かれていなかった。それらの状況から、満はこの大学構内に何らかの理由で感染者の大群が押し寄せたのだろうと推測できた。それを一旦は防いだのか防げなかったのか、直後に軍は大慌てで撤退した。そうでなければここで何が起きたのかくらいは状況整理した痕跡がある筈だ。
しかしそれは同時に、ここにいた生存者が手掛かりを残す間も無かったと言う事にもなる。そんな大混乱の最中に書置きをする暇があったとは思えない。案の定、その後も教室を避けて二階と三階を探して回ったが、何一つ有力な情報は得られなかった。教室の中には避難者の物資が幾らかは残されているようだったが、あまりにもリスクが高かったため、満は手を出さない事にした。
すっかり気落ちしたミカエラは、満とマリンの後を俯き加減に歩いていた。満は見るに耐えられず、別の棟を調べる事にした。既に昼は超えたが、夕暮れまでは充分な時間がある。
「別棟だったら何か残されているかもしれないわね」
マリンも満の提案を支持した。三人は校舎を出て、最も規模が大きい建物を持つ研究棟へとむかった。
何時間も経った。茜色に染まる教室の中で、三人は椅子に腰かけ、誰もが途方に暮れていた。何一つ、得られたものは無い。物資すら得られず、ただ強烈な疲労感が三人の背中にずっしりとのしかかっていた。西日に変わった日差しがゆっくりと傾き、最後に調べた棟であるこのD棟の中も薄暗くなっていく。それに伴って感染者の呻き声が大きくなる。
もう時間だ。これ以上探し続ける事は出来ない。
「ダメだったね」
ミカエラが、ぽつりと言った。
「何と言うか、その・・・すまない。力になれなくて」
「ううん、そんな事無い。二人ともここまで良く探してくれた。感謝しきれないわ」
ミカエラは沈み行く太陽を見つめる。その横顔は、ここに来た時よりも晴れやかな顔だった。
「やるべき事はやり切れたわ。二人のおかげよ。生死はともかく、彼もきっと納得してくれる」
「そう言ってもらえるとせめてもの幸いだ」
それ以上の滞在は出来ず、満達は感染者を避けて棟から脱出し、校舎前に停めていた車に戻った。少し離れた場所を徘徊していた感染者もこちらに気付き、何体かが近付いて来た。だが、慌てなくても充分に逃げ切れる距離だった。マリンが運転席に乗り込み、満が助手席に乗り込もうとした。
ミカエラも後部座席に乗り込もうとしながら、不意に顔を上げ、感染者に目をやった。
「あ・・・」
ミカエラの途切れた声に満が振り返った。ミカエラはそのままの姿勢で一体の感染者を見たまま凍り付いていた。
「ここに居たんだ・・・」
「ミカエラ」
満は車から降り、ミカエラの後に続いた。ミカエラはライフルを手に、かつて恋人だった物と対面した。
「やっと会えたのにね・・・残念だわ」
周りの感染者もこちらを囲みつつあった。だが、この決着だけは邪魔させる訳には行かない。満は自身のショットガンと拳銃の装弾がフルである事を確認してから、ミカエラと背中合わせになるように立った。マリンは運転席から拳銃を構え、こちらの成り行きを見守っている。
足を引きずりながらミカエラに向かって歩く「彼」に向け、ミカエラはゆっくりとライフルの銃口を向けた。そのスコープにかつての恋人の面影を残した顔が、大きく映し出された。
ミカエラの腕でこの距離なら、一発で決まるだろう。だが、引き金はまだ引かれない。もう相手が拳銃でも充分当てられる範囲内に入っていると言うのに、一向に引き金を引けないまま、沈黙が続いた。
「ミカエラ?」
満は訝しみ、ミカエラを見た。満の悪い予感は的中していた。ミカエラはライフルを構えたまま、躊躇していた。瞳は大きく開かれ、その焦点は恐らく定まっていない。今の彼女に見えているのは目の前に迫った元恋人と過ごした日々だろう。
もう諦めている。彼女はそう言っていた。だが、それは半分嘘だった。やはり、心のどこかで微かに・・・無意識に信じていたのだ。彼はどこかでまだ生きている、と。そして、それを心の支えに生きてきた。
自らの生きる意味だったものを、自らの手で断とうとしている。その事への逡巡。
撃てば、全てが終わってしまう。
目前に迫った恋人がキスでもするかのように口を開けて迫る。無論、それは愛情表現などでは無い。だが、ミカエラは遂に撃てないまま、もう数メートルと言う距離にまで相手の接近を許してしまっていた。
満は一瞬躊躇したが、ミカエラに迫る元恋人に拳銃を向けた。
不本意だった。しかし、それが後々禍根を生んだとしても、断じてミカエラを失う訳には行かない。
