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異行  作者: yoho
その4
46/47

041

「おう、九里古里。お前はそっちへ逸れた方が身のためだぜ」


 身のためだぜ、とは大袈裟な。

 一足先に帰った中村に続いて、俺と九里古里も教室を後にした。流石にあの状況で九里古里を置いて帰るわけには行かなかったので、こうして途中まではご一緒しているんだけど。九里古里のアパートは、駅まで行くと遠回りというかただの無駄足だ。そこまで着いて来させるのは悪い。


「何その言い方。大丈夫だよ。外喰くんがちゃんと改札通れるか、見届けたいから」

「初めてのおつかいか!」


 馬鹿にすんなや!毎日通ってるわ!厳密には毎日ではないけど!


「いやいや、お前が大丈夫でも俺が大丈夫じゃないって。女子に送ってもらうわけにはいかねえよ」

「女子扱いに喜べばいいのかな。そう言うのなら、外喰くんが私を送ってってよ。アパートまで」

「はあ?嫌だよ面倒臭い」

「酷……」


 実際面倒臭い。

 もちろん、九里古里を邪険にして楽しんでいるというのもあるが。

 ただそれは本当に面倒臭い。

 この辺りに最近宮方や牙綺が出没するというのなら話は別だが(俺が着いていた方が逆効果なような気もするが)、別段そんな話はない。聞いていない。


「女子扱いって、お前は普段から女子扱いされてるだろ」

「いや、君に、という意味なんだけど……。それにね、言っても私、アブノーマルでない日常に慣れてきた頃だから。普通の女の子として君と接しているのが、ふと嬉しくもなってね」

「はあ」


 何だそれ。

 『繁栄派』を抜けて日が経った、ということを言っているのだろうか。何を今更。


「私を送るのが嫌なら駅まで私に送られてよ。というか着いて行かせてよ」

「何故だ。それでは俺の心に後味のよくないものを残す。お前とは――ここでお別れだ」


 ふっ、と笑った。


「何で優しく笑って言うのさ。泣きそうになるからやめてよ」

「格好いいかなと思って」

「いいもの見れた」

「やっぱり忘れろ」


 俺が九里古里の駅まで同行を頑なに拒否するのには、俺のわがまま以外にも理由がある。

 憂原やつり。

 あいつが駅で待ち伏せしている可能性があるからである。

 九里古里と一緒に歩いているところを目撃されて、何が困るということもないような気もするのだけれど。だけれどあまり見られたくないような。九里古里が一緒にいる時点で俺に絡んではこなさそうだけども。絡んで来たら面倒臭い。来なかったら来なかったで後で面倒臭そう。

 とにかく、九里古里と憂原を遭遇させたくない。少なくとも、俺の見ている前で。二人でガールズトークしてくれてる分には一向に構わないのだけれど。べつに二人とも俺の何というわけではないのだけれど。俺も二人の何というわけではないのだけれど。

