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食べていく為に

 睡眠は充分に取った。満同様、カーテンの隙間から窓の外を覗き見る。案の定、外にはまだ感染者が徘徊していた。まだ日の光が見えない内から満とマリンは起き出し、簡単に朝食を済ませ、体を温めてから日の出を待った。

「いよいよだな」

 陽光が街に色を与えていく。暗く、冷たい空気に暖かみが宿り始めた頃、満とマリンは玄関を出た。

 百歩ほど離れた通りを、日差しから逃げるように感染者が背を向けて歩いている。それを見送り、二人は北東へと伸びる道を辿った。

「ここから先の住宅街はまだあまり調べていないわ。それに、まだ手つかずの商店もたくさんあると思う」

「物資が無くなったら来よう」

 満はライフルを担ぎ、時折足を止めては眼鏡のフレームを掛け直しながらスコープを覗いて先の様子を窺っていた。見通しが良ければ1キロ先まで見えるだろう。

 長い道のりに乗り捨てられて朽ちた自動車の残骸が転がる。それらを避け、物陰に潜んでいるかもしれない敵を警戒しつつ、十メートル移動する度に武器を構え直して進む。マリンはショットガンを背に担ぎ、拳銃を握っていた。ショットガンも満が持つと言ってくれたが、そこまで甘える訳には行かない。それに、ショットガンならいざという時にも至近距離で火力を発揮でき、散弾によるカバーで腕が悪い自分でも充分に自衛できるだろう。


「おっと、一キロ先、道に感染者が溢れている。最初の難関か?」

「そうよ。とてもじゃないけど走り抜けられるレベルじゃないから、迂回路を使う」

「了解した」

 日はまだそれほど高く無い。日没までの時間は充分だが、その分、感染者がまだ日向から去り切っていないという事でもある。もっとも、この近辺の感染者に昼はあまり関係ない。それをマリンはよく知っていた。日が暮れてから更に増える事はあっても、明るくなったからと言ってそれ程少なくはならない。

 マリンの視線の先にある、感染者の群れ。それを堰き止めているのは軍が設置したバリケードだ。感染した人間の知能と運動能力では飛び越えられない。よって、感染者はその場で増え続けていった。

「あんなバリケードがこの先に幾つもあるわ。直線上にあるのは三つだけど」

「少なくとも三回は感染者の溜まり場をやり過ごす必要があるのか」

 さすがの満も険しい表情を見せたが、「まぁ、何とかなる」と呟いて再び歩みを進めた。


 その後ろを歩くマリンの気分は決して晴れやかでは無い。ボミットスのグループは決して親切な連中では無い。生存者を見つけるなり獣のように襲ってくる連中よりは、取引できるだけマシだというだけのギャングに過ぎない。そのギャングに対して物資を長い間納めていない。連絡すらしていないのだから、向こうがどう思っているか分かったものではない。少なくとも、再会を祝ってパンケーキを焼いてくれるような相手では無い事は確かだ。過去にブルックとデイルがグループの男達と口論になり、一触即発の睨み合いになった事を思い出して背筋が寒くなる。ブルックとデイルは大柄な体格と、穏やかな性格に反した強面な人相が手伝い、グループの威圧にも対抗できた。が、満はそのどちらも無い上、今度は一人足りなくなっている。あくまでも外見上ではあるが交渉におけるこちらの弱体化は目に見えて明らかであり、それがこの後の取引にどう影響を及ぼすかを想像すると、決して楽観できない。


 もしかしたら・・・

 相手の気が立っている上に弾薬で満足しなければ。満は殺され、自分も相応の目に遭うかもしれない。そんな嫌な光景が過る。そしてそれは、最悪のシチュエーションとして確実に存在した。

 眩い光に目を刺され、それ以上の思考は遮られた。バリケードの前に停められた軍用トラックのフロントガラスが、昇る太陽の光を反射させている。その反射光から目を逸らし、手前の壁まで忍び寄る。交差点の四方が土嚢とフェンスによる堅牢なバリケードで塞がれ、回りは建物がある為抜け道は無い。それぞれのフェンスには鍵のかかった扉があるが、それ以外には出入りする場所も無く、とても飛び越えられない高さである。侵入防止用にそり返った金網の縁には有刺鉄線が巻かれ、とても侵入は不可能である。更に、周りにも中にも堰き止められた感染者が番犬の様にうろついている。


「成程、天然の要塞だな」

「これが無ければ、私だって今頃生きていなかったかもね。ちなみに、相手のグループもこの抜け道の事はまだ知らないみたい」

 余程逼迫しない限り、感染者の密度が高くなる市街地中心部に来たがる者はいないだろう。ここは感染者を防ぐと同時に、略奪者を近寄らせない虫よけの役割も果たしている。

 その感染者が蔓延るフェンスの中へと入るのだという。

「本当はもっと居たんだけど全く居なくなると番犬の効果がなくなるからね」

 マリンがポケットから鍵を一つ、取り出した。

「どうして鍵を持っているんだ?軍の物だろう?」

「亡くなった軍人さんが持ってたから、拾っておいたの。それで、色々な所で手当たり次第に試していたら・・・まさかこんな所の鍵だなんてね」

 金網の前で中の感染者に注意しながら鍵を差し込む。まだこちらに気付いていない感染者を睨みつけ、マリンは口元を歪めた。

「つまり、ここを鍵を使って自由に通れるのは、軍隊か私達だけってこと」

「それは物凄いアドバンテージだ」


 扉が開かれ、満が先に跳び出した。横から掴みかかる感染者を突き飛ばし、マリンが鍵を掛け直すまでの間、柔道の投げ技や突き飛ばしで感染者を防ぐ。マリンの言う通り、殺せば金網の守りが薄くなるので殺さずに置く。リスクは高いが合理的だ。

「毎回、こんな危険なことを?」

 満は組みつかれながらも反対側から迫る感染者を足蹴にして払い、組みついている感染者も豪快に投げ飛ばす。ジュードーという技か。

「仲間と一緒にね!だから貴方が居なければやらなかったわ!」

「しかし、こんな関所があるなら相手のグループも来ないんじゃないか?」

 マリンが鍵を閉め終え、満と並んで感染者を払いのけながら進んだ。

「大事なのはこちらが優位だろうと劣勢だろうと相手を刺激しないことよ。相手を怒らせてこの町に侵入する気になられる事が一番危険よ。癪だけど、飼い犬でいる事が一番ね」

 こんな世界に女一人で生き残るのだ、それは間違いでは無かろう。男だろうと同じだ。圧倒的に力で勝る相手に逆らうのは即、死を意味する。自分だってそうした筈だ。


 ただ・・・どうしてこう、大昔からこの世界は力の原理で動くのだろうか。力を持つ者がそうでない者を支配・管理する。その体制が崩壊した筈の現在でさえこの有様だ。結局、力の支配こそが生物の理で、人間もその一員に過ぎないのか?…今更言った所でどうにもならない。

 しかしそんな世界で目の前のマリンは、男の自分でも顔負けする程に逞しく生きている。

「逞しいな、マリンは」

「貴方もね、満。身一つで放浪していただけ、貴方の方が頼りになりそうだけど」

「いや、実力も大事だが結局、最後はガッツと運が物を言うんだよ。俺は運が良かった」

 今もだ、とそこに付け加えても良かったが、それより先にマリンが小高い丘を指さした。

「見える?あれが目的地のボミットス工場跡よ」

「何の工場だったんだ?」

「自動車の部品工場だったかしら・・・あの辺の地理には詳しくないの。でもどうして?」

「元の建物を知ればある程度は内部の様子を窺う事ができる。あくまで予想だが」

「さすがね。でも私は周辺と中の一部だけはこの眼で見てるわ。外の作りはバラックだし、中は入口から事務所までしか入れなかったけど、事務所はそのまま。ただ、入口から奥にかけては障害物を配置して一直線には通れないようになっている」

「用心深いな」

「このご時世だもの、玄関からセールスマンの代わりに感染者か略奪者がお邪魔してくるわ」


 小声で冗談を飛ばし合いながら道を進む。まだ丘までの距離を三分の一ほど進んだだけだ。スコープのレティクルにある距離算出用の目盛と見合わせて見ても、やはり三分の一を過ぎただけだ。

「確かに、一日では着けないな」

 障害物や邪魔者が居なければ徒歩でも一日以内に往復できるだろう。だがそれは叶わず、タイヤが焼け落ちたバスの影で休憩するマリンと満の脇を感染者が通り過ぎて行った。

「・・・それに、何だか空気が湿りっぽくない?」

 天気予報が無くなり、それでも以前にも増して天気が命を左右する程重要な情報となった今、生存者たちは五感を研ぎ澄まして天候を観測する事に長けつつあった。生物が自然に帰化していくのを実感するが、こればかりは生き残りが懸かっている。五感の鈍い者も目で空模様を観測し、パターンを覚え込み、必死で学んでいた。


 マリンと満もその五感を研ぎ澄ました人間であり、満はマリンの言う通り大気中の湿度が高まりつつあるのを感じた。

「確かに。雨宿りのポイントは?」

「あるわ。少し遠回りになるけど、ホテルがある。先ずはそこで雨宿りしてから明日、丘を目指しましょう」

「賛成だ」

 明るい正午の日差しが陰り始め、日が当たらなくなった空気はその湿り気を顕にする。その気配に内心で焦る二人はホテルを目指して早足で移動した。昼だと言うのに感染者が至る所を徘徊している。

「雨の気配で出てきたんだろうな?」

「・・・いいえ、スタンダードでこれよ」

 冗談では無い、と満は内心で吐きながら感染者の注意を逸らしながら進む。マリンも満に密着するようにして離れずに歩いた。

「あれがホテルよ」

 殆どの窓ガラスが割れ落ちたホテルが満とマリンを見下ろすように佇んでいる。雨宿りとしては充分だ。

「一番上のスイートを貸し切りにしているの」

 そう言ってポケットから部屋の鍵を取り出す。


「ホテルか。俺はあまり縁が無かったが、宿に泊るのは好きだったな」

「私はそうでも無いな、やっぱり自分の家が一番落ちつくもの」

 周囲に警戒しながら錆びれたフロントに足を踏み入れる。カウンターの下には二人分の白骨化した遺体が転がり、繋いでいたとみられる重なった手は砕けていた。その脇に九ミリ弾の空薬莢が幾つか転がっている事に気付く。

