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ミカエラ

「良い朝だ」

 手袋とマスクを着用した満が、言葉とは裏腹に辟易した声でそれを引っ張った。

「お前の事さえ無ければな」

 感染者の死骸を処理しながら満は悪態を吐き続けた。三分の一はそのままの本音だ。もう一つは昨日飲み過ぎた為に二日酔いから来るものだ。そしてもう一つは・・・マリンと関係を持っておきながら、ミカエラにも気を惹かれてしまう自分の節操のなさに対する嫌悪感からである。しかも、彼女には想い人が居ると言うのに。


 死骸を運びながらふと、この菌は何処から来たのだろうかと考えた。菌である以上、その目的は繁殖だ。食物連鎖の中でも頂点に立つ人間を宿主にするとは考えた物だ。お蔭で人類は最大の敵である同じ人間(・・・の形をした寄生体)によって滅ぼされようとしている。

 しかし、有り得ない事では無かった。人類は常に何らかの病原体と戦ってきた。寄生虫から細菌、そしてウィルス。それらは人間と言う、高い知能を持った生物を敢えて狙ってきた。その中で何度も人類に撃退されながらも、人類にも甚大な犠牲を強いて来た、地球上に存在する人類への唯一にして最大の天敵だった。そして、こんな事態は映画という形で世の人々に「フィクション・あくまで一種のシミュレーション」として広く知れ渡っていた筈だ。だが、まともな人間がそれを本気で信じる筈が無い。自分を含め、多くの人々があくまでフィクションとして捉えていた。

 まだ液晶テレビが見られた頃は色々な説が飛び交った物だ。

「ついにゾンビ出現!」

 から始まり、

「宇宙から来た侵略生物」

「地球に眠っていた超古代の未知の寄生体」

「軍が極秘に開発していた生化学兵器」

「神の与えた罰」


 どれも信用していなかったが、もしも満がどれか一つを強いて選ぶのなら、「神の罰」だろうと思った。信じていないつもりだが。

 朝日が家の壁を照らす頃、満はようやく作業を終えた。血の跡に水をかけて薄め、簡単にブラシで擦っておく。勿論、この時に手などに怪我をしたら感染しかねないので手袋を装着した上で慎重に行う。

「満、ご飯が出来たって」

 窓からマリンが満を呼んだ。

「こちらも今終わった。上がるよ」

 ブラシとバケツを元の場所に片づけ、家に入る。玄関に入ると焼きたてのパンの匂いが漂ってきた。


「小麦もいっぱいあって良かったわ。コーンもあるし。さ、食べましょ」

「奴ら、パンなんて焼けなかったんだろう。だからこんなにくれたのさ。あの人相でパンを焼く姿なんて想像できないからな」

 ミカエラがオーブンからパンを取り出して皿に並べた。程良い焼き加減から匂う香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。

「美味しそう」

 マリンもテーブルにつきながらジャムを用意した。ミカエラは更にベーコンと乾燥野菜を茹でた物を皿に乗せてテーブルに置いた。

「さ、頂きましょう」

 朝食を楽しみながら満は今日の予定について語った。

「朝、大分寒かっただろう?そろそろ動物が来る頃だ。俺は当分、午前中は狩りに出ようと思う。二、三時までに帰るつもりだが、ちょっとしたトラブルがあったらそれを過ぎても帰らない事もあるだろうが、その時間までは心配せずに待っていて欲しい」

「それを過ぎたら?」

 マリンが不安げに聞いた。


「その時は助けに来たりせず、念の為に避難の用意と戦う準備をして家で待機して欲しい。翌日の夜になっても帰らなければ、もう俺は死んだものと思ってくれ。・・・あくまで最悪の事態を想定しての事だが」

「…無茶だけはしないでよ?貴方が居なければ私達だって本当に大変なんだから」

「肝に銘じておくよ」

「お弁当、作ろうか?」

 ミカエラがパンをかじりながら満に聞いた。・・・体格差上、必然的に上目遣いになるが、ミカエラの瞳は大きくて愛らしく、パンを噛むその小振りで潤った唇は早朝に見た夢を想起させた。

 ミカエラの顔から目を離し、満は平静を保って食事を再開した。

「それじゃ、頼もう。この朝食も見事だ」

「ええ、本当ね」

 マリンもスープを啜りながら頷いた。朝食を終えた満はリビングでクロスボウを取り、装備を整えにかかった。クロスボウを主な狩猟具とし、大型ナイフと緊急時の拳銃と予備の弾を一マガジン分持ち、満は玄関に立った。


「満。気をつけてね?」

 マリンが奥から水筒を持って見送りに来た。ミカエラもサンドイッチをステンレスのランチボックスに詰めて来た。

「なんだか、会社に出勤するようだな」

「だったら浮気して慰謝料稼ぎのサラリーマンね」

 ミカエラがからかい、弁当箱を受け取りながら満は頭を掻いた。あながち間違いでも無いのが少し気分を沈めたが、マリンから水筒を受け取った。

「俺も気を付けるが、二人は見つかればもっと危険だ。くれぐれも敵・・・特に人間には気を付けろ。例え弱者のように見えても演技の事だってあるから、すぐに飛び出して助けるような事は絶対にしないと約束してくれ。二人ともだ」

「分かったわ、気を付ける」

「留守は任せてね。それと、もし感染者以外で怪我を負ったら、先ず消毒よりも水で傷口を綺麗に洗う事を忘れないでね。傷口を洗ったら後は汚さない様に私の所へ来てね」

「了解」

 玄関を出て行こうとする前に立ち止まり、二人を振り返った。

「あまり、多すぎる注文は聞けないが・・・これが欲しいという希望があれば聞いておくぞ?」

 玄関先でミカエラとマリンがお互いに顔を見合わせたが、やがて口々に日用品や生活雑貨の希望を満に注文した。あまりに多く、結局、満はメモ用紙に書き留めなければならなくなった。


「レディの買い物が長い理由の一端が・・・垣間見えたな」

 満はクロスボウの弦を肩に掛け、メモ用紙を見つめながらメインストリートを歩いた。空気は乾き、雪が降る季節を予告している。冬は故郷・雪国を偲ぶ時期だ。小枝を避けながら道を歩き、動物の痕跡を探る。街路樹の幹や根を観察したり、獲物である動物の糞が落ちていないかを探す。それらを探しながら物資がありそうな建物も探す。勿論、人間や感染者の気配にも気を配る。色々と気を回さなければならないので、ただ歩き回っているように見えるが、忙しい。そして、目当ての物も中々見つからない。

