009
「それじゃあね、外喰くん。学校でも、声かけてくれていいんだよ」
「その言葉はそっくり返すぜ。俺、学校で人に声をかけるの苦手なんだ」
「びっくりするほど正直だね……」
アダルトDVDでは満足できない男から同級生へと肩書きを戻した俺は、その後しばらくして、九里古里と別れた。
しかし、アダルトDVDでは満足できない男とは言ってくれたが、アダルトDVDで満足する男というのもどうなんだろうか。アダルトDVDで満足する男というのはそれは、どうせ、とか、結局、という諦めでなく、アダルトDVDで幸せいっぱい夢いっぱいという虚しい男なんじゃないだろうか。そう考えると、世の中のほとんどの男はアダルトDVDでは満足できない男なのではないか?今から追いかけて、やっぱり俺はただの同級生ではなくアダルトDVDでは満足できない男だったと訂正してこようか。いやでも、そんなことを言うとまた身の危険を感じられてしまう。強姦魔だと罵られてしまう。九里古里は極端な考え方をしているよなあ。
女心とは難しいのであった。
「ふう。こうして一人になると、地の文で稼がなきゃならないから、区切りが付け難いんだよな」
特に何の意味もない独り言である。
そういえば、九里古里と話していて忘れていたが、俺は連続通り魔に狙われているんだった。連続通り魔だったっけ?強姦魔だったような気もする……。とにかく凶悪な奴に狙われているんだ。強姦魔でないことを祈ろう。
九里古里と別れて、一人になると、急に不安になってきた。あいつに会うまでは、殺されるものかと無意味に意気込んでいたものなのだが。それまでは平気だったのに、一度空調の効いた部屋に入ると、それ以降外が不快に感じるのとよく似ている。上げて落とす、というのと、ニュアンス的には近い気がする。引き付けて打つ、とか。
まあ何にせよ当てがないので当てもなくぶらつくだけだ。本心を言えば、知り合いに会うまでぶらつくだけだ。世間は狭い。知り合いは少ないと言えど世間は狭い。誰かしらには会えるんじゃないか。そんな希望を抱いていた。
時刻は午後18時を回っている。
驚くべきことに、なんと俺は古本屋で半日潰してしまっていた。
当てのない旅に早々と見切りをつけた俺は、目に付いた古本屋に吸い込まれていった。それはもう見事な吸い込まれ様だったのだ。りんごが木から落ちるのと同じ様に、俺もまた古本屋に吸い込まれていったのだ。この遥かな地球上に存在する小さな命の一つである俺は、もちろん遥かな地球の引力に逆らわない。すなわち重力に逆らわない。逆らえる命など存在するのだろうか。いや、しない。全てのりんごが木から落ちるように、誰しもが古本屋に吸い込まれるのである。古本屋とは、相対性理論を体現した科学的建造物だったのだ。
しかし、今手に取っているこの漫画。いい加減次の展開に進めよと強く思う。引き延ばしが過ぎる。それも引き伸ばしの内容があまりにもずさんだ。本当に、本当の意味での引き伸ばしだ。紙とインクの無駄と言ってもいい。同時に時間と労力の無駄でもある。無駄か無駄でないかと問われると、実は無駄ではないが、そんなものは、まあ大体、無駄でいい。
俺は、漫画を棚へ返した。
それにしても。
いや、本当。
いまいちな引き伸ばしには飽き飽きである。
「ちょっとそこ悪ィな」
「あ、すいません」
隣にいた男が、漫画を取ろうと、俺に断りを入れてきた。
体を避ける。
避けたつもりが。
男は俺の腕を掴んでいた。
「お、おい?それは俺の腕だぞ?本じゃないんだけど?」
「あァ、知ってるさ。知ってるとも。本じゃねェ?そりゃそうだろうな。だって本じゃねェんだからよ」
半笑いの表情で、男は言った。
その男は、ボリュームのある、きのこのような髪型――マッシュルームボブとでも言うのだろうか。しかし個人的に、ボブと聞くと、チリチリの短髪を想像してしまうのだ。偏見だろうか――をしていた。それでいて鮮明な金髪をしているのだから、すごく目立つ。
だぼっとしたセーターを着ているのでよく分からないが、体つきは細いように見える。しかしながら、俺の腕を掴む力は強かった。
「それよりお前、こっちか?それともそっちか?」
「いや、俺は全くのノンケですが」