「銃撃戦をしたのか?」

 その一つをつまみ上げ、階段を上っているマリンに訊ねてみる。

「いいえ、私達がここを使った時にはもうあったわ」

 混乱の初期から人間はこうなる事を予想し、資源を奪い合ったりしていた。それは散々見てきた。だが中には資源の為に争うのでは無く、殺人に酔いしれた者もいた。法も秩序も崩壊し、それまで鬱屈させていた何かを爆発させるように。精神を病んでしまったのか、元からそうだったのか。理性を保てる者は少数だった。正気を保てても、自分達のように他人不信になって臆病に生き延びるしかない。

「こっちよ。エレベーターはいかが、お客様?」

「いや、少しは運動しないとな」


 扉の隙間にやたらと錆が集中するエレベーターの扉を尻目に、満は階段の手すりを掴んだ。が、体勢を崩して後ろに転びそうになるのを何とか堪える。

「大丈夫?」

「ああ、手すりが外れた。後でフロントに言っといていくれ」

 先を歩くマリンが笑ったが、すぐにその顔が先を見て強張った。満の位置からではその視線の先にある物が見えない。

「マリン?」

 クロスボウを構え直し、満は三段飛ばしで階段を駆け上がった。

「今、そこに何かいたような・・・」

 廊下の先に並んだ部屋のドアを指さしながらマリンが恐る恐るショットガンを持ち直した。満が先を歩き、ドアの開け放たれた部屋を一室ずつ見て回った。

「どう?」

「分からない。見間違いであって欲しいが・・・」

 部屋ばかりかと思っていたが、エレベーターの存在に気付く。フロント前で見た物とは別のエレベーターだが、その扉が開いたままになり、垂れ下がったワイヤーが見える。


「もし居たとしても、ここから逃げた可能性があるな」 

 ライトを点灯させ、下を覗きこむ。下の階のドアは開いているが、とても男が瞬時に出入りできるような幅では無い。つまり、ここに何か居たとして、それは一人で、男ではなく、感染者でもない。

「私の見間違いだったのかも。一瞬だし、錯覚したのかな」

 廊下の先にあるガラスの無い大きな窓から曇り空が見える。その曇り空から落ちてきた雨粒がガラスの無くなった窓辺に一粒、二粒、と落ちてきた。

「そうだと思おう」

 満はライトを消し、再びマリンと共に階段を上った。

「スイートに着いたわ」


 部屋の内部は思ったより整っており、雨宿りの時間を過ごすには快適な空間だった。窓ガラスは四枚の内一枚が割れていたが、他は無事で隙間風も比較的少ない。マリンは部屋の隅に落ちている蛾の死骸を新聞紙の切れ端でつまみ上げ、窓の外に放り投げた。

「ああ、スイートルームだな」

 勿論泊った事など無いし、この部屋だって本当のスイートでは無い。が、大陸を旅しながら安住の地を探して旅する日々を経た満にとっては充分豪華な部屋だ。

 灰色の雨を追って窓から顔を覗かせれば、地上には雨を求め出てくる感染者達で道路が溢れかえっている。満とマリンが雨宿りに隠れたあの市庁舎周辺・・・あの時の数など問題ではない程の数に思える。実際、多いかもしれない。市庁舎周辺は感染発生直後、軍が駐屯していたとはいえ早い段階で放棄された場所だ。転化する人間の密度も低かっただろう。


 窓の外を見渡す。灰色に霞む視界の中に暗い赤十字のマークが見える。

ここは病院が近い。異変の兆候が見え始めた頃から常にパンク状態だった各地の病院とその周辺の人口密度は桁外れだった筈だ。それなら、この感染者の数も納得できる。他にも警察署、軍の基地、災害避難所など、人が拠り所にしていた場所は悉く感染者の巣窟と化している。その中でも病院と避難所はダントツだ。

「思ったより足止め食らいそうね、まだ三キロくらいしか進んでないのに」

 上着を脱ぎながらマリンがベッドの埃を払った。…魅力的に隆起した胸元から目を逸らし、満は反対側のベッドに向かい合って腰掛ける。

「仕方ないさ、この雨だ。パワーボウルじゃあるまいし、二人でタックルして進むにはキツい」

「本当ね、市庁舎の時もぞくッとしたけど・・・それ以上ね。もう夕飯にする?」

 昼の分は無い。節約しなければならなくなり、昼か夕の分、どちらかしか食べられない。

「今食べたら夜中に空腹になるな。少し中を見て回る。さっきの影の事も気になる」

「私はどうすれば?」

 ベッドの上に寝転がりながらマリンが見上げた。何ともそそる姿だが、今は気を緩めている場合ではない。


「ここで待っているといい。鍵を掛けて、ちゃんと俺かどうかを確認してから開けてくれ」

「分かったわ」

 満は素っ気ないフリをしながら部屋を後にした。雨音が音感を邪魔し、頼りは目だけという状況だが、ホテルの内部には感染者の気配は感じられない。手近な部屋に近寄り、ドアに耳を当てて見る。やはり物音一つ無く、ドアにも鍵が掛かっていた。鍵の掛かっている部屋の中に略奪者や生存者が潜んでいる可能性もある。それを時間の許す限り確認する事にした。どうせ時間は有り余っていたのだ。

 ホテルは十五階まである。その内、特に気懸かりのある部屋を調べる事にした。とても全ての客室をチェックする程の時間は無いし、マリン達が以前使った時に調べた部屋もあるだろう。

 とはいえ、並んだドアの殆どは鍵が掛かり、ドアノブにも埃が積っている。人が出入りした形跡も無く、しかも鍵が掛かっていれば感染者が潜んでいる心配は無い。そして生者が居ない場所には感染者も居ない。

 無駄な警戒だろう、とどこかで思いながらも八階の一室に異変を感じる。その部屋のドアノブには埃が無い。


「・・・」

 満は拳銃を抜き、そっとドアノブに手を掛けた。鍵は掛かっていない。思い切り、そのドアを開け放って拳銃を突きだす。

 しかし、そこには誰も居なかった。確かに誰かが居たような形跡も無い事は無いのだが、気配は無い。

「建物の中にいるのか・・・」

 相手が自分達の存在を察知し、見張られているとしたら厄介だ。背後に注意しながら部屋の中を見て回る。

「・・・甘い香り?」

 部屋に香水など置いていないし、そんなものがある筈も無い。とすればそれは人の匂いとしか思えない。少なくとも男では無かろうが、悪漢で無いなら誰でも構わない。

 これ以上この部屋に居ても何も得るものは無いと判断し、その部屋を去る事にした。最上階の階段に鳴子を仕掛け、それからマリンの待つ部屋に戻った。

「お帰り」

「ああ、八階に誰かが居た気配があったが・・・誰も居なかった。他の階も気配は無い」

「大丈夫なの?」

 マリンは不安そうな顔でベッドから身を起こしたが、満はそれ程心配していない。相手が男で無く女である可能性が高いからというのもあるが、外は雨で外部からの襲撃は事実上不可能だし、鍵の掛かる部屋にいる以上心配は要らないと思ったからだ。最悪、ショットガンもあるので火力ではそうそう劣りはしない。ドアも安物では無いので撃ち抜かれる不安も無い。


「心配いらない。気配は無いし、雨が降っている間は人間による外側からの襲撃は無い。それにここには感染者も居ないし、仕掛けも施してきたから、安心して眠れるよ」

 一応、非常階段も見てきたがなるべく使用は避けたい程の傷み具合だった。支柱の一つが折れ曲がり、階段の一部に穴が開いていた。万が一の事態があってもらっては困るが、最悪の場合には転落死を覚悟でその非常階段を使うしかない。


「それじゃ、夕食にしましょ。もう良い時間でしょ?」

 満は空模様を見た。雨天なので時間を計り辛いが、おおよそ七時前後だろうと思った。

「ああ、もう良いだろう」

 乾パンとベーコンの缶詰を取り、一枚だけガラスの無くなった窓際でコンロを炊いて温めた。

 お互い口に出さないが、食料の蓄えが心許なくなっている。二人分の消費ではマリンの調達した食料では賄い切れない。今回の物々交換が成功しなければ文字通り死活問題だ。

 その最悪の場合は既に想定していた。もし食料が尽きかけても調達に目途が立たなかった場合、食料全てをマリンに残し、自分は狩りに出ようと思っている。収穫できるかどうかも怪しいが、彼女の生存を最優先にしたい。

 彼女はどうしてそこまでするのかと問うだろう。

 その問いに答えるならこうだ。どれ程かは知らないが残りの余生を、助けを求める女子供や弱者の為に使うと決めたから。世界が正常だった時、社会的な立場で目標や決意を達成した試しの無い、脆弱な自分への挑戦でもある。もちろん、美女への下心もある。理由はそのくらいだ。

 果たしてヒーローに成り得るかどうかは運命が決める。自分はそれに身を任せるだけだ。


 そんな満の秘めたる決意を知る筈も無いマリンは食事を終え、ペットボトルの水を飲み込んでいた。流れるような金色の髪が重なった横顔に見惚れながらも、その横顔に秘められた強さを思い出す。

 彼女もまた、強者に自分を利用させながら強かに生きる戦士だ。死が隣り合わせどころか、常に手の内にあるような世界で泣き事も言わず、黙々と生きる為に動いている。顔は泥や血で汚れてもその眼は理性の光を失わずに前を見据えている。

 彼女に対する自分の決意など、おこがましい物でしか無いのかもしれない。


「雨、止まないね」

「そうだな」

 ぽつりとした会話を最後に、雨の音と沈黙が続いた。永らく感じたが、どれ程かは分からない。時計が無くなったのは良かったのかもしれない。窓の外の光は失せ、室内の様子は見えなくなりつつあった。夜闇が二人を包み込み、引き裂くかのように感じた。

