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蒼井満

 一階のエントランスホールの銅像に背を向け、満は腕組みをしたまま、市庁舎内の案内地図に見入っていた。


―何故、こんな良い場所を捨てたのだろう―


 そう疑問に思っていた。理由はそう多くは思い浮かばない。恐らく、食糧切れでここを放棄して行かなければならなくなったのだろうと、結論は見えていた。軍隊の強みは兵站だ。結局のところ、生活できなくなれば軍人とて一人の人間だし、燃料が無くなれば強力な戦車やヘリも巨大な鉄屑に過ぎない。

 

 エントランスから正面ゲートの様子を窺い見る。軍が二列に配置したバリケードの、前列のバリケード上にあった有刺鉄線が一部無くなっている。マリンの仕業であろうことは容易に想像できた。今の所、感染者もそこから侵入して居らず、周囲に略奪者らしき人影も見えない。しかし念の為、そのまま屈みこんで出入り口の足跡を確認してみる。自分とマリンの靴跡以外は見当たらないので、これは安心して良さそうだと思った。出入り口に鍵を掛けられればそれで解決できるのだが、生憎と自分が侵入する際に破壊してしまったのでそれは出来ない。取りあえず、手持ちのロープでドアの取っ手を縛り付けておいた。


 続いて職員事務所に入り込み、兵士の残したメモや手がかり…例えばどこへ行けば本隊と合流できるか…安全な場所などの情報を探り出す。だが、よくよく考えて見れば自分自身、日記や細かい手記など残さない。人の価値観によるだろうが、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされて、そこで何があったかを一々掻き留める人間がそうそういるのだろうか? 少なくとも自分だったらそんな余裕は無いと思うし、思った事があったなら周りの人間にそれを話して終わりだ。もし、ここでそんなメモか日記が見つかったなら、それは余程度胸の据わった信念ある者か、余程話し相手に恵まれなかった者だろう。きっと、見つからないだろう・・・にも拘らず、満は兵士の遺体の下からそれを見つけてしまった。尻に敷かれるように踏まれていた手帳には、遺体から染み出た体液で汚れてしまったページもあったが、既に乾いていたので満は気にせずページをめくった。他人の日記への興味はまちまちだ。その人間への興味の深さにもよるし、書かれている内容にも拠る。他人の恋日記には興味無いが。


 その日記の前半部は終末的な現状への嘆きと後悔、家族への思いが書かれていた。それはありきたりな内容ではあったが、ひたすら切実であり、自分自身に通ずるものもあった。軍と言う最大の防衛組織が壊滅し、日常が終わる事に対する、信じられないという思いと、その信じ難い現実をどこかで冷静に受け入れてしまう自分への動揺。


 その中で無限に湧き出てくる、先行きに対する様々な不安。そしてこれは、文面にしか書き殴る事しかできないであろう、痛烈な愚痴。それは暗澹としていて、他のどんな細かな文章よりも正確に筆記者の身の回りを書き表していた。

 その愚痴が書かれたページを捲る毎に、満はつい先ほどまでの考え方を改めざるを得なかった。例え周囲に話しやすい、親しい人が居たとしても・・・いや、親しい者や家族が居るからこそ、彼らに打ち明けられない本音が多いのだ、と。


 ページを捲る毎に悪化していく当時の状況。その中にマリンの言った例の銃砲店の記述もあった。店の存在を知ってから武器を調達しに向かったが、その際、想像を絶する数の感染者が橋から押し寄せ、軍人・徴用した民間人も合わせて多数の死者を出してしまい、店の武器弾薬の半分ほどしか運び出せなかったという。日記の終わり頃にはついに市庁舎内で感染者が発生してしまった状況が記されていた。一体どのような感染経路なのか、それが明確にならない事への焦りと苛立ちが書き連ねられていた。まずは徴用した民兵と軍人達との間での疑心暗鬼、そして職業軍人である自分達も物資の欠乏により互いの固い絆が揺らいでいく様子。 市庁舎内での突発的な戦闘も増え、仲間の兵士にも感染が広がり始め・・・自分自身も体に怪しげな症状が出始めた事への絶望的な恐怖が記され、そこで日記は終わっていた。


 満は日記を閉じ、それを遺体の手元に置いた。その遺体の前に屈み込み、手を合わせてからその場を後にする。

 その後、一階の怪しげな場所を隅々まで調べた。得た収穫は状態の良い、二十枚一組のビニール袋。何枚か使った形跡も見られるが、充分に入っている。食物の保存にも使えるだろう。更に満は、その階にある兵士の遺体から自分とマリンの足のサイズに合う軍用ブーツを一足ずつ拝借した。罰当たりな事だとは理解しているが、靴もいつかは消耗する。その時に備える必要があった。さすがに衣服には手を付けなかった。防弾ベストなど防具があれば間違いなく頂いたのだが、それは生き残りに持って行かれたらしい。彼らの標準装備の筈だが、弾帯もベストも、ヘルメットも装備していない。念の為に調べはしたが、正門の装甲車にも何も残されていなかったし、車もガス欠で動かなかった。結局、一階にそれ以外に役立ちそうな物は見当たらなかったので、再び二階に戻った。


―そろそろ、狩りの時期だな―


 冬になれば缶詰や物資ばかりを宛にもしていられない。人間の数が減り、地球規模での環境も大幅に変化している。雪の量も明らかに増えているし、廃墟と化した町のメインストリートを鹿や熊、猪が闊歩する世界だ。そんな動物達を原始的に狩る事が冬を乗り切る上で大きなアドバンテージになる。かつて飽食の時代に生き、環境問題に苦慮していた自分達人間の過去と今を比べると、何とも皮肉であった。そんな世界で適応して生きている自分自身すらも。


 自警団員として雇ってもらった際、銃は目上である先住者達へ優先的に配備されて余分が無く、半ば間に合わせとしてクロスボウを与えられたのは、不遇が転じた最大の幸運と言えよう。その時に満はハンティングの要領も教わる事が出来たし、クロスボウ自体を上手く使い、運が良ければ矢の再利用も可能で、弾薬の節約と言う意味でも最高の狩猟具と言っていい。最も、更に効率が良いのは仕掛け罠だが、生憎とそれは持ち合わせていなかった。しかし、こんな街中でも野生動物は姿を現す。高層ビルの合間、大通りの路面を猪や鹿が歩き回っているのは、かつての人類の営みを覚えている満からすれば何とも奇妙な光景ではあったが、最近ではそれにもすっかり慣れた。今や彼らはありがたい蛋白源だ。ただし、タダでそれを口にできる程甘くも無いが。

 

 かつては金さえ払えば安い肉は幾らでも買えた。だが今ではそれすら叶わない。スーパーで並んだ肉に比べれば味も固さも酷い代物だがそんな肉さえ、今では自身の命を賭け、危険を冒さなければ手に入らない貴重品だ。仮に手に入っても、今度はそれを加工しなければならない。皮を剥ぎ、肉を削いでそれぞれ燻製なり塩漬けにするなりして保存しなければならないし、この毛皮も加工できれば冬を乗り切るのに有効な暖となる。街中で毛布や衣服を探してもいいのだが、状態の良い物は滅多に無い。

だから獲物の無駄にする場所など、一部の内臓と骨、後は血くらいの物だ。

 二階に戻り、応接室に顔を出す。火は消え金属マグカップに入っていた湯はマリンが飲んだらしく無くなっていたが、そのマリンの姿は無かった。

「マリン?」


 呼んでみると、違う部屋から返事が聞こえた。その方向に満は向かって歩く。PCルームと書かれた部屋から蝋燭の灯りが漏れていた。

「まだ休んでいて良いのに」

 マリンは部屋の棚を漁っていた。資料やペン、筆記用具などが転がり落ち、パソコンに使っていたケーブルやパーツなども見えるが、どれも大した物では無い。満はマジックペンを一つ拾い、軍が作戦会議に使っていたのであろうホワイトボードに落書きを始めた。薄らと残る何かの見取り図と記号の上に、昔見たアニメのキャラクターを描く。日本人なら誰もが知る、あのパンチ一発で顔馴染みの悪役を吹き飛ばす、子供向けのヒーローだ。


「それゆけ・・・使えそうな物があったか?」

「いいえ、全然。そっちは?」

 マリンは乾電池を拾い上げながらそれをチェックした。だが、錆びていたのか液漏れしていたのか、それを棚の中に放り戻した。

「ビニール袋が幾らかと、遺体からもらった靴。それだけだ。期待してはいなかったが、想像以上に何も無いな」

「そろそろ冬が近いから、二人分以上の食料を、しっかり蓄えておかないと・・・」

「今に動物が餌を探しに姿を現す。そいつらを狩って肉を手に入れよう」

「でも、炭水化物も欲しいわよね・・・野菜や果物なんて贅沢は言わないから」


 確かに、肉だけでは厳しいだろう。肉とて、獲物を仕留めなければ手に入らない。野菜や果物、穀物は安全な土地で、農業の専門知識が無いと確保できない。畑に種を播いて水をやれば育つほど簡単では無い。農業と言う物が如何に高度な技術であるか、前に所属していたグループで思い知ったものだ。だが、必要な物さえあればグループで習得した知識を活かせる。

「アスファルトを引き剥がして、柔らかい土を敷き詰めれば・・・或いはな」

「私の住んでいる所は、庭があるけど」

「それならちょっとした野菜や果物は育てられるな。小麦も作れればいいんだが・・・どの道、まずは種が無ければ話にならないし春の作業だな。」

 マリンは満を受け入れた事は正解だったと確信した。大型の武器を持ち、サバイバルに対する知識も豊富な彼が前を歩いていると、何とも頼もしい。普段なら恐る恐る片方ずつ安全を確認する廊下の陰も、彼が前にいればさほど不安は無い。

 

 それも、重さは分からないが完全に容量一杯のバックパック。彼のオリーブ色のバックパックははち切れんばかりに荷物で膨らみ、ポケットに差した手斧、小型スコップの柄が覗き、矢を入れた収納袋を背負い、更に、黒いシースに入ったやたら長い鉈を掛けている。それだけでも見た目より相当な膂力を持つ男性に見える。眼鏡を掛けていたので戦いは避けて通る人柄に見えたのだが、この世界に置いても些か異様なその外見はむしろ好戦的な狩人にすら見える。


 ただ、あの手斧や長鉈では、オフィスにあったような太さの木を裁断するのには少し合わないようだ。だからブルックの鉈を有難がったのだろう。 

 その満は謎の落書きを終えてマジックを放り捨て、別の部屋に向かった。マリンもそれに続き、満とは別の部屋を捜索しに向かった。

 満は北東の部屋へと入って行く。マリンはその西側にある部屋へと入った。そこは図書室だった。市民も利用できるこの図書室にはまだ入った事が無かった。いつか行こうと思っていたが仕事の中で余裕を無くしていき、遂に来る事は無かった。結局、こんな形で訪れる事になってしまった。

「すごい本・・・」


 本棚を埋め尽くす本はしかし、古めかしい物や堅物な内容で、それほど文学に心得の無いマリンにとっては馴染みにくい物であった。それでもこの先、何も娯楽が無いのではあまりに味気ない。必要な物資を探してカウンターの内部を漁るが何も収穫は無い。仕方なく小説が置かれている本棚を辿る。途中、棚が二つほど倒れていたが、それを乗り越えて小説の棚に辿りつく。その中からタイトルを一瞥し、洒落っ気のある、または聞き覚えのあるタイトルを優先して三冊ほど抜き取り、自分のバックパックに詰め込んだ。

 そこで顔を上げた時、この部屋が通り抜けできる事に気付いた。入り口とは逆にある出口から部屋を抜けると北西にある廊下の突き当たりに出た。更にそこから上階へと上れる階段があった。

