死民病院
「良い朝だ」
満は爽やかな空気の下、クロスボウを手に、ショットガンを背に掛けた。
「お譲さん方、準備は良いかな?」
「お化粧していない事以外は良いわ」
ミカエラがマリンから護身用の果物ナイフを受け取りながら小さな欠伸をした。明け方は寒く、場合によっては夜を過ごさねばならないので二人とも厚めの衣服を着用していた。気のせいか、マリンもミカエラも、二人が会う前よりファッションを意識した服装になっているように思えた。
「必要無いさ、充分美人だ。行こう」
満はブーニーハットを被り、ブーツの靴紐を固く結び直してから歩き出した。マリンと共に物資交換に向かった道を、再び辿る。病院は丁度その中間地点、寝泊まりの拠点としていたホテルの近くにある。雨による湿気は殆ど感じないが、それでも感染者が多い地帯を抜けなければならない事には変わりない。それに、外に出たは良いが屋内に戻れなくなり、そのまま屋外を徘徊している感染者も居るだろう。
早速、路肩を覚束ない足取りでこちらに向かってくる感染者を見つけた。距離は百メートル程度。
満は後方を歩く二人を振り返り、手でサインを示した。折角三人も居るのだから、ある程度の役割分担と連携を設けるのは当然だった。満は前衛を担い、ミカエラがライフルを持って狙撃と索敵、マリンはスコープを覗き続けるあまり周囲への警戒が薄れがちなミカエラの周囲を守りつつ満の後に続く。ゲームの真似事だが、充分だろう。
ミカエラには狙撃の素質がある。医療の知識があり、戦闘もこなせるとなれば彼女の存在は極めて重要だ。マリンも拳銃射撃の腕が良く、しかも感染者の集団に囲まれても錯乱せず、的確に狙うべき敵を撃ってくれるので、サポート役として非常に有難い。場数を踏んでいる事もあり、常に慎重で冷静な分析・判断を下せる強さがある。
この二人がいてくれればそうそう全滅する事はあるまい。先頭を進む満は背中の心配をする事無く進む事が出来た。
自分の役割は強行偵察、強襲、突破である。とくに突破は単純で、自分にはこれ以上ない適役だと思っている。突っ込む自分が力ずくの馬鹿でも、後ろの二人が頼もしければ何とかなる。
「もうじき見えてくる頃だな」
「フェンスが見えたわ」
「気を付けて、この前の銃声で集まった奴もいる筈よ」
「ミカエラ、どうだ?」
ミカエラは暫くの間スコープを覗いていたが、やがて暗い面持ちで二人を振り返った。
「かなり居るわ、フェンスの周りに。前回より明らかに多くなっている」
「迂回するか・・・」
満はその場で地図を開いた。マリンもその場にしゃがみこんで満と共に迂回路の選定を始めた。ミカエラはその場に立って周囲を警戒する。
「以前言っていた迂回路を使うか?その場合、どのくらい掛かる?」
「ざっと、往復でプラス二時間かしら。でも、空きテナントの建物内に侵入しなければいけない。比較的感染者は少ないと思うけど・・・一度しか入った事が無いから、中の様子はよく分からない」
「充分だ、アレよりはマシだろう」
フェンスの周りには以前とは比べ物にならない数の感染者が徘徊しているのを満も確認した。建物内は逃げ場も無いが、敵が居なければ安全に通り抜ける事が出来る。場合によっては一発の弾も無駄にせずに先へ進めるだろう。
「遅くなってしまう事も想定内だ、そっちから行こう。いいな、ミカエラ?」
「ここより良いなら喜んで」
地図を折り畳み、小物入れに収納してから満も立ち上がった。
「マリン、ナビを頼む」
「まず東側のブロックに入りましょう。そこからは近いわ」
「くそ・・・」
満は視界の端に映った姿を見て悪態を吐いた。フェンスの周囲に居た感染者のうち数体がこちらに気付き、足を引きずりながら向かってきた。
「呼んでないわよ」
忌々しげに小声で呟き、最後尾に代わったミカエラがライフルを背負い、代わりに三十八口径リボルバーを握り締めながら角を曲がった。その先には六体の感染者が立ち尽くしていた。満が悪態を吐く頃にはその集団がこちらに顔を向けた。殆どの顔は腐敗しており、こちらを見ているのかどうかも怪しかったが、気付かれた事には違いない。
「手早く仕留めて進むぞ、後からも来ているから挟まれる」
そう言い切る前に満がクロスボウを放ち、先頭の一体の首に矢を突き立てた。
「後方にも気を付けながら戦ってくれ!」
撃ち終えたクロスボウを背中に掛け、代わりにショットガンを構える。弾が惜しい為に実弾調整などしていないが、予めドットサイトが搭載されているのでそれを頼りに撃つ。光点を敵の胴体に合わせ、六メートルの距離で引き金を引く。豪快な発射音と共に放たれた散弾が感染者の首元に大きな穴を幾つも空けた。脇から満に迫る感染者に二発、マリンの拳銃弾が命中し、その動きが阻まれた。
「助かった!」
即座にその感染者に銃口を突き付け、文字通り頭部を吹き飛ばす。スイカのように割られた頭から目を逸らし、他の感染者の動きを確認する。一体はミカエラが至近距離で拳銃を用いて頭部を撃ち、始末した。マリンも二発拳銃を撃ち込んで感染者を倒した。残るは一匹。だが、その感染者は片足を引きずっており動きが制限されている。
「放って先を急ごう」
首に矢を受けて倒れていた感染者から矢を引き抜き、満は再び移動を開始した。
「階段を上って、そこの路地を曲がって。鍵はゴミ箱の下に隠してある!」
路地には金網の扉が設置されているが、マリンの言う通り足元にゴミ箱があり、そのキャスターを見ると鍵が置いてあった。すぐにそれを拾い上げ、扉を解錠した。
「ミカエラ、鍵を頼む!」