きっぱりと言ってやった。
俺は異性にしか興味はない。ないのだ。
「ノンケか。呑気なもんだな。その気がなくとも、その期は来るぜ。抗い難く、避け難く」
「は?ちょっとそういうのは本当にお断りなんですが…!」
こいつ、まさか。
まさかとは思うが、そうなのか。
店内で襲われるとは思っていなかった。完全に想定外だった。
まずい。こんな所で。非常にまずい。
この古本屋は、客入りがいいとは言えないが、悪いと言うほどでもない。助けは呼べるが、呼びづらい。こんな事で。助けを呼べない。
このままでは――
「犯されるっ!」
「お前、何言ってんの?」
「えっ?」
おや。
何かおかしい。
男がきょとんとしている。
「え、いや、だって、あなた、強姦魔ですよね?」
「違ェよ」
「違うんすか」
拍子抜けだ。焦って損した。
強姦魔ではないということはつまり。
「外喰要だな」
強姦魔ではないということは外喰要。
俺は紳士と言いたいのだろうか。
独白と台詞を繋げて何がしたいんだろうか。
「俺は宮方由紀次朗。『繁栄派』『戦闘班』の宮方由紀次朗だ。何、心配すんな。鴉の代わりに勧誘活動に来ただけだ」
「……思わせぶりな登場をするんじゃねえよ『繁栄派』。人騒がせな奴らだな」
「人騒がせな奴らなんだよ」
そう言うと宮方と名乗った男は、俺の右腕を切り落とした。
俺の腕を掴んでいた手とは違う、もう片方の手に持っていた、黒い棒。全く謎の黒い棒は真ん中辺りでぱっくりと割れ、中から白い刃が現れた。
宮方は刀を持っていた。
「ぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!」
たぶん、店の外まで響いただろう。
何だか最近、よく腕を怪我する。
鋭く鈍く、重い痛み。腕はもちろん、軽くなったが。
「変身するのはこっちの腕だったっけェ?間違えたな、切る方を間違えた」
宮方は、切り落とした俺の右腕を掴んで、そんなことを言っている。
「おい要よ、聞け」
それどころではない。
「聞こえてなくても話すとするぜ。お前の腕は預かった。返して欲しければ、今夜の正午――間違えた。今夜の零時、公園に来い。そこでまた会おう。じゃーな」
宮方は、平然と店の外へと歩いて出て行った。
俺は、残された俺は、どうすれば……。
とにかく、もう既に騒がれているが、これ以上騒ぎになるのはまずい。
我ながらこんな状況で異常なほどに冷静だが、もしかしたら、異常事態に、耐性ができてきているのだろうか。嬉しくない。
とりあえず、ここから出なくては。舞台の練習とか何とか言ってごまかそう。
「どうした外喰。元気そうだな」
必死で言い訳すれば、許してもらえるものだ。血が付いた本の買取だけで、事は済んだ。それから移動する際は、血まみれの先がない右腕を隠しながら、裏路地をメインにスニーキングした。
そして結局、このままでは家にも戻れないので、人がめったに来ない防波堤まで来ていた。
そこで、不意に声をかけられた。鴉枕である。
日の沈みかけた現時刻。暗いところでこの男と会うのは怖いものである。
「元気そうに見えるのか。お前目腐ってるんじゃねえの?」
「お前の目もおそろいにしてやろう」
俺は慌てて頭部を守るように抱えた。振り返ると、コンクリートの壁に、穴が二つ開いていた。
何だこいつ、六式使いか。
指に付いたコンクリートのカスを払う鴉に聞いてみる。
「なあ鴉。お前、宮方って奴、知ってる?」
「知ってる。それがどうした。神社を模した神棚の名称だろ」
「宮形じゃねえよ。奴って言っただろうが。『繁栄派』の宮方由紀次朗だよ」
「ああ、宮方か。知っているといえば知っている。が、知らんといえば全く知らん」
「まあ、あいつのこと自体はどうでもいいんだけど。……あいつに襲われた。腕を切り落とされたんだ。なあ、これってもう異能は使えないって事か?腕は回復しないのか?」
鴉は真顔で俺の右腕を見ている。
いや、右腕はないんだけど。
「知らん」
「あっ?」
「知らねえよ。俺が知るか。お前の異能の事を。お前にしか分からん」
「俺だって分かんねえよ。でも、右腕の虫刺されから異能が発現したんだから、その虫刺されごと右腕が切り落とされた今、異能は使えないって事じゃないのか?そう考えるのが普通だろ?」