「満、階段があったわ」

 隣の部屋を捜索していた満が廊下に出てきて、その階段の上を見上げた。錆びかけた鉄製の無骨なドアが閉ざされている。

「屋上か」

「確か、ヘリポートになっているって聞いたことがあるわ」

「何にせよ、今は放置していいな。天然シャワーはまだ浴びたくないし、ヘリが来てくれる訳でもないしな」

「そうねぇ、ヘリが来てくれたら嬉しいけど。それに、お湯のシャワー浴びたい・・・」

「言うな、余計に恋しくなるぞ。会議室にも何も無かった」

「図書室もよ。暇つぶしに本を三冊持って来たけど」


「日本語訳だったら俺も物色したんだがな。まぁ、教材代わりに適当に一冊貰っていくか」

 満も今しがたマリンが小説を抜き取った棚に向かい、特に考えもせずに手に当たった一冊を抜き取ってバックパックに入れ、再びバックパックを背負いながら言った。

「残るは各課がまとまった事務所と、市長室だけだな」

「満は事務所を見てきてくれる?」

「ああ、市長室は頼んだぞ」

 満は事務所へと入りながら、早速嫌そうな声を上げた。

「マリン、これはかなり散らかっている。市長室に良い物が無かったら手伝いに来てくれ。一人じゃ朝までに探しきれない」 


 マリンの返事も待たず、満は早速散らかっている物を押し退け、役立ちそうな品を探し出した。マリンは聞かぬフリをしながら市長室へと足を踏み入れた。それ程広く無い室内は他の部屋と違ってあまり散らかっておらず、むしろ最後まで整えられたまま扱われていた様子があった。この建物は軍の部隊が籠城していた。その部隊のリーダーの部屋として使われていたのかもしれない。殴り書きだらけで何と書いてあるかも分からないホワイトボードの前に、来客用のソファーを対面ではなく横一列に並ばせてある。恐らくは主要な士官と共に作戦会議に使ったのだろう。弾薬の残りについても部隊名と所持数、最終的な在庫数が書かれている。

「合計七百発・・・砲弾六発。」

 それが少ないのか多いのか、軍事知識は専門外とするマリンには判断できなかったが、この近辺を徘徊する感染者は二百からいるだろう。高校・警察署近くなら更に五百から、その他広い範囲を獲物を求めて徘徊する感染者の数は計り知れない。

 そうして見ると、この七百と言う数字がどの程度のものか、漠然と理解できた。そもそも、弾薬など千発あろうが二千発あろうが、それで人類と入れ替わったあの死者の群れに太刀打ちできると考える事の方が危ういだろう。


 持っている弾薬はあくまで消耗品の命綱。むしろ、死に難くなっている感染者より人間に対して使う方が有効だろう。ブルックがマリンにそう教えてくれた事を忘れてはいない。ブルックからは戦いやサバイバル術に関して多くの事を学んだ。こうして生きていられるのも彼のお蔭だ。


 その彼が教えてくれた探索時のコツをいつものように実践してみる。市長が使っていた机はそのまま残されており、マリンは机の引き出しを次々開けて行った。写真、文具、珍しい形の文鎮、高級そうなペンの数々・・・どの引き出しにも役立ちそうな物は無い。続いてしゃがみこみ、机を下から覗きこむ。マリンは心躍りそうになった。人が見つけたら真先に取られてしまうであろうものがある。それを掴み、引き剥がした。机の腹にテープで無造作に貼り付けてある拳銃。重みのあるその銃を手に取って検めた。実際に手にしても、周囲の環境によっては折角見つけてもぬか喜びで終わってしまう事も多々ある。破損していたり、風雨や年月によって銃が使い物にならなくなっている事もある。先程銃砲店で入手した弾薬もどうなっているか分からない。それを確認するのは安全な家に帰った後の予定だったのだが。


「見た目は大丈夫そうね・・・」

 弾倉を引き抜いてみると十発フル装填されている。これは満にあげよう、と思った。ようやくここに入ってから収穫と言える収穫が手に入った。

『探す時は生前、その人が生活の拠点としていたであろう部屋、特に長い時間を過ごすであろう場所を徹底して探すんだ。ベッド、机、休憩所・・・他人が思わないような場所に何かを隠している事がある。それに、本人も置き忘れてしまう事もあるだろう』


 ブルックの言葉が頭に思い浮かんだ。

 市長の護身用だったのだろう。マリンはそれを一旦机の上に置き、他の棚や椅子の裏なども探してみたが、それ以上の収穫は無かった。偶然、この部屋の棚の裏に隠し階段があり、そこから屋上のヘリポートへ逃げられる通路もあったが、これには全く用が無い。


 市長室の捜索を切り上げ、再び拳銃を持ったマリンは隣の職員事務所に入った。

「応援と、差し入れに来たわよ」

「嬉しいね、何だい?」

 満は灰色にくすんだ迷彩柄のブーニーハットを頭に被っていた。ここを守っていた兵士の物だったのだろう。バックパックは部屋の入口に置き、散乱した段ボールの山に分け入り、宝が埋もれていないか探していた。

「拳銃よ、十発フルで入ってる」

「大収穫じゃないか」

 満は段ボールの山から離れ、足元の不用品に躓きつつマリンの立つ出入り口に向かって歩いてきた。


「ありがとう、助かる。思わぬ差し入れだよ。いくらクロスボウでも連射できない以上、バックアップ無しは厳しいからね」

 満はマリンの拳銃を返してその拳銃を受け取り、腰のベルトに挟んだ。

「もう少し探してみるが、ここには何も無さそうだな。散らかり過ぎているし、それほど重要な物があったとも思えない。兵士が居た痕跡がほとんど無いから」

「それだったら少し休む?」 

 一通りの探索は終えた。久々の遠出と言う事もあり、仮眠もしたがそれでも拭いきれない疲労を感じてきた。瞼も重い。そろそろ明日に備えて寝てもいいだろう。

「それがいいな。時間はあるんだから、なるべくいい寝床を探そう」

 

 満はプラスチックの屑入れを蹴り飛ばし、自分のバックパックを拾い上げた。最早ライトかキャンドルの明かりが無ければ足元もおぼつかない程に暗くなっていた。雨の音は相変わらず弱まる気配を見せない。

「毛布は一階にもまだあったな。お互い、寝床の確保は早い者勝ちって事でいいよな?」

 そう言うなり部屋を出て行ってしまう。しかしマリンは既に目星を付けていた。市長室のソファーを向かい合わせてくっつければ、良いベッドになる筈だ。あの部屋は荒れていなかったので、風雨による影響も少ないだろう。早速、部屋を出る。満は応接室に入って行くのが見えたが、毛布でも取りに行くのか、またすぐに部屋から出て下の階へと降りて行った。マリンは右手にある市長室に戻り、一列に並んだ二つのソファーを向かい合わせるようにくっつけようとした。しかし、重い。高級家具だからなのか、見た目よりも重く、マリンが引っ張っても動かない。これではベッドを作るだけで時間が掛かるだろう。諦め、片方のソファーへ身を預けた。さすがに座り心地は良い。寝返りを打てば固い床に顔をぶつけるかもしれないが、それさえ無ければ良い夢を見られそうだ。バックパックを枕にしようと思っていたが、中に弾薬が入っているので頭が痛いだろう。それに、毛布も無い。満と同じように一階に取りに行く事にした。


 居心地のいいソファーから起き上がり、部屋を出る。市長室の目の前には三段の段差を下りて休憩所になっており、そこが一階の吹き抜けと繋がっていた。マリンが侵入してきたエントランスホールが見下ろせる。柵に手を置き、下の階を眺めていると、エントランスホールに毛布を手にした満が歩いてきた。

雨が降りしきる外の様子に顔を曇らせながら何か呟いていた。

「明日までに止むと思う?」

 思わぬマリンの問いかけに満は周囲を見回した。その様子を上から見下ろして楽しんでいたが、すぐに満は吹き抜けの存在に気付いた。

「ああ、どうだろうな。この降り方は・・・絶妙だ。ラジオで天気予報でもチェックするとしようか」


 そうおどけながら満はエントランスから元来た方へと戻って行く。マリンも吹き抜けから離れ、階段に向かった。

「吹き抜けがあったんだったな」

 階段を上ってきた満が一本取られた、という顔をしながら言った。さっきよりも多くの毛布を抱え、その一つをマリンの為に持ってきてくれていた。気遣いに感謝しながら毛布を受け取る。

「昔、ここで遊んだ事があるわ。よく怒られてたけど・・・高校時代からあまり来て無いな」

「高校はあの近くの?」

 雨のせいで窓からは見えないが、この距離なら高校と市庁舎を遮る物は無い筈だ。

「いいえ、違うわ。私はウェストビルの高校」

「すまない、土地勘が無いから分からないな。そうだ、ウィスキーで良ければあるぞ」

 満はバックパックを下ろし、その奥の方を暫らく漁っていた。程なくして瓶に入ったウィスキーと、フラスコボトルが現れた。満はフラスコボトルを取って栓を開けた。

「ありがとう、頂くわ」

 マリンも瓶を受け取り、栓を開けて互いのボトルを打ち合わせた。

「本当はワインとかビールの方が好きなんじゃないか?」

「確かにワインの方が好きかな。でもウィスキーも嫌いじゃない。ラムとかテキーラもあまり強すぎなければ美味しいけど」

「酒だけはまだ飲めるから助かる。余程の酒好きでも無ければ、こんな状況下で生き残っていて酒を優先的に調達する奴は少ないだろうからな。競争率が低いってわけだ」

「今なら高級なお酒もいけるんじゃない?」

「あればな。でも、本当の酒好きならこんな状況でも酒を確保しているかも」


 階段の段差に腰掛け、窓を滴る雨を見ながらウィスキーを傾ける。満が缶詰も取りだした。

「経験上、遅くとも明日の午後までには止むだろう。運が良ければ午前中か。どちらにせよ、兵糧攻めの心配をしていても仕方ない。折角なんだし、大したものは無いが・・・」

「お祝いってわけね。貴方が居て良かったわ。そうでなければお腹が空いたまま明日になってた」

 魚の缶詰だった。調理用に使う物のようだったが、何の魚かは分からなかった。

「鰯の缶だ。口に合わないかもしれないが」

「今時好き嫌い言ってたら、こんな世界生き残れないわ。それに匂いは悪くないよ」 

 満は更にバックパックから保存タッパー入りのアルコールに漬けた脱脂綿と小型ナイフを取り出し、脱脂綿でナイフを丁寧に拭いてからマリンに渡した。ありがたくそれを食器代わりに使わせてもらう。満もまた別の小型ナイフを取り出し、同じように拭いてからそれで鰯を口に運んだ。

「刃物、たくさん持っているのね」

「武器収集も趣味でね。特に手に入りやすくて、日本でも所持できる刃物は。土産のつもりで買った物も多いんだが、お蔭で結構役に立つ。小型な物だと幾らあってもそう邪魔にならないし、その割に役に立つ」

 

 満はさらにドライフルーツも開け、マリンの分を手に入れたビニール袋の上に取り分けた。ドライフルーツは久々だったし、果物は好物なので、とりわけ御馳走だった。本物の青果を求めてはいない。今時、せいぜい野生している物しか手に入らない。勿論、人の手を加えた物に比べれば味は素朴で甘みも少ないが、それでも貴重品だ。人間も欲しいが、それ以上に動物達の食糧であるため、競争率が激し過ぎて野生の物すら手に入りにくい。

「ありがとう。本当に御馳走だわ。」

「そう言ってもらえると調達した甲斐がある」

「無事に私の家に着いたら、ベーコンでお返しするわ」

「そいつは楽しみだ」

 満は冗談を返すように笑ったので、マリンは続けた。

「缶詰のベーコンよ?」

 正直、自慢でもあった。中々手に入らない御馳走だ。

「本当か?じゃあ、そいつは本当に楽しみだ」

 

 二人で缶詰とドライフルーツを平らげる。それからお互いの事を話しあった。それは情報交換などと呼ぶには恥ずかしい、他愛も無い昔話だった。恋愛も失恋も、仕事の失敗や人間関係のトラブル、良い話に嫌な思い出・・・だがその全てが愛おしい、大切な昔話でもあった。