 閑散としたメインストリートに一人、立ち尽くして周囲を見渡す。

 何もいない。

 動物だけでなく感染者や人間まで姿を隠しているのではないかと思う程に何の気配も感じない。それはそれで良い事だとして、動物には出てきて貰いたい。満はマリンから借りた地図を頼りに、南に向かって移動した。やがて、マリンが水を汲んで来る川・・・陥没して冠水した道路を見つけた。思い出せば、マリンはここで鹿を見たと言っていた。その鹿が今日も来てくれればと思い、満は穏やかに流れる水辺へと降りてみた。

 小鳥のさえずりが聞こえる水辺は確かに本物の川に居るような気分にさせてくれる。しかし、目当ての鹿は見当たらない。バックパックからカモフラージュシートを取り出し、それで身体を覆う。そのまま窪地に背を預けるようにしてもたれ掛かり、気を楽にした。


 このまま時間を潰すのも勿体ない気がしたが、狩りにも釣りにも、時には忍耐強く待ち続ける事が必要だ。やってみるしかない。

 クロスボウは構えたまま、鳥のさえずりを聞きながら時間だけを費やす。正にヒーリングミュージックを聞いているようで、本当に眠くなってしまいそうになるが目だけはしっかりと開き、獲物が来るのを待った。

 やがて、川のせせらぎに混じって足音が聞こえて来た。心を躍らせながらその気配が近づくのを待った。が、それが動物の足音にしてはあまりにぎこちない足音だと言う事に気付く。足に怪我を負っているかのような、不規則でもつれた足音である。不審に思いながらもそのまま待っていると、ついにその足の正体がすぐ近くまで迫っていた。満が潜む窪地の傍に小石がパラパラと転がり落ちる。待ち構えていた満はカモフラージュシートの中でクロスボウを上に向け、獲物の姿を確認した。しかし、それは待ち望んだものではなかった。


 顔の半分が腐り落ち、頭蓋が剥き出しになり、その眼窩と耳鼻から気味の悪い菌の一部を伸ばしている感染者。その感染者が満に気付かず、川辺を見て立ち尽くしていた。セットしていた矢を外し、別の矢を番えた。

「・・・仕事の邪魔だ」

 引き金を引く。矢が顎の下を貫通し、脳天まで貫いた。勿論、使った矢は洗って入念に消毒しなければならない。テープを巻いて区別し、狩猟用と「殺し用」に分けている。昨日矢を失い、残るはアルミの矢が六本、カーボンの矢が五本だが、カーボンの矢は家に置いてきた。倒れた感染者から矢を抜き、水辺を歩いた。そこで水をペットボトルに掬い、川辺から離れた路上で矢を分解してパーツごとに洗った。その矢を改めていて不安を覚えた。


「そろそろベインも剥がれ出すな・・・」

 矢も弓も消耗品だ。無駄撃ちは避けなければならない。なるべく狩猟用に使おう、と満は思った。動物なら抜いてまた使えば良いが、感染者や人間に使ったらなるべく狩猟用には使いたくない。どうせならば感染者や略奪者との戦いには銃を、猟にはクロスボウを使った方が効率的だ。実際、銃器を持った複数の人間や、大群で迫る感染者相手にクロスボウで太刀打ちするのは困難だ。

 矢を洗い終えて立ち上がる。感染者の気配も無いが、今の物音のせいで獲物が来る事も無いだろう。やれやれ、と溜め息を吐きながらシートを畳み、水を汲んでから川を渡った。


 まだ昼にもならないので一旦狩りを諦め、そのままマリンが捜索していない北部市街地へと進む。地図によれば市街地までは十六キロもある。マリンですら土地勘が乏しく、とても今から向かう事は出来ない。そこで、時間が許す限り進んでルートを確保し、下調べをする事にした。川を渡ってからすぐに見えて来た住宅街。身を低くし、クロスボウを構えたまま進む。感染者の姿は見えないが、生存者が潜んでいるかもしれない。ろくに遮蔽物が無いこの通りで、家の中から狙い撃ちされようものなら一たまりも無い。しかし住宅地へと無事に辿りつき、満は手近な民家の玄関に忍び寄り、窓から中を覗いた。人の気配は無い。ドアには鍵が掛かっておらず、警戒しながら中へと入った。まずは玄関のドアを閉め、板を立て掛ける。ドアが開けられれば板が倒れ、気付けるだろう。一階の奥の部屋から順に各部屋を確認し、何者かが潜んでいないかをチェックした。一階の安全を確保したので二階に向かい、同じように各部屋を順に確認して回った。二階も安全を確保し、ようやく満は落ちついて家の中を捜索し始めた。棚、家具の小物入れ・・・あらゆる場所を入念に探した。が、ようやく見つけたのはミカエラとマリンから注文されていた品が一品ずつだけだった。食糧、武器弾薬などは一切見当たらなかった。

「少し早いが・・・頂くか」

 人が数年間過ごした気配が無いそのリビングで満はソファに腰掛け、バックパックを開き、水筒とミカエラのサンドイッチを取り出した。



「ねぇ、マリン。これ、どうやって使うの?」

 ミカエラは満が置いて行ったショットガンを手に取り、その操作方法をマリンに訊ねた。マリンは調達してきた食料を整理し、棚の中に並べたり、非常持ち出し用をボストンバッグに詰めたりしていたが、ミカエラに尋ねられて扱い方を教えた。前の物と殆ど操作は変わらなかったので、得意顔で教える事が出来た。

「ああ、それなら簡単よ。このグリップをこうスライドして・・・これで撃てるわ」

「凄いわ、良く知ってるわね。それで、どんな風に弾が飛ぶの?」

 実際の所、それはマリンにもよく分からなかった。ただ、満は思いの外離れた場所から感染者を仕留めていた。

「こう、ドバッと拡散して飛ぶのかと思ったけど・・・」

「でも、満は十メートル以上離れた場所からでも頭の周りだけを撃っていたわ。意外とまとまって飛ぶのかも」

「反動って凄いのかな・・・やっぱり、撃ち抜かれた相手は吹き飛ぶのかしら?」


 ミカエラはショットガンを元の壁に立てかけ、椅子に腰かけた。それから大袈裟に溜め息を吐いて見せた。

「こんな会話じゃなくて、お店の話とか遊びの話がしたいわね」

「服もね。それに映画が観たい」

「パソコンでも良いわ。もちろんネットが生きているやつでね」

 マリンは食料の整理を終え、テーブルに着いた。

「やっぱり、同世代の女の子がいると良いわ。落ちつく」

「災難よね、一番楽しい時期を奪われたんだもの」

「ホント。もうすぐ三十歳が見えてくる。でも、人生ごと奪われるよりマシよ」

 しばしの沈黙を経て、ミカエラが頷いた。

「そうよね・・・あれは悲惨だったわ」



 その日、ミカエラははしたない格好で自宅のベッドで転がりながらパソコンのインターネットで動画を見ていた。しかし携帯電話に緊急の呼び出しが掛かった。上司からすぐに病院に来てほしいとの事であった。出勤すべき職員が次々姿を消し、音信不通だと言う。勿論、手当は出る。それも破格の額で出してくれるという。