「異能力者が普通を語るな。気持ち悪い奴だな。そうだ、お前『繁栄派』に入らないか?」
「今勧誘するんじゃねえっ!」
俺は怒鳴る。
「『繁栄派』には回復異能を持つ奴もいる。座蔵覇嶺のような回りくどい回復じゃあなくてな。切り落とされた腕は生えてこないが、どうだろう。一度試しに入ってみては?」
「生えてこないんかい!入るかあ!」
こんな所でこんな奴と漫才をしている場合ではない。というよりも、さっきから出血がいい加減やばい。ひょっとしたら出血多量で死んでしまうかもしれない。
「ところで鴉、お前、何か縛る物持ってない?」
「心」
「やかましいわ!長い紐状の物持ってないか?血を止めたいんだ」
「何なら俺がお前の全身に血が巡らないようにしてやろうか」
「結構ですやめろそんなことをしたら死んでしまう」
「外喰よ、そんな漫画みたいな止血方法で何とかなると思ってるのかよ、お前」
「な、何だ?お前何かいい方法を知ってるのか?」
「火でその傷を焼こう」
「焔の錬金術師か俺は!」
もろ漫画みたいな止血方法じゃねえか。ふざけんな。
ポケットからライターを取り出した鴉を止める。
「しかし外喰、お前どうして座蔵覇嶺に連絡しない。助けを求めない」
真面目なトーンだった。事実、真面目な話だった。
「馬鹿な学生の考えだから、どうせ、巻き込んでしまうとか思ってるんだろうな。初古に襲われた時、座蔵覇嶺が助けに来たのは、お前が呼んだわけじゃない。それにしたって、危険だと思うなら突き放せばいい話だ。だがお前はそうしなかった。何故だ?相手が初古だったからか?相手が初古だったからだ。初古が座蔵覇嶺を襲わないと踏んで、それどころかあいつはお前も殺さない。それをお前も何となく分かっていたんだろうな」
図星と煮干って、よく似ている。
「ところが今回の相手は違う。町の中で平然とお前の腕を切り落とした。初古と宮方は何より異常性が違う。異常性が違うというのも変な話だが、とにかく異常性が違う。初古は極力人を殺さない。俺は無意味に人を殺さない。宮方は無意味に極力人を殺す」
こいつ今、無意味に人を殺さないって言ったか?初めて会ったあの時、面倒くさいからって俺を殺そうとしなかったか?
それは無意味じゃないってことか?
うーん……まあ、こいつも普通じゃないからな…。
「相手が宮方である以上、座蔵覇嶺に助けは求められない。座蔵覇嶺まで殺される可能性があるから。そう考えているのか」
「お前、エスパー……?」
「ふむ、エスパーと言っても過言ではないだろうな。俺の特技を教えてやろうか?この十円玉をよく見ろ」
そう言って鴉はどこからか十円玉を取り出した。
もう片方の手にはボールペンを持っている。
「このボールペンがなんと、十円玉を」
俺は息を飲んだ。
「貫く」
見事、そこには十円玉を貫いたボールペンと、ボールペンに貫かれた十円玉があった。
俺は無意識の内に小さな拍手を送っていた。
「おい鴉、その十円玉ちょっと見せてみろ」
「冗談ではない。商売道具をおいそれと渡すことができるか」
「お前それエスパーじゃなくてマジシャンじゃねえか!というか力ずくで十円玉を貫いちゃマジックですらねえんだよ!」
そもそも硬貨を変形させるのは犯罪なんだけど、まあ、犯罪集団のこいつに、それを言っても意味がないか。
「外喰。ちょっと携帯を貸せ」
「え?やだよ」
右肩にチョップを食らい、痛みに震える俺から、鴉は携帯を奪い取った。
何やら操作しているようだ。
「ほう、外喰。お前の電話帳には意外と女の名前が多いな」
「ま、まあな…」
「現在交流がある女はこの内何割だろうな」
「ばっ、馬鹿にすんなし!ほぼあるし!」
見栄を張った。
鴉が、眉をぴくりと動かした。
「うん?この名前……」
「何だ?知り合いでもいたか?」
「いや、以前殺した奴の娘の名前があると思ってな」
「怖すぎるわあ!」
笑えない冗談だ。冗談じゃ、ないのかもしれないけど。
そんな事をしていると、鴉が俺の顔の前に携帯を向けてきた。誘拐犯が、電話先の父親に娘の声を聞かせるみたいな感じで。
携帯の画面を見てみると、すると、現在絶賛座蔵覇嶺に発信中だった。
「おまっ、何してんだ、やめろ!」