「それがまたしつこくて・・・七度目くらいかな?とうとう股間に一発くれてやったわ」

「それは懲りた事だろう。聞くだけで腸が冷えてくる」

 ウィスキーも半分近く飲み、互いに酔っていた。寝床を設けた事も忘れ、階段から離れた床の上で毛布にくるまり、並んで横になっていた。もう歩く気力も無い程に酩酊したマリンが、結局硬いバックパックを枕にしながら心地良さそうに笑い、欠伸を洩らす。満もすっかり気を緩めて大きな欠伸をした。


 意識が戻るか戻らないかと言う所で満とマリンは本能的に上体を起こし、手元の拳銃に手を伸ばした。が、その手をそれ以上伸ばす事は無い。起き上り、マリンは身支度を整え、満は階段の手すりへ近寄ると階下を覗きこんだ。気配は無い。荷物も無事だ。続いて窓の外を見る。最大の懸念であった雨は止み、湿った空気が温められ始めている。それを確認した満とマリンは思わずハイタッチした。正確な時間など分からないが、日の高さ、空気の冷たさから見て八時から九時ぐらいだろうと決めつける。雨も無事に上がっており、タイミングも最高だ。後は荷物をまとめ、周囲の安全を確保しつつ自宅へと向かえばいい。


「俺の用意は整ったが、そっちはどうだ?」

 マリンのショットガンも満が担ぎ、軽々と歩き出す。

「良いわ。あ・・・満、実はね」

 マリンは持ち切れず、銃砲店に残してきた弾薬の事について伝えた。

「それは勿体ないな、是非寄ってみよう。無事な物さえあれば、完成品でなくてもハンドロードできる。…機械にも心当たりあるしな」

 身支度を終えた二人は市庁舎のエントランスを出て、感染者や略奪者が待ち伏せていないか警戒しつつ、銃砲店のある方向へと通りを横断した。アスファルトの至る所に亀裂や陥没があり、水たまりが小さな川のようになっている所も多々あった。 

「人の手が入らないだけで、たった五年でこれだもんね・・・」

「不思議なもので、人が作った物は、使えば使うほど傷むが、使われていないと更に傷むらしいな」

 

 窓ガラスが割れ落ちた道路。それを踏まないよう気を付けながら進む。昨日、ここへ入る時は必死で気付かなかったが、道路の至る所に看板が立ち、或いは倒れていた。その殆どが市庁舎への避難の受け入れ状況や警告板で、その裏面には安否を綴ったメッセージが貼り付けられていた。ただし、その殆どはもう字が見えなくなるか、欠損していて読み取る事は出来ない。元々は表面の看板を覆いつくすように張られていたのだ。

「人のいた証が消えて行くのは、なんとも切ないな」

 満は小声で呟きながら路地裏を覗いた。

「あれよ、あの店」

「ああ、見落としていたよ」

 昨日撃退した感染者の死体が雨を吸って異臭を放ち始めていた。その脇を通り抜け、ショットガンを構えた満が店内へと先行する。マリンも拳銃を構えて後に続いた。幸いにも店内には感染者は見当たらず、満が手招きをした。


「よし、かき集められるだけ・・・これに詰めてくれ」

 店の一角にあった銃器メーカー物のボストンバッグを手繰り寄せ、二人で手分けしてその中へ弾薬類を手当たり次第に詰め込んだ。薬莢だけの箱、弾頭だけの箱、火薬、残り僅かな既製弾薬。それら全てを合わせてもボストンバッグは殆ど膨らまなかった。半分以下ではあるが、充分だ。それを満が肩に掛け、苦笑いを見せた。

「さすがに重いな。早く帰ろう」

「悪いわね、荷物持ちさせちゃって」

「なに、俺の得意な仕事だよ。見た目よりはタフなつもりだ」

 クロスボウにショットガン、スコップや手斧、鉈、そして大荷物。後ろから満を見ると、まるで大昔の行商のようであった。ひょっとしたら、そのバックパックの上に自分が乗っても家まで乗せて行ってくれるのではないか、とマリンは思ってしまった。 

「家はグリーンヒルの二丁目よ。最悪の場合、迂回ルートも考えてあるわ」

「入念だな。さすが、ここまで一人で生きてきただけはある」

 マリンは俯き加減に頷いたが、満はそれに気付かなかった。そのまま帰路を進み、何事も無かったかのような静けさを取り戻したウェインブルストン橋を渡り、警察署に差し掛かる。

「待って」 

 マリンが満を制した。昨日と様子がおかしい、と思った時には二人ともそれを理解する事が出来た。すぐさま植え込み用の花壇の影に身を隠す。

「タイミング悪いわね・・・」


 警察署の前の道路を感染者の群れが蠢いていた。朝食…生き残りか野生動物でも見つけたのか、二つほどの群がりが道路の中央と警察署の出入り口の前にあった。見通しも良く、隙間なく感染者が徘徊しているので、とても気付かれずに通り抜けるのは困難であった。

 一見、感染者は動きが遅く、スキップしながらでも逃げ切れるように見える。だが実際は、人間のスタミナが尽きてもペースを一切落とすことなく追いかけ、逃げる者に対して無駄なく一直線に向かい続けるので、気がつけば捕まってしまう事もある。

 

 それでなくとも、個体によっては他の個体より格段の早さで向かってくる物もいる。それに、道路の奥、高校側にも移動中の群れが見えた。

「さすがに・・・難しいな。迂回ルートへはこのまま行けるのか?」

「かなり遠回りになるけど・・・ここから橋の所へ戻って、そこから橋の下の公園から民家を通り抜けられるわ」

 二人は考えた。このまま待っていれば群れはいなくなるかもしれない。だが、見つかったり、背後から挟み撃ちになるかもしれない。そうなれば命の危険は避けられない。そうでなくとも、無駄に時間を過ごせば忽ち暗くなり、感染者が無数に蠢く地獄に変わってしまう。更に、雨も止んだとはいえ、また気まぐれに降って来ないとも限らない。例え遠回りでも、ここで時間を費やす訳にはいかなかった。


「よし、そっちへ行こう。この状態で囲まれでもしたら、貨物船が駆逐艦の集中攻撃を受けるような物だ」

 満は重い荷物を担ぎ直し、先を案内するマリンの後に続いた。

「民家を抜けたら住宅街の裏通りに沿って高校の前まで行けるわ。ただし・・・」

「何か問題が?」

 満が怪訝な顔をした。マリンも苦虫を潰したような顔で続けた。

「住宅街の中を通る。どういう意味か分かるでしょ?」

「ああ、地雷原って訳か・・・」

 二人は暗澹とした気になった。小さい民家が寄せ集まった住宅街は、無数の感染者が日中を過ごす場所だ。本来なら通るべき場所では無い。見通しの良い大通りこそ、敵との接触を避け、接触したとしても逃げやすい場所なのだ。

「だが、警察署の前のように通りに出ていれば留守になっているだろう。何としてでも通り抜けよう」


 自分に言い聞かせるように言い、満は橋の下に続いている、錆だらけの階段を下って行った。橋から剥き出しの鉄骨を避けながら、満はコンクリートの上に落ちていた擦れたNBA選手のトレーディングカードを拾い上げた。

「子どもの遊び場だったみたいだな」

「ええ、私も良く来たわ」

 コンクリート壁の至る所にスプレーで書かれた落書きの一つ。かすれかかっている落書きを指さし、マリンは懐かしげに語りながら歩いた。

「あの落書きは私の男友達と、親友が。それ以外は知らないけど」

「よく消されなかったな」

「確かに年に一度、市の職員が業者に頼んで消しに来ていたわ。でもあれは、事が始まった年に描いた物だから消されなかったのね。私は二人が悪ふざけするのをただ見てた。ニュースレポーターなのにね」

 階段を踏み外しそうになったマリンの肩を満の大きな掌が、がっしりと掴んで戻す。見た目からは想像し難い、頼もしい力だった。

「テレビに出ていたのか。成程、だったらどこかで会った気がするのも納得だ」

「ありがとう・・・基本は外回りだけどね。名前もそんなに売れて無かっただろうけど」

「これからって時に、残念だったな」

 全くだ、とマリンは思っていた。それに、最後に報道しようとしたのがこの大事件だったのだから。追跡取材どころでは無くなってしまっていた。


「気を付けて、ここは崩れかけているわ。あの民家から住宅街の路地に入れる」

 満が頷き、ロープを取り出した。眼下の階段は一部が欠損して崩れ落ち、そのまま下の公園に出るのは危険だ。念の為、ロープで命綱を結んでから民家の庭を目指す。危険覚悟で跳び移ってもいい。だが、万一にも足を挫きでもしたら最期、本当なら適切な処置をすれば何でも無い怪我でも、医者さえいなくなったこの世界では致命傷になりかねない。全治一週間の怪我も一ヶ月の怪我と同意だ。何より、こんな所で自分が足を負傷したら、マリンに迷惑を掛ける。置いて行かせなければならなくなるだろう。それは絶対に避けたい。

「俺が先に行ってみる。それからロープを固定して手すり代わりにしよう」

「お願い」


 マリンの余分な荷物も預かりながら、満はバックパックを改めた。荷物や武器を落したりしないよう、入念に固定し、それから命綱を握る。足場の悪い斜面を蹴りながら進み、足を掛けられる足場にはなるべく体重を掛けずに体勢だけ整えさせ、それを繰り返して民家の庭を目指す。三、四度冷や汗をかく瞬間があった。掴んだ枝が引き抜けてしまったり、足場が崩れ落ちたり、体勢を崩して落下しかけたり。その度にマリンは悲鳴を上げかけたが、満は何とかの思いで庭先の手すりに掴まる。

「くっ・・・」

 ここが一番恐ろしい。手すりに片手を掛けてよじ登るのだが、この時ばかりは死に体になり、落下する可能性がある。しかも、この位置だと命綱をしていても振り子の原理で振られ、反対にあるコンクリート壁に打ちつけられるのは間違いない。マリンが一際血の気を失った顔で見守る。

 

 右腕に全ての力を注ぎ込み、自分の体重と荷物の重量を持ち上げる。手すりが劣化し、折れないとも限らない。もう生死を賭けた博打だ。歯を食いしばり、今ばかりは恨めしい自分の全体重への恨みと怒りを腕力に変え、眉間にも青筋が浮かぶのではないかと思う程に体を震わせ、必死の思いで手すりの向こうへと身を投げ出した。対岸で思わず手を叩いたマリンが、白い歯とガッツポーズを見せた。

 満はふらふらと立ちあがり、苦笑いで返しながら命綱を手すりに括り、さらにロープの末端を掴み、体重を乗せて引っ張った。手すり代わりになったロープを頼りに、マリンがゆっくりと満の待つ庭先へと移動してきた。身軽になり、両端を固定されたロープの手すりのお蔭もあり、マリンは難無く庭先へと辿りついた。

「満、大丈夫?」


「ああ、見ての通りだ」

 満は傷一つ無い。ただ、右腕の感覚は少し麻痺しかけていた。一分近く、全百キログラム近い重量を支えた、クレーンのような腕であったが、今はマリンとの腕相撲にすら勝てないだろう。

「ごめんね、危険な事ばかり・・・」

「いいんだ、これが俺のできる役割だ。こんな世界だからこそお互い、できる事をして助け合おう」

 満が死にかけながら辿りついた道を、自分は何事も無く通れる事に、マリンは痛痒を感じずにはいられなかった。しかし満の言葉はマリンを救ってくれた。

「それに、まだ序の口だろう。この先どんな事が起きるか・・・考えたくないな」

 確かにそれもそうだ。ここで一つ一つの事に悩んでいる暇は無い。この先で待ち受ける困難を思うと、頭が痛くなった。

「感染者の巣窟ね・・・」


 満が双眼鏡を取り出し、家々を覗いた。マリンも双眼鏡で確認する。中の様子がはっきり分かる訳ではないが、幾つかの家では窓から人影が見える。耳を澄ませば呻き声や、意味不明な言葉を発する声も聞こえる。感染者の物である事は間違いない。ただ、その正確な位置、距離を測るのは困難だ。音源を探るという行動は、思いの外難しい。そして音源は、家の数ほどある。

「ここからはこれを持ってくれ」

 満はフル装填したショットガンをマリンに持たせた。

「撃つ事になるかもしれないからな。拳銃じゃ火力不足だ」

 

