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マリン

 穏やかな水面。流れの殆ど無い水底は黄緑色の藻が覆ってしまっている。その水面を踏み荒らし、一つの影が駆け抜ける。

 夕刻の残照が朽ちた商店の壁を舐めていく。日没が近い事は考えるまでも無い。かつてメインストリートだった池を駆けていたマリンは、方向を変えて商店の通りへ向かう。陥没によって出現した二メートル程の段差をよじ登り、商店街通りを走る。その途中、ショーウィンドウの前で足を止め、数年も人の出入りが無くなり、見るからに埃っぽい店内を見渡した。


 ショーウィンドウも右上の端から大きくひび割れ、粉々になったガラス片が店内の床に散乱し、細かなガラス片が落日によって輝いていた。見る限り店内に目ぼしい物は見当たらない。どこの店も略奪や自分のような生き残りによる物色に遭っているので、ここもその一つかもしれない。

 尤も、このファンシーショップに目ぼしい品物が転がっている可能性は極めて低いだろうが。ガラスに自分の姿が映る。そう膨らみもしていないカーキ色のバックパックを背負った女。

 

 服装は洒落っ気の無い、くたびれ、返り血の染みまでついた淡い青のシャツにデニムのミニスカートの下に黒のレギンス。やはりくたびれ、ソールが削れたトレッキングブーツ。そして・・・命綱とも言える、腰には安物のナイロンホルスターに差した拳銃。ナイロンホルスターは玩具屋で手に入れた。もうファッションなどとは言えない身なりだ。雑誌を捲っていた頃が懐かしい。

 

 衣服もくたびれきっているが、もう自分も二十五になってしまった。ガラスケースに映る自分の顔にまだ皺が見当たらないのがせめてもの救いだ。ろくに洗濯もできず、それどころか入浴もまともに出来ない為に汚れきった身なり。それでも肩に掛かって胸元を撫でる、母から受け継いだ大事な髪だけは汚れを知らずに金色に輝いている。


 遠いどこかで獣の唸り声が聞こえた。その声に飛び上がりそうになって我に返り、マリンはショーウィンドウの前から立ち去った。

 思い切り走り続ける。既に周囲の景色は落日の残光を冷まし、冷え冷えとした夜闇の気配が近づいていた。しかし今や、夜と共に近づくのは原初から人間に備わる闇への恐怖心だけでは無い。

 今では夜闇に包まれると言う事は、自分の生命を危険に晒す事と同じだ。危険から逃れる条件は単純。バックパックの肩紐に取りつけたライトを使わないで済む内に自分の住処に戻り、戸締りをする事。今の所、それ以上の安全は確保できないのが今の御時勢だ。


「やばいかも・・・」

 物思いが過ぎた。余計な時間をロスしてしまい、帰宅は日没後になる事はほぼ確実だ。背筋から這いあがる焦燥感が、額で冷や汗に変わっていく気がした。マリンは少し速度を落とし、その代わりに警戒を強めた。少し紫がかったブルーの瞳を左右に動かし、通りの向こう側、曲がり角の先、ガラスを失ってぽっかりと黒い口を開けた建物の内部へと気を配らせながら走る。

 運が良ければ何も無い。だが、運が悪ければ人影が見えるだろう。


―きっと、大丈夫―


 僅かな緊張感と共に鼓動が徐々に速まる。自然と足音を静め、物音を立てぬよう注意する。時間も気になるが、それと同時に物音も「捕食者」を呼び寄せる要因となる。それも、自分から発する分、よりダイレクトに。


 足元からパキリ、と渇いた音が響く。


 自分で立てたその小さな音に、子猫のように驚く。元々は街路樹だった木が手入れされずに好き放題に伸び切り、その枝葉が長い年月の風雨にさらされ、町の至る所に散らばっている。踏まれた小枝の悲鳴が、夕暮れの乾いた空気に流されて通りに響いた。

 マリンは早鐘を打つ鼓動も忘れ、小枝を踏んだまま固まっていた。全身の血が凍て付いた心地だ。首は動かさず、眼球だけを働かせて水平の全方向をゆっくりと見回す。左前九十度。窓ガラスが割れた建物の中は何かの事務所だったのであろう。洒落っ気の少ない、業務用の椅子や机、もう電源を入れることも出来ないだろう、風雨に晒されたデスクトップのパソコンが二台。部屋の奥には倒れた書類棚。最早無意味な情報が書き連ねられた紙屑が、大昔の遺物に眠っていた史料のように散らばり、埃と足跡に塗れている。しかし、気配は無い。右前はメインストリートを挟んで向かいの建物が並ぶ。そちらは気配が無いし、道路を一つ挟んでいる分、危険はまだ少ない。


 問題は後方だ。


 この近くには何もいないのかもしれない。だとしたら運が良かった。首をゆっくり動かして左後ろを確認しようとした時、今度はマリンの耳が反応した。

「・・・?」

 何の音だろうか。気のせいかもしれないが、微かな物音が聞こえたような気がした。後ろを振り返るが、何も動く物は見えない。と、目線の上を通り過ぎる影。一羽の鳩が羽ばたき、既に日が沈んだ西の空に向かって飛んで行った。その先を追う事はできない。町並みが競り合うように肩を伸ばし、地平線どころか、沈んだ陽の残光さえも見せてくれないからだ。


―翼があったら―


 幼い頃から変わらない願望を頭に浮かべ、再び歩き出そうとしたその時。マリンの耳が確かな物音を身近に聞き取り、頭から冷水を浴びたような悪寒に足が止まる。左後ろを素早く振り返る。建物と建物の間、細い路地から足音。それはマリンが次の行動を起こす前に視界に現れる。

 

 散歩していた歩行者のような軽い足取りで路地から通りに出てきた人影。ボロボロのジーンズはあちこちが破れ、異様に血色の悪い肌が覗く。マリンの身なりこそ立派ではないが、最早衣服がその意味を為さない程に破れ、血の染みで変色しきった身なり。化膿しているのか、それで塞がっているのか、或いはそれが正常なのか・・・腹部から胸部、首元にまで無数にある大小さまざまな傷跡から、湿り気のある茸のような物・・・恐らく何かの菌が拳半分ほどの山を形作っている。傷跡もドロドロとして赤黒く、所々に黄色や緑色の斑が浮かび上がっているが、出血は無い。総じてグロテスクな容貌。人の形をしているが、とても人とは信じられない。だが、紛れもなく今の世界に人間よりも多く遍在している生物だ。


 マリンは息を荒くしながら震える瞳を見開き、その瞳孔に相手の顔を映し出した。

 顔の肉は半分近くが無くなり、薄ら黄ばんだ頭骨が覗いている。その眼窩は何処までも黒く、底が見えない。その闇がマリンに絶望的な恐怖を植え付ける。

 それでも後じさりつつ、左腿の外側にベルトとテープで取り付けたシースから刃渡り十二、三センチの果物ナイフを抜き、逆手に持つ。


 元人間だったそれは、天を仰ぐように上を向きながら、鼻骨が半分覗いた鼻を三度動かし、そこだけはやたらと小奇麗な歯を見せながら、ガムを噛むように顎を咀嚼しはじめた。こちらの存在にまだ気づいていない様に見えた。だとしたら幸運だ。右手に握ったナイフを震わせながら、後方にも気を配りながら、相手を見据えたまま後退する。拳銃など使わない。貴重な弾薬を消費するし、何より自ら餌食になりたがるような物だ。銃声などこのブロックだけでなく、四方四、五ブロック以内全ての生物に自分の存在を知らせてしまう。 かといってナイフを握っているものの、それで戦う事は致命的なリスクを背負う。逃げられるならばそれが最善の道。これは太古から不変の、賢い生き物の生存術にして鉄則だ。

 

 依然として虚空を見つめて咀嚼する異形との距離が十メートル程にまで開いた。マリンの心も落ち着きを取り戻しつつあったその時。

 それまで呆けていたように立ちつくしていた異形が、突如として意味不明な叫び声を上げ、それまでの仕草からは到底想像もできないような俊敏さでこちらを向き直り、大股に走りだした。

「そんな、嘘でしょっ!?」


 すぐさまマリンは背を向け、全速力で駆けた。商店通りから脇の建物に目を付ける。玩具屋だったその廃墟に開いた、ガラスの無い窓枠から飛び込み、店の奥に逃げ込む。背後から追ってきた異形は窓の前でもたつき、乗り越えようとして転倒し、その場でもがいていた。いくらか残っていたガラス片が剥き出しの肉に突き刺さっているが、当の本人は痒みすら感じていないようだ。

 その隙にマリンは店の奥にある従業員室に逃げ込み、その扉を固く閉めて息を殺した。不幸にも、内鍵は無い。取手を上下し難いよう、手近にあった包装用のリボンを手繰り、ドアノブとスチール製の書類棚に巻き付けて吊り上げ、後は渾身の力でドアを押さえる。


 このまま気付かずに諦め、どこかへ去ってくれれば本当にありがたいのだが。ドアを両手で押さえたまま、心の中で神に祈りを捧げる。ドアの向こう側から、自分の身体を引き裂いて喰らい尽くそうという、悪意なき殺気が漂う。見失った獲物を執拗に探し続ける野性を露にした凶悪な獣。

 ドアに背中を預け、そう重くもない体重を乗せて押さえ、今更になってから部屋の中を見回した。幸いにも新手は居ない。それすら確認せずにここへ飛び込んで、無事だった事が既に神からの思し召しかと思える。しかし部屋の反対側に使えそうな道具は置いていない。小さな窓枠に丈夫そうな防火窓。マリンでも通り抜けられない大きさのその窓が、反対側に備え付けられたロッカーとロッカーの間から覗いているだけだ。ロッカー以外には大人二人が向かいあえる程度の大きさの四角いテーブルと、その上に乗ったタンブラーが底に埃を溜めているだけだ。椅子は見当たらない。


―ロッカーの中身は何だろう―


 一度、ドア越しに向こう側の気配を窺う。まだ相手は店内をうろついている。ぎこちない靴音と、棚に当たって落したのだろう小物の落下音がその根拠だ。その落下音に、周囲に居る可能性のある新手が寄って来ないか。それがマリンの最大の不安だった。だが、ロッカーの中に使える物があれば、或いは状況を打破できる材料になってくれるかもしれない。何れにせよ、リスクは付いて来る。ならば、少しでも収穫物があった方が良いに決まっている。