 蝋燭を灯しても良かったのだが、二人とも動かなかった。永い沈黙を経てマリンが手元のマッチを擦り、蝋燭に火を灯した。

「満は日本に帰りたいんでしょ?」

 二人の顔がおぼろげに照らし出される。マリンの表情は静かで、それを見た満はこの国の教会での行事を思い出した。神に仕える者が信徒に見せるような顔に似ている。

「帰りたいのは勿論だ。飛行機や船が無いからどうしようも無いし・・・帰った所で、この国と同じ状況だろう。俺の故郷も家族も知人も、もう見る影も無いだろう」

 傷を労る様な優しい眼差しを見せるマリンを見つめ返しながら、二度と帰れないであろう母国の姿を想像した。

「もし帰れたらマリンを連れていってあげたかったよ。とにかく日本は桜の国だ。存分に桜を見せてやりたいな。それだけじゃない、温泉も星の数ほどあるし、花火や祭りもとても楽しいし、秋の紅葉は鮮やかだ。そうだ、それから雪も・・・厄介者だが無いと何か寂しくなるものだ」

 この国にも雪は降る。せめてもの救いか。故郷と同じ物が無い場所で死ぬのは、故郷を愛する者にとってはあまりに辛い。


「きっと帰れるよ。いつか…」

 …勿論ありえない。慰めの言葉だ。だが今はその言葉がありがたかったし、縋りたかった。

「…そうだな。ありがとう」



 夢を見ている。それが夢だと分かるのはそこが故郷の夜道だからだ。心許ない街灯の周りに羽虫が飛び回り、少し先にポツンと立った自販機の明かりがアスファルトを照らしている。少し歩きながら桜の木を目指した。が、木の枝に桜の花弁は無かった。

「無かったね」

 隣をマリンが歩いていた。

「でも、また来年も咲く?」


 ああ、と答える。

 今度こそは一緒に来よう。


 ・・・これが夢で無ければどれだけ幸せだろうか。夢の世界で全てを終えたいと願いながらもその願いは眩い光と共に砕かれた。

「満、もう朝になるわ」

 横のマリンに起こされ、満は目を擦った。彼女は先に毛布から抜け、衣服を身に着けている。

「良い夢だった。ああ、勿論、良かったのは夢だけじゃ無いが」

 肩を小突かれながらも続けた。

「日本の故郷で君と一緒に過ごしている夢だった。…正夢になってほしいものだ」

「・・・もう起きて。今日は何としても辿りついて物資を交換しなきゃ」

 雨は止んでいる。窓辺に僅かに残された水たまりが朝日を反射していた。その光から目を背け、満もベッドから降り、身支度を整えた。

「今から出て、何事も無ければ昼までには到着できるんじゃないか?」

 満はライフルを持ち上げ、窓辺でスコープを覗いた。

「どの道、あと二回は封鎖ポイントを抜けないといけないから、そうとも限らないけど・・・でも確かに運が良ければお昼までに辿りつけるかも」

「それじゃ、行くとしよう」


 満はライフルを背負い、クロスボウを手に部屋の扉の前に立った。先に部屋の外の様子を聞き耳を立てて窺い、それからゆっくりドアを開けた。隙間からマリンが外を覗きこむ。

「オーケー、大丈夫よ」

「そういう時はクリア、って言うといい。楽だろう?」

「クリア、ねぇ…」

 階段まで歩くが、鳴子も仕事をせずに済んだらしい。鳴子を跨いで階段を下りる。下の階に降りる度、周囲を警戒しながら降り続ける。結局、あの部屋にいた先客の正体は分からず仕舞いだったが、少なくとも敵では無かったようだ。取りあえずはこのまま、無事に目的地に達する事が出来ればいい。

 ホテルを出ると眩い朝日が差し込んでくる。その光に目を細めながら、反対にある北西の方角を向き直る。小高い丘にある工場跡が、今ならスコープを使わずともハッキリと目視できた。


 二人は黙々と進み続けた。第二、第三の封鎖ポイントもマリンの持つ鍵のお蔭で難無く通り抜けた。あまりにスムーズに進めるので、逆に二人が不安になる程だった。それでも途中、何も無くなったショッピングセンター内で無事なカートを見つけ、それを押して行った。目的通りに食糧を手に入れられれば必要になる筈だ。それに、何かとカートはこの世界で便利だ。その車輪の音にさえ気を使えば。

「もっと、感染者の波に揉まれて、その合間をすり抜けるような厳しい道のりを想定していたんだが」

 丘へと登る坂道をカートを押して歩きながら満が笑い、マリンがそれに応じた。

「じゃあ、あっちの道へ行く?」

 指さす方向には感染者が溢れ返り、路面が見えなくなった通りがあった。昨日の雨が乾かないアスファルトの上で、雨を求めて屋内から出てきたものの帰る事が出来なくなった感染者達が帰る場所も無く彷徨っている。その姿はどこか哀れでもあった。


「いや、遠慮しておこう。たまにはこんな幸運もあって良いだろう」

 どうせ、前途には多難が待ち受けるのだから・・・

 その多難の内の一つであろう、工場跡に着いた。「ボミットス自動車部品工場」手入れもされなくなって錆びた看板が傾き、二人の頭に落ちようとしているようだった。その看板を睨みながら満が先行し、ドアの前に立った。

「待って」

 マリンがそれを呼び止めた。

「知らない男が現れたら、いきなり撃つかもしれない。そういう危険な連中よ。私が先に入るわ」

 心配する満を宥め、マリンが先にドアに手を掛けた。しかし、そのドアを開けるより先にドアが開かれ、中から現れた三人の男がマリンと満に銃を向ける。


「マリンだな?そっちは?」

 満は両手を上げたまま、男達の装備を見定めた。ショットガンに四十五口径拳銃、そして軍用自動小銃を持っている。火力は十二分だ。弱った軍や警察から略奪した物なのだろう、防弾ベストを装備している者もいる。動き方は訓練されていない事が分かるが、火力と防御力を備えているし、何よりこの世界で今も生き残っている連中は総じて手強い。手強く無ければ生き延びられないのだから自然とそうなるのだが、とてもこの工場内で襲われても、満はここからヒーローのようにマリンを連れて脱出する事は不可能だろうと理解した。二人共、一切の武器を取り上げられた。

「新しく加わったお手伝いさんよ。ブルック達は通りを見張っているわ。知っての通り、感染者が多いから」

 それらしい虚勢を張って誤魔化しながらも、両手を上げたまま露骨なボディチェックを胸や腰に受ける。が、マリンは慣れたかのような平然とした顔でいる。満もそれに従い反抗的な顔は見せないでおいた。 …不快な時間がひどく長く感じられた。


 久しぶりに腸が煮えくり返り、どす黒い感情が全身に広がっていくのを感じる。自身に生命の危機を伝えるアドレナリンが、不思議と満の思考を冷静にさせてくれた。その時が来るまで待っていろ、と。

「いいだろう、入んな」

 扉を開けられ、二人は中へと通された…というより押し込まれた。思いの外広い空間だが、目の前はスチール製の棚と有刺鉄線。勢いよく飛び込めば負傷し、動きが止められるようになっていた。スチール棚も重みのあるガラクタをたっぷりと乗せて床の鉄板に溶接し、ちょっとした重機でも使わなければ崩れそうにも無い。脇へ逸れ、奥へ進もうとしてもとにかく棚と障害物で直線に動けないようにしてあり、感染者だろうと武装した略奪者だろうと、一斉に突入するのは極めて困難である。


「ここで別れろ」

 満は屈強な男二人に見張られ、マリンはもう一人の男に付き添われた。

「心配しないで、すぐに戻るから」

 勿論そう言われて安心できる訳ではないが、今、満に出来る事はマリンが無事に戻ってくる事を祈る事しか無い。汗を握り締め、付き添いの男にちょっかいを出されているか細い背中を見守る。

「心配しないで、か。泣かせるなぁ、アジアの彼氏くん?」

 見張りの一人、太めの男がショットガンの銃床で自分の肩を叩きながら満の耳元で笑った。

「これからボスにたっぷり味見されるんだろうなぁ。是非俺達もご相伴に預かりたいもんだ」


 安い挑発だとは分かっているが、そのショットガンを奪いながら顔面に銃床を叩き込みたい衝動を抑えるのは過酷だった。

 実際、その気になれば…謙遜気味に言って、ハリウッドヒーローのように無傷で生還はできないが最低でも連中の半分は道連れにしてやることはできる自負があった。

『もう少し兵隊が少なければ・・・』

 皆殺しにしてやるのに。そう思ってしまう。だがそれは驕りだ。ここで挑発に乗って暴れてしまえば自分は殺されるし、マリンの苦労を自分の手で水泡に帰してしまうのだから、やはり耐えるしかない。

 今は待つ。だが、もしマリンに何かあれば、ここにいるゴロツキ共の半分以上は道連れにするだけの算段はついている。

 冷静さを取り戻した満の目は徐々に無感情になって敵の配置を観察し、その為の最適な殺す順番を見定めていった。


「何ヶ月待たせた?一体どういうつもりだ」

 ボス。役職では無く、名前としてそう呼ばれている中年の男は事務所のソファーにどっかりと身体を預け、足をテーブルに投げ出して踏ん反り返ってマリンを見据えていた。一見、贅沢のせいで小太りになった無力な男のように見えるが、それは誤りだ。この男はここにいる荒くれ共を統率するだけの力と、カリスマがあるからこそボスと畏れられている。そうでなくとも、こちらに侮っていい理由など何もない。


「色々あったのよ。物資だって、私達は缶詰一缶見つけるのも本当に大変なのよ」

 交渉ではあくまで強気で臨まなければならない。頼りのブルック達が居なくなり、今は満と共に生きて行く為、必要な物を最低限以上確保しなければならないからだ。これから冬が来るのに備え、最低でも九十日分の食料を二人分必要だ。