 更に満は銃の持ち方、衝撃への対応を手短に教えた。撃ち方の姿勢を教わる為に体を何度か触られたが、全く嫌悪感は湧かなかった。緊迫した状況にも関わらず、それほど紳士的な教え方だった。

「他の銃と違って、ショットガンはとにかく発射時の反動が強い。銃と体格によっては射手が二発撃ったら嫌になる事もあるっていうくらいだ。だから構え方が重要だ」

 マリンは頷き、慣れないこの武器を見つめた。

「頼むわよ・・・」

 銃に意志がある筈も無かろうが、そう呟く。


「俺が先行する。でも、後ろも危険だから、常に左右、背後に気を付けてくれ。前からは絶対に来させないから落ち着いて行動してくれ。俺の援護は二の次で良いから」

「わかったわ。気を付けてね」

 満は長鉈を構え、前進した。マリンがその後を続く。

民家の中から聞こえてくる呻き声が背筋を撫でる。もし気付かれたら・・・そう思うと身震いが止まらなくなりそうになる。提案したのが自分とは言え、無謀な事を考えたものだと思う。前を歩く満の背中(正確には巨大なバックパックだが)と、手にした散弾銃だけが頼りだ。


「待った」

 満の制止する声に怯え、その場に固まってしまう。満は苦笑いを見せながら小声で続けた。

「いや、拳銃にもう一発入れよう。ちょっとしたゲームの裏技みたいなものさ」

 満も拳銃を抜き、銃砲店で入手してきたボストンバッグから九ミリの拳銃弾を二発抜き取った。

「まず、レシーバーをスライドしてくれ。そう、そうしたらゲートカバーを開けるんだ。そこへもう一発入るようになる。でも、なるべく普段はやらない様にしてくれ。安全の為に」

 マリンは言われた通りに弾丸を装填した。こんな方法があるのか、と率直に感心した。同じ要領で拳銃も一発余分に装填しておく。確かに、今の状況では一発でも多くの弾丸を銃に装填しておきたい。


 用意を整え、再び恐怖の路地を行く。それでも今のやりとりと、一発ずつの弾丸を余分に装填した事で緊張も幾らか和らいだ。

 白塗りの壁を伝い、ガラスの無くなった窓から中を覗き見る。人影は無いが、荒れた室内からは黴の匂いが漂ってきたのでそこから離れ、足音に気を使いながら先へ進む。満も路地から家の中の様子を窺いながら姿勢を低くし、着実に前に進む。橋の下からまだ二十メートルも進んでいないと言うのに、足腰は百メートルも移動したかのように疲弊していた。低い姿勢での移動というものは、見た目よりも遥かに疲れる。


 前を歩いていた満が動いた。マリンを振り返り、血相を変えながら小声で、

「隠れろ!」

 と指示した。その言葉だけで何が起きたか察する事が出来た。二人で左手側の家にある、小さな物置きの影に身を隠す。狭い物蔭では互いの肩と腕を密着させ、ショットガンとクロスボウを突き出して構えたまま、息を殺して物音を頼りに周囲の動きを探る。

 視覚の次に大切な五感は聴覚だと思う。いや、状況によっては視覚よりも重要になる。顔を覗かせられない状況でも、遮蔽物の向こう側で動く物の様子をある程度探れるからだ。勿論、正確な位置や動きが全て把握できる訳ではないが。

 マリンの音感では二人分か三人分の足音が、十メートル程先から聞こえてくる。

「・・・気付かれたらまず、銃床で顔面と頭を二、三回は殴る。それでも起き上るか、新手が出てきたら、俺が撃つ。それでも来たら撃ちながら走って進むぞ」

 満が小声で今後の行動を知らせた。マリンはそれに黙って頷き、後は感染者が黙って通り過ぎてくれる事を祈った。


『・・・匂いか?来ていやがる・・・』

 足音が着実にこちらへ向かってくる。宛の無い足取りでは無く、明らかに何か目的を持った足取りだった。観念した満は深呼吸をして気を落ち着かせる。本当なら鉄パイプや角材などがあればいいのだが、元が住宅密集地だった場所にそんな物が

都合よく落ちている筈も無い。自分とマリンの隠れている物置きの影は狭い。既に足か体の一部が相手に見えているだろう。襲い掛かられ、他の感染者にまでそれを悟られない内に仕掛けるべきか。

 一度、同じように隣で隠れるマリンを見る。マリンも満を見返し、頷いた。咄嗟に満が立ちあがり、クロスボウの銃床を振り上げた。先頭に立っていた感染者が顎を砕かれ、更にもう一度叩き下ろされ、激しい勢いで頭蓋の中身を吐き出した。ようやく操り糸から解放された人形のように膝から崩れ落ちる。残る二体の内、一体にマリンがショットガンの銃床で殴りかかる。一度目の打撃では感染者が怯むだけであったが、二度、三度と銃床を力任せに相手の頭蓋に叩きつける。マリンが一体を処理する間に、満は腰から抜いたナイフを感染者の頭部に突き立て、中身を掻き回すように反転させながら引き抜いた。三体とも、ようやくまともな死体に戻る。


「いつ、何回やっても気持ち悪いものだな」

「死体が?」

「ちがう、この行為が、だ」

「ああ・・・」 

 彼らにも人生があった筈だ。こうして当たり前のように殺した死体は、元々は人間だったし、自分達に殺されて終わる筈では無かった。

 感染者、或いはゾンビ。呼び方は人によって違うが、紛れも無く自分達は人であったものを殺して身を守っている。どんな呼び方をしようとも、その事実は変わらない。

「この感情だけは忘れないでおこう。俺達が人であり続ける以上は」

 三体の死体の前で十字を切る。しかしいつまでも同情と痛苦を感じている訳にも行かない。まだ目的地には程遠いし、この先でどれだけの感染者が待ち受けているかも分からない。

「行きましょ」

 マリンに促され、満は頷いた。


 再び狭い路地を通り、家と家の間を縫うように進む。途中、感染者が徘徊しているのを見かけるが、なんとか見つからずにやり過ごした。白塗りの壁にこびりついた黒い血の跡を見ながら、今が何時頃なのか気になり、空を見上げた。

「だいたい、お昼頃かしら」

「そうだなぁ、十二時にはなっていないだろうが、十一時は過ぎたか」

「こんな状況じゃ無ければお弁当でも食べたい所ね」

 満は乾パンの袋を出しかけたが、かぶりを振りながらそれを再び荷物の中に戻した。それを見てマリンが苦笑する。

「食事中に襲われても怖いしね」

「ああ、本当にな。あれは警察署か?」

 満は来た方角の頭上に見える建物の屋根を指さした。


「そうね、結構進んだわ」

「待たなくて正解だったな」

「本当ね」

 マリンは進行方向を双眼鏡で確認した。視界に動く物は見当たらない。それ以上の吉兆は無いが、更に、特徴的なあの高校のとんがり屋根も見えた。このまま進めば高校を過ぎたメインストリートに出られる。ようやく、この地獄のような路地ともお別れだ。

「何とかなりそうね」

「ああ、生きた心地がしなかったがな」

 休憩を終え、再び歩き出そうとする二人の耳が、違和感を捉えた。来た道から、押し寄せる津波のような・・・喚き声。


「おい、まさか」


「そんな、音なんて立てて無いのに!」

 狼狽するマリンの腕を乱暴に掴み、火が着いたように満は血相を変えて走り出す。

「逃げるぞ!」

 修羅場をくぐり抜けてきた満やマリンですら、背後から猛然と追い掛けて来る感染者の群れの存在を感じた時から、頭の中は真っ白だった。前方の狭い、僅かな視界の事だけしか考えられず、それ以外の景色は無意味だった。

 身体機能のいずれかを欠損している場合の多い感染者だが、例え片足が折れかけていても、獲物を捕える為であれば片足を引きずり、無傷な片足で跳んで追ってくる。


 その波は二十体程であろうか。狭い路地を押し退け合い、涎を垂らしながら目だけは異様な輝きを見せる。体のどこかしらからか生えている茸のような不気味な物体は昨晩の雨を吸って膨らみを帯び、肥えている。極めてグロテスクな風体だ。

 そんな感染者達が三、四列に並んで追い掛けて来る。何かを倒してやれば一気に転んでくれそうだが、手近な鉢や人形の置き物など転がしても大した効果は無いだろう。それに、大量の感染者が迫ってきた二人にはそんな余裕も無かった。

「マリン、適当で良い、一発撃て!」

 返事も忘れ、マリンは言われた通りにショットガンを感染者の群れに向け、狙いは定めずに引き金を引いた。既に薬室に送られている弾は直ちに発射され、散弾が先頭を走る感染者の胴体を引きちぎった。上体を支えきれなくなった体が二つに分かれ、路地に転がる。それで感染者がいくらか躓きかけるが、足止めと言える程のレベルでは無い。


「痛ぁ・・・」

 想像以上の衝撃と反動、無理な姿勢で撃ったため尻餅をついたマリンを助け起こし、満がショットガンを預かる。満はそのままそこに足を据え、ショットガンを構えた。

 それは職人が使い慣れた仕事道具を当たり前に使うように、ショットガンを三発、連射する。マリンのように衝撃で怯む事も無く、発射後の反動も殆ど抑えきってコントロールする。

「すご・・・」

 マリンは率直に感想を漏らす。満は本来なら破顔して喜ぶその誉め言葉も、今は耳に入ってこなかった。

 散弾の射程と射角を正確に理解し、洗練された射撃が、迫ってきていた感染者を五、六体は行動不能に陥らせた。狭い路地に崩れ落ちた肉片に躓き、感染者の追撃が滞る。

「やはり、ショットガンは良い・・・急げ!」


 散弾銃を背中に掛け、満はクロスボウに持ち替えながら再び走り出した。その後を拳銃を手にしたマリンが追う。先頭を走る満は路地の交叉する場所に差し掛かる度、右に左にと武器を構えて安全を確保し、ようやく路地の終わりへと辿りつく。

「大丈夫だ、今の所は何も見えない!」

 満は大通りに走り出て行き、そこからマリンに手招きした。あれだけの大荷物を背負っているとは思えない軽快さである。マリンは息切れしかけながらも満の元に辿りつき、膝に手をおいて地面に向かって呼吸した。

「貴方、日本軍・・・じゃない、セルフディフェンスフォースにでも居たの?」

 追ってくる感染者の気配が無い事に安堵しかけ、息継ぎの合間にそんな質問を投げかける。

「いや。一時期、予備自衛官ではあったが・・・謙遜無しで、どの面を取ってもとても本職には敵わなかったよ。右も左も軍人の手本みたいな人達ばかりだ」


 満は荷物を下ろして水筒を取り出し、マリンに差し出した。礼を返してからそれを受け取り、口の中を潤す程度に濯ぎ、一口にもならない程少量の水を喉に流し込む。

「そう・・・ブルックは米兵だったけど、やっぱり軍人さんは体力があるわね」

「ブルック?仲間がいるのか?」

 聞き返され、ハッとする。それは満からしたら当たり前の質問だろう。

「実は・・・三か月前まで仲間と一緒にいたの。私を入れて四人。もう、皆死んでしまったけど」

 満は沈痛な面持ちで相槌を打ち、小声で「すまない」とだけ呟いた。

「いいの」

 そう短く言い、まだ息が整わない内から先頭を歩き出す。何か、悪い事を聞いて気を悪くしただろうか、と心配そうにマリンを見る満の表情を見たが、苦笑いでごまかした。


 事実を事細かに説明するのは気が引けた。仲間を殺した、とは言い辛い。もしかしたら満は肯定してくれるかもしれない。だが、その逆の可能性を想像すると…とてもその気にはなれなかった。

「行きましょう。もうすぐ私の家に着くわ。ランチには遅いけど、急げば軽い物くらいは食べられるわ」

「それは楽しみだ、急ごう」

 満も不安な表情を和らげ、マリンの後に続いた。 

 高校を背に、一キロ先に浮かぶガソリンスタンドの看板を目指す。たった三キロの距離。本当なら歩いてでも決して遠すぎる距離では無いというのに、こうも時間が掛かってしまった。たった一キロでも、それがいかに危険で険しい道のりとなり得るか。改めて実感する。