 もう一度ドア越しに相手の位置を確かめる。まだこちらに気付かず、店内を歩き回っているようだ。店内からこの部屋のドアまでは五、六メートル。途中にトイレの部屋が一つあった。扉が閉まっていれば相手がその部屋を調べる際に隙が生じたかも知れないが、残念な事に扉は開け放たれていた。あれでは陽動にならない。

 そっとドアから離れ、ロッカーに忍び寄る。念の為、ロッカーをゆっくりと少し開け、注意して中を窺う。しかし、そのロッカーには埃とエプロン、埃っぽい男物の夏服が数着積んであるだけだった。期待したような物資は見当たらない。上の網棚にも何も置かれていない。何に使うか分からない、革のキーホルダーが付いた錆びかけた鍵が一つ、ぶら下がっていただけだ。それを無視してもう一つのロッカーに近寄る。 同じように中を確認し、安全であることを確認してからゆっくり静かに開く。

 そこにはエプロンすら掛かっていなかった。着替えも見当たらず、やはり期待したような物は何も無い。そんな事だろうと期待こそしていなかったが、予想通りの期待外れは溜め息を禁じ得ない。


 薬室内に弾丸が装填されていない事を確認してからマガジンを抜く。残弾孔から見える弾丸は六発。本来の最大装填数は十発なのだが、それ以上詰め込む弾丸が手元に無い。マガジンを戻し、スライドを引いて薬室に弾を装填する。安全装置は掛けたまま、黒光りする拳銃をホルスターに収納する。続いて手元のナイフを見る。とあるスーパーに物色に入った際、残されていた果物ナイフだ。強度、切れ味、リーチ。どれも取るに足らないが、奴らを仕留めるには刃物が最も有効だ。弾薬を消費しないのも大きなメリットだ。


 しかし、確実にハイリスクである事も事実だ。揉み合いになり、こちらが負傷する可能性は大いに考えられる。そうなれば行きつく先はただ一つ。どんな死よりも苦しい死が待ち受ける。

 感染。

 自分もあの、おぞましい姿に成り果てる。

 マリンは顔を上げ、完全に光を失った小窓を見つめた。

 かつての世界では、死とは人間の最大の宿命にして恐怖であった。それは清潔なベッドの中で愛する人々に見守られながら命を終える安らかな死から、憎悪に焼き尽くされながら徹底的に嬲り殺しにされる壮絶悲惨な死まで、多種多様ではあるが死ねば苦痛も絶望もそれで終わり、という事は共通していた。


 今は違う。それらの死とは全く異なった死が用意されている。

 三ヶ月前までは一人では無かった。四人の仲間と共に日々の生活を共にし、物資を共に調達し、糧を共に分かち合った。恐怖や不安さえも共有できる人々が居た。三ヶ月前のその日、今日のように僅かな物資を調達し、仲間が待つ家に戻った。


 …異変の兆候は途中に見受けられた。玄関先へと上る為のコンクリートの階段に、肉片のような物が散らばっていたからだ。それが人間の者で無い事に安堵していいのか迷った。だが、それはすぐに絶望へと変わった。玄関前で重なり合うように倒れる二人の身体。一人は仲間だった。もう一方は感染者だ。それが意味する事を考える必要は無い。

 ブルックは死んでいた。感染者との戦いで噛まれ、感染した事を悟ると自殺したのだろう。自分の胸をナイフで貫いていた。仲間を危険に晒したくないという彼の強い正義感の成した行為だった。


 ブルックの死体に十字を切ると、それ以上の感傷に浸る時間は無かった。そのまま中へと駆け込み、仲間の無事を確認しようとした。だが、絶望は終わらなかった。次に目に入ったのは部屋の隅にうつ伏せに倒れて絶命している感染者の死体。そして嗚咽を漏らすアンネと彼女の息子・ライアンと、その父デイル。マリンは膝から崩れた。

 目の前の親子。その両親はそれぞれ、腕の至る所を噛まれていた。赤い鮮血が流れていて然るべきなのに、その血は粘性を帯びて凝固しつつあった。それが、感染者との接触による感染直後に見られる症状である事は嫌という程承知している。そして知り得る限りの文明が滅んだ現在、治療法どころか、如何なる対症療法も存在しない事も。あるのはたった一つの処置だけ。そして問題は、その処置を息子の目の前で行うべきか否か。


「ごめんなさい」


 そう言って拳銃を向けたのを、まだ鮮明に覚えている。時折、夢にも見て魘される。二人の命乞いする顔。そして・・・両親を案じ、泣きながら哀願するライアンの顔も。

「私達には免疫があるかもしれない!」 

 感染した人は皆、一瞬でもそんな淡い可能性に全ての命と望みを託した事だろう。自分も感染すればそんな望みを持つかもしれない。だが、それは恐らく、無い。可能性を信じてその時を待つのも良いかもしれない。

 それは早ければ半日で、遅くとも二日と経たない内に訪れる。が、その時が来ればもう自らの命を絶つ権利さえ失う。理性を失い、脳にまで達した得体の知れない何かに、命令されるままに操られる。これまでに何百もの感染した人間の末路をこの目で見てきた。だが、誰一人として人間のままでいられた者はいなかった。


 願わくば・・・死ぬまで操られ続ける彼らに、自我が無い事を。もしそうでなければ、それこそが死よりも苦しい、本当の地獄だろう。

 彼らと出会う前、マリンは既に五人もの人命を奪っていた。その内の二人は彼らから頼まれて、一人は・・・抵抗する彼を、撃った。

 同じように、ライアンの目の前で両親の命を奪った。先にアンネの頭を撃ち、続いてデイルの頭部に狙いを定めた。アンネを殺害されたデイルは憤怒の形相で絶叫し、マリンに向かって突進してきた。その手にはナイフ。マリンは怯みながらも(殺す順番を間違えた)と冷静に自分のミスを把握する自分に嫌気を感じながら…胴体に一発撃ち込んだ。デイルは被弾の衝撃で一瞬、固まり、床に倒れ込んだ。すかさず頭部に止めを撃った。

 

 今に思えばあの時、デイルの持っていたナイフで傷つけられていたなら、自分も間接的に感染していたかも知れない。あのナイフで感染者を始末していたのだから、その体液が付着していたのは間違いない。そう思うと背筋が凍る。


 だが、既に自分は氷のような女かもしれない。子どもの目の前で躊躇せずに両親を殺害した自分の行いは、誰の目にも、ましてや幼いライアンの目には尚更、冷酷な悪魔の凶行に見えた事だろう。全ては自分の命を守る為・・・ライアンの安全を確保する為。どう説明しても、結局は言い訳に過ぎないのだろう。もし地獄が存在するなら、自分はそこへ送られるのかもしれない。

 あの時・・・自らの手で殺さず、彼らに自害を促していたら・・・今とは違う結果があったのだろうか。


 ブルックは精悍な褐色の肌に見事な体格の持ち主で、ジョークを飛ばして皆を励まし、脅威からはその屈強な身体を盾にして皆を守ってくれた。デイルは率先して物資の調達を敢行してくれた。妻子を何より想い、その想いを原動力に戦い続けた。アンネはマリンを気遣い、皆の為に温かい食事を提供し、応急処置の仕方や対症療法の習得に励んでくれた。ライアンは子どもならではの無邪気な笑顔を見せてくれていた。 こんな世界では、幼い子どもは真先に犠牲になっておかしくない。そんな目を背けたくなるような絶望と混沌の世界で彼らが生きる意味。マリンはその笑顔に一つの答えを見出していた。

―きっと彼は、こんな絶望だらけで打ちひしがれる大人達を励ます為に居てくれる―


 扉の向こう側にある気配。その足音が徐々に遠のいていく。しばらくして何かが転がる様な音が聞こえ、それから足音は聞こえなくなった。それから一分を数え、ドアを開けた。店内はすっかり暗くなっていた。感染者の姿は無い。と言っても、暗闇の先は確認できない。光を察知されれば危険だが、ライトの光を掌で押さえ、光が不必要に拡散しないように抑えながら周囲を確認する。感染者は見当たらない。全身の力が抜けるのを感じつつ、安堵して従業員のロッカールームを出る。外は真っ暗だが、こんな所で夜を明かすつもりは無い。光量を落としながら地面を照らし、周囲の物音に最大限の注意を払いながら進む。


 もし、こんな暗闇で襲われたら・・・そう思えば生きた心地などしない。いっそ、どこか適当な建物で夜を明かせばいいと考えたくなるが、それでも戸締りの利かない、安全の確保ができない廃屋に身を置く訳には行かない。いきなり感染者が飛び出して来るのではないかと怯えながら歩き続ける。

 やがて、見知った路地が見えてくる。マリンの顔が安堵に綻ぶ。その一角に見えたコンクリートの階段を上り切り、自宅である玄関の前に立つ。周囲の安全も確認し、鍵を開けて中に入る。

「今日も生きて帰れた・・・」

 すぐに玄関に鍵を掛け、棚の上に置いてあるマッチを使って蝋燭に火を付ける。蝋燭の仄かな明かりが室内を照らす。

「ただいま」

 一人呟き、バックパックをテレビの前のテーブルに置き、ソファに疲れた身体を投げ出す。


「疲れたぁ・・・」

 欠伸をしてから背伸びし、少し目を閉じた。幾らかの時間の経過を覚えた身体が目を覚ます。時計が無いので時間は分からないが、まだそれほど時間は経っていない筈だった。蝋燭の火もそれほど消耗していない。身を起こし、台所へと足を運ぶ。昨日煮沸しておいた水がペットボトルに五本、二十リットルタンク二個分、ストックしてある。ペットボトルの一つを開け、喉を潤す。そのペットボトルを持ったまま、ソファーに戻り、テーブルの上のバックパックに手を伸ばす。そしてその中身―今日の収穫を、テーブルの上に並べていく。