 だが、それを知ってもミカエラは気が乗らなかった。というのもここ連日、勤めている病院は常にパンク状態だったからだ。まだ勤めて六年しか経っていないが、こんなに患者が運び込まれてくるのは初めての経験だ。いや、大事故があったのなら理解できる。最初は少し混み合う程度だった。それが週を重ねる毎に増え続け、待合室の椅子がギッシリ埋められ、更に次の週には重篤な患者でも通路に簡易な椅子を置いて座らせておくような深刻な事態になっていた。さすがに只事では無い事は誰にでも理解できる。

 勿論この仕事に就いたのは報酬の為だけでは無い。ベッドから降り、休日を返上する。身支度を整えてすぐに職場へと戻った。

 誰もが知る、実在する白衣の天使の物語に憧れて十九まで商店街で店の手伝いをしながら学費を稼ぎ、暇さえあれば専門知識を学び、二十歳から看護師として職に就き、ついに夢を実現したのだ。他の看護師が疲弊して離脱していく中でもミカエラは職場に残り、残業も勤務外の雑務でもこなした。だが、流石に休日一日では二週間が限度であった。その頃には患者に噛まれたという看護師や医師も続出しており、今にして思えば自分はなんと幸運だったのだろうかと驚く。あれだけ積極的に患者に接して居ながら、感染を免れたのだから。


 患者が凶暴化していくのは病院内の環境劣悪化によるストレスだとされ、誰もそれを疑わなかった。何せ、四人収容が限界の部屋に無理矢理八人を収容し、個室も三人一組にさせ、それでも余ってしまう患者は廊下のストレッチャーに一時的に待機させる有様であったのだ。勿論、病床は足りない。だからキャンプ用品の簡易ベッドなどで間に合わせる始末だった。 そんな事をされれば健康な人間だって極めて大きなストレスを受けておかしくなる。

 勿論、他の各病院への応援要請を何度も行った。国への報告と支援も要請した。しかし、恐るべきことに他の病院も同じような状況だったのだ。政府も既に手一杯だと言う。この国どころか、世界各地で同じ状況が発生している事を知ったのはそれから間も無くの事であった。


 職員の事務室にまで患者を待機させているが為に、休憩室で看護師の同僚が鮨詰めに集まり、ニュースチャンネルに設定した液晶テレビを囲んで休息を取っていた。誰もがその顔に疲労を滲ませ、生気の無い顔で液晶画面を見つめていた。会話も無い。ここまで来ると、慣れない素人が土木工事の重労働を二十四時間体制でやっているのと同レベルの過労だ。ミカエラも意識を朦朧とさせながらテレビを見て、前日に買ってきたミネラルウォーターを口に含んでいた。喉を通っているのかどうかも分からない、曖昧な感覚だった。


 この時、ミカエラの服の上着が裏表逆になっている事も、自分を含めて誰も気付かなかったのか、気付いても口にする気力も無かったのか、最後まで誰も気付かないままであった。


 ニュースから流れてくる言語を脳内がある程度、自動的に解読していく。それによればどうやら、世界中で何らかの疾病が発生、しかし患者は必ずしも死に至る訳でも無く、元気消失、食欲減退、進行によって高熱による意識朦朧、筋肉麻痺、そして急に回復したかと思うと幻覚を見るのか、極端な凶暴性を発出し、他者に襲い掛かることもあるという。

 インフルエンザなどの病に見られる一種の症状に似ていない事も無い。

 前日にミカエラが見たインターネット上では、

「ついにゾンビの世界」

「黙示録の始まり」

「武器と物資を揃え、自宅にシェルターを備えろ!」

 などと面白可笑しく騒がれていた。この騒ぎに乗じた、あまりにも過激で悪意ある内容の投稿が多すぎて、サイトそのものが封鎖された所もあるようだ。そしてミカエラもそれらの書き込みに半信半疑だった。ただ一つ確かなのは、この事態が今の所、病院でも手の打ちようが無いという事だ。実際、ただ鎮静剤と抗生剤を与え、ベッドで寝かせているだけだ。歩ける患者は無理矢理自宅へ帰らせるしかない。


 やがて、思っていたよりも遅くなってから政府関係者と軍、それに疾病対策センターの職員の一団が病院へと訪れてきた。彼らは病院の敷地内にテントを張るとそこを本部とし、患者の本格的な調査を開始すると一方的に通達してきた。病院側はこれに従い、ミカエラ達はその指示に従った作業と並行して院内に残る患者の世話を行った。

「あんたは俺の白衣の天使だ」

 ミカエラが丁寧に身体を拭いてやった中年の男性は力無くそう言って彼女の手を握り締めた。


 こんな状況で無ければ…大袈裟だったかも知れないが、待ち望んでいた最高の褒め言葉だった。

 だが、ミカエラはその言葉が耳に入っても感動できなかった。何故なら、その患者の身体を見て返す言葉を失っていたからだ。


 入院して二週間の患者だったが、それまで何の変容も無かった皮膚組織のあらゆる箇所に大小不規則な嚢胞が発生し、急激な変化が起きていた。リンパは異様な数、そして大きさの嚢胞が増大し、しかもそれとは相反し、熱は平熱へと下がり始めていた。しかし、患者の意識は朦朧としたままであり、呼吸は乱れている。