「ほう、俺に命令するとはいい度胸だ」
「かふっ」
鳩尾一発。
い、息ができない……。死ぬ……。
俺は膝から崩れ落ちて、その場に左手を着いた。本当は右手を着きたかったが、それはできなかった。
「はい、座蔵です。要くん?どうしたんですか?」
上の方から、覇嶺さんの声がする。
もちろん肉声ではない。電話越しの、こもったような、ノイズがかったような、とにかくそんな感じの声だ。
俺は、痛みを我慢して、覇嶺さんに応える。
「覇嶺さん、すいません!間違えました!間違い電話です!」
「そうですか。要くん、何だか声が遠いですよ?」
「そう!遠いんです!たまたま遠いんですよ!」
「はい?ちょっと意味が分かりませんけど…」
「分からなくて大丈夫です!切ってください!電話!」
ちょうど言い切ったところで、左頬を蹴られた。
また、歯が折れる。
「あがああああああっ!」
「要くん!?どうしたんですか!?」
蹴ったのは言わずもがな、鴉である。この男、口開こうとはしない。無言のままで、また足を上げる。
「何でもないです!ひっへいいえふ!」
「何言ってるか分かりませんけど!」
鴉に頭を踏みつけられる。
薄れてきた鳩尾の痛みと、いまだに強い頬と口内の痛み。
鴉のサイコ具合を再認識しながら、再確認しながら、俺は必死に痛みに耐えていた。
「要くん!?大丈夫なんですか!?」
「はい…大丈夫です…。らい――」
右腕を、切り口を、踏み潰された。
意識が飛ぶかと思った。意識が飛んだ方がいいとも思った。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
「要くん!?要くん!?」
鴉は表情一つ変えていない。
あれ、こいつ、俺を殺す気なんじゃないだろうか。
もしかして、また面倒くさくなっちゃったんじゃないだろうか。
「面倒くせえな」
「助けて覇嶺さぁん!!」
なっちゃってた!
このままでは鴉に殺されてしまうところだ。
「い、行きます!すぐ行きますから!動いていいですけど、あんまり動かないでくださいね!?」
覇嶺さんがそう言うと。
鴉は俺の携帯を踏み潰した。
え、あれ、何で踏み潰したのこいつ。こいつの行動はよく分からないけど、切ればよかったんじゃないの。
俺は鴉を恨んだ。
俺を蹴り飛ばした事が理由ではない。
もちろん、携帯を踏み潰した事も理由ではない。
覇嶺さんに助けを求めさせた事が理由である。
こいつ、まさか、俺に助けを呼ばせるためにわざと悪役を演じたというのか。
「……鴉…。お前……」
「ああ、知っている。俺みたいなキャラのことを、ツンデレっていうんだろう?」
どこかで聞いたことがあるような台詞を普段通りのトーンで言ってのけた。
気持ちが悪いのでもう何も言わないでおこう。
「それじゃあ、俺は帰るとしよう」
鴉が町の方へ歩き出す。
「帰るのか。帰るのはいいけど、お前、そもそも何でここに来ていたんだ?何かやる事があったんだろ?それはいいのか?」
「……海を見に来ただけだ」
「………………」
何だそれ。超格好いい。
鴉は暗闇に溶けていった。
「要くーん!要くーん!?」
覇嶺さんの声が聞こえる。
どうやら本当に俺を助けに探しに来てくれたようだ。
しかし、異様に早い気がする。
俺は時計を持っていないし、携帯もさっき壊れてしまった――否、壊されてしまったので、現在の時刻はおおよそ推し量ることしかできないが、連絡をしてからまだ10分も経っていないんじゃないだろうか。覇嶺さんの家は図書館の近くと言っていたけれど、図書館からここまでは1時間はかかる筈だ。それは徒歩の話だけども、それでも、早い。
「覇嶺さーん!」
「要くん!?要くん!」
覇嶺さんの声が近づいてくる。
そのうち、姿も見えてきた。暗いので薄ぼんやりとしか分からないが、覇嶺さんは、淡い色の縞模様のふんわりだぼっとしたよく分からない服を着ていた。部屋着だろうか。部屋着だろう。カチューシャも付けていない。髪は乱れ放題だった。
こんなに焦らせてしまって。俺は、申し訳ないことをしたと思った。
「ああ、要くん…!変わり果てた姿になって…!」
「死体を見たようなことを言わないでくれませんか」
「い、いや、そんなつもりで言ったんじゃ…」