「それで?今回は何日分の食料が必要なんだ?」

 ブルックやデイル達を失ってしまい、人手も減り、嫌な事ばかりだったが利点もある。

「四百五十日分よ。彼が増えて、大人五人分の食料が必要になったの」

 二人分にしてはあまりに取り過ぎだが、彼らはブルック達が死んだ事を知らない。だからこの数字は至極当然に取ってもらえるだろう。

 無論、「そうか、五人分だね」などと親切に必要量をくれる相手では無い。あまり大袈裟すぎる数字を出すと先にごねられ、却って交渉が難しくなる。しかし大目に必要量を提示する事で、そこから差引かれても本当に必要な量は確保する。誰でも知っている交渉の基本だが、重要なのはポーカーフェイスと提示する数字の絶妙さ、態度、そしてここぞと言う時に吐き捨てる脅し文句だ。

「多いな」


 思った通り、ボスはわざとらしく眉をしかめた。それから気障に肩をすくめ、「参ったね」とジェスチャーしながら立ち上がる。

「どこの馬鹿でも知っている事だが、今はクソみてぇなファストフードにすらありつけない。俺達も飯は必要だ。そう簡単にやれる程甘くは無いのが分からねぇのか?」

「十分、分かっているわ。だからあなたを頼ってるの」

「・・・それで、今回の品は?」

「これよ。新入りの彼、軍人だったの。彼が検品してくれてあるから上物揃いよ。百九十発あるわ。それだけじゃない、火薬さえ見つけてロードすれば、これも使える。こっちは四十発分よ。それと銃砲店から持ち出して来た充填用の工作器具」

「ほぅ、悪くねぇ」

「それと・・・これはサービスがてらだけど、煙草も三本あるわ。貴方が楽しんだら?」


 満から貰った煙草を見せる。ボスはそれまでの不機嫌な顔を一変させ、にんまりと口元を歪めて破顔した。酒ならいくらでも貢げるのだが、生憎と彼らも酒のストックには困っていないようだった。だが、煙草と弾薬、医薬品、マリンでも手に入らないがドラッグは欲しがっている。

 武器の所持量はこの世界では財力そのものだ。かつては金が物を言ったが、今はこの鉛弾が物を言う。何より、余裕があればそれだけ訓練にも使えるし、莫大に保有すれば軍隊を組織して、稚拙ながらも新生国家の樹立・・・それも決して夢では無い。

 かつて社会の底辺に追いやられ、銃の扱いしか取り柄が無かったような者でも、今ではその立場が全く逆転して強者だ。むしろ、過酷な環境で生き抜いてきた分、その適応力は高い。

「どう?これなら悪くない取引じゃない?」

「そうだな・・・だが、まだ一押し足りないな。俺達は見ての通り、明日撃つ弾に困っている程じゃない。これじゃ三百日分が限度だな」


 マリンと満の分としては充分過ぎる程だったが、ここで簡単に引き受けてしまう訳には行かない。欲を張っている訳ではない。基本である四百五十より大幅に下回ったまま受け入れてしまうと、人数が合わない事を怪しまれてしまう危険があるからだ。まさか、今ここにいる二人しかいないと分かれば、どんな暴虐を働くか知れない。怪しまれないよう、四百前後は確保しておきたい。

「それじゃ皆が冬を越せないわ。…これでも子供の分は削っているのよ?なんとか四百五十までは欲しいの。・・・お願い」

 内心で自己嫌悪しながらも、できるだけ女らしさをアピールする仕草に猫撫で声気味で懇願する。そんなマリンを舐めるような眼で見ながらボスは顔を歪ませ、部下に聞かれないよう小声になった。勝手に胸を触って来るが、そのくらいは許してやらねばならない。間違っても顔面に肘鉄をくれてやる訳には行かない。

「そうは言ってもな。だが、お前とヤれるんなら四百はくれてやってもいい」

 それは嫌、と呟きそうになるが堪える。

「うーん・・・あなたに飽きられて見捨てられたら困るし・・・それは最後の切り札にさせてもらおうかしら。じゃあ・・・仕方ないわね、私の負けよ。これなんてどう?」


 身体を売り払うのは本当に最後の手段にしておきたい。こちらも嫌だし、抱くのさえも飽かれる女になってしまったら文字通り、最期だ。警戒するボスの前で背中に掛けていたバッグをゆっくりと下ろし、相手に手渡した。渡したくないが、これが切り札だ。ボスが開くと、木製のストックが厳めしい輝きを放つ散弾銃が現れた。

 逃げる時にも活躍してくれた思い入れがある武器だが、仕方ない。ボスはそれをじっくりと鑑定しながら熟考していたが、最後にそれを窓に向かって構え、ようやく首を縦に振った。

「良いだろう、四百だ。長物は歓迎する。可能なら次は燃料が欲しい所だ」

「それは私達もよ。でも、貴方との付き合いの方が大事だから、見つけたらそっちに優先するわ」

「交渉成立だ」

 握手を交わし、ようやくマリンも内心で安堵する。ボスに呼ばれた部下が部屋に入り、マリンに向かって「ついてこい」と顎をしゃくった。


「マリン、大丈夫か?」

 案内される途中で満と再会する。高々三十分程の交渉だった筈だが、久しぶりに会ったような気分だった。心配そうにする満を思い切り抱きしめたかったが、まだ敵の巣の中だ。気を抜いている余裕は無い。

「無事に交渉成立よ。これから食料を分けてもらえる」

 人相の悪い男達が不機嫌そうな顔で倉庫の奥へと案内する。満は内心でほくそ笑みながらカートを押して歩き、マリンもリュックサックを広げた。念の為に持ってきた、銃砲店のボストンバッグも役に立ちそうだ。

「冗談みたいな量だな」

 軋みを上げるカートを押し、満は感嘆していた。

 カートからはみ出る程の段ボールを三箱も積み、そのカートの脇にボストンバッグと軍用バックパックを掛けている。どちらも満杯で、むしろカートの車輪部分が壊れないかが心配だった。さらに二人の背中に一つずつ満杯のバックパックを背負っている。

「本当ね、今朝の深刻な食糧危機が冗談みたい。いつもはブルックが満みたいに運んでくれて、もう一人男手があって、三人で何とか運んでいたんだもの。満が来てくれて本当に助かっているわ。命拾いしていると言ってもいい」

「こちらこそ、さ。家と食料を提供してもらえるんだから。なにより君のタフな交渉力には驚いた」


 日が沈むまでまだ十分時間はある。が、どうしても途中でホテルに泊まらなければならない。

「冬場、狩りをしなくても済むくらいの量よ、今夜は沢山食べてね。でも、ショットガンをやってしまったのは痛かったかも」

「なに、何とかなるさ。ライフルもあるし、二人とも拳銃を持っている。充分な装備だ」

 とはいえ、ショットガンも何かと便利だ。あの群に追われた時もショットガンのおかげで大いに命拾いした。特に、牽制・移動時の防御用に優れた火力を発揮し、素人でも命中させやすい上、猟の際にも役立ってくれるのだが、無くなってしまったのなら仕方ない。また見つけるしかない・・・見つかれば、だが。


「でもこの荷物、ホテルの部屋に運ぶのは大変よね」

「今夜はフロントの辺りに隠れ場所を見つけて寝よう。それか、もしホテルの周りに丁度いい隠れ場所を見つけたらそこに泊ろう」

「賛成」

 高かった太陽が下り始め、明るい光も西日へと代わり始める頃、ホテルに到着した。マリンは荷物を見張り、満がフロアに先行して安全を確認する。昨日と変わった事は何も見受けられず、誰かが入った様子も無い。

 が、あの正体不明の痕跡が解決した訳ではない。ここに誰かが出入りしている可能性がある以上、本来ならここに戻る事は決して安全ではない。ましてや持ち運びが困難な大量の食料を所有しているのだから尚更だ。

 だが、マリンもこのホテル以外に安全な場所を知らない。他の建物にまだ潜んでいるであろう感染者を排除して新たに安全を確保する事は、多大な手間と極めて高いリスクを伴う。

「取りあえず大丈夫そうだ」

 また外に戻り、カートを押してフロントの中に運び込む。フロントのカウンター奥にある従業員の事務所に荷物を隠す。


「今夜はこの部屋で寝よう。念の為、今日は俺がフロアで見張るよ」

「でも、それだと満が危ないんじゃない?」

「大丈夫、隠れながら休んで、見張っている。マリンは心配せずに眠っていていい。万一の事があったらすぐに教える」

マリンは少し考えてから申し訳なさそうに満を見上げた。

「本当にいいの?」

「勿論だ。なに、昨日だって何も無かったんだ、心配は要らない」

「それじゃあ悪いけど、お願い」

「お任せあれ」


 満はフロアの隅にあるソファーやテーブルを動かして盾にして寝袋を持ち込み、クロスボウと拳銃を持ってそこへ隠れた。中々快適な空間になった。一見、外からはソファーが積み上げられているだけに見えるだろうが、隙間からはフロア全体が覗き見る事が出来た。

「これでよし」

 一旦、「見張り小屋」から出る。丁度、マリンが缶詰を茹で終えて持ってきてくれる所だった。

「コンビーフと乾燥野菜。それにフルーツの缶詰と・・・甘い物は好きでしょ?チョコレートもあるわ」

「大好物だ。頂こう」

「本当に大漁だったわ。貴方の煙草でご機嫌だったし、弾薬も二百近く渡したものね」

「それにショットガンだ。彼らもいい買い物をしたさ」

 持ってきたテキーラを開けて乾杯し、二人は食事を始めた。チョコレートが頬に沁みた。

「連中、よくもまぁこれだけの物資を貯蔵しているな」

 そう言ってコンビーフを一口齧る。それを聞くとマリンは俯き加減に答えた。

「奴らが逃げ惑う人々から略奪した物よ。それに感染者との戦いで壊滅しかけた軍や警察も襲って」

「ああ・・・」

 満は齧っていた肉を見つめた。この食物は人の血で染まっている。それを口にしなければ生きていけないのか、とどこか空しくなった。だが、せめてその犠牲を自覚しながら噛みしめたい。

「これって、お祈りしない方がいいのかもね」

「ああ、主のお恵みにしては随分と血生臭過ぎる」


 とはいえ久々の満腹感と幸福感を満は味わっていた。食事を終え、マリンは奥の部屋に戻り、満は見張り小屋の中でソファーの上に敷いた寝袋に寝転がりながら、隙間からフロアの中をぼんやりと見ていた。気を抜けばすぐにでも寝てしまいそうな心地良さに緩んだ欠伸を噛み殺した。