 各種乾電池、7.62㎜NATO弾二発、発煙筒二つ、消毒用エタノールとウィスキー一瓶に牛肉の缶詰三つ、大好物のベーコンの缶詰が七つ。これは特に嬉しい。ベーコンの缶詰を一つ開け、フォークでベーコンを口に運ぶ。缶詰は保存状態さえ良好なら期限を過ぎても食べられる。今の世界では最も代表的な食物となっているだろう。新鮮な青果や生鮮食品が恋しい。アンネが生きていた時はドライフーズや非常用保存食も立派な暖食に変えてくれたのだが。


 ウィスキーを開け、シャツを無造作に脱ぎながら一口傾ける。ソファから立ち上がり、窓から外を覗いた。仄かな月明かりに照らされて四つの十字架の影が並んでいた。一昨日摘んだ花が墓の前で元気なく項垂れていた。

 両親を殺害した時、ライアンが自分に向けて放った呪いの言葉は今でも耳に残っている。生きている限り、彼の言葉は忘れないだろう。しかしそのライアンも、自分より先に幼い命を失ってしまった。人々に希望を与える筈だと信じていた笑顔は、その幼い命と共に砕け散った。


 両親を殺害した後、ライアンと共に三日間、この部屋で過ごした。仲間を失い、マリンは一人で物資をかき集めに出かけ、足は棒の様になって疲れ果てていた。それでも彼の気が少しでも晴れればと、食糧の他、玩具や甘味の嗜好品を探し出し、ライアンに差し出し続けた。

 それでもライアンが再びマリンを「お姉ちゃん」「お母さんみたい」「大好きなマリン」と慕ってくれる事は、二度と無かった。差し出した玩具は無造作に捨てられていた。食べ物もろくに食べてはくれなかった。

 それが今でも抜けない棘のような痛苦となって胸に残っている。二度と解決できない、悲痛な心残り。


 仲間の全滅から三日が経った日の昼過ぎ、マリンはいつものように疲弊しながらもバックパックを膨らませて帰宅した。あの日以来、ライアンは決してマリンを出迎えたりはしなかった。部屋の奥で一人絵を描いて過ごし、マリンから与えられた食料を少量黙って食べ、マリンが何を話しかけても無視し続けていた。

 だから、ライアンの名を呼び、返事が無くてもいつもの事だと思い、部屋の奥を覗いた。しかし、彼の姿は無かった。

 青ざめ、部屋中の隠れられそうな場所を探し続ける。どの部屋にも見当たらず、焦りだけが募る。その時になってからアンネとデイルの墓を思い出し、身を翻した。


 ちょうど、今と同じようにこの窓から外を見た。それは残酷な光景だった。最初は感染者がうずくまっているだけだと思った。そう信じたかった。しかし両親の墓標の前で感染者に押し倒され、ライアンは虚ろな視線を虚空に泳がせていた。飛び散る鮮血が墓標を濡らし、まるでそれが涙のように墓標を滴っていた。

 よりにもよって両親の墓の前で。神すら死んだのかと思った。

 マリンの慟哭も届かぬまま、感染者は悠々と食事を終え、ライアンの変わり果てた小さな体から起き上がり、ふらふらと立ち去って行った。


 入れ違いにライアンの元へ駆け寄り、無惨に引きちぎられた幼い体を抱き起こす。鮮やかな色の臓器片が大量の血と共に溢れ出し、噎せ返るような熱い血の匂いを発していた。弱弱しい呼吸が、覗きこむマリンの髪を撫でた。彼は一言も喋らず、虚空を見つめていた。やがて、それまでピクリともしなかった四肢が小刻みに動き始める。その神経症状は感染の特徴であり、次に彼が起き上ることがあれば元気に動き回れる筈だ。知性を失い、欲望のままに暖かい生肉を求める人形として。


 彼に人としての尊厳を持たせたまま死なせてやる事が出来るのは、この世界にただ一人しかいない。自分だ。

 アンネもデイルも、過去に殺した人々も、皆すぐ殺してきたのに。最初こそ手は震えたが、二度目からは手早くそうしてきた。なのに、ライアンに向けた銃は震えていた。それも、震えていたのは銃だけでは無い。自分でも客観的にそうだと分かる程、動揺していた。傷口に手当を施してそっとしておけば、或いは奇跡的に感染を免れるのでは、などとと考えかけた。つい三日前、そう口にして命乞いした死者の事も忘れて。

 その事を思い出し、マリンは自分の愚かさに嘲笑を洩らす。それから銃口をライアンの眉間に向け、その頬を撫でながらそっと引き金を引いた。


 今にして思えば・・・あの時に何故、一緒に逝かなかったのだろう。あの時自らの生にも幕を引いておけば、もしかしたら一番楽で、幸せな死に方だったかもしれない。最早人が人らしく・・・厳かに死ぬことができない世界になってしまったというのに、何かを期待してまだ生き残っている。


―私は、何を待っているのだろう―


 ウィスキーを少し多めに傾けて含み、それを飲み込む。強力なアルコールが舌を焼き、喉を焦がす。少し火照った頬を窓から背け、再びソファに戻る。

今度はテーブルの上に立たせた二本の鉛弾を取り上げる。7.62×51㎜弾。古い映画に出ていたような機関銃や、一昔前の自動小銃、それに猟銃などに使用される、強力でやや大柄な弾丸だ。その弾丸を持ったまま、壁の一角に進む。その壁には一挺の猟銃と、ブルックが使っていた鉈が掛けてある。どちらも重く、それを持ったまま物資調達に駆け回るのは苦しいので、ここでいざという時の為に備えてあるのだ。その、いざという時がこの家を敵に囲まれ、自分の命が最期になるのだろうと言う事は容易く想像できる。

 猟銃を取り、ボルトを引く。五発まで装填できる猟銃には一発の弾丸しか入っていない。入手した二発の弾丸を詰めてから再び元の壁に戻し、マリンはソファに戻った。柔らかなクッションに腰を下ろし、埃っぽいソファに顔を埋めながらまどろむ。


 ゴトン、という音で目が覚めた。物音に驚いて跳び上がった猫のように身を起こし、周りを見回す。薄暗いリビング。蝋燭の火は消えていたが、周りには誰も居ない。落ちついて足元を見ると、寝ながら手に持っていたウィスキーの瓶が、床に転がっていた。

「はぁ・・・」

 瓶を拾い上げて食べかけのベーコン缶の横に置き、再びソファに身を委ねる。

 時計を使わなくなって二年目だが、案外慣れた。午前三時過ぎくらいだろう。季節によって明るさも変わるが、その時によって体内時計は調節される。生物の中でもとりわけ五感が愚鈍な人間とは言え、利器を離れて生き抜かざるを得ない状況に陥れば、それは少なからず目覚めるようだ。目覚まし時計で起きていた頃は、起きてから必ず朝のコーヒーを飲んでいた。

「コーヒーが懐かしいな…」

 まだ銃では無くマイクを持ち、カメラマンやスタッフと共に、物資では無く視聴率を稼ぐために走り回っていた頃。


 通りを歩けば煩雑な人混みが空気のように存在し続け、ポケットにカードか財布さえ入っていればどこでもコーヒーは飲めた。いや、仕事の中であれば水の代わりに提供されていたくらいだというのに、この変わり様はどうだろう。もう三年、飲んでいない。 


―無事なコーヒー農園はあるのか―


 などと思った事もあるが、世界中で同じ事が起きているのにそこだけ無事な農園があるものか。第一、奇跡的に難を逃れたとしてコーヒー豆を生産し続けている筈がない。元リポーターの思考としてはあまりに浅はかだ。だが、立ち切り難い嗜好品への切実な願望でもある。自分は吸わないが、これが煙草だという人なら発狂した者も居たかも知れない。


 毛布を手繰り寄せ、素肌に纏いながら窓へ向かう。朝の訪れを予告する薄明かりが街のはるか遠く、市庁舎の頭を輝かせた。その輝きを見据えながら、マリンは毎朝続けているルーティンを、頭の中で復唱した。

 朝は日が上ってからが人間の活動時間。勿論感染者もうろつくが、夜に比べれば二割に減ったと思えるほどの差だ。時間で言う七時から午後四時までの九時間が人間にとって、最も生存確率が高い時間帯。逆に、午後の四時過ぎから朝までは死の時間。外に居る人間にとって、その晩を越せる確率はほぼゼロに等しい。日中に見る感染者の五倍もの量が夜空の下に溢れかえる。


 ソファに戻り、手早く身支度を整える。腰にホルスター付きのベルトを巻き、弾数と安全装置を確実に確認する。ペットボトルの水を用いてシンクで顔を洗い、目を完全に覚ましてから本格的な身支度を仕上げる。ミニスカートとスパッツの組み合わせからジーンズに着替え、ナイフを太股に固定し、空にしたバックパックに双眼鏡と水の入ったペットボトルを入れて背負う。忘れかけていた食べかけのベーコン缶にはラップを貼り付けて包む。


今日は久々に遠出する。武器がこれだけではいざという時に危機を切り抜けられないかもしれない。気は進まないが、壁に掛けた鉈を手に取る。独特な形状をした、オレンジと黒が強いグレーが基調の鉈。見た目よりも刃が厚くない為、片手で振ってもそれほど苦にならない。頼りないこの腕でも扱えそうだ。いざという時、ナイフよりはまともに格闘戦も対応できるだろう。ただし、移動するには少し邪魔になる。

「よしっ」

 バックパックを背負う。背負い紐は適度に調節して重心がぶれない様固定する。逃げる時に荷物が上下左右に揺れていたら、疲労が先に達して逃げ切れるものも逃げ切れなくなる。

 とかく、生き抜いていく為に必要な細かな工夫は枚挙に暇がない。服装、靴の種類、靴紐の結び方一つで生存できる確率が格段に違ってくるのだから、世の中分かったものではない。その分、危機を共に切り抜けた道具には愛着が一層湧く。かつての世界でなら決して身につけたくない、こんな銃や軍用品の感が丸出しの可愛げが一切ないバックパックなど、全てがラッキーアイテムのように思えるのだから。