 周りを見回すと他にも同じような患者が見られた。中には手を痙攣させながら宙を睨み、泡を混じらせた唾液を垂らし、何事かをブツブツと漏らす患者も居た。

「下がれ、彼らはもう駄目だ」

 やってきた兵士がそう言い捨てながらミカエラと患者を引き離した。ミカエラが抗議する間もなく、その兵士は腰から拳銃を抜いていた。

乾いた銃声。


 ミカエラの前で血飛沫が宙を躍った。兵士はガスマスクの下でどんな顔をしていたか分からないが、無言で次の患者へと向かって行った。気がつけば院内では同じような患者を兵士が射殺して回っていた。ミカエラは悲鳴すら上げられず、ただその場を逃げ去った。患者の助けを求める声を振り切って。


「そこからは早かったわ・・・どこか、解放された感じすらあった」

 

 その日から院内で本当の戦いが始まった。本来ならそれは、未知の疾病と現代医療技術との戦いという構図になる筈だ。

 だが違った。凶暴化し、次々と医師や看護師に襲い掛かり始めた患者を、兵士が射殺していった。だが、その兵士にすら襲い掛かり、噛みつかれた兵士も居た。その兵士を隣の兵士が躊躇わず射殺する。命を救うためにある筈の病院の中でそんな不毛の殺戮が始まった。救われる命など唯の一つさえ無かった。

 病気と人の戦いではない。病気に侵された人間と人間が殺し合っていた。完全に、人類が病原体の掌で弄ばれていた。


 銃声と奇声、叫び声が響き渡る院内で、ミカエラ達は逃げる場も失った。インターネットの書き込みを見た時、こうなると薄々感じてはいた。だから後悔は殆ど無い。だが、仮に察知していたとしても逃げるに逃げられなかった。

 何故なら自分は、誇りある看護師なのだから。これ以上患者を置いて逃げる訳には行かなかった。例えここで無惨に死んだとしても。

 ロッカーの中に身を潜めたまま、ミカエラは朝を迎えた。明るい朝日に気付き、ロッカーを出ようとしたが、外を患者が歩いているのに気付く。ぎこちない足取りで息は荒く、その眼は焦点が合わないまま何かを探すように泳ぎ続けていた。

 足元で物音が鳴った。ロッカー内に残されていた小物を踏んだのだ。すると患者はミカエラの隠れるロッカーに振り返った。それまでの虚ろな目が一転し、ぎらぎらと光らせながらこちらへ向かってくる。

『もし、開けられたら・・・』

 抵抗も出来ないまま、他の看護師や兵士のように襲われ、殺されるのだろう。ミカエラは早鐘を打つ左胸と歯の根が合わない口に手を当てた。

 そのままどれ程の時間が過ぎたのか、やがて患者はミカエラを見つけられず、その場から去って行った。


「はぁっ・・・」

 ようやくロッカーから解放され、ミカエラは廊下に出た。そこはもう、病院だった面影が殆ど無い。廊下は血に染まり、死体が溢れていた。

 そこに白衣の天使など居なかった。

 噎せ返る血の臭いに耐えきれず、ミカエラは気配の無いルートを選んで一階を目指した。途中、数人の死体が散乱する部屋があったが、覗く気にはなれなかった。

 一体何がどうなったのか。状況が全く把握できなかった。知り尽くした職場だと言うのに、いつも通っていた通路もまるで異次元のようで、ミカエラが迷いかける程だった。

 だが、個室の一つから兵士が出て来た。驚いて身構えるが、向こうもミカエラに銃を向けた。が、その銃をゆっくりと下に下ろした。彼の迷彩服は返り血で漬けこんだように染まり、その効果を成していなかった。


「噛まれたか、奴らの体液を受けたか?」

 ミカエラが青ざめたまま首を横に振ると、兵士は溜め息交じりに腰の後ろから拳銃を抜いた。その仕草を見て昨晩の光景を思い出して怯えるミカエラに、グリップを向けて差し出した。

「フル装填だが予備は無い。自由に使え」

 その兵士なりの情けだったのだろう。彼は、

「作戦本部は全て撤退する。お前達は連れて行けない」

 とだけ短く呟いて背を向けた。その後、患者を研究していたグループもそそくさと撤退し、院内には正気を失った多数の患者と、まともな患者が数名、そして生き残った医師が一人と二名の看護師とミカエラのみ。病院を逃げたとしても、町そのものが地獄と化し、病院の中の方がまだマシな状況だった。


 そして患者と同僚が全滅するその日まで、ミカエラは最期の仕事だと決意して病院内を駆け回った。危険な患者が蠢く院内を進んで医薬品と食料を集め、再び患者をすり抜けて皆が隠れている部屋に持ち帰る。そんな危険な役を何度も進んで買って出たが、結局自分は死ななかった。しかし、同僚は二人とも失敗して感染し、院内に残る患者達同様、恐ろしい変貌を遂げていった。

 医師は無力感に打ちひしがれ、ある晩に病院から姿を消してしまった。

 残された最後の患者とミカエラは事態の発生から何とか一年間は持ちこたえたが、ついに絶望した患者がミカエラの不在時に自らの命を断ち、ミカエラの仕事は終わった。絶望的な形で。

 その日、ミカエラは制服をロッカーに片づけた。名残惜しさを感じながらもロッカーを閉じ、食糧の備蓄が尽き次第、病院を去る覚悟をした。そしてその日以来、患者達を感染者と呼ぶように改めた。


「それで今に至るって所かな」


 ミカエラの身の上話を聞きながら、マリンはコーヒーを啜った。自分の体験は壮絶だと思っていたが、彼女の体験も壮絶だ。

しかも彼女は人命を救うという高貴な志の元に生きていた人だ。そんな彼女にとってこの世界で過ごす日々は、どんな地獄よりも苦痛であった事は想像に難しくない。

「皆、それぞれの辛い体験があるのね」

「こんな世界だもの。それはあるわよ」

 気が付くと日が暮れ始めていた。狩りに出た満が帰る様子もない。二人は夜に備えながら満の帰りを待った。



「こんな所か」

 満はおおよその地図を書き終え、それほど膨らまないバックパックを背負い直して元来た道を歩いていた。結局、鹿は手に入れられなかったが、幾らかの土産は用意できた。日が暮れる前に無事帰宅し、満は玄関のドアを軽くノックした。言った通り、ドアには鍵が掛かっていた。程なくしてマリンがドアを開けた。