鍵をミカエラに渡し、満は二人を待たずに先を進んだ。路地の先には二体の感染者。満を視認すると途端に動きが素早くなり、満がショットガンで一方を撃ち倒した時にはもう一方が満の肩を抑え込み、その首元を抑え返して身を守る満は壁に押し付けられた。
「畜生め、かなり力がある!余程新鮮な奴らしい!」
追いついたマリンが拳銃を向けたが躊躇った。正解だ、この距離で組み合っている敵だけを撃つ自信は満にも無い。
「満、絶対にそいつの頭を動かさないで!」
マリンが鉈を抜き、感染者に背後から肉薄した。
「ゆっくりでいい、気付かれるなよ、マリン!」
危く指を齧られそうになり、満は慌てて姿勢を崩しかけた。すると間髪いれずに顔を更に近づけ、もう満の首筋に生臭い息が吹きかかる程に密着していた。
マリンが一気に迫り、鉈を振り上げた。高々と上げられた鉈は吸い込まれるように叩き下ろされ、相手が振り返る前に後頭部に深々と埋まった。
「鍵も掛けた!」
ミカエラが追いつき、生死の境目を前に興奮した二人を見上げた。
「二人とも、ありがとう。おかげで助かった」
「お互い様よ・・・あんなのに私達が組みつかれていたら抵抗できなかった」
そうだろう、と満も納得した。久しぶりに全身の力を使い果たすような力比べをさせられた。恐らく、力だけなら農場での取っ組み合い以来だろう。
「行こう、時間は掛けたくない」
日はまだ真上まで登っていない。三人は建物の入り口に辿りついた。
「マリン、ここがそうなの?」
「そうよ。この中に入って二階の窓から外に出られる。もうここが二階だけど。三階はどうなっているか知らないわ。少なくとも、私達が入った限りでは一、二階には感染者の気配は無かったけど、上には気配があった」
「それが降りてきて無ければ良いがな」
入口の前で満がショットガンにシェルを詰め込んだ。それを見習って二人も自分の武器に弾を補充した。
「二人とも、射撃が上手で頼もしい限りだ。訓練された兵隊だって実戦じゃそうはいかないぞ」
「褒めたって何も出ないわよ」
「なに、やる気を出してくれるだろ?」
支度を整えた満はドアノブをマリンに回させ、ショットガンをドアに向けて構えた。ゆっくりと開け放たれたドアの向こうには暗闇が待ち受けていた。満は暫く銃を構えたまま暗闇を睨みつけていたが、やがて突入を決心した。
「窓がカーテンで塞がれているらしい。何が居るか分からない。ライトを照らしていこう」
ドットサイトのお蔭で暗闇での照準はそれほど苦にならない。むしろ、日光の下で無い分、省電状態のドットが見やすい。逆に日光の下ではそれを全開にしなければ極めて見え難い。ライトもそうだが、電池は貴重なので節電しなければならない。もっとも、このドットサイトは電源オフの無い、インバーター付きの代物なのだが。その代わり、電源を入れたままでもあと数年は持つだろう。
背後からマリンがライトで室内を照らして回った。マリンが照明の代わりになっている間に満は室内の物陰を隈なくチェックした。
「クリア。大丈夫だ」
外に略奪者が居ない事を確認してからカーテンを取り払った。眩い光に舞った埃が雪のように輝いて見えた。
「ここで一休みしよう」
手近なテーブルに腰掛け、満は荷物からペットボトルの水を取り出し、一口だけ傾けて口内を湿らせた。予定通りに行かず、二日がかりになったら水や食料が必要になる。二日ならまだしも、雨が降ればそれ以上の長期戦になる可能性も充分にあり得る。
その場合に備えた荷物は全てミカエラが背負っている。ミカエラは荷物の入ったバックパックをソファの横に下ろし、マリンと共に腰掛けて体を休めた。
皆が体を休めて静かにしていると、天井が軋んでいるのが聞こえた。
「・・・確かに上に居るな。この足音は感染者で間違いない」
「放っておくんでしょ?」
「上に財宝が無ければね」
感染者が大量に居る場所には物資が豊富に残されている事が多い。余程の事が無い限り、危険な場所へ物資探索に入りたがる者など居ないからだ。ハイリスク・ハイリターン。ただし、見返りが何も無い事もあるだろう。
「今は食料にも困っていないし・・・」
「食料は、な。でも弾も電池も多くは無い」
二人からすれば自分は物資欲の強い、強欲な者に見えるかもしれない。だが満は、この世界で過ごして物資がどれほど呆気なく消耗されるかを身を持って理解した。一見、豊富に見える食料も高々数ヶ月分しか持たない。武器弾薬も無いに等しい。以前所属していた自警団では捕えた感染者を用いて射撃訓練を実施していた事もあり、練度は高かったが弾薬の消費も激しかった。段ボール一箱にたっぷりと詰まっていた各種弾薬が実戦と訓練で消費され、たったの一月と数日で綺麗に無くなった。
勿論、人数と訓練をするかどうかにも拠るだろう。無くなってから探そうとしても、探しに行けるとは限らない。欲しい時、常に弾が無ければ戦えないのだ。
「少し、俺だけで様子を見て来たいが・・・いいか?」
不安そうにマリンを見るミカエラだったが、マリンは険しい面持ちで暫く考えた。
「分かった。十五分あればいい?」
「時計なんてもう三年も持ってないから、待ち合わせに遅れるかも知れないが」
「そのくらいで戻って来て。戻らなかったら様子を見に行くからね?」
「了解だ。すまないな、無茶ばかり言って」
「貴方はその無茶を自分だけでやるわ。それに、貴方の考えている事は恐らく正しい。私達が行っても足手まといになるかもしれないから、ここで待つわ」
「足手まといにはならないが、その方が俺も安心して行ける」
「気を付けてね?」