 家を飛び出し、周囲に気配が無いのを確認してから戸締りし、マリンは朝の新鮮な空気が充満する世界に降り立った。

 今日の目的は三キロ先にある市庁舎近くの銃砲店。この騒ぎが始まってから先ず最初に略奪に遭ったのは銃砲店か食料品店のどちらかだ。かつて銃器が当たり前に手に入る銃社会だったこの国は、今や拳銃一挺、9ミリ弾薬一発手に入れるのも一苦労する有様だ。この五年間でマリンはこの家を中心に一キロ圏内を主な生活区域として過ごしてきたが、その圏内にある小さな銃砲店は空箱さえろくに残らない有様だった。

感染爆発後から三ヶ月でそれである。市庁舎から三ブロック手前にある銃砲店も同じ状況かも知れない。それでも、そろそろ銃弾に余裕が欲しい。…何より取引の為に。


 日が昇り、晴れやかな青空が照らされた。清々しい空気とは裏腹に、マリンの心はいつものように沈んでいた。


―こんな生活が、死ぬまで続くのか―

 

 生きたまま体を引きちぎられる最期は嫌だ。あんな化け物になるのも。略奪者にレイプされたり、嬲り殺しにされるのも嫌だ。だが、仮に運よく生き延びていったとしても、このままの世界なら自分はすぐに老いていく。今でこそ街中を駆け抜け、足の遅い感染者達を充分凌げる速度で逃げ切れているが、年老いればそれもいずれは叶わなくなる。感染発生直後の混乱の最中、感染者が増えつつある街の様子を中継したのが最後の仕事だった。その時、逃げ惑う人々の中に年老いた夫婦がいた。二人はしっかりと手を繋ぎ、覚束ない足元で凶悪な牙から逃れようとしていた。しかし―思い出したくない。


 美しいものが真っ先に破壊されていく世界。愛も、友情も、道徳も、正義も、神さえも。人を信じる、清らかな人から死んでいく。

 普段は通らない道路を横切る。朝日に照らされた教会の鐘が光り輝いていた。その鐘を鳴らす人も、教会に訪れる人ももう居ないが。

 マリンの生活圏の最端にあるガソリンスタンド。勿論燃料など騒動の初期に大量の買占めか略奪に遭い、果てには警官隊と暴徒の銃撃戦の最中に爆発、炎上してしまった為、文字通り何も残っていない。その前を駆け抜けながら、この先の進路を再確認する。ガソリンスタンドを抜けたら住宅街を抜け、学校前に。学校から警察署を抜けて橋を渡り、その先に市庁舎がある。その市庁舎には入らずに、市庁舎より一ブロック手前にある銃砲店が狙いだ。地図を折り畳み、シャツの胸ポケットに仕舞う。


 このガソリンスタンドから先の町並みはこれまで調べていないので、もし、他に生存者がいない限り物資が残されている可能性がある。しかし、一軒一軒の建物を調べていれば莫大な時間がかかる上、このエリアはマリンが安全を確認した訳ではない。建物内に潜む脅威を忘れてはいけない。入るからにはそれも含めて時間も掛かる。

住宅街を走っていると、横転した黒焦げのバスや、倒れた大型バイクを見つけた。動く筈も無いのだが、ついバイクに駆け寄り、エンジンキーを回して見る。


「・・・」

 当然ながら何の音もしない。何が原因かなど、機械音痴を自負している自分には皆目分からない。そもそも、この倒れた超大型バイクを起こして安定させる自信も無い。マリンは大人しく引き下がった。バイクを後にしながら、走るのを止めて静かに歩く。住宅街は静まり返っている。かつては人々が行き交い、子供達が無邪気に遊んでいたであろう庭先に乱暴に放られた遊具は、長い歳月と風雨に晒されて錆びつき、すっかり汚れきってしまっていた。

 不意に、ライアンを思い出して心苦しくなる。


 遊具から眼を離す。周囲の家にも警戒を払わねばならない。どの家にどれだけの感染者が潜んでいるか知れない。それに、潜んでいるのは感染者だけとは限らない。腰の拳銃に触れる。過去に殺した者のうち二人は、武器を持った人間だった。

ある日、今と同じように生活圏の少し外側で食糧探しをしていた所で二人組の男に遭遇した。一瞬、お互いに目を丸くして見合っていたが、相手は角材と鉄パイプを手に、猛然と襲いかかっていた。その時の男達の顔が忘れられない。欲望に歪んだ顔。女と物資を同時に見つけ、喜々として襲い掛かってくる男達に怯え、立ち竦みながらもマリンはほぼ無意識に引き金を引いていた。一発。一人が倒れ、もう一人は呆気に取られて倒れた仲間を見下ろした。その間にマリンは我に返り、容赦なくもう一人に銃弾を撃ち込んだ。


 どちらも止めは刺せなかった。だから、殺したと言っていいのかどうかも分からないが、あの状態では感染者の餌食になっただろう。だから殺したも同然だと思っている。のたうち回る男達から荷物を奪う事も思いつかない程に動転し、一目散に逃げ去った。今にして思えば惜しくも思うが、奪わなくて正解だったとも思う。


―誰かを傷つけてばかり―


 変え様の無い事実が常に心の片隅に堆積されている。この世界にまだ道徳や罪という概念が通じるのか怪しいが、自分は人殺しだ。仕方なかったとはいえ、幼い子にまで手をかけた。

 これ以上考えていたら陰気になる。頭を振り、住宅街を歩く。幸いにも、恐れていた強盗も感染者も遭遇しないまま、学校の鐘塔が見えてきた。小人が被るとんがり帽子のような愛嬌を感じる高校の塔は、離れていてもすぐに目を引きつける。それで、という訳でも無かろうが、高校は避難場所として派遣された軍人や警官達が守りを固め、難を逃れた人々が最初の二、三ヶ月の間はそこで過ごしていた。人によってはその時間だけが人生で最後の人らしい生活となっただろう。

 

 近くに住んでいたマリンも高校への避難を希望していたのだが、移動の最中、道路が封鎖されて身動きが取れなくなり、そうこうしている内に感染者の数が激増、封鎖が解けない内にメインストリートは感染者で溢れかえり、死者の行進をイメージさせる、凄惨な光景が生まれた。盾やパトカーなどの車両でバリケードを築いていた警官隊だが、その時にはもう殆どの職員は持ち場を放棄していたし、その様子に見切りを付けたマリンは自宅に立て籠って次に備えておいた。それが結果的には幸いだった。やがて、バリケードは感染者の大群に突破され、警官隊も全滅した。その阿鼻叫喚の地獄を眼下にして、マリンはこの世の終わりを見たと思った。


 その死者の群れが高校内に雪崩れ込み、避難所は想像を絶する悪夢に見舞われたという事を知ったのはその数日後の事だった。勿論、軍の増援など無く、高校は放棄されていた。

 その高校の前に差し掛かり、恐る恐る進む。物音に注意し、鉈を手に歩く。擦れたトレッキングブーツが小石を蹴り飛ばしつつも、それほど大きな物音は立たない。このまま何も起こらない事を祈りつつ、フェンスに囲まれた高校の敷地内を覗き見る。

 かつて中に居た避難者を守っていたフェンスは今や、文字通り檻となってその役目を忠実に果たしていた。正に監獄。職員用の駐車場とグラウンドが一望できる敷地には、無数の感染者が生気無く徘徊していた。中には感染から時間が経ち、個体差もあるのだろう、「進行」の度合いが進んでいるものも目立った。


 進行とは、生命維持に支障を来さない程度に負傷を負った患者、もしくは症状が悪化し、感染者に変貌した者が時間を経て醜く変形する事だ。この、感染から時間が経過した「中度感染者」が厄介だ。大抵、襲い掛かってくる感染者とはこの中度感染者だ。軽度感染者との違いは大きい。人格、思考の喪失。傷口・粘膜部が異様な変色、変形を起こし、治癒(?)した創傷部位は以前より強靭化した上で人に襲い掛かるのだ。その強度は信じ難い程に凄まじい。何せ、個体によっては拳銃弾が肉の内部で止まってしまう程だ。生身の人間なら却って大事だが、彼らはそれを苦にしない。痛みも感じず、内出血してもそれ程問題にしないらしい。むしろ、時間が経てば何食わぬ顔で再び襲ってくるのだから。


 その中度感染者が異様に膨れ上がり、側頭部に野球ボールをくっつけたかのような顔面をこちらに向け、フェンスに向かって歩いてきた。マリンはその感染者に構う事無く高校の前を通り抜けた。背後から金網を執拗に叩きつける音が聞こえたが、あの金網はそうそう壊れはしないだろう。しかしフェンスの一部は破られている筈なので、ここ以外の何処かから感染者達が出入りしている。その場所にだけは近寄りたくないものだと思う。

 事無く警察署まで辿りついた所で、さすがに休憩に入る。太陽は真上からこちらを照らしつけ、赤レンガの歩道上に明暗のはっきりした影を映し出した。ペットボトルに詰めた水で喉を潤しながらその影を見つめて時間を費やす。呼吸が次第に和らぎ、酸素に満たされた肺と心臓が余裕を見せ始める。


「そろそろ行こうかな」

 バックパックを背負い、警察署を見上げる。銃砲店に目欲しいものが無く、かつ時間があれば予備候補としてこの警察署に入りたい。警察署ならば武器も豊富に蓄えられている筈だ。騒動の際、略奪者も近づけなかっただろう。

 ただし、警官達がそれらの武器を持ち出してしまった可能性もあり得るのだが。


 そんな事を思いながら歩を進め、見えてきた橋に安堵する。見回してみれば、この周辺は通勤に利用していた道だ。通勤中に通っていた時は車を運転していたので、この景色をそれほど気にしていなかった。ましてや徒歩でこの橋の骨組みやワイヤーを見ると、中々の迫力がある。ウェインブルストン橋と刻まれたプレートは錆びつき、落書きの後さえ消えかけていた。そのプレートに手を置きながら、橋の欄干から身を乗り出して橋向こうを窺う。暖かな昼の空気の中に市庁舎が見えた。市庁舎との距離は五百メートルも無い。マリンは欄干から離れ、小走りに橋の歩道を駆け抜けた。