 外からは虫の声が聞こえる。感染者は動物も食料の一つにしているが、流石に虫は狙わないようだ。やはり、高いカロリーの摂れる生鮮食を求めるのだろう。

 故郷のそれとは違うが似てもいる虫の音を聴きながら薄らと閉じかけては開く視界の中に、月明かりが仄かに差し込んだ。雲の晴れ間なのだろう。

 その月明かりの中で影が動く。途端に眠気は吹き飛び、満はクロスボウを手繰り寄せ、隙間からその影の主の姿を見た。


 動き方とシルエットでそれがすぐ女だと分かった。思い当たるのは例の正体不明の甘い香り。その本人であろう事は疑いようが無い。まさか、偶然生存者が危険な夜中にここへやってきたとは考えられない。その女が周囲に警戒しながら忍び足でフロアへと足を踏み入れた。危険は無かろうと思うが、万一の事があってはならない。満は積み上げたソファーから抜け出し、忍び足で女の背後に回った。

「動くな」

 威圧では無く、相手を説得させるように穏やかな口調で制止を呼びかける。女はびくりと身じろぎすると、恐る恐ると両手を上げた。

「心配しなくて良い、乱暴はしない。ゆっくりこっちを向いてくれ」

 クロスボウは向けているが、セーフティは掛けたままでおく。女が振り返るがまだ顔がよく見えない。ライトを付けようかと思った時、ちょうど月明かりが一段と明るくなり、女の姿が明白になる。

 背こそ低いが、マリンに瓜二つの女だった。偶然だろうが、顔以外、背恰好も見事なスタイルもまるで双子のように酷似しているように見えた。瞳は緑がかった青緑色だし、髪の色はブラウンであるものの、美人である事は共通する。ただ、こちらの方がマリンよりも幾分幼さを感じさせる顔立ちであった。

「何でもする。殺さないで、お願い」


 女は怯えきった表情で満に懇願するが、満は相手の装備を観察した。銃は六連発の回転拳銃を腰のナイロンベルトに差している。白いフィットワンピースに黒いストッキングを穿き、両膝と肘にはパットを取りつけていた。白いワンピースのせいか、どこか看護師のような印象である。

「撃ちはしない。こちらに危害を加えないなら」

「もちろんよ、銃を渡したっていい」

 そう言って腰の拳銃を差し出してくる。満は注意しながらそれを受け取った。

 以前、自警団に属していた頃にこの手の罠を見かけた事がある。満の先輩に当たる班長が調達先の街中で、女性の生存者を見つけたので紳士的に対応していた。女は持っていた銃を差し出したがその銃はダミーで、弾が入った銃を隠し持っていた。それを撃たれ、班長は耳が吹き飛んだ。女は満が射殺した。何とも気分の悪い出来事であり、満の矢で串刺しになった女の惨たらしい死に様が今でも脳裏に焼き付いている。矢を胸に受け、それを抜くこともできずに苦しみながら死んでいくのだ。とても首を刎ねてやる気にはなれなかった。他に手が無かったとは言え、最悪な殺し方だった。

 満はクロスボウを女の足に向けたままマリンを呼んだ。

「マリン、起きてくれ」

 

 大声は出さない。マリンに聞こえるかどうかの声で呼ぶ。二十秒と待たない内にマリンは身なりを整えて部屋から顔を覗かせた。拳銃も持っている。

「満、どうしたの?」

「生存者だ。敵意は無いようだが、念の為に調べてくれるか?」

「紳士的なのね」

 女が嫌味では無い笑みを浮かべた。

「そうでもないさ。マリン、いいか?」

「任せて。ごめんね、ちょっと触るわよ?」

 満はそれと無く女に警戒しながら周囲にも注意を払う。視力は悪いが夜目はそこそこ利く。虫の音が聞こえる以外、気配は感じられない。受け取った三十八口径リボルバーの弾倉を開き、残弾を確認した。たった二発しか入っていなかった。直近で撃った痕跡も無かったので、予備の弾も無いという事なのだろう。

「終わったわ」

「ご苦労さん。こういう仕事なら俺がやっても良かったんだが」

 脇腹を小突かれながらも女に向き直る。 

「さて、止めて悪かったな。念の為だったんだ、理解してくれ」


「当然よね」

「それと、もしかしてこのホテルは君の家か?」

「ええ、最近住むようになったの。フロントのカギは安全対策か、全部無くなっていたけど、遺体が持っていた鍵を頼りに来てみたら大正解だったわ。ここなら頑丈だし、比較的守りも固いから」

「鉢合わせた事が無いから、私達が来なくなってからね」

「だいたい二か月前くらいかしら。それと、言い難いんだけど・・・」

「どうした?」

 食料なら少しは分けられる筈だ。その決定権は自分には無いと思っているが、マリンに頼めば聞いてくれるだろう。

「食料なら少し分けられるけど?」

 既に察したのか、マリンも快く支援を申し出た。さすが俺のボスだ、と満は胸を撫で下ろした。

「食料も有難いんだけど・・・今の御時勢、食べ物や武器、家だけあっても生き続けるのは難しいわ」

「ああ、同感だ」

「つまり?」

「お願い、仲間に入れてくれない?一緒に行動させてもらいたいの」

 満とマリンは顔を見合わせた。目で「どうする?」と満が問いかけると即座に女に向き直り、

「少し待っててくれる?二人で相談するわ」

 満も頷き、マリンと共にフロアの隅へ移動した。

「どうする?真面目な話、俺のボスはマリンだ」

「それ、本気で言っているの?」

「マリンが居なければ良くて野垂れ死にだったからな。意見なら言わせてもらうが、決めるのは君だ」

「大袈裟ね。でも、食料なら充分にあるし・・・確かに人手も欲しい。ただ、問題は女の子だって事だけど。もしあの連中に女が二人、男一人なんて知られたら、間違いなく襲ってくるわ。それに、女の子じゃ貴方みたいな重労働はできない」

 マリンは少し早口になりながら満をまくしたてるように言い続けた。満を責めている訳では無いが、親切心からその判断に迷っているようだった。彼女を仲間に入れる事によって、彼女を含めた皆に生じ得る危険を考慮しているのだろう。


「問題無いだろう」

 対照的に満は落ちつき払った様子で言い切った。

「どうして?とても強そうには見えないわ」

「君だって女の子だし、美人で強い。あの連中と渡り合ってここまで生きてきた」

 マリンは暫く沈黙していたが、やがて腹を決め、満の肩を叩いて女に向き直って歩いた。満もそれに続く。時間は三分と経っていないだろう。

「貴女、名前は?」

「ミカエラ」

「私はマリン。こっちは満。貴女を歓迎するわ」

「ああ、ありがとう!」

満は満足げに何度か頷いた。

「私達は食べたけど、何か食べる?」

「お願い、昨日から何も見つからなかったの」

 

 豆とコーンがたっぷりと入ったトマトスープを飲み干し、その缶を乾燥野菜の缶の上に重ねる。隣にはコンビーフの缶詰とフルーツの缶詰、やはりチョコレートの包み紙が転がっている。その食べっぷりをマリンはソファーに寝そべりながら頬杖をついて見ていた。

「美味しかったぁ、どこで手に入れてくるの?」

「グループよ。丁度さっき、手に入れて来たの。タイミングが良かったわ、私達も今朝までは分けるどころじゃなく危なかったのよ。でも、貴女もこの辺で生活していたなら一度くらい連中を見かけた事があるんじゃないの?」

「ああ・・・あのグループかな」

 空の容器を一箇所にまとめながらミカエラは記憶を捲るように指先で抽象的に宙を描いた。

「一ヶ月前、六人の男が町で物資調達しているのを見かけたわ。ショットガンとかライフルとか、重装備だった。けど、感染者相手の戦いに慣れていないみたい。最初は銃床で叩いたり投げ飛ばしたりしていたんだけど、そのうち取り囲まれて発砲し過ぎてしまって、結局感染者の集団に襲われて・・・見えただけでも三人が死んだわ」

「きっとそいつらよ。でも、物資は豊富に持っているわ」


 恐らく、訓練も兼ねて調達に向かわせたのだろう。だが、人数が多かった。人間のそれよりも優れた聴覚を持つ感染者達を相手に、実戦経験の少ないチームを六人も送ったのは失敗だったようだ。確かに人数が多ければ連携によって火力は上がり、生存率が高まるように思える。が、いくら隠密行動の訓練を受けた兵士でも人数は多ければ多い程どうしても音が出てしまうし、それだけ予期しないミスを起こしてしまう確率も増える。幾ら音を消しても、それだけの人間の気配を完全に消す事は本職の特殊部隊員すら一苦労するのだから、並の人間には不可能に近い。

 結局、僅かな物音を感染者に勘付かれて遭遇率が高まり交戦。銃声で堰を切ったように群がる感染者によって遂にパニックを起こし、犠牲者を出してしまったのだろう。

 ふと、ソファーに寝そべるマリンを見る。

 だからマリンには手を出さないのだろう。少なくとも感染者相手の戦いではマリンの方が彼らより熟知していて、優れているからだ。彼女が居なければ彼らは犠牲を払いつつ調達に出るしかないのだ。銃器や弾丸を欲しがるのも、今の話のような事情があるのだろう。

「ミカエラ、君は世界がこうなる前、何の仕事を?」


 満はテキーラを傾けながら訊ねてみた。

「看護師よ。近くに病院があるでしょう?そこで怪我をした人を見てた。まぁ、皆死んでしまったけど。四年前までは患者さんも診てた」

「看護師?それは助かるな」

「一応、薬と器具もあるから、ちょっとした治療も出来るわ。半分真似ごとだけど、悪くはならないと思う」

「本当?頼もしいわ」

「任せて。所で、気になっているんだけど」

「何?」

「二人は夫婦なの?」

 満はテキーラを喉の中で暴発させて噎せた。マリンも頬杖から頬を落して姿勢を崩した。

「夫婦・・・って言ったら大袈裟だけど・・・」

「俺もマリンの事は女性としてもボスとしても信頼している」

「そうなの・・・って、ボス?」

「ああ、命の恩人だ。これから君が暮らす家の主でもある」

「満はサムライだから義理固いのよ。貴女も何かあったら助けてあげると良いわ。命を賭けて守ってくれるわよ」

 満は腰から刀を抜く仕草をしておどけて見せ、仰々しい口調になった。

「それならそのサムライから一つ物申しておこうか。もう遅い、そろそろ寝てはどうか?」

「わかったわ、そうしましょう。お休みなさい」

「お休み」

 ミカエラはマリンに促されて従業員室へと入って行く。満も欠伸をしながら鳴子を設置し、監視小屋の中に戻った。話し声が止んだロビーには再び虫の音だけが響いてくる。その音を耳にしながら満は目を閉じた。