ミカエラに手を上げて返し、満は階段を探した。暗い室内の奥に階段があったが、二階は板を打ち付けて閉ざされていた。だが良く見ると板では無い。タンスの背であった。背板を外せばそのまま開閉式の扉になる。のこぎりは無いが、一部であればマリンの鉈で破壊する事も出来る。
「行けそうだ。その辺にドライバーや工具は無いか?」
「工具・・・」
既に周囲を調べていた二人が、それらしき箱を見つけた。赤いスチール製の工具箱だ。
「でかした、それだ」
ミカエラが差し出した工具箱を開け、満は中からプラスドライバーを取り出した。ドライバーで背板を打ち付けている釘を一つ一つ抜いて行くと背板が外れ、それを静かに取り外した。黴臭いタンスの中に顔を突っ込み、片方の扉をゆっくりと押し上げた。周囲に気配は無く、そのままもう片方も空けて顔を二階に覗かせた。感染者は見えず、ショットガンを上に置き、それから二階に体を乗り上げた。
「満、気を付けて。危なかったらちゃんと逃げて来てね?」
「大丈夫、逃げ足には自信がある」
タンスの扉を閉め、ショットガンを構えながら手近な部屋から捜索を開始する。位置は特定できないが、確かにこのフロアの何処かからか足音が聞こえる。部屋の扉は六つあり、一つは非常階段と札が取り付けられていたが、三つの部屋には何も記されていない。ただ、いずれもオフィスである事は間違いない。そして、そのテナントを借り受けた業者は殆ど居なかったようだ。
二つ、借り受けられていたオフィスは「マーチン弁護士事務所」と「ペイドルック物流センター事務所」のみ。
「どちらも良い匂いがするな」
良い意味でもあり、悪い意味でもある。物資がありそうな雰囲気を感じたのだが、感染者の悪臭も漂っている。手早く満は空きテナントの中を覗いた。椅子一つ、テーブル一つ無いただの部屋だが、噛まれながら逃げ込んで来たのか、感染者が二人、部屋の隅に立っていた。部屋の中央に荷物が落ちているので、満は足音を忍ばせながら部屋に侵入した。感染者が気付く前にそのバッグにまで到達し、それを拾い上げてから気付かれないよう部屋を出た。他の空き部屋に向かいながら中身を確認するが、黴が生えた何かの食べ物の残骸が僅かに残るだけだった。強烈な黴の胞子から顔を逸らし、内側のポケットに何か小物を発見した。
「リップクリームと・・・口紅か」
一瞬、膨らんだ形から弾丸を期待したが持っていて邪魔になる大きさでも無い。リップクリームは弦保護のワックスが切れた際、代用としても使える。殆ど効果は期待できないが。それらを無造作にポケットに突っ込み、鞄を放り捨てながらもう一つの部屋に入った。何も無い。最後の空き部屋にも何も無い。
「時間もあまり掛けられないな・・・」
弁護士事務所の扉を開け、中の様子を窺った。顔の崩れた感染者が二人、満の方を振り返った。ショットガンを使おうとしたが考え直し、クロスボウに持ち替えて片方の頭を撃ち抜く。もう片方が満に襲い掛かるが、そちらはストックで叩き付け、怯んだ所へナイフで頭部にとどめを刺した。
部屋の中にはそれ以上の気配は無いので、満は手早く棚、机の中、金庫などを調べた。金庫に物資を入れるとは思えないし、ダイヤルの解錠番号も分からなかったのでそれは無視し、机と棚を重点的に漁った。
「お」
弁護士の机の中から三十八口径の予備弾薬が入った箱を見つけた。中には五発分だけ、残っていた。それをポケットに放り込み、部屋の中を見回した。
「弾があれば本体もある筈だが」
倒した感染者の身体を探ると、眼鏡を掛けた感染者の方がポケットに回転拳銃を入れていた。が、その弾倉には一発も残っていなかった。銃はミカエラの持っている物の方が状態も良いので、それは感染者の手に戻しておいた。
「自殺できなかったのか、それとも最後まで奇跡を信じたのか」
目ぼしい物が無くなり、満は死体から矢を引き抜きながら部屋を後にした。廊下でクロスボウの弦をセットし、続いてもう一つの部屋に入った。
「いるな・・・」
弁護士事務所よりも一回り広い程度の空間だった。そこに向かい合わせたデスクを幾つも並べ、床はファイルと事務用小物で散乱していた。事務所の奥には責任者の物であろう、拡張されたデスクと山積みにされた段ボールが幾つか重ねられており、もし何かあるとすればその机の引き出しか、段ボールの中にあると思った。
それを阻むのは部屋の中央に三体、隅に二体徘徊する感染者で、まだ満には気付いていないようだったが時間の問題だった。
「引き返せないな」
クロスボウを構え、中央の感染者に一発放った。放たれた矢は鼻の辺りを貫き、感染者を床に崩れさせた。弦をセットし直す。
その物音に気付き、こちらを振り返る感染者にもう一発、矢を放った。焦げ臭い匂いが鼻をつく。
「ワックスが切れてきたな・・・」
クロスボウを手近なデスクの上に載せ、背中に掛けたショットガンを構えながら速射した。一発目は向かってくる感染者の後方に居た感染者の肩を撃ち抜いたがダメージにはならない。二射目で先頭の感染者の頭部を吹き飛ばし、三射目で更に後方に居た無傷の感染者の頭部を吹き飛ばした。その時点で満はショットガンを手の内で回して逆手に持った。片腕を無くしながら満に突進してくる感染者の顔面を剣道の抜き技の要領で、銃床で叩きつける。その感染者は倒れ込み、手足を小刻みに痙攣させていたが、ナイフで頭部を貫いてやるとやがて収まった。
「三発も無駄にして、弦も痛めた。これで何も無かったら・・・」
骨折り損に近い。それでも満は引き出しを漁り始めた。が、引き出しには何も入っていない。内心で期待が外れた事に失望感を覚えながらも奥に積まれた段ボール箱を手当たり次第にひっくり返し、中身を調べた。