「ホントに今日はラッキー」

 爽やかな天気の下、これまで一人の感染者にも遭遇せずに無事、橋を渡り切ったマリンの気分は、頭上の青空と同じように晴れやかだった。これで、後は銃砲店に少しでもお宝があればいいのだが、と願って進む。そして、市庁舎に続く通りから逸れ、脇道に入って少し歩く。通りからやや奥まったその場所に銃砲店はあった。土地勘の無い者ならば、そうそう見つけられないだろう。地元に住むマリンとて十八の頃、この近辺にあったスイーツの店を探している最中に偶然見つけたのだから。


 銃砲店の窓には内側からブラインドが落され、ドアには「閉店中」と看板がぶら下がっていた。ブラインドのせいで店内の様子も窺えず、マリンはドアノブを回して見た。意外にもドアノブはあっさりと回り、招き入れるかのように内側に向かって開いた。勿論、すぐには入らず、拳銃を構えて入口内の左右、店内に銃口を向ける。だが、感染者の気配も無い。それを確認してからドアを閉め、店内に足を踏み入れた。

 ブラインドを開ければ外の光が入るが、それはせずに自分の持つフラッシュライトで視線の先を照らす。

「あ・・・」

 光で照らした先に、いくつもの小箱が棚の上に並んでいた。


 思わず警戒を解き、一目散にその小箱に駆け寄る。箱を手に取ればしっかりとした重さがある。心中で歓声を上げつつ、紙箱を開く。中には錆も殆ど見当たらない、九ミリ拳銃の弾薬が詰まっていた。箱入りの弾薬など、三年ぶりに見た。それ以外は奪ったものか、そもそも弾薬自体をあまり見かけていなかった。まさか、まだ残されている店があるとは。諦め半分に来たマリンにとっては、願ってもない大収穫だ。

 

 こんな状況になれば、その手の人間ならばこの小さな店の棚の武器弾薬を全て車にでも乗せて行きたくなるだろうが、そうでなければリュックサックの中に入れて持ち出せる量など、そう多くは無い。それに、弾薬も軽くは無い。拳銃弾が五十発入った一箱でもずっしりとくる。

恐らく、誰かしらはここに入り、幾らかの物資を持ち去ったのだろうが、その人物は楽園を見つけたか、或いは死んだかだ。でなければ何度もここに出入りして、とっくに全ての武器弾薬を持ち去った筈だ。


 マリンは更に奥へ進んだ。フラッシュライトに照らされ、次々と眠っていたお宝が姿を現す。

「すごい・・・」

 元々が老人一人で切り盛りしていた小さな店舗だった為、品揃えは最初から乏しかっただろう。それでも、棚には新品のまま五年間も眠り続けていた銃弾が小箱に入って眠っている。マリンはそれらを一つ一つ開け、錆の程度、弾丸の口径、既成実包であることを確認しつつ、バックパックに詰め込んで行った。銃を掛けて飾るラックの殆どは何も掛かっていない。だが、二挺だけ長物の銃が掛けられていた。それを手にとって調べる。正直、長物の銃は猟銃の扱いをブルックに幾らか手解きを受けただけで、それ以外の銃器の知識など皆無だ。拳銃を持ち始めた頃、弾丸を銃口から詰めようとしてブルックに苦笑いされたのは良く覚えている。そんな自分に扱えるか分からないが、まずは調べて見る。


 一つはライフルだった。黒光りした銃身とストックが厳めしい銃だったが、その弾倉が抜けている事に気付いた。店頭に飾ってある以上は装填しないで置くのが当たり前だろうが、そのマガジンが何処を探しても見当たらない。それ以上探すのは時間の無駄だと判断し、ライフルは諦める。もう一つは映画でも見たことがある散弾銃だった。木製のストックが何処となくお洒落に見え、マリンはそれが気に入った。

 床に座り込み、銃口を天井に向けながら銃身を隈なく触り、弄ってみる。知識が無い以上は勘で試していくしかない。それを良く知っていたデイルもブルックも死んでしまったのだから。十分ほど探っただろうか。引き金の近くにカバーがあり、それを押し込むとそのままカバーが開いた。どうも、そこから押し込むようになっているようだ。早速、それに合う弾丸を探してみる。まずは九ミリの弾丸を入れて見た。まるで小さく、詰められないのでそれは除く。次に猟銃に使っている7.62㎜弾。これも合わない。マリンは小さく唸った。自分が知っているのはこの二つの弾丸だけだ。店内で見つけた弾丸を全種並べて見るが、どれも散弾銃の穴に合わなそうだと思った。

「どれだろう・・・」

 弾頭が黒くなっている、九ミリと似た大きさの弾丸も違う。立ち上がり、もう一度店内を見回してみる。すると、一つだけ敢えて放置していた小箱を思い出す。もう一度奥の棚に向かい、そこに数箱残されている小箱を拾う。

「十二ゲージ?」

 しかしその中身は、マリンの知る弾丸とは全く異なる形だった。色も金属的ではなくカラフルな赤、ピンク、青色で、まるで駄菓子のようだった。それもまたお洒落に見え、マリンはそれらを興味深く観察した。カメラのフィルムケースか何かと思っていた。だが、銃器店にフィルムケースがある筈も無い。

「・・・ああ!」

 映画で、主人公のギャングが散弾銃を派手に撃ちまくった後、散弾銃の側面から赤い何かが跳び出したのを思い出した。恐らく、これだ。

 そのフィルムケースらしき物を幾つか拾い、散弾銃の元に戻る。再びそれを銃身に詰めて見る。ピッタリだった。

「やった」

 一発入れ、カバーを閉じる。少し重たいが、これは持って帰りたい。マリンはそのフィルムケースもとい、十二ゲージシェルをありったけかき集めてバックパックに入れた。もう、何も入らない。


 これ以上の増量は移動に差し支える。散弾銃はバックパックの脇に縛り付けて固定しておく。店を出る際にもう一度店内を確認し、忘れているものが無いか見回す。

「よし」

 まだ店内には幾らかの弾丸が数種置かれているが、自分が無理なく走って逃げられる程度の重さに抑えてある。それでも二百発分程も持っただろうか。それにショットガン・・・初めて手にする武器。大漁だ。バックパックは重いが、どうという事は無い。筋力の無かった昔とは違い、体も強くなったのだから。


 店の外に出たマリンは周囲に警戒しつつ、通りに出た。そこで、辺りが暗い事に気付いた。店に入って一時間と経っていない。まだ昼過ぎだ。それでも暗いのは灰色の雲が太陽の光を遮っているからだった。

「まずい・・・」

 マリンは青ざめた。今日が雨天だったならこんな遠くまで出かけなかっただろう。

慌てて走りだし、橋を目指す。


―お願い、降らないで―


 心中で必死に嘆願するが、願いも虚しく雨が降り出す。橋の前でマリンは絶望した。橋の向こう側に見える警察署前の通り。先程までは何も居なかったその通りに、人影が見え始めていた。

「しまった・・・もう・・・」

 頭から血の気が引くのを感じる。それは冷たい雨のせいかも知れない。だが、少なくとも今夜はもう、自宅に帰る事は出来ない。二度と帰る事は無いかもしれない。

 屋内から出てきた感染者達が天を仰ぐようにして雨に打たれているのが分かる。双眼鏡を離し、マリンは来た道を引き返そうとした。

―銃器店に隠れておけば、いざという時でも戦える―

 そう思い、元来た銃器店に掛け込もうとするが、そのドアノブを掴みかけて考え直す。

 数日ぶりに雨になると、感染者は外に出て水を全身に浴びたがる。かなり前から知られていた感染者の生態の一つだ。先程まで何事も無く踏破出来た帰路も、今は死の道となり果てている。目に見える範囲だけでも、道路は死に満ち溢れている。そして、その満ち溢れた死者の数は膨大だ。もし死者の群れがこんな小さな店に押し寄せれば、この店は一たまりも無く突破されるだろう。そして、一度でも死者の群れを招き入れてしまったら最後、自分の運命は無惨な死しか残されない。


 頑強な建物が良い。

 群れが押し寄せても、一晩くらいは安心して身を休ませる事ができ、なるべく安全で、しかもいざという時の逃げ場が用意されているホテルのような場所が望ましい。

 だが、この雨の中を夜までに辿りつけそうな範囲内にホテルは無い。諦めかけ、再び店のドアノブを掴みかけたマリンだが、不意に市庁舎を見上げた。灰色の空の下で俯き加減にマリンを見下ろす市庁舎が、不敵に笑ったような気がした。


 怒涛の轟音。土砂降りになったメインストリートは人ならざる者の影が彷徨い歩いている。この中を市庁舎まで無事に辿りつけるか甚だ疑問ではあったが、何故か今はその無謀と思える選択肢が正しいと思えてならなかった。

 銃砲店の屋根を大粒の雨が叩き続けている。拳銃を抜き、そのマガジンを確かめる。六発しか入っていなかったので、更に四発追加してフル装填し、マガジンを挿入してスライドを引く。今回ばかりはこれに頼らなければならないかもしれない。店内で支度を終えたマリンは意を決し、銃砲店のドアを開けて外に出る。

 と、開けたドアに何かがぶつかってきた。衝撃で吹き飛ばされる。水たまりに尻餅をつきながら上半身を起こしたマリンの目に映ったのは、頭部が腐り落ち、頭蓋骨の穴という穴から触手のような突起物を伸ばした感染者だった。盾となって弾かれたドアが閉まる。反対側から襲われていたら、危なかった。もう既に危ないのだが。

「ッ」

 泥水を飛ばしながら立ち上がり、突進してくる感染者に拳銃を向け、即座に撃つ。照準など全く見ないまま、一発、二発、三発、と連射していく。忽ち弾丸は消費された。空になった薬莢が水たまりに飛び込んで行く。

 いずれも胴体や肩に当たっており、相手は衝撃で怯む。生身の人間ならば既に身動きできないでいただろうが、感染者の生命活動・維持は人間のそれとは異なる。再び感染者が向かって来ようとする前に、今度こそ照準を定め、マリンは四発目と五発目を放った。一つが頭部に命中。感染者はよろけ、糸が切れたように崩れ落ちた。