「あそこまで行けば、感染者も少なくなるわ。私の生活圏なの」

「ああ、確かに感染者が減ってきている。それに、感染者が出入りし難い造りになっているな」

 ガソリンスタンドへ向かう途中の大通りには横転し、黒焦げになったバスが何台もある。それが、バリケードの役割を担っていた。そして感染者は、大通りを中心に移動する。マリンの住む区域の周囲は幸運にも、このようなバリケードが幾つもある。無い個所や細い路地には、自らの手で車や動かせる物をそれと無く配置して防御してある。


 あと僅か。バスをすり抜け、五百メートルも進めばガソリンスタンドに辿りつく。だが、機能は静まり返っていた住宅街に変化があった。

「いるな。二時の方向、四体」

 満が忌々しげに吐き捨て、庭先を徘徊したり家屋の玄関で出入りを繰り返している感染者にクロスボウを向けた。自分同様、撃つか否かを迷っている。 

 音が響かない武器はクロスボウのみだ。そしてクロスボウで片づけられるのは一度に一体のみ。気付かれれば騒ぎになる。

「少し、バスの影で待つか」

「そうね。一、二体だけになるか、運が良ければいなくなるかも」

 二人は方針を決め、早速バスの影に身を隠した。満はペットボトルを取り出してキャップを外し、マリンに差し出した。

「ありがとう、今は大丈夫よ。貴方が飲んで」

「わかった」


 満は水を傾けながらゆっくりと荷物を下ろす。あの巨大なバックパックに見慣れた分、華奢に見える背中が顕になった。彼は身につける物のせいもあり、着太りするタイプだとマリンは思った。満は背中や肩を伸ばしたり、回して解したりしていた。あちこち切り傷だらけの手や腕が、歴戦の強者を思わせる。

「それは、ナイフや刀でついた傷なの?」

 満はぽかんと口を開けたまま自分の腕や手を見回した。

「いや、殆どはこうなる前、仕事の中でつけた傷だ。日本で農家をやっていてね。昔の人の寸法で造られた狭くて小さな家畜小屋で作業していたから、ほぼ毎日どこかしら怪我していた。その傷跡だ」

「なんだ、名誉の勲章って言うかと思ったのに」

「ああ、確かにそう言えば聞こえが良かったな」

 満は不器用そうな外見と違い、意外とユーモアもあって付き合いやすい。こうして他愛もない会話をしている間だけでも、辛い過去から眼を背ける時間ができた。

「こんなみっともない傷跡でも・・・」

 満は一生残るであろう、鉄屑の切れ端で切った傷跡を摩りながら、しみじみと呟いた。

「当たり前の生活を送っていた頃の証だと思うと、何とも愛おしく思えてくるんだ」

 その気持ちがマリンには痛いほど良く分かった。


 もう、あの頃には戻れないのだろうという思いが確信に変わるに連れ、満のような傷跡こそ無いが、昔から持っている持ち物や見知った町並みの風景、そんな他愛も無い物が愛おしくなる。

 その傷跡に触れて物思いに耽っていた満だが、庭先で項垂れている感染者を観察しながら質問した。

「この近くに生存者か、グループはいるのか?」

 マリンは頷いた。しかしあまり明るい顔では無い事から、それが手放しに歓迎できる相手ではない事を窺わせた。

「…いるわ。そこそこ大きめのグループがね」

「そのグループとは関わりがあるみたいだな」

「ええ。ビジネスで世話になっているの」

「帰ったら詳しく聞かせてもらおうか」

 庭先を指さす。うろついていた感染者は二匹だけになり、他は暖かみを帯びた陽光を避けるように屋内へと姿を消した。

「音を立てずに行こう。反対側には感染者がいない」


 二体の感染者もこちらに背を向け、背中を太陽に向けて俯き加減に何かを呟いていた。言葉に意味など無い。もしかしたら単語を喋っているかもしれないが、人の脳を侵した何かが、その脳の機能の名残を弄んでいるに過ぎない。


 ・・・頭では分かっている。満と共に忍び足で対向する歩道を進みながら、マリンは胸中で問答を繰り返した。


 だが、もし家族や近しい者が自分の名を呼んだら?それでも感染者を感染者として距離を置けるか。マリンには自信が無かった。武器も放り出し、抱きしめてしまうのでは無かろうか?


「マリン」


 ライアンが自分を呼ぶ。自分の願いが叶った喜び。その余韻に浸る間もなく、愛おしい彼の体が崩れ始める。幼い柔肌が毛羽立ち、滲んだ血が傷口に変わっていく。

 慌てて抱きしめ、傷口を塞ぐ。だが、傷口は一つでは無い。容赦なく次々と現れる傷口を塞ぎきれない。無駄と知りつつ慟哭を上げ、密着した自分の体で彼の腹に空いた傷口を塞ぎ、両手で背中や首の傷を塞げるだけ塞ぐ。

それでも傷口は塞ぎきれない。傷を押さえる指と指の合間から何かが立ち上がってくる。それから眼を背け、ひたすらライアンの名を呼ぶが、事態は改善する筈も無い。

「マリン」

 幼い口が発したその名を、その口がマリンの首筋ごと抉り取った。

 声にならない悲鳴。小さな口から覗いた鋭い歯が、容赦なくマリンの胸倉に貪り付いてくる。徐々に食い破られていき、肋骨を噛み砕かれ、心臓に達していく、何とも言えない苦痛が広がる。

 振り払おうと空中でもがくが、ライアンは離してくれなかった。払いのけた手は空しく空振りし、固い床に叩きつけられた。


 その痛みで目が覚めた。


 酷い動悸と汗を感じながら、乾いた口腔を開け放って空気を求める。首筋に冷たさを感じ、再び取り乱しかけながら首筋を見るが、何も無い。ただ、頬から滴った冷や汗が首筋を流れていた。それを手で拭い、ようやく鮮明さを取り戻してきた視界を頼りに周囲を見回す。


「マリン、大丈夫か?」

 ベッドから落ちたマリンの脇に、満が屈み込んでいた。心配そうにこちらの顔色を窺い、手には水を持っていた。

「・・・ごめん、よく覚えていないんだけど、何があったんだっけ?それともこれも夢?」

 満はその二つの質問の答えを暫らく考えていたようだったが、徐に口を開いた。  

「バスの影から出て移動中、いきなり倒れた。逃げる時とか、激しく動いたから疲れたんだろう。少し焦ったが・・・住所は聞いていたから、無事に運ぶ事が出来た。鍵を探す為に少しばかり体を触らせて貰ったが、どうか気を悪くしないでくれ」

 差し出されたペットボトルの水を受け取り、喉を潤した。酷く喉が乾いていて、その水を一気に半分ほどまで飲み込んだ。

「迷惑かけたわね・・・」

「とんでもない。隠れ家に入れてもらえて久々に安心して休めた。それにしても・・・かわいそうに、酷い夢を見ていたようだったな」


 ベッドの脇に投げ出してあるタオルを取り、首周りの汗を拭う。はだけた胸元から満がぎこちなく目を背ける。少し、その反応に楽しさを覚えたが、手早く済ませて衣服を正す。

「何回か呼んだ?」

「ああ。却って悪かったかもしれないが」

 怪物に変化していくライアンの姿が鮮明に残っている。血と、感染者が発する酷い匂いさえ、今にも漂ってきそうだった。

「そうね。でも、少しでも早く目が覚めたのは助かるわ」

「ライアン、と呼んでた」


 決して詰問する声では無い。その名前が意味する事を予想すらしない、能天気な声でも無い。傷を負った患者に対し、穏やかに問いかける医師のような声だった。

 その声にどう答えるべきか。五、六分も黙っていたように感じたが実際は一分も掛からなかっただろう。マリンはそっと口を開いた。もう口内も潤ったというのに、言葉を発する唇は渇き、震えていた。

「私が殺した子よ」

 注意して聞かなければ聞き逃してしまう、か細い声だった。

 街から流れ出た夕陽が窓に差し込み、満の口元を照らした。それより上の表情は見えないが、マリンは続けた。

「・・・そこの窓から、手作りのお墓が見える?四人のうち、三人は親子だった。でも、ブルック以外は三人とも結果的に私が殺したわ」


 満は喋らなかった。俯き加減に窓の外を眺めているだけだった。その沈黙が、却ってマリンの罪悪感を曝け出した。

「貴方に黙っていたわ・・・言えば、殺人鬼と思われて手を組んでもらえなくなると思って、怖かったから」

「気にするな。少なくとも俺は気にしていないよ。・・・こんな世界だから」

 沈んでいく日の明かりが、名残惜しむように部屋の隅を照らし上げた。それは壁を照らし、徐々に天井の一部も赤らめた。マリンを向き直る満の顔もそこに照らし出される。

 不器用ながら、こちらに気を使ってくれている。たった一日の付き合いしか無いが、無表情な顔からでもそれが分かる位には、彼を理解したつもりだった。

「ありがとう。それを話した上で、だけど。改めてよろしく、満」

「こちらこそ。これから大変だろうが、一緒に頑張ろう」

 固く握手を交わす。久方ぶりに触れた人の手の温もりは不思議な感触だった。大袈裟な感動もしないが、悪くも無い。握った手が離れ、マリンは忘れかけていた約束を思い出した。

「そうだ、結局ランチは食べ損ねたけど、もうじき夕飯ね」

 マリンは新品のベーコン缶を一つ開け、キッチンに向かった。

「簡単な物しか作れないけど、せっかくなんだから今日くらいは御馳走しないと」

 満は壁に掛けてあった猟銃を弄っていたらしく、リビングのテーブルの上に露天商のように銃を分解して広げていた。

「ガスも無いだろう?夜、火を焚くのは危険だぞ?」

 マリンは事も無くガス台を操作した。

「電気も水もね。でも、ボンベのガスならあるわ」

「なるほど」

 納得した満は再び猟銃の手入れを始めた。


「鉄砲が好きなのね」

 滅多に使わないフライパンを熱しながら貴重な油を垂らす。

「ああ、日本じゃまずお目にかかれないからな。だから安全だったんだが」

「そんなに手入れが必要な物なの?」

 ベーコンを炒めながら疑問を問いかける。映画でもそうだが、銃という物はやたらと分解されて手入れされている。

「まぁ、半分は趣味のような物だが・・・いざという時に発射できないような欠陥が無いとも限らない。そうならないよう、事前に点検しておく事は大事さ。確実な点検なら何度やっても良い事はあれ、悪い事は無い」

「ふぅん?」

 とはいえ、欠陥があっても・・・例えば部品が足りないとか交換しなければならないという事があっても、店も無い今、それを直す事が出来るのだろうか、と思ったが、それは聞かないでおいた。何れにせよ、銃の事は満に全て任せようと思う。最低限の知識は学ぶが、それ以上を学ぶ気にはなれない。とにかく、引き金を引いた時だけ確実に撃てればそれで良い。

「これもいい感じに使い込まれたライフルだな?一流メーカーの銃だし、買えば結構な値段の筈だ」

「それはブルックの銃よ。彼が愛用していた。一度、それで鹿を御馳走になった事もあったわ」

 ブルックは元米兵と言うだけあって、とにかく戦いに秀でていた。それだけでなく、狩りやサバイバル技術も得意としていた。

 満はその黒みがかった光沢を持つ木製の猟銃に視線を落とし、何度か相槌を打った。


「次は俺が仕留めてみせるよ。これから冬に入れば獣肉が貴重な食料になるからな」

満はその猟銃に弾丸を三発追加して装填した。

「楽しみだわ、去年の冬から結構不安だったの。この近くの建物の物資は殆ど頂いちゃったし・・・私一人だから競争率が無くて助かっていたんだけど」

「五年も経てば、な」

 たった五年。だが、窓の外に見える景色。今は夕陽に照らされているが、煤けたビルや全焼した建物、目立った破壊の跡が無くても人は居ない、そんな廃墟が立ち並ぶ大都会。

 人の生き方が変わっていく。これまでは過去の名残である物資を漁って生きて来られたが、これからは違う。生き残った人々が残された物資とインフラを消費し、資源が不足してきている。まるで昔、散々ニュースで言われていた地球環境の縮図のようだ。人口が増え、世界規模で食糧を中心に物資不足が起きると。実際、それは予言では無かった。こんな形で無くとも、人類は遠からぬうちに食糧、水、燃料の争奪戦の時代に突入していたのだから。

 ただ、それにしても奇妙ではないか。人口は増えるどころか急減し、食糧も燃料も水も余っている筈なのに、それを確保するのが難しいとは。それに、感染発生の皮肉な副産物。それは、深刻であった地球環境の激変が、緩やかに適正化していることだ。どうなっているか知る術など有る筈も無いが、氷の世界で生きる白熊など、今頃ほくほくしているのでは無かろうか。

 かつて自然とは無縁だったこの大都会ですら、今は人間の代わりの命が溢れている。

『やはり、俺達は本来、自然の輪の中には居ないのか』

 満は自然が好きだった。静かな森に入れば、そこは何を見ても飽きない、癒しの空間だ。自分は自然の仲間なのだと長い間思っていた。

 だが、動物達は自然の中で暮らしながらも、そうは思っていない筈だ。彼らにとってはそれが「当たり前」なのだから。自然の中に入って、それを「美しい」と思う自分は、彼らの仲間では無いのだろう。ましてや、それを破壊する者達など論外だ・・・所詮、人と動物は仲間ではあり得ないのかもしれない。

 なら、自分達人間の帰るべき場所は何処に?