荷物の配送中に何らかのトラブルが発生した物を保管していたらしく、中身は様々であった。衣類もあれば小物の家具や書類もあった。これらが先に漁られた形跡が無い事は良い兆候だ。必要な物資が眠っている可能性が高い。
「満、大丈夫?」
突如、背後から声を掛けられ、心臓が止まりかけた。
「ああ、無傷だ。もう時間を過ぎたか?」
「遅いし、結構銃声が聞こえたから見に来たのよ。まだ探しているの?」
戸口に立っていたマリンが部屋に入って来た。感染者の死骸を跨ぎ、段ボール箱の中身を覗き込んだ。続いてミカエラも部屋の中に入り、辺りを見回した。
「なるほど、宅配中の荷物ね」
「騒ぎで注文のキャンセル品やトラブルで引き渡しが中止になった品々だよ。先客は無いが、目ぼしい物も無いみたいだな・・・」
満が溜め息を吐いた。
「そうでも無いわ」
その横で段ボールの中を漁っていたマリンとミカエラが何かを見つけ、それぞれ自分のバックパックに収納した。満も漁っていた手元を止めた。
「流石に武器は無かったな・・・これしか」
箱の中から一振りの鉈を抜き取った。藪を進む際に用いられるマシェットと呼ばれる物だが、充分武器として使用できる。今使っている長鉈よりも短いが、その分強度が高く、厚みもあるので砥ぎ方次第で切れ味も引き出せる。
「これと・・・少しだが、弾があった」
拾った弾丸をミカエラに渡す。
「良かったじゃない。それじゃ、先を急ぎましょう。日が暮れてしまう」
「ああ、満足いく道草だった。行こう」
階段を下り、外へ続くドアの鍵を開けて外の様子を確認した。感染者の数は疎ら。最も近い者でも三十メートルは離れているが、テナント内での銃声を察知したのか、徐々に感染者が姿を見せ始めていた。このまま待っていても良い事は無い。
「よし、出よう」
二人を連れて空きテナントを抜け、マリンの案内に従って病院の方向を目指した。
「気を付けて、集まり始めている!」
建物や路地の物陰から次々姿を現し始めている感染者を確認しながら、ミカエラが二人に注意を促した。
「すまない、俺が迂闊だった!」
「気にしないで!後でたっぷり埋め合わせしてもらうわ!そこの路地を右に!」
通りに出た。更に右方向、五百メートルほど先には感染者の群がるフェンスが見える。取りあえず、迂回は成功した。
感染者の群を尻目に進み、そのまま走り抜ける。
「運がいい。今の所、進路上に大きな群れは見えないぞ」
ミカエラにライフルを返し、満は安堵した。
「ここからは一直線で大丈夫ね。時間に余裕があれば、寄り道して行かない?」
「エステに、か?」
「それもいいけど、貴方が好きそうな所よ。アウトドアショップ。大分荒らされているだろうだけど、まだ何かあるかも」
「そりゃいい、行こう。そこで冬用の寝具が揃えられれば病院での仕事がより手早く済ませられる」
「私も賛成。そっちの方が病院でのリスクが大幅に減るわ」
「物があればだけどね」
「この先で脇道に逸れて、路地を抜けた先にあるわ」
「脇道には感染者が多少いるかもな。でも多少のリスクを冒すだけの価値はある」
「決定ね、行きましょう」
まばらな感染者は無視して進み、邪魔になるようなら満が押し退けて進んだ。
「あいつら、後で私達の後を追ってくるかしら」
「追ってくるだろうな、俺達くらいしか食い物がないんだから」
「この中じゃマリンが一番美味しそうね」
「不吉な会話するの、止めてくれない?ほら、あそこよ」
大通りを挟んで補強されたバリケードの一部が外れ、路地へと繋がる入口が見えた。その先に幾つか扉を板で打ち付けた店が並んでいるのが見える。
「外から打ち付けてあるな」
「つまり、中に閉じ込めてあるって事?」
「そうだろうな」
「目的の店はどこ?」
路地の一番奥にある店に向かい、マリンが人差し指を向けた。
「あれか」
路地の一番奥に山小屋をモチーフにした、木造の店があった。路地に感染者は見えず、他に出て来そうな脇道も無い。逆に言えば、一本道の行き止まりにあるその店に入れば、このたったひとつの出口を感染者の群に塞がれたらもう逃げ場は無いと言う事だった。
「桶狭間の戦法が通じる相手とも思えないしな・・・」
「何、それ?」
「気にするな、手早く済ませて戻ろう。さっき振った連中が嫉妬して追ってくる前に。ミカエラ、ここの見張りを頼む」
ライフルを持つミカエラに見張りを任せ、満とマリンで店への侵入を図った。正面のドアは小洒落た調子の木製だが頑丈で、とても蹴破る事は困難そうに見える。その他にはショーウィンドウから侵入するしかないが、これは大きな物音を立てる上、追ってきている感染者だけでなく周辺の新手まで呼び寄せてしまう可能性が高い。
「鍵が掛かっていない事を祈ろう・・・」
ショットガンで錠を撃つ真似はしないつもりだ。リスクは大き過ぎるし、映画のように上手くいくとも思えない。そうなれば弾の無駄遣いで終わる。だが幸いにも、鍵は掛かっておらず、ドアノブは親切に回ってくれた。
「おお、神よ・・・」
大袈裟に天を仰ぐ満を制し、マリンが店内に拳銃を向けた。
「まだ感謝するには早いわ、物が無ければ無意味よ」
埃が積もったカウンターを通り過ぎ、店内を見渡す。気配は無い。
「西側、クリア」
「東、クリア。裏口は無いみたいだ」
二人で店内の安全を確認し、ようやく目当ての棚を探す。
「やっぱり、ひどく漁られているな」
「ガスとかテント、武器になりそうな物は売り切れね。靴は・・・少しだけ残ってる」
「サイズが合いそうだったら、君とミカエラの分も持っていってやってくれ。靴も消耗するからな」