 戦果を喜ぶ暇も気も無い。寧ろ、弾を無駄に消費した。すぐに体を反転させ、市庁舎に向かう。雨のおかげでこの通り全ての感染者に銃声が聞かれる事は無いだろうが、何体かは銃声を聞きつけ、ここに押し寄せてくる筈だ。マリンは走り続けた。時折、脇から手を伸ばして襲い掛かってくる感染者には長い脚で蹴りを入れてやり、それ以上は構わずに市庁舎に向かって疾走する。

 

 大きな石柱のモニュメントが並び、古代ギリシャをイメージした造りの正面入り口が目前に迫っていた。その百メートル程の距離の間に、二列のバリケードが阻む。高さはマリンの胸まであり、更にコンクリート製のバリケード上部には有刺鉄線が張られている。有刺鉄線に囲まれるようにして停車している、軍用のターレット付き装甲車も見える。だが、このバリケードを一気に跳びこすのは難しい。足を怪我したらそれこそ命取りになるし、細菌感染することも軽視できない。もっとも、追いつかれたら決して直せない感染を受ける事になるのだが。

「一か八か・・・」


 拳銃を抜き、有刺鉄線を支えている金具をそれぞれ撃つ。三本の金具が両サイドにあるが、その片側の三本を一つずつ確実に破壊し、片側の支えが無くなった有刺鉄線を取り外す。

「やった!」

 すかさずバリケードを乗り越え、内部に逃げ込む。内側のバリケードは警備兵が出入りする為の隙間があった為、すぐに入口に迎えた。振り返らず、正面玄関から入ろうとするが、自動ドアになっていたドアはビクともしない。慌てながらも他の出入り口を探すと、脇に非常用の扉があったので、そちらから中に入ろうとする。鍵は・・・掛かっていない。幸運に感謝しながら建物内に入り、今度は内側から鍵を掛ける。


「危なかった・・・」

 感染者達がバリケードに押し寄せ、有刺鉄線を掴んで血まみれになりながら暴れているのが見える。その血も大雨に流されていく。しばらく放心しながらその様子を眺めていたマリンだが、我に返り、手に持っていた拳銃を確認する。散々撃ったので、弾を補充しなければならない。弾倉を抜くと、残弾孔からは一発の弾しか見えない。バリケードを突破する際、弾切れを起こしていたら、と思うと寒気がした。


 早速、バックパックを開いて銃砲店で入手した九ミリ弾を詰め込む。再びフル装填し、弾薬箱から十発分の九ミリ弾をつまみ取り、それを予備として左前ポケットに入れておく。銃はホルスターに戻さないまま、バックパックを背負い直す。そして、負い紐に取り付けたライトのスイッチを入れた。

 かつては吹き抜けにも観葉植物を設置し、立体的な美を誇っていたエントランスホールは、人の手が入らなくなり久しい。それでも過去の面影を残しており、外の感染者が居なければ久々に優雅な雰囲気に浸って休めていたかもしれない。だが、死地から間一髪で脱してきた今はそんな気分にもなれない。ホールの左右に広く伸びた空間の中央には石柱が数本ずつ立ち、その石柱を挟むように待合の為の長椅子と丸テーブル、空になったサービスのキャンディー入れが転がる。左奥はトイレになっている。

 

 左側の壁に据え付けられた長さ五メートルもの液晶ディスプレイが、真っ黒な画面にマリンを映し出している。それらを誇らしげに自慢するかのような顔の銅像。五年前まで市長としてこの町で市政を担っていた壮年の男性市長だ。右側の角にある空間には休憩用のカフェがある。職員も市民と一緒に休憩しているのを見たことがあった。その時に漂ってきた香りを思い出し、無性にコーヒーが飲みたくなる。だが、カフェを物色している暇は無い。ここへは想定外のトラブルで逃げ込んで来たのだ。優先事項を先に片付けねば命に関わる事もある。まずは周辺の安全を確保しなければならない。そうでなくとも、ここは広大で、物陰も多く、感染者や、「先客」が潜んでいてもおかしくない。


 エントランスから奥は更に暗くなっており、元々がアンティークによって古風な雰囲気を意識した内装であった為、この薄暗さの中ではホラー映画に出てきそうなシーンのようで、マリンには不気味だった。その不気味な雰囲気が漂う市庁舎内の様子を、ライトの控えめな明かりが照らしていく。高そうな壷や、枯れた観葉植物も置かれている。それら調度品に混じって壁に掛けられた絵画。まるで血の染みのような跡が目に止まった。その絵はどこかの風景を描いたもので、その染みが作品の一部だとは考えにくい。では、本当に血の染みなのだろう。

 

 ゆっくりとその絵に近づき、周囲に目を配らせつつ、拾った新聞紙越しに染みを触る。既に乾いた血の染みは、ここで起きた出来事がつい最近ではない事を教えてくれた。

「大丈夫かな・・・」

 それでも外よりは安全だと思いたい。バリケードの向こう側で必死にもがいている感染者を尻目に、殆どのブラインドが閉められている受付を通り過ぎて事務所の扉の前に立つ。まずは聞き耳を立て、室内の気配を探る。音が聞こえないのを確認し、そっとドアを開ける。十センチほど開けたドアの隙間から室内を窺う。やはり人影は見当たらないので、そのまま室内に入った。 

 本来、職員が机を並べて職務に当たっていた事務所は、机が窓際と受付側に押しやられてバリケードにされ、僅かな机が二、三残されているだけだった。床の上には汚れた寝袋と・・・白骨化が進んだ遺体が横たわっている。

 軍人の遺体も部屋の隅にあった。拳銃で自殺したのだろう、眉間に穴を開け、背中を壁に預けながら座り込んでいた。不謹慎ながらいつものように遺体を探る。しかし残念ながら使用した筈の銃も弾薬も持っていない。もっとも、武器は充分に持っているのだが。銃砲店で入手した散弾銃に持ち替え、拳銃はホルスターに戻す。暫く事務所を漁ったが、食糧も何も無かったので部屋を後にする。


 廊下に出ると、肌寒さに身を縮まらせる。土砂降りの中を走ってきて、衣服もべったりと肌に纏わり付く。ろくに洗濯もできない服の、乾いていた汚れが一際目立った。その中のいくつかはかつて殺した誰かの物なのだろう。それはあまり考えたくなかったが、その汚れを見ていると考えずにはいられなかった。目を逸らし、まずは暖を取ることを先決する。

 

 既に午後の二時は回っている筈だったが日没までは五時間程度。しかもこの天候では感染者の徘徊する数は夜間と変わらないか、それ以上だ。今日はもうこの市庁舎で一晩を明かすしかない。そして、この建物内に膨大な感染者が潜んでいれば、自分の命運もここまでという事だ。それはいい。仕方のない事だと覚悟はできている。だが、それも万全を尽くした上での話だ。全力を尽くす為にも、ここで体温を奪われて力を失う訳にはいかない。震え始めた両肩から腕を摩り、事務所の出入り口から対面にある部屋の扉の前に立つ。横にはトイレがあったが、今は用が無いので無視し、先程と同じように警戒しながら扉を開ける。


 やはり室内に気配は無く、紙の独特な匂いに満ちた部屋だった。文字がびっしり書き込まれたコピー用紙が足元に散らばっている。考えるまでも無く、ここは資料室だ。どんな資料かは気にならない。取りあえず手近にある、比較的埃を被っていない紙を数枚取り、文字の書かれていない裏側で腕や顔、拭けるだけ水分を拭き取る。それだけでも幾らかはマシになった気がする。体の水滴を落しながら、更に奥に進む。今度はマガジンラックに比較的綺麗な新聞紙があったので、それを広げ、埃を払ってから頭に被る。その時に広げた一面には「感染症拡大、保健当局も狼狽」とあった。


 日付を見てもピンと来るほど覚えてもいないのだが、恐らくパニックの一週間前くらいでは無かろうか。その時点で既に感染者は居たのだが・・・今にして思えば、その時の感染者の症状は今より幾分か軽かったように思える。と言うのも、今でこそ感染者と接触し、唾液や体液により感染すれば、概ね三日で変異が現れる。初期症状としては発熱、嘔吐、倦怠感、リンパの異常な肥大化などが主で、三日を過ぎるにつれ、皮膚が硬質化、或いは爛れたり、変色したりし始める。そして五日から六日に掛けては意識が混濁し、意識が混濁したら間もなく豹変し、凶暴化する。そして二度と、人の意識が戻る事は無い。ひたすら凶悪な怪物が出来上がるのだ。


 だが、その当時の感染は少し違う。マリンの知人からそのような話を聞いたし、局内でも情報としてそのような旨が伝わったのだが、それらの情報によれば何者かに噛みつかれ、一週間は何事も無く、医療機関でも軽度の細菌感染程度で問題ないと言われ、普段通り生活していたのだ。しかし、十日が過ぎた頃から容態が急変、家族や職場の同僚など、身近な人間に襲い掛かって怪我をさせ、病院や警察に搬送されたのだという。その後、そういった人々がどうなったのか、そこは知らない。それを調べようと、警察関係者の話を聞きに行く予定だったのだが、その前に騒動に巻き込まれたのだ。その騒動の中で、取材中にスタッフ全員とはぐれ、騒動の中で事の深刻さを直感したマリンは職務を放棄し、避難を優先した。


 あの当時の感染体は、人間にあまり勘付かれないよう症状を軽くしていたように思える。だからもっと初期に手を打つべきところで手を打てなかったのだ。

 水を吸ってしおれた新聞紙を放り、資料室を後にする。寒気は幾分か収まったが、贅沢を言えば毛布が欲しい。それが叶わなくとも、タオルは必要だ。決して栄養状態も良くないこの体で、このまま生乾きで時間が経てば、風邪を引くかも知れない。今やただの風邪でも命取りなのだから。風邪の体で感染者の群れに遭遇したら、いくら逃げても助かるまい。


 資料室から出て、更に奥に向かう。トイレを過ぎ、右側に広い空間があった。ドアの無い入口から、室内に敷かれた寝袋が見えた。しめた、と思い、その寝袋が敷かれた部屋に入った。大正解だった。避難者が身を寄せていたのだろう、比較的上等な毛布と、タオルも充分に保管されていた。マリンは大喜びでタオルを取り、髪を乾かした。見回せばバッグもあり、その中には期待通りに衣類が入っていた。それも女物で、体格もそう違わない。少し、自分より小柄な女性だったのかもしれないが、決して窮屈でも、丈が短い訳でも無さそうなので、着替える事にした。肌にしがみつくシャツを脱ぎ棄て、肌着も脱ごうとホックに指を掛けたその時。