 その答えがこの世界なのだろうか?答えは神のみぞ知る。だが、これが試練だと言うならば開き直り、徹底的に抗ってやるまでだ。


「猟は得意なの?」

 ベーコンを炒め、酒と調味料で味付けしたマリンが更に問いかけた。

「・・・いや、実はそれほど得意と言う訳でも無いんだが。この通り目も悪いし、狩猟者としては良くて二流以下だな」

 満は苦笑いしながら答えた。かつてのグループに身を置いていた際も、狩りでは大した役に立てず、僅かな分け前を貰うのも気が引けたほどだ。

「じゃ、やっぱり缶詰を狩るしかないわね」


 言いたくは無いが、動物や残された物資を狩るより簡単な獲物はいる。ただ、どんな理由があろうとそんなおぞましい事に手を染める気にはなれない。

「そうだな。それか、俺でも捕まえられるくらい呑気な鹿が来る事を祈ろう」

 マリンの簡単な調理が終わり、ガス栓を閉めて料理を運んできてくれた。

「どうぞ。とは言っても、お肉だけなんだけど」

「ありがとう」

 満はそれを受け取り、組み立てた銃に弾丸が入っていないのを確認してからそれを壁に立てかけた。片づけたテーブルに二人分の皿を並べ、簡単なお祈りをしてから食事を開始した。

「雪が降る前に肥料と種を探して、畑の真似ごとをしよう。短い期間でも育てられる植物もあるかもしれない」

旨みのある油が滴るベーコンを舌の上で味わいながら、満は窓から一ブロック離れた、ビルの影を指さした。

「あの建物の脇に小さな中庭があった。ここに作ってもいいんだが、住居の近くに作物があったら略奪者にすぐ勘付かれるから」

 マリンは頷いた。

「そっちの事は全部任せるわ。私に出来る事があったら手伝う」

 満は席を立ち、キッチンからグラスを二つ取って来た。それに残りのウィスキーをそれぞれ注いでいく。それをお互いの席に置いた。

「こんなにすぐ、落ちついた生活にありつけるとは思いもしなかった」

 遠い目をしていた。それが演技では無く、実際に見た悲惨な光景を思い浮かべているのだろうと思った。演技だとしたら余程の役者だ。

「外でも生きていけそうな感じだったけどね?さっきなんか凄かった。まるで映画の主人公みたいにシャキシャキ動いて」


 照れ隠しなのか、満は大袈裟に手を振って苦笑して見せた。

「褒めても何も出ないぞ。それが最後のウィスキーだ」

「お酒なら、取りに行けば結構あるわよ。知り合いが勤めてた酒屋があるの。お酒はそこまで競争率高くなかったみたいだから、各種色々残っているわ」

「それは楽しめそうだな。また活躍したらご褒美に貰えるか?」

「強い方なの?」

「元は下戸だったが、いつの間にかビールから飲めるようになっていた。ビールが飲めるようになったらビールが苦手になって、日本酒や、ウィスキーやテキーラなんかのストレートが好きになっていたよ。我ながら訳が分からん」

「面白い経歴ね」

「君に日本酒を飲ませてやりたかったよ」

貰ったウィスキーで乾杯し、一口喉に流し込んだ。程良く疲労した体にアルコールが浸み込んでくる。

「さっき、気を失う前に話していた、近くにいるグループについて聞きたいんだが」

「いいわ。何でも聞いて」

「襲ってくるのか?」

 第一声、最大の関心事はそれだった。敵対勢力に追われた経験は、例外なく彼にも生々しい傷跡を残しているようだ。

「仕事で世話になる、って言ったけど・・・」


 マリンは食事を終え、口元の油を乾いたタオルで拭った。

「向こうも物資を定期的に手に入れたいから私に手を出さないだけ。その気になれば私の事なんて、何時でも好きに出来るでしょうね。気を悪くしないでほしいけど、貴方が加わってくれてもそれは変わらないと思う」

 満は納得したように頷き、更に切り込んだ。

「仕事、とは物々交換か?」

「そう、その時によってお互いのニーズは違うわ。けれど勿論、彼らの要求に沿ってご機嫌を取るのが常套手段だった。殆どの場合、彼らは武器や弾薬、嗜好品を必要としていたわ。酒以外でね。代わりに私はささやかな食料や医薬品、それと身の保証を受けていたの」

「シビアだな」

「ええ、本当に。でも、それはこうなる前から、多くの人は元々そうだった筈よ」

 満は昔を思い出したのか、ああ、と唸りながら、

「・・・同感だ」


「ただ、最近は私の仲間が居なくなって人数の強みが無くなったから、怖くてグループのアジトにはもう四ヶ月近く行っていないわ。貢ぎ物も無いまま顔を出したら、何をされるか分からないし。街で鉢合わせる事も無いけど、そろそろ顔を出しに行ってご機嫌取りをしないと、って困っていた所なの」

「俺も行くよ。どうせ、行っておかなければならないんだろう?少しは虫よけスプレーの代わりになる筈だ」

「ありがとう。心強いわ」

 それは本心からだった。それに、心強い要素は他にもある。満の置いたボストンバッグに目を落とす。

「今回の調達で弾薬もたくさん手に入ったから、これが良い手土産になるわ」

「三分の一近くは使い物にならないだろうが、それ以外は使えるからな。俺が後で選別しておこう」

「お願いするわ。用意ができ次第、明後日にでも行きたいんだけど」

「充分だ。俺達の分も充分に確保して、余りあるだろう」

 満も食事を終え、食器を片づけ始めた。窓から差し込む秋の夕陽も薄れ、夜の暗がりが迫っていた。その迫る夕闇を見ながら、満は自分の胸ポケットから小箱を取り出した。


「煙草だが、吸っても良いか?」

「気にしないわ」

 マリンはそれと無く離れながら食器を流し台に置き、皿を水で満たしてから洗剤を一滴垂らした。

「吸わないらしいね、感心だ」

「こんな世界で、病気になっても診てくれるお医者さんにも会えないわよ?」

「おっしゃる通り」

 肯定しながらも咥えた煙草に火を付け、それを吸う。といっても煙は肺までは入れずに吐き出した。煙の味を口の中で楽しむ方が美味い。中毒にもならなくて済む。

「これでも一日一本と吸わないんだ。この一箱だって、手に入れてからもう二年近く経つ。味も愛煙家からしたら微かな物だろうが」

「依存症にはならなかったのね」

「そこまでヘビースモーカーでも無くてね」

「今じゃ、煙草と弾薬、どっちが価値があるかって所ね。あの連中も、煙草は大喜びしてたわ」

「生憎と、この半端しかないな」

 満は残りが三本ほどになった箱の中身を見せて笑った。

「一本と缶詰六個だって交換するかもね。でも、それは大事に取っておいたら?」

「いや、丁度いい機会だ。一旦手放したかった。こんなものでも貴重品だ。土産にしてみよう」

  灰皿を探す満に空き缶を渡し、マリンは地図をテーブルに広げ、それを覗きこむ満をよそに戸締りを始めた。

「赤丸が現在地よ。明日の目的地はあの方角にある」

 閉めようとしていた厚いカーテンを一旦戻し、マリンは庭の墓が見える窓から指をさした。

「北東か」

 満は地図と見合せながらその方向を見つめたが、見通しが悪く、数ブロック先の建物までしか見えない。マリンはカーテンを閉めた。

「そう。北東へ六キロ行った所の山の中に、昔から使われていなかった廃工場がある。そこがグループの場所」

「六キロ?」

 満は唖然としながら聞き返した。

「ええ。とてもじゃないけど、自転車すら無い今じゃ一日で往復は無理。ましてやその区間は主要道路を軍が封鎖した名残で感染者が相当溜まっている」

「それじゃ、感染者がうろつく中で宿を取らなきゃならないのか」

「その通り。途中に結構良いホテルがあるわ。スイートも使い放題よ」

 地図の青丸をマリンが指す。

「ちょうど中間より向こう側の距離にあるから、無理せずに徒歩で行って、帰りの暗くなる頃にちょうどよくチェックインできるわ」

「今は秋だが」

「少しだけ暗くなるかもしれないわね。それでもランニングする必要は無いと思うけど」

 満は頷き、その地形を頭に叩き込むかのように地図を二、三分ほど見つめていたが、やがて地図から目を離し、ソファーに掛けた。足元のバッグから弾薬類を取り出してテーブルに並べ、それらを入念に選別していく。銃砲店から持ち出したハンドリロード用の工具も用意しており、それらで分割されていた弾薬も完成させていった。

「俺はこのソファーを貰っても良いのか?」

 満はソファーに寝転がって見せた。

「ああ、これは堪らん。ホテルのベッドのようだ」

「勿論よ、好きに使って。でも、ちゃんとしたベッドもあるから、そっちを使ったら?」

「ベッドだって?」

 満の目が輝いた。自分と違い、長い野宿を経験した満からしたらこの環境も天国に思えるのだろう。

「そっちの部屋は私が使っているから、あっちの寝室を使って」

 アンネとライアンが寝ていたベッドだ。男達は丁度、満が寝転んでいるソファーを交代で使っていた。

彼らが確かに過ごしていたこの空間に、今は満がいる。それが何となく不思議な気分にさせた。


「寝るのが楽しみだ。それまで仕事に励むとしよう」

 満は再びハンドロードを開始した。それを申し訳なさそうにマリンが覗きこむ。

「私に手伝える事、ある?」

「なに、宿を提供してくれるだけでお釣りが出る位だ。このくらいは働くさ」

 そう言ってマリンに休むよう促してくれた。

「そう?じゃあ、何かあったらいつでも呼んでね。それと、疲れているならあまり無理しないでね」

「ああ、ありがとう」


 マリンは自分の寝室へと戻り、バックパックから庁舎で拝借した本を三冊、取り出した。その内の二冊は棚に置き、一冊はベッドに放った。衣服を脱いでベッド脇の椅子に掛け、拳銃とナイフもベルトごと椅子に置いた。枕元のテーブルに置いたブックマッチを取り、最後の一本をちぎって擦り、キャンドルに火を灯した。あまりに頼り無い光が部屋を仄かに照らし出す。テーブルの上で淡い黄金色に輝くウィスキーの瓶を取り、一口だけ含み、うつ伏せになりながら、タイトルからして小難しい本を開いた。