 結局、時折浅い眠りから起きても鳴子に起こされる事は無く、三人は朝を迎えた。軽く朝食を済ませ、ミカエラを加えて自宅へと向かって移動を開始した。ミカエラの動きは思いの外軽快で、しかも静かに行動出来ており、満が心配する必要も無かった。彼女になら銃を任せても良いかもしれない。

「万一の時、回転拳銃に二発だけでは心許ないだろう。少し重いが、使ってくれ」

 満は担いでいたライフル銃をスリングベルトごと下ろすと、そのままミカエラに持たせた。

「いいの?でも、私じゃ当てられないわよ?」

「なに、そのライフルは精度が高い。落ちついて、打つ瞬間まで十字線を相手に重ねて慎重に引き金を引けば、大抵当たるよ。それに、あくまで万が一の為さ」

 宙に向かって銃を構えるミカエラを見ながら、銃の操作の仕方を簡単に指導しておいた。


「ボルトをこう引いて、それから戻す。これで次の弾が撃てるようになる。一番大事なのは、不用意に引き金に指を掛けないよう心がける事だ。他の細かい事は後で教える。最悪、ストックを鈍器代わりに使えばいい」

「思ったより簡単そうね。覚えておくわ」

 再び帰路を辿るが、満の右後方を歩いていたマリンが立ち止り、満とミカエラに小声で注意を促した。それに気付いた二人も足を止める。

「ちっ、こんな所にまだうろついているか」

 感染者が二体、歩道の上で俯き加減に立っている。何をするでもなく、ガムでも噛んでいるようにただ口を動かしていた。空腹を表わすのだろうか。

「離れてやり過ごそう。反対側の歩道へ」

 そう二人に告げ、満は反対側の歩道を目指して忍び足で進んだ。二体の感染者は時折、顔を上に上げて天を仰いでみたりしたが、反応らしい反応はそれだけだった。それ以降は気付いた様子も無いので三人でその場を去る。


「またか」

 思わず呟くが、相手は食事中のためか反応しなかった。道路の真ん中で骨に付いた肉片を夢中でしゃぶっている。骨の形と大きさからして野生動物であったようだが、やはり食事中は周囲への察知能力が格段に落ちているらしい。だが、好都合である。満はそのまま脇を通り抜けていった。マリンとミカエラも物怖じする事無くその脇を通り抜ける。

 通り抜けた先の路地で満が先の様子を窺った。

「どう?」

「ここも駄目だ、敵の数が多過ぎる」

 満は舌打ち交じりに身を引いた。マリンも顔を出して見るが、満の言う通り、通りは感染者で溢れ返っていた。

「雨で帰り道が・・・」

「他に迂回路はあるか?」

 昨日は通る事ができた封鎖ポイントも、今日はその外側に感染者が溢れていて中に入る事ができない状態だった。明るい内からこれほどまでに感染者が徘徊しているのは珍しい。満もマリンもそうだが、ミカエラも初めてだという不安そうな顔を見せた。

「後は・・・別の封鎖ポイントを抜けるしかないわね。そこも一杯だったら最悪、何処かでまた一夜を過ごさなければならないわ」

「あまり遠くには行けないぞ?」

 満の押すカートは音が出やすい。感染者の傍を通る時は腕力任せにカート自体を浮かせ気味に無音移動しているのだ。 これは著しく体力を消耗する上に、それ程煩くは無いが、いくら音を立てないよう注意していても十メートル以内に腹を空かせた感染者がいれば間違いなく寄ってくる。


「分かってる。でも、他に方法が無いの。今までこんなアクシデントは無かったから」

「私達も物資を持てるだけ持って、カートは最悪、置いて行くって事にできない?」

 満は残念そうな顔を見せたが頷き、

「大事な物資でも、命には代えられない。そうしよう。他に略奪者が居なければ奪われないだろうから、後からでも回収できる」

「急ぎましょう、あの大群、少しずつこっちにも来ているわ」

 大群を監視しているマリンが青ざめながら移動を促した。

「同感だな、行こう。その封鎖ポイントは?」

「ここから北上して、少し小さめの道路を行くとハイウェイに出るんだけど、そこを分断封鎖しているポイントがあるの。そこから戻れるわ」

「了解した、勘付かれる前に行こう」


 満がカートを押し、その前をマリンが、横をミカエラが歩く。

「満はこの国で何をしていたの?兵士?」

 隣を歩くミカエラが満の腕にくっつきながら小声で質問した。

「いや、確かに日本では予備自衛官だったが・・・厳密には兵士じゃない。こっちの予備役に似ているな。この国へは農業の視察研修に来ただけなんだ」

「そうなの?でもまるで軍人みたい」

「マリンにも同じ事を言われたよ」

「お二人さん、もうすぐ見えるわよ」

 マリンの言う通り、遠くにフェンスに囲まれた封鎖ポイントが満の目にも映った。

「混みあって無ければ良いんだけどね・・・」

 ミカエラからライフルを受け取り、封鎖ポイントの周辺を見回した。

「大丈夫そうに見える。幾らかうろついているが、通り抜けられない程じゃない」

 マリンにもライフルを渡し、確認してもらう。

「そうね、しかも家の方角側は手薄だから、文句無しだわ」

「決まったな、行こう」


 ライフルをミカエラに返し、マリンが先頭を歩いた。満がしんがりを務めて移動する。ただ、その封鎖ポイントへ辿りつく為には商業地を通り抜けなければならなかった。満は背後に最大の注意を払いつつ、自分の運ぶ満載のショッピングカートが立てる音に気を使わねばならない。

 だが、他に方法は無いと思うので仕方ない。まだミカエラの戦闘練度を知らないままにしんがりを任せて良いものか判断に迷う。マリンには先導してもらわなければならないし、鍵を素早く開けてもらわねばならない。

「あ」

 ミカエラがそう声を上げた直後だった。ガラスが一切無くなった店内から雄叫びが聞こえたかと思うと人影が飛び出して来た。勿論、感染者だ。感染者は口から唾液をこぼしながら満に向かって突進してくる。すぐにカートを放し、満は背負っていた長鉈でその首を切り払った。鈍い切れ味に薄過ぎる刀身では両断する事もできず、首の半分ほどまでしか切れなかった。幾らかの骨肉を残したものの、あとは頭部の重みによって切り口が進み、やがて感染者はその場に崩れ落ちた。落ちた頭部から悪臭を放つ血が飛び散る。


「汚ねぇ!じゃない、あぶねぇ・・・」

 額の冷や汗を拭い、鉈にこびりついた血を振り払ってから布切れで拭く。

「ご、ごめんなさい。気付かなかった」

「いいんだ、気にするな」

 マリンも呆気にとられていたが我に返り、再び周囲に警戒を払った。新手が出てくる気配は無いが、この分だとまた襲われてもおかしく無い。

「急ごう、何度も切り抜けられる程俺もタフじゃない」

 カートを取り直す。商業地帯は感染者か略奪者の巣窟だ。物資が豊富だった名残からか、店内には何百という感染者が潜んでいる筈だ。

 あくまで仮定だったが、感染者にも休眠状態があるようだ。それが今の襲撃で裏付けられた。近くの建物にはまだ感染者が大勢潜んでいる筈だが、今の騒ぎでも出てこない。聴覚が人間より鋭くなる感染者の事だ、それが鈍くなる状態があると言う事はつまり、休眠状態が存在する。そして銃声ほど大きな音でも出さなければ、休眠状態に入っている感染者には気付かれないで済む可能性が高いということだ。安心材料が一つ手に入った。ただし、それも夜までの間だろう。まだ日暮れには時間があるが、時間はちょっとした事ですぐに尽きるので無駄には出来ない。


「気を付けて、感染者がいる。十人くらい」

「…他に手は無い。一戦交えるぞ」

 カートを一旦手放し、満はクロスボウで狙いを定め、そこから一発矢を放つ。その矢は感染者の頭部側面にギリギリ命中し、串刺しにした。距離が二十メートルほどしか無かったのですぐさま音で気付かれ、周囲の感染者が一斉に向かってきた。

「ミカエラ、落ちついて撃ってくれ!弾の事は心配いらない!マリン、援護を頼む!」

自らは長鉈を抜いて感染者に肉薄する。危険だがこちらの方が手っ取り早いし、銃弾の節約にもなる。

「わ、分かったわ」

 ミカエラはライフルのボルトを前後させ、装填を終えた銃をしっかりと構えた。銃の扱いもほぼ皆無で、戦い慣れしていないと本人は言うが、構えた姿勢は見事な物だった。無意識だろうが、負い紐を腕に巻きつけているのには驚いた。重心は安定し、銃口も振れていない。命中するかどうか見てみたいが、見物している暇は無い。長鉈を振りかざし、迫りくる感染者の首に振り下ろす。が、仕留めたものの、鉈が首を切り抜けられずに留まってしまう。そのまま別の感染者に組みつかれ、鉈を放しての格闘を強いられる。痛覚に異常を来たす所為か、筋肉が腐っている割に感染者の腕力は凄まじい。獲物に襲い掛かる時は特にそれが顕著になる。だがそれを上回る腕力で突き放し、起き上る前に顔面を踏み砕く。

 奥から走ってくる感染者の胴体上部を銃弾が貫いた。マリンの九ミリ弾では無い、ミカエラのライフル弾だ。通常の人間ならそれで即死したかもしれないが、感染者は一撃では死なず、動きを鈍らせたがまだ満に向かってくる。しかし明らかに動きが遅くなったため、その間に鉈を死体から引き抜き、動きの鈍い感染者相手にとどめを刺すには充分だった。