「満、大丈夫だった?」

「勿論だ。鹿は無いが」

 家に入り、満はソファに腰掛けた。それから今日の仕事について二人に報告した。

「北部の市街地に向かって見た。勿論、市街地までには到達できないが、その手前にある町の様子を偵察してきた」

 その町には感染者の気配が少なく、行ってみる価値があるという意見を満は二人に話した。

「今は食料もあるし、リスクを冒す必要は無いんじゃない?」

 ミカエラはそう否定的な立場を取り、マリンもミカエラに賛同した。

「そうね。そこまで欲を張る必要も無いと思うわ。安全では無いだろうし」

「俺も、無理に行く必要があるとは言わない。あくまで留意していて欲しい程度だ」

 コーヒーを受け取りながら満はバックパックをテーブルの上に取り上げた。

「それと、お土産」

 新聞紙で包んだ小包をそれぞれ二人に差し出す。

「案外、すぐに見つかった。俺はしばらく休ませてもらうよ、何かあったら呼んでくれ」

 そう言うと満はソファの上で横になった。余程疲れていたのか、一分と経たない内に寝息を立てて満は眠りに就いた。

「それにしても、満はこういう気が利くのね」

「どうしてあれで恋人が居ないのか不思議ね」

「居ないって聞いたの?」

「ああ、違う、そんな気がしただけ」

 二人はそれぞれ部屋に戻った。自分の噂などされているとも知らない満は、寝返りを打ってソファの上から転がり落ち、テーブルに頭を叩きつけた。


「当たりどころが悪く無くて良かったわね」

 ミカエラの診察を受け、水で濡らしたタオルで額を冷やされた満はマリンの持つ手鏡で自分の額の惨状を見つめていた。

「まるで日本のアニメのオチだぜ。酷いもんだ、瘤になってる」

「やっぱり、ソファをベッド代わりにするのは危ないわ」

「同感」

 ミカエラも満から離れながらマリンに同意し、使用せずに済んだ救急箱を片づけた。

「だが、この家にはベッドが二つしかない。ソファを合体させるか?」

「或いは外から持ってくるか・・・でも、ベッドなんて私たちじゃ満が運ぶのを護衛するくらいしか手伝えないわね」

「いや、俺も流石に一人で運べるか自信が無い」


 第一、そこまでして命を賭けたくもない。だが、安心して休眠を取れないのは苦痛だし、長い目で見ればそれは大きな損失になるだろう。快適な睡眠は健康の基本中の基本だ。適切な睡眠は人間の肉体は勿論、精神面での健康にも欠かせない。

 自分が体を壊せば彼女らを困らせ、余計な負担を増やす事になるだろう。何とか、まともな寝床・・・せめて寝袋と毛布が欲しい。やはり、冬に入ってしまう前に寝具を充実させねばならない。

「ベッドが無くても、敷物と布団さえあれば眠れるんだ。近くの民家にまだ残って無いだろうか?」

 マリンは難しい顔をしながら考え込んだ。

「あるかしら・・・本当は前の仲間たちが使っていた物がそうだったんだけど、それは汚れたから処分してしまったし・・・」

「難しいか・・・」


「・・・病院」

 ミカエラがぽつりと呟く。

「病院なら清潔な物が残ってる。場所が場所だから保存環境も他の場所よりよっぽどいいし。それに、薬の手持ちが少なくなってきているから、出来れば持ち出したいの。院内はとても危険だけど」

「確かに、薬は貴重だな」

「この家にも医薬品はいくらか備えてあるけど、大した物は無いわ。抗生剤はミカエラの物だけが頼りだし」

「病院には手つかずの薬品が豊富にあるわ。食糧は無いけど」

「次の仕事が決まったな」

「でも、危険なんでしょ?正面から体当たりで行く訳には行かないわよ?」

 マリンが不安を顕にして満の言葉を遮った。

「私が院内の構造を覚えているから、出来るだけ感染者を誘い出す。その間に二人は私の地図を元に薬品庫に行って、指示する薬を取って来て欲しいの」

「陽動か・・・危険じゃないか?俺がやった方が・・・」

「ダクトに逃げ込めるのは女じゃ無ければ多分無理。入れても、貴方の体格じゃ滑り込むように入って逃げるのは難しいと思うし、頭の中に構造を完璧に記憶していないと多分、逃げられない」

 満は考え込んだが、ミカエラの自信と覚悟を信じる事にした。

「分かった。ミカエラ、頼む」

「空を見たけど、明日は晴れそうな感じだったわ。それで感染者は乾きを嫌って屋内に籠るから、明後日、雨が降らなければ決行しましょう」

「そうしよう。今日と明日はしっかり休んでおかないと。冬前の大仕事だ」

 


 朝になり、満は向かい合わせにしたソファの上で目覚めた。マリン達から分けてもらった二枚の毛布を重ねてあるので寒さなど感じなかったが、毛布から出ると寒さが身に染みる。今まで暖かかった分、尚更だ。起きたくも無いのだが起き上り、キッチンへと向かう。それから流し台の横に備えてある蛇口付きのポリ容器の蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗った。鏡で自分の顔色を確認する。血色も良く、妙な染みや違和感も無い。健康状態に異常は無さそうだ。満がキッチンからリビングに戻る頃にマリンも部屋から出て来た。眠たそうに目を擦っているが身だしなみは整えている。

「おはよう」

「おはよう、お譲さん。朝食を作ってくれるのか?」

「ええ、勿論よ。すぐに出来あがるわ」

「じゃあ俺は鉈を研いでくる」

「お願い。鉈も切れ味が悪くなってきたから助かるわ」

 マリンの鉈を預かり、満は外へ出た。研ぎ石はホームセンターで手に入れた物だが、充分使える。ペットボトルに詰めた水と研ぎ石、ナイフを抱え、満は家から少し離れた商店の安全を確認し、それから店内でそれらを研ぎ始めた。


 かつてはスナックや菓子類を置いていた棚の影で研ぎ石に水を垂らし、鉈を研ぐ。片面の刃を研ぎ終え、満は一息つきながら店内を見回した。勿論、マリンが捜索済みなので店内には何も残されている筈も無いが、昔を思い出していた。遠い故郷、日本での生活。そしてこの大陸に渡って来てからの出来事。今ではその全てが別世界での出来事・・・スクリーンの中に投影する映画のように遠く感じる。

 日本で、満はこんなコンビニエンスストアをよく利用していた。通りかかっては立ち寄り、菓子や飲料を買ったり、漫画の新巻が出ていないか、心待ちにしながら見る、そんな極々平凡な生活を送っていた。自他共に認める平凡でありながらやや変わり者の人間だった。

 