「挿絵も無しか・・・」

 南北戦争を題材にした、ノンフィクションだった。従軍していた兵士の手記を脚色した物である。

「戦争、ねぇ・・・」

 暫くは目を通して見るが、主人公が出兵するという辺りで意識は薄れていった。丁度いい子守唄代わりにはなりそうだ、とマリンは思いながら眠った。


 気付けば、また夢を見ていた。異変後、ろくに良い夢を見た事は無い。実際、今日の夢も定番だ。それは異変当日の夜を再現した光景だ。殆ど夢による脚色や改竄は無く、事実通りの光景を繰り返していた。

 マリンはただ、その見たくも無い映像を一人で映画館の椅子に縛られながら見ているのだ。

「あーあ、スタンレイ・リーブスの記者会見に行ける予定だったのに」

 予定を緊急変更。中継車の中で不機嫌にコーヒーを啜る。人気俳優の甘いマスクを生で見て、あのハスキーボイスを堪能できる絶好の機会だと、念入りなコーディネートとメイクをしてきたというのに、だ。特に衣装はなるべくセクシーさを重視してチョイスして、普段の自分だったら絶対に受け入れない程の大枚を叩いてきた。見る見るうちに遠のいて行く会場方面を未練たっぷりに見つめ、マリンは愚痴った。

「俺は、こっちの方が興味深いぜ。見ろよ、すごい厳戒態勢だ」

「当たり前さ。何せ、死者も五十人を超えたらしいからな。今に内戦になるんじゃないか?」

 取材スタッフ四人が乗り込んだ中継車は、通行規制がされ始めた街の中を走り抜けた。前を走っていた一般車が右折させられるのを見て、運転手は緊張した。

「州兵が出ているぜ」

「警察だけじゃ足りないのさ。下町と一部の中心市街地では略奪まで起こっているそうだ」

「ここだけの話、あの五十って数字、大分減らして報道させらているらしい。他局にいる飲み仲間から聞いた。政府からそうお達しがあったってさ」

「お前の飲み仲間の情報だって?頼りになるのか?」

 同僚達の会話など、マリンの耳には入っても頭ではろくに理解していなかった。ただ、これから興味も無い事件現場へと送られる事になっただけだ。早く仕事を終わらせ、一杯飲みたいだけだ。今夜は高めの酒にしよう。そうでもしないとこの煮えくり返った腸を抑えられそうに無い。ついでに、そのバーにリーブスほどでは無いにせよ、最高のナイスガイが居合わせる事を祈るだけだ。


「報道関係者は各局一台までだ。よし、進め!」

 不機嫌そうな顔を見せる強面の州兵の案内に従い、車は移動を再開した。

「良かった、通して貰えた」

 道を進むにつれ、取材クルーの口数が明らかに減って行った。それまでブツブツと愚痴を洩らしながら頬杖でふてくされていたマリンも顔を上げ、スタッフと同様に窓の外を見る。 

 繁華街もプラザ通りも、いつもは人がひしめき合っていたその場所に人が誰も居ない。見かけても警官か兵士、稀に中継している他局の報道陣がいるだけだ。

「これ、すげぇヤバいんじゃないか?」

 運転手も他所見をしながら喋っていられるほど道路が貸し切り状態だ。停車した軍用車両から兵士が何人か降り、車内で何事か連絡を取り合う兵士の姿も見えた。


 マリンが何か嫌な予感を感じ取ったのは、降りた州兵達の表情が焦燥に苛立ち、或いは心許なく、全体的に浮足立っているように見えた事だ。新人がいきなり何の説明も指示も無く未知の現場に放り込まれ、「仕事をこなせ」と言われた時のあの顔に見えた。

 新人職員ならともかく、治安維持に当たる者がしていい顔ではない。

「もうじき着くぞ。支度をしろ」

 スタッフが各々の仕事道具を用意し始める。マリンも愚痴を叩くのを止め、仕事に取り掛かる準備をして頭も切り替えた。

「畜生!乗り遅れたな」

 既に現地には他局の報道陣が詰めかけ、事件現場の凄惨な様子を報道している最中だった。

「こりゃ・・・酷い」

「嘘でしょ?テロか銃乱射の間違いじゃないの?」


 屋外カフェテラスが血の海と化していた。血の海、と言うのは大袈裟かも知れないが、白いテーブルや椅子が散乱し、至る所でそれらと床のレンガに鮮血が付着している。特に、赤と白のコントラストは強烈な印象を焼きつけてくる。やはり、血の海と言って良いだろう。

「すぐに始めるぞ、移動しろ」

 クルーが移動を始めたその時、報道陣の視線が別方向に向けられた。 

「何だ、あれ?」

「通行人か?」

 そんな筈は無い。今にして思えば、少し冷静になれば分かった事だ。あれだけ厳重な立ち入り制限がされていながら、のうのうと歩いている野次馬が居る筈が無い。


 その男に他局のレポーターがマイクを差し出しながら聞きこみをしようと近寄り、カメラも近付いた。途端にそれは起こった。

 試合が開始されたアスリートの様に俊敏な動きでレポーターにしがみつく男。野太い悲鳴が上がった。騒ぎに気付いた州兵が悪態をつきながら銃を構えてやってくる。それを見たマリンは何故か、州兵に助けを求める気が失せ、仲間の制止を振り切ってビルの間の路地に逃げ込んだ。直後、銃声が鳴り響いた。後の事は見ていないので想像するしかない。ただしその銃声は、一人を殺すにはあまりに長い乱射だった。一体の感染者を殺すにしても、だ。あの場にいたら自分もどうなっていたか分からない。


ただ、少なくとも自分は生きている。それだけが事実だ。

 薄らとした明かりに起こされ、目を開く。窓の外にはまだ夜の気配が漂っている。眠ってからまだそれ程時間も経っていないようだった。

「ん・・・」

 寝返りを打ち、蝋燭の火に息を吹きかけて火を消す。危く火事にしてしまうかもしれない所だった。やはりカーテンからは光も差し込まず、外はまだ暗いままだ。だが、ドアの下の隙間からは仄かな光が覗いている。満はまだ起きて仕事をしているのだろうか。放ってそのまま寝ようかとも思ったが、万一、満も寝ていて火事でも起こされたら堪らない。

体を起こし、ベッドから起きるとそのままドアを開けようとして、ふと自分の身なりに気付く。もどかしいので上着だけ羽織り、ドアを開ける。

『襲われたりして…まさかね…』


 やはり、満は起きていた。リビングのテーブルの上にズラリと弾丸を並べ、今も一つを布切れで磨いている最中だ。その満がマリンの気配に気付き、顔を上げた。が、すぐに顔を逸らす。

「すまん、起こしたか?」

「ううん、起きただけ。で、明かりが見えたから念のために見に来ただけ」

「火の用心か。たしかに、折角の城をみすみす燃やしたくは無いな」

 そう言って磨き終えた弾をまたテーブルの上に並べた。新たに弾を取りながらその弾頭を外して中身を覗いたりしている。そして残念そうな顔を見せながらその薬莢を脇の屑入れに放り捨てた。

「御苦労さま。でも満、貴方もそろそろ寝たら?疲れてるでしょう?」

 満は手を止め、少しマリンを見た。それから表情を緩め、手元の弾薬を片づけ始めた。

「確かにな。それじゃ、今日はお言葉に甘えさせて貰うとしよう」 

 クロスボウを床に置き、蝋燭の火を手に与えられた寝室へと向き直った。が、すぐに身構える。マリンも眠気が一瞬で吹き飛んだ。満はすぐに蝋燭の火を消し、マリンも寝室へ戻ってジーンズを穿き、拳銃を引き抜いた。

 満は床に置いたクロスボウを抱きかかえ、カーテンを捲って窓から外の様子を窺っていた。薄い月明かりの中、まるで酔っ払いのようにふらふらと彷徨う人影が道路を行ったり来たりしている。その人影はダストボックスにぶつかって物音を立て、その場で暫く辺りを見回していたが再び周辺を徘徊しだす。行動からして、どう見ても人間では無い。感染者だ。


「…感染が進んで行くにつれ、目が悪くなるのはどういう原理なんだか」

 感染者を観察しながら満が呟いた。それはマリンも考えた事があるが、どう仮説を出そうが憶測の域は出ない。ただ、破傷風などの感染症と一緒で、皮膚の創傷から侵入した細菌、或いはウィルスが血液に乗って最終的に脳を侵すのだけは確かだろう。まだ文明が機能している時点でそこまでは解明できた。だが、その原因が何なのか、何処から来たのか、そしてどうしたら対抗できるのか。

重要な事はまだ分からないまま文明は敗北してしまった。だから、何故視力が低下していくのかは誰にも断言はできないだろう。ただ、感染菌が脳に与える影響の一環だと思う。しかし、獲物を追う上で特に重要な視覚を損なって、何を代替として獲物を追うのか?個体差はあれど彼らの嗅覚は人間とさほど変わらない筈だ。何せ、過去にスーパーで出くわした時、棚の影に隠れたマリンを間近で見逃したのだから。

 聴覚は鋭い。これが大きな知覚機能なのかもしれない。感染者は三十から四十メートル離れた場所で小石が落ちた音を聞きつけてやってくる。しかも位置を正確に把握している。人間でも聴覚の優れた者は珍しくないが、聴覚だけで音源を正しく認知するのは思いの外困難だ。それを感染者は全て、苦も無く実行する。


「でも、ああして何かにぶつかってばかりいるから、結局他の感染者が集まってくるのよね」

「放っておけば良いって物でも無いな。丁度いい、練習がてら」

 小声でそう言うと満は窓を開き、弦にリップクリームのようなワックスを塗ってからクロスボウを構えた。

「やって見るかい?」

「いい。外したら怖いし」

「まぁ矢は無駄になるだろうが、流石にここまでは跳び上がれないだろう」

 家は二階建になっており、一階はガレージ以外に入口は無い。二階の玄関口は戸締りしてあるので、気付かれたとしても窓から跳び込まれない限り侵入される事は無い。そして、感染者の筋力は人間のそれと同じままか、腐って劣化している。二階の窓まで跳べるとは考えられない。 

 満は弦を引いたクロスボウを窓から覗かせると、搭載したスコープを覗いた。薄らとした月明かりのお蔭でライトも使う必要無く、矢はすぐに放たれた。ブッ、という湿った音がマリンの耳にも聞こえた。同時に感染者は道路に崩れ落ちた。

「死体は明日、片づける」

「一発で命中なんて、すごいわね」


 褒められ、まんざらでも無いのか満は照れくさそうに笑った。昨日から見慣れた軍人のような物静かな顔ではなく、ごく普通の青年らしく砕けた顔だった。

「いやぁ、そうでもないさ。でも、ここに来る前に散々撃ちこんだお蔭かな」

「その調子で狩りもよろしくね。勿論、矢は替えてよ」

「手頃な獲物が見つかれば、な」

 使い終えたクロスボウを床に置き、満は立ち上がって背伸びをしながら欠伸を洩らした。それを見たマリンにも眠気が舞い戻って来た。 

「それじゃ、今度こそゆっくり休めるわね」

「ああ、お休み」

 寝室の前で分かれ、それから拳銃を置いてベッドに飛び込んだマリンは、そのまま眠った。


 泥の様に眠っていたのだろう。瞼越しの明るさに眩しさを覚え、それから慌てて身を起こした。鳥の囀りが響く。カーテンの隙間からも明るい日差しが零れ落ちている。

 寝過ごした、と思っている矢先、ドアがノックされた。

「お姫様、そろそろお目覚めかな?」

「丁度今、起きた所よ」

「朝食をどうしようか迷っていたんだが、どうする?簡単な物なら出せるが」

 一人身になって以来、いつも自分で用意していた食事だが、久々に他人に作って貰えるというのなら、是非甘えたい。

「頼んでいい?」

「ああ、いいとも。味は保証しないが」

 味など構わない。賞味期限も消費期限もとっくに切れた食物を漁り、食事らしい食事にも滅多にありつけない世界で、今更味にどうこう言うつもりは無い。栄養さえ得られて、体に直接害を為さないならば、何でも良い。