確実に仕留める為、彼を羽交い絞めにした。そして顔が崩れてしまわないよう、側頭部を撃った。糸が切れたように倒れ込もうとするエヴァンスを、満は懇ろに抱き留めた。目を閉ざしてやると、手を組ませ、ミカエラの前にゆっくりと横たえた。
「すまない・・・もう戻ろう、ミカエラ」
お別れをさせてやる暇さえ、状況が許さなかった。呆然とするミカエラの手を引き、満はマリンの待機するトラックへと戻った。ミカエラは抵抗せず、ぼんやりとした面持ちのまま満に押されて後部座席に座らされた。
続いて満も助手席に着き、車を出すようマリンに促した。満に言われるまでも無く、マリンは車を慎重に発進させて大学の裏門から脱出した。
夕陽が沈みかけていた。丘の上から見渡せる町並みは赤黒く染まり、どこか毒々しさを感じた。
マリンは心配そうにバックミラーを見たが、後部座席に座るミカエラは虚空を見つめたままだった。
そのまま大学から離れ、町からも出ようとしていた所でミカエラが消えそうな声で呟いた。
「あの喫茶店、寄れないかな?」
決して安全な時間帯では無い。だが、満もマリンも、彼女の望みを最大限優先したかった。
「勿論だ。丁度いい、少し休もう」
「そうね、すぐに着くわ」
元来た道を辿る。やがて、昼に見たあの喫茶店が見えた。本当ならここで新たな仲間を迎えてささやかな祝杯を上げる筈だったが、それはもう叶わない。
幸いにも、周囲に感染者の姿は無かった。それでも一、二時間で物音を聞き付けた感染者が集まってくるだろう。その店先で車を停め、満が店内の安全を確認し、それからマリンと共にミカエラが店内に入ってきた。
「幸い、コーヒーは淹れられそうだ。毎度ながら、味は保証できないが」
「頼んだわよ、マスター」
満もマリンも努めていつも通りに振る舞った。ミカエラを道路に面した窓際の席に座らせ、車の中から持ってきた携帯コンロを使って湯を沸かし、店の中に残されていた豆を挽いた。
「・・・例えどんな形であっても」
徐にミカエラが口を開いた。幾分落ち着きを取り戻したようであったが、その声は震えていた。
「見つけられただけ、私は幸せなんだって、それは分かっているけど・・・実際に目の当たりにしたら・・・まさか、こんな・・・」
痛苦に満ちた嘆きだった。満もマリンも、ミカエラのような思いはしていない。ただ、大切な人がどうなったかも知らず、恐らく二度と知る事は無いまま一生を終える事になるのだろう。
どちらが辛いとは言い切れない。だが、今のミカエラに掛けてやれる言葉があるとは満には思えなかったし、思いつかなかった。ただ黙り、ミカエラの吐露する嘆きを聞いてやることしかできなかった。マリンもただ黙ってミカエラに寄り添っている。
「私、これからどうしたら・・・」
ようやく完成したコーヒーを、満は三つのカップに注いだ。香りも殆ど感じられなくなったそのコーヒーをトレイに乗せ、二人の座る席に運んだ。
「少なくとも・・・私達は家族だよ、ミカエラ」
「俺とマリンにはミカエラが必要だ。それは変わらない」
ミカエラは俯いていた顔を上げ、満を見た。
「ねぇ、ミカエラ。さっき満に助けられた時、あなたはどう思った?」
「どう、って・・・安心、かな?」
マリンはミカエラの背中を撫で、優しく笑いかけた。
「なら、あなたの心はまだ生きていたいって思っているはず。今はその気持ちを大事にして」
窓の外に動く影が見え始めた。思いの外早く感づいた感染者が居たようだ。
『全く、空気の読めない連中だ・・・』
ミカエラはそんな窓の外を見た。傷心の者にとっては最悪な光景ではあるが、それが現実だった。『ああ、ただ泣いていても神様が助けてくれる訳じゃないんだ』
傷ついて悲しんでいれば誰かが助けてくれる訳でも、世界が変わる事も無い。無遠慮なあの亡者たちがその背中に噛みついてくるだけだ。
しかし、そんな世界にもまだ、傷ついた自分を暖かく守ってくれる人が、ここには二人だけいる。
かけがえのない人達だ。今、この世界にこの二人以上に大切な人は居ない。
そんな当たり前の事だが、それを改めて思い知ると、思いの外心は晴れやかになった。
「そうね・・・何も、一人ぼっちになった訳じゃないものね」
まだ涙は湛えている。だが、泣いている訳ではない。
『ふっ切れたな』
その表情を見て、満もマリンも安堵した。
「よし、それじゃあ外の客が入ってくる前にこれを飲んで帰るとしよう」
「賛成」
失った物は大きかったが、乗り越えた。これで燻る事無く先へ進める筈だ。三人はコーヒーを傾けた。
「うわ・・・味しない」
「ああ、予想以上にな・・・」