 そんなある日の事、所属していた団体組織から海外農業視察の誘いが掛かった。当初、満はその視察に全く興味も無く、そして行きたくなかった。日本の農業と海外の農業は地盤と環境が全く違い、その国の慣習も異なる為、視察研修をしても全く得られる物は無いと考えていたからだ。

 だが、団体組織からの参加要請は思ったよりも粘り強く、そして参加者があまりに少なかったため、多額の資金援助と引き換えに満は応じてしまった。

 …今にして思えばそれが運命の分かれ道だった。

あの時、断固として断り続けていれば、故郷から離れる事は無かった。少なくとも、祖国に骨を埋める事が出来た筈だし、最期の時を家族や知人と過ごす事も出来ただろう。

 しかし、参加してしまったが為に満はこの国に取り残された。今や日本も同じ状況なのだろうがこの国の空気は思いの外、満に適合し、それまでの日常生活よりも遥かに活き活きとさせてしまった。

 自分には暴力の才能が…そこそこあったようである。何体もの感染者を始末し、襲ってきた略奪者を何人も返り討ちにした。 満は何処かでそんな生死を賭けた争いをスリルとして楽しんでしまっている低俗な自分がいる事も薄々自覚していた。


 そして所属グループの全滅を生き延び、マリン、ミカエラに会えた。彼女たちに会えた事は本当に幸せだったし、彼女たちの存在はグループを失った満からすれば、自分の暴力性を抑えてくれる鞘でもあった。

 鉈を研ぎ終え、その切れ味を適当な角材で試してみる。壁に立てかけた厚さ三センチ程の角材に叩き下ろすと、その角材は真っ二つに叩き斬られた。合格レベルだろう。鉈と道具を片づけながら、店の一角に飾られたどこかの農場の写真に気付いた。

 この国に到着し、家族で営農している農場に泊まり込みで視察をさせてもらう事になった。その時の事を思い出した。


 その農場は百五十ヘクタールものトウモロコシを栽培し、自宅の傍に牛と馬の家畜小屋を備えていた。そのスタイルは満が参考書で見知っていた通りだったが、実際に目で見てみるとそれは新鮮だった。初めてその農場に向かう時の事だった。満が現地の職員に車で送ってもらう際、その車の上を農場主が操縦する小型機が農薬を空中散布しているのを見かけた。

 どこまで続くのだろうかと思う長い道路を抜けると、そこに邸宅があった。立派な丸太を積み上げて造った大きな家で、満から見れば豪華な別荘という印象が似合う家だ。その家の庭で、乳牛を歩かせるやや大柄な体格の娘の姿が見えた。

 そう言えば、あの農場の娘は無事だろうか、と満は物思いに耽り続けた。だが、パンデミックから生き延びた者はそう居ない。彼女も犠牲になったのだろうか・・・


「満」

 小声で呼ばれ、満は慌てた。

「マリンが、朝食が出来たって」

 ミカエラが店先から顔を覗かせていた。

「ああ、すまない。すぐに行く」

 満は鉈と研石を拾い上げ、空き店舗を後にした。 キッチンには香ばしい香りが漂っていた。鉈を壁に掛け、満は手を軽く洗ってから席に着いた。

「満は今日も狩りに出るの?」

 マリンはフライパンの上からピラフ・・・のような物を皿に盛り付けて運んでくれた。ミカエラ同様、満はそれを凝視していた。それがピラフらしいと言うのは、焦げながらも辛うじて形を保っている、炒めた米粒から判別したからだ。見た目はコメントし難いが、ともかく、香りは素晴らしい。少なくとも、自分好みだ。宇宙人に食わせても自分と同じ顔をするだろう。


「いや、今日は家の周りの仕事を手伝って、後は休ませて貰おう」

「それが良いわ」

「薪割りと水汲みがあるから、やってもらおうかしら。特に水汲みは辛いから」

「わかった」

 皿に盛り付けられたピラフを口に運ぶ。味も、見た目に反して悪く無かった。

 朝食を済ませ、満は拳銃とナイフを装備して水を汲みに出かけた。昨日と同じ道を進み、川を目指す。距離はそれ程長くは無いが、短くも無い。これをただひたすら往復するのは確かに過酷だ。しかも、その間に感染者や略奪者に襲われないという保証も無い。

 ポリタンクを一つ背中に背負い、一つは手に持って満は川へと下った。周囲に警戒しつつ、川の水をポリタンクで汲み上げた。両方のタンクを満杯に詰め、それを背中に背負う。この作業を女性が行うのは確かに酷だろう。更に満はもう一つを抱きかかえた。この状態で敵に襲われれば、まず命は無いだろう。戦い慣れしているという自負こそあるが、何も殺気を察知して反射するような芸当ができる訳ではない。自分にできるのは危険を目で見て、単純な戦略を立て、単純に突っ込むか退くか、牽制するかを決めるだけだ。先に危機を察知出来なければ死ぬだけだ。

 脇から襲われることが無いよう祈りながら、道の端を静かに歩いた。


―これをマリンは一人でこなしていたのか―

 まともな精神では耐えられない。ましてや、男ほど腕力も無いのではその分、何度も往復しなければならない。改めてマリンのタフさに驚かされた。満は一往復の帰り道でさえ気が気で無かった。

 拳銃こそ生まれて初めて所持するが、腰の拳銃がこれほど頼り無く感じるのも初めてだ。両手は塞がり、いざという時には確実に後手に回ってしまう。いくら腕力が自慢の満でも、さすがにこの距離で水を常に片手で保持し、もう片手で拳銃を常に握っている事は厳しい。

「腕力、か」

 満はまた農場での事を思い出した。


 満が職員に送られて農場に到着した時、彼女は牛を連れて歩いてきた。

「思ったよりスマートね、それで仕事ができるの?」

 嫌みでは無い、朗らかな笑顔で彼女はそう満をからかった。

「逆だよ。むしろ、これでもスマートさよりパワーが取り柄なんだ」

「そうなの?それじゃあ」

 彼女は興味を露わにして、徐に牛の手綱を木に括りつけ、緑色のカーディガンを脱いで牛の頭に被せた。薄手のシャツの腕をまくり、満に向き直った。・・・その後ろで牛が迷惑そうにカーディガンを振り払った。