「寝袋もある!」
「それは夏用みたいだな。こっちが冬用だ。・・・しめた。当時の最高素材の寝袋と羽毛布団がある。持って行こう。大きなバックパックも一つ」
「大収穫ね。これで忘れ物は無いわよね?」
「帰り道でも運が良ければ寄れる。余裕があったらその時にしよう」
「あまり大荷物になっても、ね」
と、出入り口から店内に石が投げ込まれた。外で見張りに立っていたミカエラからの警告だ。
「来たな。行こう!」
慌てて店から飛び出すと、路地の先でミカエラが元来た道に向かってライフルを覗きこんでいた。
―その背後に忍び寄る感染者にも気付かずに。
「ミカエラ、伏せろ!」
満が駆けた。ミカエラは満の声に何とか気付いてしゃがんだが、感染者に抱きつかれて組み伏せられた。その肩に、死者の口が触れていた。
満の足が感染者の脇腹を蹴り飛ばし、ミカエラの背中から退かした。
「ミカエラ!噛まれたか?」
ミカエラも顔面蒼白になっていたが、その肩を満が確認した。
「・・・危なかった、唾液は付いているが噛まれて無い」
三人が同時に安堵した。だが、既に追手が二十メートル先に迫っていた。
「立て、行くぞ!振り切って一旦ホテルへ、その後病院に向かう」
二人を先に行かせ、満は後から付いて行った。日が丁度真上に差し掛かる頃、ホテルが見えて来た。
「もう一息だ、走り続けろ!」
二人とも汗だくになり、ミカエラは何度か足を挫きそうになりながら満に助け起こされた。
「私が先に見てくる!」
マリンが拳銃を抜きながらロビーに走り込んだ。ロビー内を一通り見回した後、手を振って合図した。それに応じ、満がミカエラに肩を貸しながらロビーに入った。
「思ったよりくっついていやがる・・・俺が引き離して来るから、ここで待っていてくれ。二十分くらいで戻る」
「ダメ、置いて行かないで!」
錯乱しかけるミカエラをマリンが宥め、満を見送った。
「来いよ、人喰い野郎!」
自分達を安心させるためなのか、そういう性分なのか、満は感染者の群の前でおどけて見せながら群を引き付けた。物陰から隠れて見ているマリン達からしても血の気が失せる程の大群に膨れ上がっていた。音を聞きつけて他の感染者も建物や脇道から集まり、雪ダルマ式に増えていく。
「いくらなんでも、危険すぎるわ・・・」
だが、どうにもならない。これだけの群を前に援護など無意味に均しい。自分達に出来る事はロビーのカウンター裏に隠れ、満が無事に戻ってくる事を祈るだけだった。
「ヒーロー気取りでいると命取りになるって誰かに言われたな・・・」
まったくその通りだ、と満は心底反省していた。後から付いて来る感染者は疲れも知らずに迫ってくる。この亡者が走り出さないでいることがせめてもの救いだ。
「そろそろ良い頃か」
息が切れても止まる訳には行かない。止まれば死が追いつく。青白い馬には乗っていないが、それは確かな死を体現していた。例え身が竦むような大群に追われても、決して無闇に走ってはならない。若い人間の歩行速度なら感染者の群は歩いてでも逃げていられる。だから鼻歌交じりで歩いていても、ペースさえ落とさなければ捕まる事は無い。ただ、歩いているだけでは距離を取る事は出来ない。だから走らねばならないというだけだ。
パニックに陥って逃げ回り、過剰に体力を消耗して力尽きた所を喰われる者は数多く見て来た。
同様に、体力に自信があるからと無計画に走って振り切ろうとして力尽きる者も稀にいた。
満はそれまでの歩調から一気に速度を上げて走り抜けた。感染者の姿が見えなくなってから裏口がありそうな建物か、逃げ場のありそうな路地を探す。
「この辺か!」
丁度いい路地を見つけ、そこへ入り込んだ。狭い路地で、恐らく感染者も潜んでいる筈だが、手間取っていると後から追いかけてくる感染者に見つかってしまう。素早く路地を進み、元来た道に並行するように進む。だが、思う方向へ道が続いていない場合もある。慌てそうになる気持ちを落ち着かせ、ゴミ置き場から起き上がる感染者の頭を鉈で叩き切りながら建物の裏口を見つけ、ドアに取り着いた。
中に気配は無く、ドアノブにも鍵は掛かっていない。ドアを開け、建物の中に入る。三、四階建てのビルで、あちこちでコンクリートの地肌がむき出しになったフロアだった。広いホールに出たが窓の光は見当たらない。何かで塞がれているようだった。L字ライトを取り出し、満はホールの中を照らして見た。
感染者の気配は無いが、窓は木材で打ち付けられていた。光を遮るのは段ボールだけ。素早く窓の一つに取りつき、ナイフの先を板と窓枠の間に突き刺し、釘抜きの代わりにして板を剥がした。
三枚ほど剥がし、段ボールをガムテープごと引き剥がすと、反対側の路地が見えた。
「よし!ホテルの方向だ」
思わず叫び、窓から飛び出して先へと進む。開けた三叉路に差し掛かると左右から感染者が現れたが、一人は鉈で、もう一人は組みつかれた所を背負い投げ、頭から地面に叩き付けた。
大通りに面する出口は木板と土嚢で封鎖されており、その木板の隙間から死者の行進が垣間見えた。これだけの規模の行進は恐怖を超えて壮観ですらある。だが、長く見ていたい物でも無い。
踵を返し、ホテルに向かって進み続けた。誘導の甲斐もあってか、路地には感染者も殆どおらず、満は約束通り二、三十分でホテルに到着出来た。
「二人とも、いるか? 」
ショットガンを構え、小声で呼びかけてみる。ロビー内に感染者が侵入した形跡も無いので、二人はここに居る筈だった。
「マリン?」
「こっちよ」
二階の吹き抜けからマリンが顔を出した。
「念の為、上に避難していたの」