「あぁ・・・」

 その声に驚き、跳び上がりそうになりながら慌ててショットガンを手に取って構える。

「待ってくれ、危害を加えるつもりは無い」

 片言の英語で語りかけてきた人物は、色褪せたオリーブドラブのカーゴパンツに黒いジャケット、弓矢のような武器を持った男で、戸口に立ったまま、武器を床に向けたまま片手でマリンを制した。巻いた癖毛の黒髪で、眼鏡を掛けた若い顔立ちだった。南米系の顔立ちに見えないことも無いが、それにしては発音が下手すぎる。


「つまらない言い訳だが、覗き見するつもりじゃなかった。見惚れはしていたが」


 マリンは一言も返さず、ひたすら狙いを合わせたまま目を逸らさずに男を観察する。

 前までなら被害妄想と言われても仕方ないと思うが、今は違う。これまでに何度も、暴徒と化した略奪者に襲われそうになったのだから。彼ら男は若い女を見つける度に見境なく本能を剥き出しにしながら襲ってきた。そして用が済むと口減らしの為に殺していった。そういった連中ほど、最初は怯えた女性達に対して、優しく紳士的な言葉を掛け、レディファーストを装いながら陥れて行ったのだ。力の無い、怯えた女性がどうして最初から疑ってかかるものか。彼女らは極限の状態で陥れられ、いいように食い物にされて殺されていったのだ。


「最初に武器を手放すから、取りあえず話し合いにしないか?お茶は無いが」

 常套手段だ。その程度の事では気をやらない。過去に聞き知った例でも、最初は武器を手渡してきたのだ。だが、多くの女性は武器の扱いも知らないし、好みはしない。むしろ、一刻も早く手放したいくらいだろう。彼女らはすぐに武器を男に返し、守ってもらうと約束した上で手持ちの武器も男達に差し出した。その結果は見るも悲惨なものだった。それは到底、許される行為ではない。

同じ轍は踏まない。


「分かったわ、武器をこっちに蹴り飛ばして」

 男は最初に出した声と同じ、バツの悪い呻き声を上げながら言った。

「そうしたいのは山々だが・・・これは三、四キロはある。拳銃なら昔やってたアクション映画みたいに蹴り飛ばせるんだが、これは無理だ。重すぎるし、滑る代物じゃないんだ」

 適当な理由を付けて、近付かせるつもりだろうか。平均的な白人男性に比べて比較的小柄な男に見えるが、格闘戦になったら到底、マリンに勝ち目はない。マリンは警戒を解かず、散弾銃を構えたまま、更に指示する。

「じゃあ、武器をそこに置いて十歩下がって」

「ああ」

 男は躊躇なく武器を置いたまま引き下がった。

「それと、ナイフも持っている。これは蹴って渡せる」

 マリンの位置からは見えないが、ベルトの背部に取り着けているというナイフを指さした。マリンからは依然としてそのナイフは見えないが、銃口は男を捉えたまま離さない。

「わかったわ、それも蹴って」

 男は頷き、ナイフをシースから引き抜いて床に置き、足で軽く蹴った。ナイフは回転しながら床を滑り、マリンの二メートル手前で止まった。偶然だろうが、ご丁寧な事に柄がこちらを向いていた。男に敵意の無い事を表わしたかのように。


「細かい事を言えば、バックパックに長鉈と手斧、スコップ、ロープもある。けれど、これは一旦バックパックを下ろさなければ手に取れない」


「いいわ、そのままで」

 呆れながらも所持を許す。

「なぁ、そろそろ下ろして貰えるか?レディの下着姿を見たのは悪かったと思っているが、急に驚かせたくなかったんだよ」

 よく見れば顔立ちは東洋人のようだった。アジア系の顔立ちは日本でも韓国でも中国でもよく似ていて、西洋人の大抵の者は外見で判別できない。だが、目の形が微妙に違うのだ。もちろん個人差はあり、絶対ではないが、感覚的に日本人が丸みを帯びた目だと思っている。あくまで個人的感覚だし、科学的根拠を示すつもりも無いが。

 この男は丸みを帯びている方だと思った。

「日本人?」

「ご名答。一発で当てたのは君が初めてだ」


 流暢では無い。むしろ、片言で、断片的には文法を成していない英語だが、それでも意味を推察する事は出来るレベルだった。ある程度ポジティブに解釈していけば問題は無いだろう。

 ゆっくりと男が置いた武器に近づき、その武器を拾い上げようとする。しかし、思ったより重く、一瞬、ふらついて隙が出来る。内心で慌てたが、男は心配そうにしているだけで襲ってくる素振りは微塵も無かった。

「紳士なのね」

「だったら良いんだが。久々に見た、名も知らぬ美女へ。お近づきの印に」

 わざとキザったらしい台詞を垂らしながら男がリュックサックを置いた。その手がリュックサックをまさぐり出したので、マリンは拳銃を構えて向けた。


「ほら、大丈夫だ。投げるぞ、暴発させるなよ?」

 放られた小袋を胸と左手で挟んで止める。左手の中にはチョコバーが握られていた。

「・・・何か入ってる?」

 怪訝な顔をしたまま、男を見返す。男は同じパッケージのチョコバーを手に、それを噛ろうとしている所だった。

「?・・・消費期限は切れているが?」

「そうじゃなくて、変な薬とか?」

「ああ・・・」

 男は遠い目をしながら溜め息を吐いた。

「俺はああいう連中とは一線を画しているつもりだ」

 男はチョコバーを一口で噛み砕き、咀嚼しながらうんざりしたように言った。

「君が警戒しているのは、愛も正義も道徳もいらない、欲望のままに生きる、弱肉強食、それが古今東西不変の生き抜く掟だ、って語るような奴らだろう?いわゆる、終末世界に順応し過ぎて開き直った奴らだ」


 マリンが無言で頷くと、男も相槌を打ちながら言葉を続けた。

「それが正しい、って言ってグループを作っている奴らも大勢いるだろう。だが、俺は思うんだ。それなら動物と人間、外のあの化け物と人間、どう違うんだ?ってね。ハッキリ言って、こんな世界になったとしても、ただ自分が生き抜く為だけに他人を犠牲にする人間に生きる価値なんて無いと思っているよ。こうなる前は決して成功した人間じゃ無かったが、こうなった以上、せめて最後まで人らしく生きて、人らしく死にたい。…できるだけ格好良くね」


 それまで無言で聞いていたマリンも、ようやく男への警戒を緩めた。

 自分に人を見る目があるか分からないが…彼は恐らく、善人…少なくとも自分にとって善人だと思う。

「…あなた、変わってるってよく言われなかった?」

 意地悪くからかったが、男は鷹揚に頷いた。

「事実だからな」


 これ以上この男を疑っていても何にもならないと悟った。男から取り上げた武器を逆に向け、男に返した。

「マリンよ、あなたは?」

「ありがとう。蒼井満。今後ともよろしく」

「ミツルね。とりあえず貴方を信用する事にしたわ。ところで、その武器は?」

 男が受け取った武器を指さして訊ねる。本当は色々聞きたい事があるのだが、今まで武器を向けていた手前、上手く自然な会話に持ち込む事ができなかった。

「ああ、ボウガン、クロスボウって呼ばれる武器だよ。矢が再利用できるし、決して扱いやすい訳じゃ無いけど、銃と違って音が響かないから、狩りには勿論、護身にも向いている。君の国の方がポピュラーな筈だが」

 そう言ってカラフルな矢を幾つか見せつけた。赤と黄色の羽が付き、黒い芯の矢が七本、そして黄緑と白の羽が付いた矢が五本。

「もし、俺に何かあった時には覚えておくといいよ。黄色と赤の矢がアルミ製、黄緑と白の矢がカーボン製だ。カーボンの方が折れにくいから、練習する時にはそっちを使うと良い。ただし、思いの他貫通力があるから、一回見失うと無くしやすいけどね」

「縁起でも無いわ」

 笑い飛ばしながら、貰ったチョコバーを噛る。丁度空腹だったのでありがたかった。

「着替えの最中だったな、先に着替えた方がいい。俺はこの上の階で暖をとっているから、着替え終わったらおいで。大丈夫、そこの陰に隠れて覗き見なんてしないから」

 マリンが手で追い払う仕草をすると、満はクロスボウを担ぎ、床に転がしたナイフも回収してから背を向けて部屋を出た。その背中を見送り、マリンの胸中は二つに分かれて揺らいでいた。


―やっと、自分を守ってくれそうな人が現れた―

―でも、まだ、油断はできない―


 だが、この調子ならばそれも杞憂に終わりそうだ。彼からは本当に悪意を感じないし、いくらなんでもここまで襲って来ないのならば安全だと言ってもいいだろう。

 …強いて言うなら…自意識過剰かもしれないが胸元に視線が来ているような気がしてならないのが難だが、不潔な暴漢が寄って集ってか弱い女性を乱暴するのに比べれば極めて健全だ。少なくとも、自分の目の前で残虐に暴行されて殺された女達に比べれば、そんな悩みなど悩みでは無い。羽織っていたタオルを離し、ブラを外して厚手の服に着替える。下もあり合わせのジーンズで間に合わせ、荷物をまとめて部屋を出た。満が上って行った階段は、その部屋の対面にあったので、迷う事は無かった。


「満?」

 暗い二階のフロアに出たマリンは、心細さに押されて呼び掛けてみた。

「こっちだ、応接室の方」

 応接室と書かれた部屋から灯りが僅かに漏れていた。足早にその部屋へと踏み入る。もし、仲間がいて待ち伏せされて居たら、と一抹の不安を覚えながらもノブを回す。しかし、それもやはり杞憂でしかなかった。応接室には満一人しか居らず、ゴミ箱の中に紙屑や枯れた観葉植物の枝木を薪代わりにくべ、燃やして暖を取っていた。仄かな暖かみが肌に伝わってきた。煙は換気扇に向かって流れて行っていた。回っていなくともある程度機能しているようだ。