覇嶺さんが手を振って否定する。
「うう、要くん…」
覇嶺さんが、心配そうに俺のことを見つめている。
「どうしたんですか覇嶺さん。前助けてもらった時、こんな事は日常茶飯事だって言ってのけたじゃないですか」
「日常茶飯事とは言ってません!それに、慣れっこだと言っても、こんなに頻繁に…。少なくとも週一で腕がなくなる人なんていませんよ!」
「それだけ聞くとスプラッターで面白い人みたいですね」
冷静な顔で俺は何を言っているのかよく分からなかったが、たぶん、血を流しすぎたせいだろう。
「それにしても、また酷くやられましたね。今、痛みを食べますから」
「あ、いや、いいですよ。それは」
俺の体に触れようとする覇嶺さんにストップをかけた。
まさかそんな。
助けてとは言ったけど。
痛みを食えとは言っていない。
それではまるで、覇嶺さんの異能を、利用するみたいじゃないか。
「……?助けてっていうのは、そういう意味でしょう?」
「いや、そうじゃなくて」
「そうじゃなくても、そうします。べつに自己犠牲の精神とかじゃなくて、まあ、いいじゃないですか。とにかく、食わせろっつってんですよ」
最後口調がちょっと怖かったので、動けなくなってしまった。覇嶺さんが、俺の無事な方の頬にそっと手を当てる。
ふっ、と、痛みが消えた。
すでに落ち着いてきていた出血も、とうとう止まったのではないか。
「あっづ…うう……!」
それに一瞬遅れて、覇嶺さんがその場にうずくまった。震えている。俺だって相当痛かったが、言ってしまえば、慣れてしまっていた。痛いには当然痛いが、普通に喋れるし、歩くこともできる。
覇嶺さんは、俺が数回に分けて負った痛みを、全て一度に引き受けたのだ。真新しい状態で。俺が500mlのコーラを4本一気飲みしたとするのであれば、覇嶺さんは2lのコーラを1本一気飲みしたようなものだ。これはきつい。
まったく最低な話だがやはり、ちょっぴり興奮した。
「覇嶺さん。ありがとうございます。この恩は必ず返します。この恩と、そういえばこの間の恩も必ず返します。でもどうして、あなたはそう、自分を犠牲にするんですかね。自己犠牲じゃない?自己犠牲でしかないわそんなもん」
痛みが消えた俺は、何故か気が大きくなって、うずくまる覇嶺さんに説教を始めていた。
何なんだろう。こいつ。
「俺は痛みを食ってほしくてあなたを呼んだんじゃない。揺れない貧乳を拝みたくてあなたを呼んだんだ」
「…ゆ、揺れます……」
「マジで!?揺れるんですか!?今度見せてください!」
「………………」
覇嶺さんにも譲れないところがあったのだろう。
まだ激痛に耐えている最中だ。
「ともかく、俺は『痛みの器』を呼んだんじゃない。覇嶺さんを呼んだんだ。来てくれたのは本当に感謝してます。痛みを食ってくれたことも感謝してます。でも、覇嶺さんが俺の痛みを食うのを見るのは、それは俺が辛い」
「…じゃあ、痛みを返しましょうか……?」
「いや、それはいいです」
咄嗟に断ってしまった。
あんな格好をつけた手前、酷く情けないのだが。先程までの痛みを思い出すと、膝が震える。
ヘタレというか。チキンというか。クズだった。
「………。では、背中をさすっていてもらえませんか…?」
「分かりました。でも覇嶺さん、陣痛ですか?」
「陣痛は腰ですっ!」
いたたたたた…と再びうずくまる覇嶺さん。無理をして突っ込みをしなくていいというのに。真面目な人である。
その後しばらく――具体的には覇嶺さんが痛みを消化しきるまで――俺は覇嶺さんの背中をさすっていた。
というのは冗談で、いつの間にか尻を撫でていた。自分でも驚いたものだ。
「すみません、要くん。助かりました」
「いえ、とんでもない。こちらこそ。柔らかかったです」
「んん?何がですか?」
「ああ、覇嶺さんの服の生地の話です」
「そうですか。それはともかく、背中をさすってと言ったのに、途中からお尻をさすっていたのはどうしてですか?」
「はは、気付いていたんですか」
「そりゃあ、自分の体ですからね」
「俺は気付いてませんでしたよ。背中をさすっているつもりでした。覇嶺さん、随分尻の位置が高いんですね?」
「こら」
げんこつをもらった。