「無事で何よりだ。俺も上手く撒いてきた。ミカエラ、もう大丈夫か?」
「ちょっと取り乱したけど、もう大丈夫」
「良かった。荷物を一旦置いて、一休みしてからいよいよ本番だ」
「そうね・・・これからが大変だったのよね」
「まぁ、何か食べよう。丁度昼だろう。缶詰とチョコレートがある」
三人分のペットボトルを開け、水を傾けた。マリンとミカエラは口数も少なくなり、憔悴しているようにも見えた。それが満には不安だった。
「二人とも・・・本当に大丈夫か?何なら、今日はここで休んで明日の早朝に実施するとか、最悪、偵察してから場合によっては諦めるという選択肢もあるが」
「満は平気なの?あんな大群に追われたのよ?どうして平気でいられるの?」
ミカエラが不思議そうに訊ねた。マリンも同じ様子だった。
「同じような事が何度もあったからな」
満らしい飄々とした答えでもあった。二人は呆気にとられて満を見ていたが、どこか拍子抜けしたような気分になって苦笑した。
「そうね、覚えておく。現に、こうして無事に戻ってきたんだし」
「行けるか?」
「ええ、行きましょう。暗くなる前に」
休憩を終え、満達は荷物を軽くして移動を再開した。感染者を誘導した事が幸いし、病院までの通り道には殆ど感染者が居なかった。
「不幸中の幸いだな、良い露払いになった」
今度は背後から追われないよう、倒せる相手は刃物で始末して進んだ。殆ど満一人で始末できる程度しか居なかった。
そしてついに、病院が目の前に姿を現した。薄汚れた建物の窓は幾つか割れていた。満達を覆い潰そうとするかのように左右に長い病棟があり、三人が立つ駐車場の隅にはテントの痕があった。
「いよいよか・・・そこで最終確認しよう」
捨てられた車の陰に隠れ、満がミカエラにチョークを渡した。
「病院の正面がこれ。中の構造は・・・用は一階にしか無いから、二階以上は略させてもらうわ」
一階の大まかな構造が白線で仕切られて行く。思ったより単純な構造だった。
「薬品庫はここ。途中で薬局があるけど、もう痒み止めくらいしか残っていないと思うわ。だから覗くだけ無駄。薬品庫は奥まった所にあるし、直線では行き来できない。しかも一階のフロア全体に感染者が溜まっている筈。特に途中の中心部には。だから、入ってすぐに私達は遠回りの方向にあるこのダクトから入って、奴らの上を通り過ぎて行く。二階から反対側に下りれば薬品庫の前だけど、二階にもうじゃうじゃ居るだろうから、やっぱりダクトが一番安全だと思う。何より、二階から行って一度でも気付かれれば、二階と一階全ての感染者のお相手をしなきゃならなくなる。そうしたらもうゲームオーバー」
「コインが幾らあってもコンティニューできそうに無いわね・・・」
マリンがうんざりした顔で苦笑した。
「問題は、このダクトを伝って行った後、一人でダクトを降りて出て、薬品庫で薬を回収した後、またダクトに素早く戻って引き上げて貰わなければならない。薬品庫の前のダクトは垂直に落ちているタイプで、入った事は無いけど滑るかもしれない。残ってもらって、引き上げて貰う必要があるかも知れないから。そこで当然、適役も決まってくる訳」
「俺が残り、ミカエラが薬品回収。マリンはダクト出口の確保か最悪の時の囮役か」
「両方してもらうつもりで居て貰った方がいいかも。ダクトの出口付近に隠れていて、私達が戻ったら援護してもらい、万一失敗して私が薬品庫周辺で追い詰められたら、こっちの方向・・・私や侵入・脱出時のダクト側から敵の注意を逸らして欲しい。勿論、限界だと思った時点で撤退して構わない」
「君らの方が危険すぎるぞ」
珍しく満が不満げな顔を見せた。自分だけ終始ダクトで籠っているのが堪えられないらしい。
「たまにはこんな事もあるわよ。少しは私達の心労も味わいなさい。それに、こればかりは適役だから他に方法がないわ」
「・・・不満だが、まったくその通りだ。俺も自分の仕事を尽くすしかないな」
「それと・・・本当に最悪の場合だけど、万一私が奴らに捕まってしまったら、無理に助けないで。自分のせいで皆が全滅するのが一番嫌」
ミカエラははっきりと言い切った。
「助けは要らない。ただ・・・情けをくれるなら、一発の弾丸を撃ち込んでくれれば私は感謝できる。自殺はさせないで。いい加減だけど、一応プロテスタントだから」
満はその申し出を拒否しようとしたが、その清々しい表情に返す言葉も出なかった。それに、生きながら喰われて自殺も出来ないのは誰にとっても地獄だ。
「心配するな、任せろ」
そう短く答えるのが限界だった。
「確認は以上だな・・・行こう」
それぞれの武器を改め、満が先行して正面玄関に向かった。テロ対策にと改修され、拳銃弾にはある程度耐えられるというガラス板の向こうには病院の受付カウンター、そして待ち合い用のベンチが並んでいた。
寄せ集めの椅子がフロアの至る所に転がっており、マリンの話通り、尋常ではない混乱の様子を物語っていた。
「ゆっくり開けて」
満が玄関のガラスドアを開け、ショットガンを構えた。赤いドットが心細く院内の暗闇を示していた。
「クリア」
二人に安全を告げるなり満は音も無くフロアに滑り込むように進み、カウンターの裏や物陰を一通り確認し終えた。相変わらず、素早い動きであった。満は薬局の中を見回していたが、やはり薬は無いようだった。筆記用具か小物でも見つけたのか、何かをポケットに突っ込んでから二人に向き直った。
「ダクトの方を」
「わかった」