「その調子だ!」

 マリンも安定した射撃で確実に感染者の頭部、若しくは上体を捉え、効率よく満を援護してくれる。感染者の一団を片づけた満はミカエラに周囲を警戒させつつカートを掴んだ。ゲートに向かいながらも途中でクロスボウの矢を回収する。

「マリン、鍵を頼む!」

「分かった!」

 マリンが拳銃を仕舞い、代わりに鍵を取り出した。マリンが鍵を開ける間、満がカートで扉に近づき、続いてミカエラも来る。

「来たわよ!」

 銃声につられた感染者が一体、二体と姿を見せ始め、それがあっという間に何十体もの大群に膨れ上がる。これほどの大群になると、もう手持ちの銃ではどうにもならない。ショットガンが幾つかあった所でも変わらない。目の前にあるのはただの大群と言うより、死そのものだ。 


 だが、まだ死なずには済むらしい。マリンが扉を開け、満とミカエラがその中に滑り込み、素早く閉めて鍵を掛け直す。南京錠を施錠しつつ満は感染者相手に格闘するマリンの助勢に入った。

「ちょっと!撃たないの?」

 事情を知らないミカエラは顔面蒼白になりながら自分に向かってくる檻の中の感染者に銃を向ける。

「こいつらは番犬代わりだ!殺すと略奪者相手の防御が薄くなる。投げ飛ばすか蹴るか、銃床で殴ってダウンさせてくれ!」

「そんな事言ったって・・・!」

 判断が遅れたミカエラが掴みかかられる。一度捕まると、女性の細腕ではどうにもならなくなる。ミカエラが噛まれる前に満がマリンの周りの感染者を地面に叩き伏せ、ミカエラに絡む感染者の襟首を掴んで背負い投げる。

「マリン、家の方角の扉は?」

 ミカエラに手を貸しつつカートを引き寄せ、立ち上がってくる感染者を蹴り飛ばす。

「ええと・・・こっち!」


 マリンが扉に向かって走り、ミカエラが続く。満もカートを押してその後に続く。フェンスの外に視線を向ければそこは地獄だ。とても生者には見えない死臭漂う亡者たちが目だけを異様に光らせて満達を睨みつけて騒いでいる。

 もちろん理性の光など欠片も見えない。

 凶暴なまでの本能に目を光らせているのだ。今にもフェンスが倒されるのではないかと疑う程にひしめき合いながらフェンス越しに歯を鳴らして空腹に吠えている。

「まさか、毎日こんな危険過ぎる生活しているの?」

 ミカエラが不安そうに尋ねる。その疑問は当然だろう。

「いや、毎日じゃない。が、時と場合による。今回はその時と場合だ」

 満とミカエラが扉を出ると、マリンがアドレナリンの過剰放出によって震える手で扉を閉め、確実に施錠した。周囲に居る感染者は比較的少ない。満はクロスボウを構え、その内の最も近い感染者に向けて引き金を引いた。


「やらかした!」

 つい日本語で悪態をついたが、叫んだ時には遅い。狙いが振れたまま放った矢は感染者の顔を掠め、その後方にあったレンガの塀に命中して破片を弾いた。確認するまでも無く、もう使えない。アルミ製の矢だが曲がっただろうし、先端は潰れただろう。

「勿体ない事をした・・・」

「来るわ!」

 仕留め損ねた感染者も含めて五体。ミカエラが猟銃を撃ち、その内の一体が前屈みに倒れた。マリンは拳銃を片手に鉈も引き抜き、組みついてきた感染者の首を叩き斬った。こちらの方が満の長鉈よりリーチは短いものの、より太い物の切断に向いていた。返り血を衣服に浴びながらマリンは目を細める。満も長鉈を振り、感染者の首を切りつけた。やはり両断はできないが、なんとか仕留める事は出来た。ただ、非常に効率が悪かった。この長鉈が長大な見た目の割に戦いに向いていないという事を改めて思い知る。本来は葦のような細い植物相手に藪漕ぎする代物だ。

 こんな事態にでもならなければ本来、これらは殺しの為に使う物では無いのだが。

 

 長鉈を引き抜くのも億劫になり、満は腰に装着した大柄なナイフを抜き、迫ってくる感染者の肩を掴んで押さえた。暴れる感染者を力で抑え込んだまま、側頭部にナイフを突き刺す。刃の中ほどまで突き刺してから引き抜くと感染者は崩れ落ちた。

 リスクは高いが、重厚なナイフで側頭部を突く方が効率的だった。

「ねぇ、あれ」

 ミカエラがマリンの進む方向とは別の方角に目を細めた。

「警察の車じゃない?」

 二ブロック離れた先の交差点に、確かに白と黒のボディが見える。渡されたライフルで覗くと保安官事務所の名前も確認できた。

「本当だ。もしかしたら、良い物が残されているかもしれない。俺が行ってみる。ここで待機していてくれ」

「わかったわ。気を付けてね?」

 荷物と二人を交差点の車の影に待たせ、満は足早に車へと向かった。幸いにも感染者の気配は無い。ただ、こういったあからさまに武器や物資が有りそうな場所は誰もが真先に調べる。余程運が良ければ分からないが、大抵は何も無い。マリンはまだ入っていないようだったが、市庁舎の傍にある警察署内も何も無い。満が苦労して入ったものの、中は感染者の巣窟となっており、ただのくたびれ損だった。隅々まで調べたが、武器どころか九ミリ弾一発も無かった。初めて会った時マリンに分けた、期限の切れたチョコバーが見つかったのが慰めだ。


 左右から感染者に襲われないかと肝を冷やしながらようやくパトカーの元に辿りつき、まず車内を窺った。中には誰も居ない。ひとまず安心し、音を立てないように注意しながら運転席に乗り込む。後ろのシートは拘留用の座席となっているため、何も無い。トランクの中も目ぼしいものは見当たらない。が、満は助手席を見て目を疑った。

「まさか、これは・・・」

 助手席に備え付けられたラックには光学照準器付きの散弾銃が使われないまま残されていた。奇跡的なことに、使ってくれと言わんばかりに無施錠だった。ラックからそれを取り外し、手に持って調べてみる。破損も無いので使用できる可能性は高い。弾薬も装填されている。グローブボックスの中にはこれも手つかずの弾薬が一箱ずつ入っていた。三十八口径の銃弾が二十発分と散弾銃のシェルが一ダース。

「こいつは天啓か?」


 それをポケットに押し込み、ショットガンを持って満は車のドアを少しだけ開けて外を窺った。やはり気配は無い。ここまで静かだと逆に怪しいが、封鎖ポイントの向こう側であれだけ派手に暴れたのだからこの平穏はいつまでも続かない。車から降り、急ぎ足で二人の待つ交差点に戻る。車の影から二人が顔だけ出して心配そうにこちらを見守っているのが見えた。

 その二人に向かってショットガンを振り、無事と収穫を伝える。それを見て二人の顔が明るくなった。

「すごいじゃない、ボスに渡してしまって惜しかったけど・・・これでまた戦力回復ね」

「回復どころか、これはアップだな。こいつは警察用で、性能も上だ。弾もそのままで七発入る」

「さすが、調達屋さんね」

「運が良かった」

思わぬ戦利品に賑わいながら家路を辿る。日は落ち始め、決して明るくは無かったが、それでもようやく、マリンの家が見えてきた。

「あれが私達の家よ」

「凄い、あんな良い場所に住んでいるの?」

「要節約だが、ガス付きだ。水を汲んでくれば風呂にも入れる。暖かいベッドもな」

「夢みたい」

「もう一息だ。家に入るまでは気を抜かずに行こう。感染者だけじゃない、他の略奪者にも気を配らなければ。万一尾行なんかされて、寝込みを襲われたらたまらないからな」

 しかし、カートでこれだけ音を出しておいて今更尾行も何もあったものでは無い事に気付く。夜闇が近付くに伴い、確実に感染者の気配が顕になってくる。昼寝を終え、食事の時間になった、という事だ。それらが姿を見せる前に満達はできるだけ早足で自宅に向かって歩いた。


 今に感染者が飛び出て来て、万事休すのかと内心で震えていたが、遂に三人は玄関の前まで辿りつく事が出来た。それぞれが疲弊しきりながらも最後の力を振り絞って荷物を運び込み、最後にミカエラが玄関の扉を閉め、施錠した。

「ようこそ、我が家へ」

 マリンはすっかり疲れ切った顔を上げ、ミカエラを歓迎した。満も壁を背もたれにして座り込んだまま、動けなくなっていた。それも、マリンのように気の利いた台詞を吐く事も出来ない程に。

「・・・満、大丈夫?」

「・・・燃え尽きたよ」

 

 それでもささやかな歓迎会を開いた。三人分にしても余裕がある食料を贅沢に消費して、かつて一般家庭が囲んだ夕食に近い御馳走が完成した。ミカエラは調理も見事な腕前だった。厳重な戸締りと全て締め切った窓で暗い室内に蝋燭を灯し、その蝋燭の微光に照らされたマリンがワインの入ったグラスを片手に立つ。

「色々あったけど、こうして家に帰る事が出来たわ。それも全て、ここにいる三人が協力し合ったから」

 それからマリンは照れくさそうに顔を下に向け、笑いながら続けた。 

「堅苦しい挨拶は終わり!それでは新たな家族に」

「乾杯」

 グラスを鳴らし合い、三人ともそれを一気に飲み干した。心から喜ばしい上、帰って来るまでろくに水も飲まなかった事もあり、それは格段に美味だった。それから料理をつまむ。