「やってみる?」

 太い、という体格では無い。決して細くもないが、しなやかで大柄な体格。アスリートや格闘家のそれだ。その彼女が手を満に向けて構えると、中々の迫力であった。


「受けて立とう」

 興味本位で対戦を受けた。見た目に拠らない、生来の負けず嫌いもあった。満も上着のジャケットを脱ぎ、庭木の枝に掛けて彼女の前に立った。

「何でも掛かってきなよ。蹴り、打撃は怪我するから、お互い無しでね。レスリングでも、スモウでもジュードーでも」

「それでは遠慮なく」

 取り合えず、満は無難な柔道の型で構えた。が、相手の体が大きく見える。

 満にとって勝てる試合と言う物は「自分が勝つ姿と過程」が浮かぶ物で、これが見えない時は大抵、負けた。そして今回も自分の勝つ光景が見えないままであった。


―まるで巨大羆・・・いや、例えがまずい。大きな戦女神像、といったところか―

 そんな事を考えている内に、彼女がずい、と前に出た。伸びて来た手を満は半歩退いて取ろうとしたが、それまでの動きからは想像もできない素早さでタックルを受けてしまった。

「うっ!」

 視界の中で天地が逆転し、満は草地に押し倒された。そのまま寝技をかけられ、満は呆気なく組み敷かれた。満を制圧した彼女はゆっくりと満から起き上がり、それから勝ち誇りながら手を差し伸べた。

「なんだ、大した事無いのね」

「降参だ。強いな、君は」

 負けた事は悔しい。が、異性に負けた事を屈辱には思わなかった。男でも女でも、勝負の上では対等だと思っているから。第一、既に学生時代に剣道では何度も異性の剣客に敗北して、敗北にも慣れてしまった。

「ベティよ。よろしく、カカシさん」

「カカシ?」


「だって、見た目も中身もスマートなんだもん」

「・・・まぁ、いいか。満だ。一週間の間だがよろしく、ベティ」

 テディ(ベア)、とあだ名を付けてやりたかったが、また組み敷かれては堪らないので黙っておいた。

 ベティは農家の一人娘であるせいか、力も強かった。農場の仕事の人力を要する所は殆ど彼女が担っており、彼女の父・パーカーは機械を用いた作業と、農場に現れる害獣を狩る為によく家を空けていると言う。その日は満でも会えなかった。

「何か面白い物、見せてよ」

 ベティは満の意向などお構いなしに、満に宛がわれた部屋に上がり込んできた。もっとも、この家は彼女の物でもあるので満には何とも言えなかったが。

「例えば?」

 満の持ち物はシンプルだった。異国の地で行商人の如く荷物を嵩張らせるのも嫌だったし、一週間しか滞在しない予定だったので娯楽らしい娯楽も持って来なかった。この国の人には物珍しい、素振り用の木刀を持って来ようかどうか迷ったが、面倒事も有り得ると判断し、結局置いてきた。その為、満のボストンバッグには着替えと筆記用具、自前の作業着くらいしか入っていなかった。


「ああ、そう言えば」

 私物とは別にしてあるバッグを取り、とても興味深そうに覗きこむベティから隠しながら中身をゆっくり取り出した。

「お土産がある。一家三人だったね?」

「今はね。昔は兄がいた。もうこの世にいないけど」

 ベティはもう慣れたのか、事もなげにそう言いながら小包を受け取った。

「すまない」 

「いいのよ。私が小さい頃に亡くなったから、顔も、思い出もよく覚えていないの。誰かいたな、くらいにしか」 

 包み紙を開けたベティはその箱を取り出した。

「これ、お菓子?」

「煎餅というんだ。塩っぽいぞ」

「センベイ?」 


 金色のショートヘアにやや褐色がかった健康な肌。あの笑顔はまだはっきりと覚えている。農場で生活していたのが五年前。生きていれば彼女も二十五歳になる筈だ。出来る事なら・・・生きて再会したい。


「ほら、早く乗って。それとも歩いて行く?」

 作業初日。ベティは慣れたハンドル捌きでバギーを満の前に停めた。

 日本でも、自宅と農場が離れている事は別に珍しく無い。だが、自分の農地が百五十ヘクタールもあり、更にその周辺に所有する土地も合わせると二百ヘクタールにもなる世界は、やはり事情が違いすぎる。とても人の足で移動できる距離では無いので、それぞれの農地に移動用の乗り物と給油の為の中継地点が設置されている事もある。ベティの農場はそれだった。自分の敷地内に簡単なガソリンスタンドがあるのだ。

 その助手席に乗り込みながら満は背後に載せられた物に気付く。

「散弾銃か?」

「森から熊が出てくる事があるからね。それに、鳥用の弾もある」

 バギーに揺られながら木々の間をすり抜け、狭い小道を進む。森は鬱蒼と生い茂り、それまで肌に射していた乾いた日光も遮られて薄暗い。確かに、木陰や茂みから熊が出てきても不思議ではない。

「グリズリーもたまに見かける」

「なるほど、確かに丸腰では心細いな」

「でも、カカシは食べる所が無さそうだから大丈夫かもよ」

「気休めくらいにはなるな」

 君は食べる場所が多くて羨ましいな、とは口が裂けても言わなかった。   

 舗装の無い農道を十分程走り続け、ようやく薄暗い森を抜けた。森を抜けると下り坂になっており、陽炎がかかったその眼下に一面のコーン畑が広がっていた。

「全部加工用。別の畑に人間用のものも少しあるけど、圧倒的に飼料用が多いわ」

「これはなかなか壮観だ」

「この中から幾らか、海を越えてあんたの国の豚さんや牛さんの餌になっているのかもね」

「そうかもな」

 少しでも作業を効率化するため、森は農地に合わせて開墾されており、形の良い畑が視界の限り続いていた。畑の終わりが見えない。

「これを、俺の実家の装備で管理しようとしたら天文学的労力が掛かるな」

 勿論、二十四時間体制で働いても作業が間に合う筈が無い。軽トラックの荷台に動力噴霧器とタンクを積んで、噴射の射程の限りを撒いて回るのだから、何十台も必要になる。だからモンスタートラクターや自家用セスナに農薬を積んで散布しているのだ。規模が違う。

「まだ先よ」

 

 人の背丈ほどのコーンが揺れ動く狭間の道を進み続ける。

「ほら、あんたのお友達よ」

 道の脇にユニークな顔をした案山子が立っていた。親切にも、農場名と矢印を記した看板、ソーラー式のランタンを手に提げている。実際、ベティの家以外、一番近い町まで数十キロもあり、ここで迷子になれば冗談抜きで救助が必要になるだろう。