満に顎で示され、二人はダクトがあるフロアの突き当たりに進んだ。ダクトはミカエラが手を伸ばしても届かない位置にあり、二人は近くの筆記用の棚を持ち上げて運び、音を立てないように置いて足場とした。そこに登ったミカエラが苦しげな唸り声を上げた。
「どうしたの?」
「格子が・・・ドライバーが居るみたい・・・考えて無かった」
「俺の寄り道が思わぬ役に立ったな」
二人の背後から伸びて来た満の手にはプラスのドライバーが握られていた。
「合うか?」
「待って・・・大丈夫、行けるわ!」
一同は胸を撫で下ろした。が、直ぐに背筋を凍らせる。
何かを引きずる音に気付き、満とマリンが振り返った。カウンター前の待合所に、片足を引きずった感染者が現れた。感染者はこちらに気付き、向きを変えようとして転倒し、椅子を一つ、転がしながら倒れた。
「くそッ・・・」
満が冷や汗を流す。ミカエラは手元を震わせながらドライバーを回し、ようやく格子を外した。
「よし、ミカエラ、行け。さすがにダクトの中には居ないだろう。でも、一応拳銃は抜いて進め」
ミカエラがダクトに潜入するのを待ち、満はマリンを振り返った。
「作戦通り頼む。だが、ヤバくなったら俺達の事はいいから先に逃げてくれ。これも」
マリンにクロスボウと矢を手渡した。
「預ける。これなら鹿も狩れるぞ。ショットガンを扱えたんだ、楽勝さ」
「…置いて行かないからね」
「…頼む。何かあっても決して戻るな」
返事を待たず、満もダクトに入り込んだ。確かに狭く、満ではミカエラのように素早く移動する事は難しかった。
時折ダクトの切れ目があった。ダクトも老朽化が進んでいる箇所が目立ち、その隙間から下を除くと血の気が失せた。
下は感染者の海となっていた。玄関付近にこの大群が居なかったのが奇跡だ。先程のイスの物音も、運よく気付かれていないようだった。これが玄関に居たなら、作戦は実行できなかった。
「まるで・・・さっきの連中をここに閉じ込めたようだ」
「ここは今、安全だけど・・・もしも底が抜けたら・・・あいつらのディナーね」
「考えるな」
何メートル進んだ事か。歩きと違うので距離感も判然としない。時折ある微かな切れ目から見える下の様子から今のおおよその位置を把握するしか無い。
「そろそろ曲がり角に入る筈。そうしたらもう少しよ」
ミカエラの言う通り、暫く進んだ先でダクトの方向が二方向に別れた。
「この下にまで居るな・・・耳を澄ませなくても分かる程だ」
「病院中こんな状況よ。それにしても・・・予想以上に増えているわ。上の階から降りたのかも知れないけど、外から入り込んでいるのかも。どちらにせよ、最悪ね」
下を覗き見るだけでも恐ろしくなる。こんな中を彼女は患者の為に掻い潜って過ごしていたのかと思うと、満はミカエラに畏敬の念すら覚えた。
ダクトを進み続けると、ミカエラが満に合図した。
「ここよ。やっぱり垂直に落ちている。ゆっくり、降ろして。とてもじゃないけど滑って一人じゃ静かに上り下りできそうにない」
ミカエラは下半身を下に降ろしながら、満の腕にしがみ付きながらゆっくりと降下した。
「帰りは貴方の腕が命綱ね」
「任せろ、来れば直ぐに引き上げてやる。薬の回収は、命がヤバかったらすぐに放棄して来い」
「ありがとう」
ミカエラと満の手が離れた。その温もりが離れる感触が、何とも堪え難い連想をさせた。
「・・・大丈夫、下り切れば充分なスペースがある」
腕を格子から出し、ドライバーで外側から閉めてあるネジを外しに掛かった。
程なくしてミカエラの気配がダクトから移動した。格子を外して薬品庫に入ったのだ。感染者の気配はまだそれほど近く無いが、決して安心できる程遠くは無い。気付いては居ない筈だが、こちらに近づいて来ているような気もする。しかしそれを確認する術は無い。援護にも行けない。
僅かな隙間から下の様子を窺おうとするが、全く見えない。それが尚更満を不安にさせた。
マリンとて、一人なのだ。二人がそれぞれ命の危機に晒されていると思うと、気が気で無かった。狭いダクトの中で発狂するのではないかと思うほどに。
だが、下の薬品庫で動きがあった。ミカエラの小さな足音が薬品庫の中を何度か移動し、それから元来たルートを辿って来た。
「早く・・・早く」
既に腕を限界まで伸ばし、ミカエラが来るのを待つ。実際は一分も無かっただろうが、待つ間の時間が五分ほどにも感じられた。ミカエラが顔を出し、恐怖に怯えていた表情を明るくさせながら満の手に手を伸ばした。しっかりと手を握り返し、ミカエラを引き上げた。
片腕のみ、それも満足な姿勢も取れずに人を持ち上げるのは苦しかったが、それでも失敗は許さない。鬼になったつもりで気合いを入れ、一気に引き上げた。
「ありがとう!本当に怖かった・・・でも薬は充分に手に入れたわ」
「俺もだよ・・・行こう」
後は戻るだけだ。今の所、マリンにも動きが無い。全て順調に―
耳を劈く破壊音。足元が少し揺らいだ。ミカエラの悲鳴が短く上がった。
「そんな」
満は幻覚でも見ているのだと確信しながら背後を振り返った。自分の足首辺りから後ろの二メートル、その間のダクト板が腐食しており、よりによって・・・ミカエラを乗せたまま下に落ちた。辺りには無数の感染者がおり、轟音と共に落ちて来たミカエラに目を向け・・・その「思わぬ御馳走」に一斉に迫り始めた。幻覚にしてはあまりに凄惨だ。
「み、満」
ミカエラは持っていたバッグを急いで降ろした。
「薬!足に引っ掛けて持って行って!」
「そんな、そんな・・・」
感染者に囲まれて行くミカエラを、自分の頼り無い背中越しに見ている。
ここから降りてヒーローになれば、一緒に食われて死ぬだろう。