 ただ、それで美味しければ、やっぱり嬉しい。

 キッチンの方で物音が聞こえ始めた。缶詰を開ける音と、何かを刻む音。それに水を沸騰させている気配。その音を聞き、食事を待ちながらベッドの中でまどろみに浸る、人生でも特に贅沢な時間の過ごし方だろう。仕事柄、そして一人暮らしであった事もあり、これまでそんな贅沢を味わう機会は無かった。皮肉にも、それが叶ったのは異変後、アンネが調理を担当してくれるようになってからだった。

 どれ程経っただろうか。眠りかけては起きて、それを繰り返しているので時間の感覚など全くあてにならないが、久々に嗅いだ匂いに意識は明瞭になった。


「嘘、これ・・・」

 眠気も醒め、ベッドの上で体を起こす。再び満がドアをノックした。

「入るぞ?」

 トレイに乗せたコーヒーが湯気を立て、マリンの鼻孔をくすぐった。

「凄い、どこにあったの?」

 マグカップを満たす黒いコーヒーを見つめ、その香りを存分に堪能しながら問いかけた。

「前のグループでは調達屋って呼ばれていたよ。それは一ブロック先の民家の台所で手に入れた。賞味期限が切れているが、微かな香りと味は楽しめるだろう」

 満は誇らしげに自らもコーヒーを啜る。確かに香りは弱まっているが、嗜好品を断たれて長い年月を経た鼻は、その微かな香りを捉える事ができた。

「嬉しい、久しぶりだわ。ありがとう!」

「それと、朝食も出来た。飲んだら来いよ」

 満は寝室を出て行ったが、マリンはベッドに腰掛けて暖かな陽光を浴び、大好物を堪能した。久しぶりの嗜好品に朝から気分も良い。更に朝食も用意してくれている。昨日までの生活から一転して、あまりの充足ぶりに不安さえ覚える居心地に少し戸惑う。飲み終えたカップをテーブルに置き、衣服を整えてから寝室を出る。

 キッチンのテーブルには緑があった。


「これは何?」

「民家のプランターに植えてあった。観葉植物代わりだったんだろうが、立派な食べられる薬草だ。刻んでお浸しにしてみた」

「オヒタシ?サラダなんてもう食べられないかと思っていたわ」

「サラダじゃないが、まぁ似たようなもんか・・・。あとは牛肉の缶詰を開けさせてもらった。食べよう」

 お互いに向かい合ってテーブルに着き、食事を囲む。だが満の食事は手早く済み、食器を流しに片付けた。

「予定通り、俺は自分の仕事をしているから、何かあったら何でも声を掛けてくれ」

「オーケー」

「それと、皿洗いは俺の分も頼んだ」

「了解よ」 

 そのくらいはしなければ罰が当たるだろう。与えられた寝室に戻っていく満を見送り、マリンは皿洗いを始めた。ふと思い出して外を覗く。昨晩満が始末した感染者は血溜まりを残して無くなっている。

「いつの間に片づけたんだろう・・・」

 朝の薬草やコーヒーと言い、マリンが寝ている間に調達してきたのは間違いない。

「なんか、ジャングルの中で敵に囲まれながらマシンガン撃ってそうな奴ね。…顔敵に似合わないけど」

 そのタフさに感心しながらも手早く皿を片づける。それから、手持ち無沙汰になったマリンは自分の仕事を探し始めた。

「と言っても・・・」

 やれる事は少ない。武器の管理は満が仕切っているし、作物を育てる技術も知識も自分は持っていない。せいぜい、洗濯と食事の準備くらいだろうか。それすら、この世界では常に必要な事でも無い。

 それだけ、生きる事にしか目標が無い人生を送っていたという事になる。


「・・・お風呂か」

 満もここに来るまでろくに入浴できなかっただろう。自分自身、ガスを節約する為にも入浴は頻繁にはできなかったので、丁度いい。バスタブに湯を張って日本の湯船にできる。日本へ旅行した際に入った温泉が気持ちよかったので、それを真似る事にした。満も母国の入浴スタイルの方がリラックスできるだろう。

 普通は電気か都市ガスだが、ここはガスボンベを非常用にしていた為、大助かりだ。水さえ汲んでくればバスタブは使える。ただし、水道が使えないのでシャワーは使えないが、問題無い。

「満、私は近くの川でお風呂に使う水を汲んでいるからね」

「それなら俺がやろうか?」

「いい。これは私の仕事だから、満はそっちの仕事をお願い」

「わかった。拳銃は絶対に忘れるな。撃てばすぐに行く。気をつけて」

「ありがとう」


 拳銃をホルスターに収め、水汲み用のポリタンクを持って外に出る。鍵は掛けないでおくが、万が一の事があっても満なら的確に対処できるだろう。

 階段を下り、錆びた郵便ポストの傍らで周囲の気配を探る。感染者の気配は無く、明るい日差しが降り注いでいる。時間は・・・十時は回らないくらいだろう。ポストの影から出て、南に向かって歩き出す。先日、物資を探しに行った地区を、川が流れている。正確には川では無く、陥没した道路へ雨水や氾濫した水が流れ込んだ物だ。勿論、そのまま飲用に使えば細菌によって苦しむ事になるので、煮沸消毒が必須となる。浴槽には、雨水を屋根から浴槽へと引く仕掛けがあるため、そう何度も往復しなくて済む。足りない分の水を汲んで足せば良いのだ。雨どいを仕掛けてくれたデイルに感謝しながら入らねばならない。

 今日も陥没した道路を水が流れていた。一昨日の雨で水量も僅かに増えた様に見えた。感染者の気配が無い事を確認しつつ、その水を汲み上げた。

「ん?」

 視界の端で何かが動いた事に気付き、素早く向き直る。少し下流の方で赤茶色の塊が起き上った。


「鹿だ・・・」

 可愛い、と思うと同時に腰の拳銃に手を伸ばして迷う。弾丸を使う事、そして発砲音を響かせるリスクと、大人二人が当分食べていられる食糧とを天秤に掛けて計る。そもそも九ミリの弾丸一、二発で仕留められるのだろうか?二発目以降の発砲音は百パーセント感染者を招く。距離は三十メートル程。正直、正確に当てられる自信は無い。

「ま、いいか・・・」

 リスクは冒さない事にした。仮に仕留めたとしても、自分の力では自宅まで運べない。いずれ、また現れた時に満が仕留めてくれる事を祈る事にした。

 鹿は円らな瞳でマリンを見つめていたが、やがて角を左右に振りながら下流へと去って行った。その後ろ姿を見送り、拳銃をホルスターに収めてから汲んだポリ容器を拾い上げて運ぶ。

 午前中はこの繰り返しで終わるだろう。だが、5日ぶりの入浴を思えば悪くない労働だ。


「やっと汲み終わった・・・」

 充分に水を張った浴槽の前で額の汗を拭う。日はちょうど真上にあるので、昼の前には終わらせる事ができた。早速、ガスをセットして水を温め、浴槽の脇にタオルとボディーソープ、シャンプーを並べる。更に棚から洗濯用の大型な桶を引っ張り出す。

「満、着替えがあったら洗うけど?」

 リビングに向かって声を上げると、満の声が返ってくる。

「頼もうかな」

 程なくして、満が自分の着ていた衣服を抱えて歩いてきた。代わりの着替えも、やはりコヨーテカラーのカーゴパンツにグレーのシャツだった。

「服装からしてまるで本当に兵士ね」

「何かと便利だからな。悪いが、頼んだぞ」

「任せて」

 分かってはいたが、満の衣服も相当の匂いを放っていた。もしかしたら、至近距離になれば体臭も感染者に自分の位置を知らせる要因になってしまうのかも知れない。

「さてと」

 桶に水を溜め、その中に洗剤と二人分の汚れた衣服を浸けこむ。二分ほど漬け込んでから水の中で衣服を揉み合わせて洗う。電気さえ通っていれば地下にある洗濯機が使えるのだが、それは叶わない。ガスが使えるだけ幸せだ。


「結構しつこい汚れね・・・」

 充分に水洗いして汚れを落としてから一度水を捨てる。自分でもこれほどかと目を疑うまで真っ黒に汚れた水が排水口に吸い込まれて行く。もう一度水を注ぎ、今度は洗剤を入れて洗う。ランドリーが恋しくなりながらも洗濯を終え、よく水気を絞ったそれらをかごに入れて干しに向かう。

 日光に当てて乾かしたいのだが、他の生存者、特に略奪者に発見されて襲撃されるリスクを考え、普段通り室内の風通しのいい場所に干す。カーテンも全ての部屋を解放せず、一部は締め切ったままにしてある。

 リビングのテーブルには満が置いた弾薬がずらりと並んでいた。選別は全て終わり、使えない弾薬はポリバケツに詰めてあった。

「もう終わったの?」

「半日あればな。今さっき終わった所だ。俺達の分を除いて、各種合わせて百九十発分。取引するには遜色ない筈だ」

「それだけあれば、四か月音沙汰無しの言い訳が出来るわ」

「何よりだ。後は明日に備えて体力を温存しよう」

「そうね、お風呂も用意できたわ。入って」

「ああ、風呂なんて久しぶりだ」


 入浴を楽しんだ後は静かな午後の時間を過ごした。体力は余っているが特にする事も無いので、窓辺に掛けてまた読書をしながら暇を潰した。満はライフルの照準を遠くのビルに定め、スコープを覗いたり離したりしながら調整していた。

「それにしても良い湯だったな。俺は十日・・・いや、二週間ぶりだったから、尚更だ。やはり、君の後にしてよかった」

「喜んで貰えて何よりよ。でも、ガスも半分は使ったかしら」

「見つけたら運んで来よう」

「それが無ければ薪が必要ね」

「煙が出るから、それはリスキーだな」

「そうね。でも、これから冬になるし、何かしら燃料は必要だわ」

「燃料か」


道の至る所に乗り捨てられている自動車の殆どは燃料が抜き取られており、ガソリン、石油類は滅多に手に入らない。もし見つけたとしても、場所によっては変質してしまっている物もあるだろう。ガソリンは自動車、発電機などに使う事ができる非常に有難い燃料だ。逆に、薪は原始的ではあるものの、その資源は今やどれだけ伐採しようが事欠かない、安定した燃料だ。エコロジーを啓蒙していた時代が懐かしい。

「ああ、本当に無かったら、最後は薪に頼るしかないな」

「そうでしょ?それに、雪が降れば感染者も人間も活動が鈍くなるわ」

「冬の数少ない利点でもあるな」


 日没になるのを待ち、普段通りに戸締りをしてから夕食にかかる。ストッカーを開き、マリンは顔を曇らせた。いよいよ食糧の残りが心許なくなってきた。まともに活動し、戦闘を含んだ活発な動きをしながら生き残るには、一日に最低限の食料を二食は摂らないと困難だ。それを二人分消費するのだから目に見えて食料は少なくなった。分かり切った事だったし、覚悟もしていた。自分の為にも必要な投資だとは理解していたが、それを実際に目の当たりにすると衝撃的だった。

「少ないのか?」

 勘の鋭い満はそれを見てすぐに察しがついたようだ。マリンは慌ててストッカーからベーコンの缶詰を取り出し、敢えて明るく努めた。

「ううん、そんな事無いわ。どれを使おうか迷ったの」


 満は頷いたが、誤魔化しはできない。第一、朝食を作った満自身、残りが多くは無い事は勘づいている筈だ。缶切りを使いながら不安を押し退け、沸かした湯へ満が見つけてきた薬草を浸す。

「そうそう、水汲みの最中に鹿を見かけたの。捕まえたかったけど、拳銃だけじゃ仕留めきれないかもしれないと思って、見逃したんだけど」

「残念だったな。俺が居たら挑戦したんだが。でも、拳銃で挑まなかったのは正しい判断だ」

「私にもそのうち、狩りの仕方を教えてよ」

「まずは獲物に接触できる警戒心と集中力だな。その次にライフルか弓を扱えるようにならないと。君ならすぐに素晴らしいハンターになれるだろう」

 僅かな夕食を終え、九時を回る前にはそれぞれの寝室に戻って就寝する。既に見る気も無い難しい本はテーブルの上に重ね上げ、マリンは蝋燭の火を消して毛布を被った。


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