「ご苦労だな、兄弟」

 ベティに合わせ、その案山子に手を振ってやる。どこか愛着を感じる案山子だった。

「パパだ」

 気付けばどこからかエンジンの音が聞こえる。それは遠ざかっているようにも、近付いているようにも聞こえ、方角も分からない。

「昨日から西の区画で作業しているから、多分あっちで飛んでいるんだと思う」

 指さす方向を見ても一面の畑しか無い。しかし、この中に迷い込んだら当分出てこられないだろう。

 眩しい青空の下、黄金色の葉が風に揺られている。葉の擦れ合う乾いた音だけが聞こえてくる。


「迷い込んだら・・・か」

 ポリタンクを床に置き、満は額の汗を拭った。水を家の各容器に詰めるだけ詰め、浴槽にも充分に水を溜めた。これであの二人も思う存分入浴を楽しめるだろう。

「お疲れ様、満」

「ああ。しかし、その細い体でよくこんな重労働に耐えられたな?」

「何事も、やらなければならない状況になれば何とかなるものよ」

「それは言えている」

 マリンから受け取った煮沸済みの水を取り、満は喉を潤した。

「昔、この国に来た時・・・その直後にアウトブレイクに直面したんだが、その時に農場の娘さんにカカシって呼ばれていたのを思い出したよ」

「カカシって、あの畑の案山子?」

「そう、カカシ。ひょろ長いから、って」

「誰が付けたか知らないけど、今の貴方を見たらそうは見えないでしょうね」

「どうかな」

「もうじき昼食が出来るから、少しリビングで待っていて」


 薪割りをするにも時間が短い。満は言われた通り、昼食が出来るまでリビングでくつろいでいた。もう役に立つ事も無い液晶テレビのディスプレイに、自分とミカエラの後ろ姿が反映されている。

 ソファから立ち上がり、満は窓の外を眺めた。四つ並んだ十字架の先に、以前会ったグループが生活する縄張りへと続く道が見える。あのグループのアジトを抜けたその先はどうなっているのか分からない。だが、あれだけ内向きの封鎖をしているのだから、アウトブレイク後、この町にいた住民と軍はそちらの方角へ逃げたのだろう。

 自分達もいずれはここを離れる時が来るのだろうか。食糧の問題か、敵による脅威か。

マリンとミカエラとの生活は始まったばかりだ。だが、死に満ちたこの世界を忘れかける程、二人との生活は居心地の良い物であった。安定した生活に慣れれば慣れる程、それを失う事への恐怖は大きくなっていく。それは決して無くなる事は無い。

 春になればミカエラの案内で隣の州に行ける。上手くいけば仲間を増やし、グループを築き上げていけるかもしれない。

「明日も晴れそうね」

 ミカエラが昼食のパスタを盛り付け、テーブルに並べ始めた。

「ああ、病院への侵入作戦だ。怖くないか?」

「そりゃ、怖いわよ」

 全員分の食事を並べ終え、ミカエラはテーブルに着いた。

「でも、ここで頑張っておかないと。薬が無いと助けられない事もあるから」

「明日は頼りにさせてくれ」

「あまり当てにしないで。大した事できないから。それより、家主さんを昼食に呼んで来ないと怒られるかもよ?」

「それもそうだ。呼んでくる」


 平穏に一日が過ぎて行く。何も無い時は時間が短く感じる。もっと長く味わいたいのに、そんな時間はあっという間に終わる。満は蝋燭の明かりを灯した。既に二人はそれぞれの寝室へと戻っている。静まり返ったリビングのテーブルに向かい、明日に備えて持ち出す弾丸と銃を露天商のようにテーブルに並べ、しっかり確認する。

 クロスボウにショットガンにライフル、九ミリと三八口径の拳銃計三丁。鉈、ナイフ。どれも問題無く待機している。明日、彼女らを守るのは自分の役目だ。だが、この鉄の塊・・・人殺し以外何の役にも立たないこの銃こそがいざという時、自分や彼女らを脅威から守る。

 しかし、手持ちの弾薬も決して多くは無い。これが命綱かと思うと何とも心細いが、また弾丸が見つかる時まで上手く遣り繰りする他ない。それが何時になるかは運次第だ。

「眠れない?」

 戸口の傍に立つマリンに声を掛けられ、反射的にそちらを振り返った。蝋燭の光がその顔に浮かぶ不安をも照らし出していた。

「ちょっとな」

 無意識の内に手に握りしめていた十二ゲージシェルをテーブルの上に戻し、満は苦笑した。

「色々・・・考えていた」

「どんな事?」

 マリンはキッチンに向かい、グラスを二つ取り、棚から取り出したウィスキーを持って満の横に座った。

「大した事じゃない。弾が少ないとか、これからどうなるんだろうとか・・・明日、もし何かがあったら・・・ってな」

「昔からそうだけど、不安は考え出したらキリが無いわ」

 ウィスキーを二人分のグラスに注ぎ、マリンがその一つを満に差し出した。満は受け取りながら続けた。

「だが、楽観主義にはなれない。君もそうだろ?」

「まぁね。でも、考えても仕方ないなら、後はやれる事をやるしか無いじゃない?」 

 互いにグラスを傾けた。

「今夜はあまり飲み過ぎないようにしないとな」

「ミカエラが起こしてくれるわ。もうぐっすり寝ているから」

「そうか。静かにしておかないとな」

 もう一度グラスを傾け、満は背もたれに体を預けた。マリンは満の肩に寄りかかって寛いだ。

「おかしな事だが・・・こうして誰かと話しているのが時々、奇跡に思える」

「何それ」

 マリンが鼻で笑いながらグラスを傾けた。

「これだけ人間が滅びかけている中で、まだこうして俺達は生き残っている。外を見渡せばかつては人で溢れ返り過ぎて国際問題だらけになっていた世界が、今じゃ人っ子一人居ない世界だ」

「確かに・・・奇跡、かもね。或いは神の悪戯かも」

「そっちの方が合ってるかもな」

 満もグラスを傾けた。喉から胃へ、そして全身が火照って行くのを感じると、脳天に近付く睡魔の気配を感じた。

 マリンが既に目を閉じ、持っていたグラスを床に落とした。乾いた甲高い音と共にグラスが中身を溢しながら床を転がった。が、その音さえも二人の眠気を退けるには至らなかった。

 マリンと自分に毛布を被せ、満はそのまま横になった。落としたグラスの音で夢から起こされたミカエラだけがその後数時間、迷惑な不眠を味わうのだった。

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