選択肢が浮かびかけ、消えた。迷う事は無かった。
「ダメ!止めて!」
そうは行かない。この世界における蒼井満の存在価値はこれなのだから。
着地し、すぐさまショットガンを放った。更に一発、近くの感染者の顎を吹き飛ばした。
「何で来たの!?約束が違う!」
「だから言っただろう?…心配するな、任せろって」
掴みかかる感染者の頭を掴み返し、堅い壁に叩きつける。更に銃床でミカエラに迫る感染者の顎を砕いて転がらせた。
異常事態に気付いたマリンが玄関側で銃声を発して敵を引き付けようとするが、手近な獲物である満とミカエラに夢中になった感染者は見向きもしなかった。
「マリン、逃げろ!」
マリンに向かって叫び、ミカエラを助け起こして後ろに下がる。
「取りあえず・・・薬品庫に戻るぞ」
ダクトはもう使えない。階段を見た瞬間、選択は一つに絞られていた。二階からも感染者の集団が押し寄せていた。その一体の足を撃って転ばせてみた。後に続く感染者がドミノ状に次々転がっていくが、その後から更に感染者が続いた。
「キリが無い」
諦めて薬品庫に逃げ込み、鍵を掛けようとした。が、鍵が無い。略奪者によって破壊されたのか、ドアノブごと無くなっていた。
「くっ!」
満はドアを背で押さえつけた。一瞬でも気を抜けばドアごと押し倒されそうになる程の力の波。持ちこたえても数分だろう。
「だから・・・置いて逃げてって言ったのに・・・もう助からないよ?」
「仕方ないね、これは性分だ」
満は痩せ我慢も顕な表情でミカエラを見上げて笑った。
「これを押さえつけられる物は無いか?それか、何とか逃げ道を・・・持って数分だ」
だが、ミカエラの表情は浮かないままだった。
「ここにはダクトも窓も無いよ」
ミカエラは絶望しきった表情で薬品の入った棚を押した。
「マリンが助けに来たとしても・・・その時は彼女が食べられるわ」
「これで一息つける・・・それに、まだ俺達には心中する選択肢も残されている」
満は落ち着き払った様子で部屋の中を見回した。ミカエラは力を振り絞って薬品棚を倒し、それをドアの用心棒代わりにした。
「ロマンチックに心中も悪くないが、やっぱりまだ生きていたいな。どうにか脱出できる方法を探してからにしよう」
「だから、ここには脱出できる場所なんて・・・一番出入りが厳しい場所なんだから、出入り口なんてあのドアしか・・・」
無機質な白い壁に囲まれた室内には、ミカエラの言う通り脱出できそうな場所は無かった。満は恨めしそうに壁を銃床で小突きながら部屋を一周して回った。
「いや、待て、ここは・・・無理な増築だか手抜き工事だかに感謝だ、何とか撃ち抜ける」
言うなりショットガンを構え、弾が空になるまで撃ち切った。派手に穴が開く訳でも無い為、最後は何度も蹴ってようやく人が通れる穴を作った。
「ビンゴだ!ミカエラ、来い!」
突如差しこんだ希望。表情を明るくしたミカエラが駆け寄り、穴を潜って部屋の外に脱出した。
「居ないわ!満も早く!」
「マリンが引きつけてくれたのか」
本来なら感染者が幾らかうろついている筈の区画だが、一体も見当たらない。耳を澄ませば、感染者の呻き声に紛れて銃声が散発的に聞こえる。
「マリン!俺達は脱出できた!もう大丈夫だ!」
ミカエラと共に駆け、感染者の群の三割近くを誘導しているマリンに向かって叫んだ。
「満、ミカエラ!」
マリンも顔を綻ばせた。
「私はこのまま窓から逃げるわ!」
「分かった、気を付けろ!」
マリンが窓を開け、外へと飛び出るのを確認してから満とミカエラも感染者を振り切って玄関へと疾走した。ドアを乱暴に蹴って開け、振り返らず一心不乱に走り出た。
「このままホテルまで逃げよう」
「了解!」
病棟の角から姿を見せたマリンと合流し、そのままホテルまで走った。
「信じられない!こんなの奇跡よ!」
「今度こそ死ぬかと思ったわ・・・」
「今なら神の存在を少しくらい信じてもいいな」
口々に言葉を漏らしながらホテルへと辿り着いた。病院から感染者が追ってくる様子も無く、遂に三人はホテルに辿り着いた。フロントに掛け込み、ミカエラはバッグの中身を確認した。
「薬も無事。これならもし誰かが病気にかかっても何とかなるわ」
絵に描いたような単純な作戦で、しかも深刻なトラブルに見舞われたものの、作戦は大成功に終わった。
「今更だが、全員、噛まれてはいないよな?」
「なんなら全身調べてみる?」
「それも良いが、その様子なら大丈夫そうだな」
ミカエラは余裕の表情で、マリンも怪我は無かった。全員の無事を確認し、部屋へと移動した。
「本当に、こんなに上手く行くなんてな」
部屋の窓から下を覗きこむが、目立った感染者の群も見当たらない。病院に閉じ込められていた大群が何処へ行くか気になったが、どうやらホテルが建つ大通りには出ず、病院とホテルの間にある路地に分散したようだった。
「薬品庫で何が?」
「薬品を手に入れて戻る途中、ダクトが崩れてミカエラが下に落ちた。悪い夢だと思ったよ」
「私も。でも、もう駄目だと思って満に薬を渡そうとしたら・・・」
「戻った、のね。満はそういう人よ。女の子を見捨てないタフガイ」
「そうさ、男なら見捨てて逃げたかもな」
持参したウィスキーと食料を囲み、三人で夕食を摂った。アルコールが回って全員がやや饒舌になりながらも、疲れていたのもあって早めに就寝した。ベッドはマリンとミカエラで使い、満は新たに手に入れた寝袋と毛布に包まった。寝心地も良く、すぐに眠りに付けた。
意識が途切れる間際、今日もこの三人で無事に一日を終えられる事を、初めて天に感謝した。