「大変だったろう、ここまで」


 満は立ちあがり、来客用のソファを動かした。マリンもそれを手伝い、火を前に二人で並んで座った。調達した毛布を体に巻いて暖まる。

「そりゃ大変よ、略奪者と戦ったり、感染者から逃げたり・・・毎日が戦いだもの」

「君は美人だからな、尚更大変だろう、モテて」

 冗談を言う満の肩をつつく。雨の音も静まる気配は無く、換気孔から外へ出される煙の心配もしなくて済みそうだった。それに、二階で燃やしているので感染者は煙に気付かない。略奪者も、この土砂降りの中、内側の様子も分からない、感染者に取り囲まれた市庁舎にわざわざ侵入しようと思う物好きが居るとも思えない。彼らの行動は思いの外慎重だ。それが、いざ狙われる身となるこちらとしては厄介なのだが。

ふと、隣の満の横顔を見つめる。この男も飄々とした物腰で、それでいて隠し持っていたナイフのような鋭さも匂わせてくる。もしかしたら、と勘ぐる。

「あなたも略奪者?」

 藪から棒に訊ねてみる。満は苦笑しながら答えた。

「広い意味ではね。君のように廃墟から物資を漁る事も略奪に入れるのなら。…元は自警団だ。ハットリンヤードにキャンプを持つ一団に世話になっていたんだが」

「じゃあ、キャンプの人達とこの近くに引っ越してきたの?随分遠いわよ」

 満が口籠る。まずい事を聞いたな、と直感した。きっと、全滅したか、それに近い状態なのだろう。


「ごめん、悪い事を聞いた?」

「いや、俺も話した方が気が楽になる。聞いてくれ」

 満は火の強さを安定させ、足元に置いていた観葉植物をナイフで切り分けようとした。マリンが思い出し、自分のバックパックからブルックの鉈を取り出して差し出した。

「これは良い、助かる」

 満はその鉈で手早く枝を切り分ける事が出来た。

「そのキャンプは地元住民を中心にした自警組織で守られていた。俺がこの国に来てから知る中で、一番よく統率が執れて、軋轢も比較的少ないと思っていたんだが・・・二週間前、大量の感染者に襲われてね。全滅したよ・・・女、子供も皆死んだ」

 確かに感染者は数に物を言わせて人間を食い潰す敵だ。だが、銃さえあれば決してそう怖い相手でも無い。さらに人間の連携がある程度整い、街の防御も整っていれば、多少の群相手に、そうそう簡単に負ける事は無い筈なのだが。ましてや、統率が執れていたのであれば、感染者の動向を見極め、避難して全滅を免れる事も出来たのではないか?

「ただの感染者?」

「鋭いな。その通り、感染者だけじゃ無かった」

 薪を燃やしたゴミ箱の上に、コート用のハンガーを乗せて重ねる。その上に鍋かコップでも置くのだろう。


「感染が進んで、菌だかウィルスだかを撒き散らすだけの化け物になった奴が町の近くに居たんだ。 いや、「出来た」とでも言うべきかな。しかも、それを外部の敵対グループに利用された。感染者の大群を誘導されて、バリケードを一台の装甲車で破壊された。踏んだり蹴ったりで、そこへ風に流された菌が町に流れ込んで・・・逃げ切れなかったり、マスクが行き渡らなかった住民は全員感染。それでもう成す術は無かった。残忍にも、逃げようとした生き残りも敵グループに皆殺しにされた」


 感染者が長い時間を経ると、稀にその中の一パーセントがそれになる。人によって呼び方は様々だが、マリンやかつて共に行動したブルック達は「ラフレシア」と呼んでいた。それは本物のラフレシアが可愛らしい観葉植物に思えてくる程にグロテスクだった。遠目に、ブルックに促されて猟銃のスコープで覗き見ただけだが、出来る事なら二度と見たくは無い。せめてもの救いは、アレが活発に移動することが出来ず、直接人間に襲い掛かる事がないという事だけだ。もしラフレシアが活発に歩き回れるようになったら、本当の意味で人類は滅亡するかもしれない。だから、満が受けた苦労を少なからず理解したつもりではある。


 ラフレシアの花粉はやや緑がかった黄色なので、そんな怪しげな花粉の流れが見えたら防護マスクで顔を塞ぎ、もしも怪我をしていたらその部位も絆創膏などでしっかり防がねばならない。それができないようなら大急ぎで離れ、風上に逃げなければならない。本当に、滅多に居ないのがせめてもの救いという厄介中の厄介者だった。

「そう・・・大変だったのね」

「おかげで住む場所も無くなった。冬までに安全な場所を作らなければならないってのに」


「…私の所に来る?」

 マリンの方から申し入れてみた。まだ相手の善悪を完全に見定め切ったとは言えないが、誘わずにはいられなかった。

 満がどれだけの腕利きかは知らないが、今朝もこの先を憂いていたように、このまま一人で過ごしていくのも不安だった所だ。最近、感染者の数も徐々に増え始めた気がしてならなかったし、年月の経過に伴い、略奪者も殺人に慣れ、凶暴化の一途を辿るばかりであった。正に世も末だ。

「良いのか?」

 満はありがたそうに顔を綻ばせた。彼もまた、住処を追われて心許なかっただろう。二人で生きる分、物資も必要にはなるが、暖房のない住処で一人で震えて過ごさずには済みそうだ。一人では厳しい、雪の中での物資調達も分担出来る。略奪者に狙われても、男が付いていれば少しは牽制になるかもしれない。少なくとも、若い女が一人で彷徨っているよりは安全な筈だ。

「勿論よ、是非来て欲しいわ」

「ありがたい。おまけにこんなお姫様からご招待頂けるとは」

再び肘で満の脇腹を小突く。そうと決まれば、あとは雨が収まり、感染者達が水浴びを済ませて屋内に戻るのを待つしかない。どの道、この市庁舎を出るのは明日だ。それ以上は長引いて欲しく無かった。理由は二つある。

「所で、満」

 気軽に名を呼ぼうとして躊躇い、言葉の間に微妙な間が空いた。その間を雨の音が紛らわしてくれる。満はああ、とその低い声で短く返事した。


「手持ちの食料はどのくらい?そんなに長続きする雨だとも思えないけど・・・」

「缶詰が二缶と、乾パン、ドライフルーツ各一袋。チョコバー一本。決して多くは無いな」

 マリンは一切持っていない。ギリギリまで使えば二人で三日は充分に食べていけるだろうが、そんなに長居したくは無い。これが一つ目の理由である。

「今度はこっちから質問しようか。マリン、途中で他の人間を見たり、その痕跡を見なかったか?」

「うーん、実は・・・」

 杞憂だと思っていたが、全く無いでは無い。つい一時間前に立ち寄った銃砲店。あの銃砲店には弾薬が随分残っていた。先客が持ち切れず、或いは良心もあって残していってくれた物だと思っていたのだが、僅かながら可能性もある。

「銃砲店で手に入れたの。今ある弾も、この鉄砲も」

 満にショットガンを差し出す。満はそれを受け取り、破損や汚れが無いか、構えて見たりして改めた。

「弾は外が少し錆びかけているが、磨けば使える。今、何発入っている?」

「え?それ、一発しか入らないんじゃ無いの?」

 マリンが素っ頓狂な顔をして満を見返したので、満は苦笑した。

「日本ならまだしも、この国で一発しか入らないショットガンなんてまず無いと思うぞ?弾を貸してごらん」

 

満はゲートカバーを開け、マリンから受け取ったショットシェルを更に五発追加して装填した。

「こうやって奥に詰め込んで行く。簡単だろう?もう一発入るから、やってみろ」

 マリンは恐る恐る満から銃を受け取り、開いたままの側面ゲートにもう一発のシェルを押し込んだ。既に入っている弾を奥に押しやりながら入れ、フォアエンドをスライドしながらゲートカバーを閉じた。

「それで良い。でも成程な・・・それだけ残されてるってことは、或いは・・・」

 満もマリンが言わんとしている事を理解したようだった。暫く黙考し、満が再び口を開いた。

「俺の仲間達も、テリトリー内にある銃砲店を武器庫代わりにしていた。勿論、他所者が来た時には一番に狙われるリスクがあるが、武器の保管には最適な場所だったからだ。それに、見張りを付けていたし他所者自体そんなに見かけなかったから、そうしていた。その銃砲店もその可能性があるって事か」


「でも、武器はラックに掛けてあったし、弾も棚にあったから・・・」

「ああ、それなら心配無いかもな。武器庫代わりに使っているんだったらロッカーや金庫、倉庫に隠す筈だ」

 やはり杞憂だったか、とマリンは胸を撫で下ろした。

「取りあえず、略奪者に襲われる心配も薄そうだな。それじゃあ、連中が大人しく帰るのを待とう。どうせ今夜はここで泊りだから、建物の中をもう少し調べてみよう。先客が引っ越した後のようだが、何か残されている物があるかもしれない」

「そうね、それがいいわ」

 満はナイフをシースごとテープで括りつけたベルトを腰に巻き、再び立ちあがった。

「マリンはゆっくりしていろよ、雨に濡れて体力が落ちている。下から俺が調べてくるから」

「悪いわね・・・あ、良かったらこれ。念の為に」

 自分の拳銃を差し出す。…万一の時にはより強力な散弾銃が手元にある。

「助かるよ。色々と備えているんだな」

 満は感心しながらそれを受け取り、腰のベルトに挟んだ。もう一つ拳銃があった方がいいな、とマリンは思った。長物の武器は長所も多いが、拳銃は汎用性があって何かと便利だ。とにかく軽く、携帯に最適だ。満の分もあれば、と思った。雨で冷えた体も暖を取って温まり、マリンはショットガンをテーブルに置いて肩や首周りを解そうと、伸びをしたり肩を回して体を休めた。

 …まだ気を許すには早いが、久しぶりの長距離移動と仄かな温かみで心地よくなり、急速に睡魔が襲って来た。

 

 ちょっとだけ…

 

 扉は閉まっている。散弾銃を抱えたまま、ソファに身を預けて毛布に包まった。

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