「意外と満が食べないのよね。大の男だし、体格もしっかりしているのに。おかげで消費も少なくて済むけど、食べ物で無理して、いざって時に倒れないでよ?」

「燃費がいいらしい。でも甘い物は好きだ」

「ジャムをくれる?」

「どうぞ」

 マリンがミカエラにマーマレードジャムの詰まった大瓶を渡した。

「ありがとう」

 ミカエラはそれをクラッカーに盛り付け、満とマリンにも勧めてくれた。満も喜んで受け取って齧った。

「うまい」

「ジャムまでくれるとはね。まぁ、なるべくタンパク源の食料を分けたくないから甘味料を多めにくれたんだろうけど・・・」

「俺から言えば結果オーライだ」

 指に着いたジャムを猫のように舐め取りながら満が満足げに椅子の背もたれに寄りかかった。

「何と言っても人間、食糧が無ければ戦いも出来ないからな。日本の古い言葉にもある通りだ。でも、これで冬の心配は無くなった」

「狩りも必要無くなった?」

 マリンが背伸びをしながらワインを傾けた。

「いや、狩りはするつもりだ。できるだけ保存可能な食料の消費は抑えておきたい」

「それがいいわね。無くなる時はいつでも無くなるんだし」


 それぞれが食事を一頻り楽しみ終え、ワインや食後のコーヒーを楽しみ始めていた。

「暖食は久しぶりだったわ。私が住んでいた周辺は良くても缶詰くらいしか無かったから。それも滅多に見つからなくて」

「奴らに会わなかったのは幸か不幸か・・・それでもよく生きていたな。しかも、あそこは封鎖圏だから感染者の密度も高かった筈だ」

「運が良いのね」

 ミカエラは胸元から十字架を象ったネックレスを取り出した。

「これがお守り。彼氏から貰った。生きているか分からないけど」

「彼は何処に?同じ町で暮らしていたんだろう?」

 ミカエラは苦笑しながら首を横に振った。その苦笑さえどこか無理をしているように満は感じた。

「私はこの町に出勤していたの。隣の州からね。でも緊急要請で出勤してから帰れなくなって、二日間徹夜で働いて一時帰宅が許されたのに同僚達から引き止められて、結局五日間も病院で過ごした。その五日間で大分死人が出始めて、この事態が普通じゃない事にようやく皆気付いたわ」


 誰もが忘れられまい。文明が終わる最後の時を。満もその前後の出来事は録画したかのように鮮明に思い出せる。人間だけが天国から地獄へ、生者から死者へと移り変わっていく光景。ミカエラもマリンも、自分達の見てきた文明の最期の時を思い出して遠い目をしていた。

「誰でも気付いてから行動するもの、無理に決まってるわよね。今更自分だけ家族や友達、恋人と合流しようなんて。周りや相手だって同じような状況なんだし。結局交通機関が麻痺、道路も使えなくなったら、毎日朝夕通っていた家までの道が天国より遠くなっちゃったんだから、これ以上皮肉な事って無いと思わない?」

「同感だな」

 満も故郷に帰れなくなった。結局、自分の足が頼りの時代に逆戻りしてしまった。それも、日本のような狭い国土では無く、こんな広大過ぎる大陸で。

「・・・だが一つだけ、この国に取り残されても良かった事がある」

「何よ、それ?」

「君達美女にお目にかかれた事だ」

「バカなの?」

 マリンに小突かれ、満は大袈裟に崩れ落ちた。


「でも大丈夫よ、ミカエラ。こうして私達だって生きているんだし。貴女の恋人もきっと生き延びているわ」

「しかしマリン、俺達も次に安心して住める場所を候補として下見しておくべきだ。隣の州に入って見るというのは?」

「勿論よ。春が来たら行ってみましょう。いつまでもここに居られるとは限らないんだし、他の友好的な生存者やグループと接触するのは、安定して生きて行く上で重要だわ」

 二人の言葉にミカエラは顔を輝かせた。

「本当にいいの?」

「私達の為でもあるの。案内をお願いするわ、ミカエラ」

「ありがとう、マリン!満!」

 誰もがこの世界で孤独だ。世界が正常だった頃から共に過ごしてきた人が隣に居る人は幸せ者だ。大切な人の生死さえ分からない人はその安否を知る事も出来ないまま、自分の命も危険に晒しながら孤独に生きて行かなければならない。

 だから、その愛しい人の安否を確認できる目途が立ったミカエラの喜びは相当のものだろう。


 満は泥酔してテーブルに突っ伏していたミカエラを抱き上げるとベッドに運び、軽いその身体を横たえる。マリンがその衣服を苦しく無い程度に緩めてから毛布を掛け、二人は部屋を出た。

「今度こそソファーが俺のベッドだ」

 毛布を羽織りながら満はソファーに乗った。戦利品であるショットガンを抱き上げ、余程気に入ったのか、それをじっくりと見つめている。

「悪いわね・・・」

 申し訳なさそうに目線を落すマリンに「気にするな」と手を振り、ショットガンを見せながら、

「彼女の名前はアイリーン。今日の俺の添い寝相手」

 などとどこかの映画で聞いたようなセリフを言っておどけて見せる。そしてマリンが部屋に帰ってから満もソファで目を閉じた。室内にはまだ夕食の匂いが残っている。それが満の鼻孔をくすぐる。が、もうその誘いに乗る気は無い。腹は満腹だし、この世界の食糧事情に対応して、自分を含め多くの人間の胃袋は確実に縮まった筈だ。持っていたショットガンをテーブルの上に置き、満はそのままソファの上で眠った。思ったほど寝心地は悪く無かった。



 四時間も寝ただろうか。まだカーテンの隙間からも光が見えない、夜明け前に目が覚めた。だが特に異常を感じなかったので再び眠ろうとした時、外から聞こえてきた雄叫びで眠気が吹き飛んだ。

 飛び上がるように身を起こしながら腕時計に目を落とすと、まだ眠ってから二時間しか眠っていなかった。しかし、外には招かれざる客がうろついているようである。

 満がショットガンを手に窓辺に近づこうとすると同時に、マリンとミカエラが寝室から出てきた。二人とも殆ど衣服が整っていない。満同様、声に起こされて飛び起きたのだろう。満は目のやりどころに困りながら二人に安心するよう呼びかけた。

「大丈夫だ、服を着てくるか、ベッドに戻った方がいい。また、はぐれた感染者だろう。空腹で苛立って、鳴いているんだ。人間が居なくなって、感染者の密度が増えた場所でよくある事だ」

「そうは言われても、すぐ外であんな声で叫ばれていたら気が気で無いわ」

 ミカエラは不安そうな面持ちで窓辺に近づき、カーテンの隙間から外を眺めた。

「一体だけだ。いや・・・釣られてもう一匹来たな・・・これまたよろしく無いのが」

「なに、アレ」


「ラフレシアになる前の成長体・・・蕾だな。あれが栄養を貯め終えるとろくでも無い物になる。滅多にお目にかかれないのがせめてもの幸いだが、貴重な出会いといえば貴重な出会いだ」

 釣られてやって来たその感染者は緩慢な動きだった。その顔はもう人間の原型を留めず、かろうじて頭蓋骨の残りと思しき骨片の割れ目から気味の悪い菌類の塊が生えていた。ラフレシアなどは化け物と言うより植物だが、これは人型を残しているため化け物と形容するに相応しい外見だった。

「感染者より鈍くて、腐れ落ちて顎もなくなっている。音には向かってくるが捕食能力はもう無い。後は開花するのを待っているだけだ。 …直接怖い相手ではないが、アレを始末するのは人類としての義務だ。そして何より俺達の為」

 

そのまま成長体が開花し、ラフレシアになってしまえば菌を撒き散らす危険極まりない存在になる。その菌は風に乗せられて広い範囲に運ばれ、その周辺をガスマスクなしでは生活出来ない環境に変えてしまう。自分達の住処を守る為には優先的・積極的に始末しなければならない。根となる宿主の身体から切り離してしまえば死滅するので、ラフレシアになる前の成長体が最も効果的に殺しやすい時期だ。それを過ぎてラフレシアになってしまえばある大型ガスバーナー類とガスマスクが必要になり、大仕事になってしまう。

 満は既にラフレシアを利用されてグループを崩壊させられた。その忌まわしい記憶を思い出したのか、俯き加減に口を噤んだが、ショットガンからクロスボウに持ち替えた。

 矢を番え、弦を張る。それからミカエラとマリンが見守る中、窓を開けて隙間から獲物を狙った。矢が放たれ、成長体では無い方の感染者が倒れる。成長体はその音に気付いて周りを見回すが満達を認知できず、その場に立ちつくした。

「あれは飛び道具じゃ始末できない。ここで待っていてくれ」

「ちょっと、危険じゃない?私達も行った方が・・・」

「その格好で出るか?」

 満はわざとらしい顔で二人の身なりを振り返って口元を歪めた。下着姿の二人は口を噤みながらソファの影に隠れた。


「なに、アレは普通の感染者に比べたらおとなしいから大丈夫だ。すぐに始末してくる」

 マリンの鉈を借り、満は玄関のカギを開けて出て行った。二人は窓辺に近づき、路上に立ち尽くす成長体に目を向けた。そこへ満の影が近づき、成長体が満に気付いて身体を振り向かせた所に満が鉈を振り下ろした。一撃だけでなく、何度も首を切りつけている。押し倒して四、五回も切りつけ、頭部を完全に切り離してから満は死骸から離れ、近くに倒れている感染者の死体からも矢を回収して玄関に向かって戻って来た。

「ほら、簡単だろう?」

「でも、あれが開花したら最悪なんでしょ?」

「そうだ。でも切り落としてしまえばもう心配要らない。さぁ、朝までじっくり休むとしよう」

 満はソファに戻り、毛布を被った。たった今感染者を二体始末してきたとは思えない程落ちつき払った様子だが、すぐに寝息も聞こえてきた。

「・・・ホント、不思議だと思わない?」

「思う。軍に入っていないなんて嘘だと思わない?どう見ても元特殊部隊の・・・って印象でしょう?」

「うーん、でも、嘘を吐くタイプでもないし、その必要も無いと思う」

「そうね・・・」

 二人はソファに近づき、大口を開けて口呼吸のまま眠る満を見下ろす。腕は立つが経歴は至って平凡なこの異国人の男の正体が気になった。

「でも、経歴も普通の人がこんなに強靭になるなんて。それが本当なら、この世界が彼をそうしたのね」

 毛布を掛け直してやり、二人もそれぞれ寝室に戻った。頭の脇に立て掛けていたショットガンが頭に向かって倒れ、激痛と共に満が起こされたのはそれから間もなくのことだった。

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