 修羅場もどき……みたいな。嫌だなあ……って。思ってしまうのでした。


「どうだっていいんだ、そんなことは。お前はいいから帰りなさい。ほら、親御さんも心配している」

「私親御さんいないけど」

「それはごめん。悪かった」

「今更気にしてないって。あ、そうだ。私んち、今日、親いないんだけど……」

「黙れ」

「酷……」


 何故今だよ。誘ってんのか唐突に。


「まあ、今のは冗談にしてもさ。誘ってるんだけど。来ない?わりと本気で」

「いや、お前な。流石にお前、お前」

「ナニもしようとは言ってないけど」

「言わなくていいのに!」

「ただ、遊びにね?来ないかなって。明日休みじゃん。暇なの」

「俺には帰るところがある」

「何キャラなの……」


 自意識過剰もいいところと思わなくもないんだけど、何かあるよ。何かやるよ。絶対何かするよ。既成事実作成回だよ。

 などと。

 俺の人生にそんなドラマルートはないが。なくていいが。

 しかし、こいつの求愛活動への貪欲さは一体どこから来るというのか。

 愛に飢えているのか。

 取り戻すのか。

 この世紀末で(どちらかと言うと初頭に近い)。


「あれ、ねえ」


 九里古里が前方を指差した。


「あの車、やばくない?」

「はあ?」


 彼女が指しているであろう車は、見てすぐに分かった。

 赤信号の横断歩道にさしかかろうというのにも関わらず。速度が緩まない。一定の速度を保ったまま。

 この位置からでは、運転手がまともなのかどうか。意識が覚醒しているのかどうか。そこまでは分からなかったが、横断歩道を少女が渡っていることだけは、分かるのだった。


「お――」


 間に合う、筈もない。

 俺の立っていた位置から横断歩道まで10メートル以上はある。車の異常に気が付いてすぐに『腐喰の王コラゼブル』を発現させれば、間に合ったかも知れないが。

 そもそも俺は一歩もこの場から動いていない。動けていない。

 反応できなかった。どうすればいいのか分からなかった。

 平和ボケとでも、言うのだろうか。

 馬鹿言うな。

 俺は退役軍人か何かか。

 少女の体を跳ね飛ばして、車は止まった。


「お、おい……」


 駆け寄――らない。

 倒れて動かない少女に近付くことなく、俺は呟いた。

 車は止まったものの、運転手は出てこない。顔面蒼白……って、こういうことか。そんな、具合。


「大丈夫なのか……?大丈夫なわけないよな……今、あの、アレを。救急車を呼――」


 慌てる自分は、客観的に見ると滑稽だったろうか。

 まあ、それならそれで構わない。死ぬかもしれない人を目の前にして、慌てない精神力が、別段欲しいとも思わない。

 救急車を呼ぼうとして、携帯を取り出してから――厳密には、ポケットの中で掴んだ時点で、思いついた。

 背後に立つ九里古里に。


「……九里古里、お前の異能で直せないか」

「直せるよ。肉体の損傷は」


 頭部からの出血以外、服の上から分かる外傷は見られなかった。

 九里古里の『隷属回帰バニッシャー』ならば、この程度の怪我は数秒で直る。直すことができる。


「でも」


 九里古里はいつもの冷たい表情で続けた。


「直さないよ」


 何故か。


「直さない。『隷属回帰バニッシャー』は使わない。外喰くん、近付き過ぎない方が、触らない方がいいよ。取り返しのつかないことになるかも」

「だから、そうなる前にお前の異能で直してやればいいだろうが」

「外喰くん」


 俺の名を呼んで、九里古里は周囲をぐりんと一周見渡した。俺にも見ろ、と言わんばかりに。

 それほどの数ではないが、人が集まっている。事故を見ていた人も。事故に気付いた人も。何も知らない人も。


「今私がその子に近付いて、仮に傷を直したとして、私は怪しまれないかな」


 公衆の面前で、異能の力を使うリスク。政府直下の研究組織に拉致解剖されるということは流石にないだろうが、マスコミに騒がれたり、何だったり。

 それはもちろん分かるけれども。

 九里古里の異能は派手なエフェクトが出るわけでもない。今なら、この少女の血が頭部に戻る。それだけのことだ。幸い俺達が最も少女に近い位置にいるし、運転手はたぶん見ていても頭に入っていない。

 だから、直すだけ。できる筈。やっても問題ない筈。


「そうだね。確かに、私がその子に触れればその子の怪我は直すことができるよ。意識が戻るかどうかは分からないけどね。そうすることでその子は事故にあってない。運転手は人をひいてない……は、無理か。人に怪我をさせてない――或いは、殺してない。そんな事実が出来上がる。だけどね外喰くん。私は、見知らぬ他人の命を異能で救うつもりはないよ」


 九里古里は、そんなことを言った。


「救急車くらいは呼ぶけどね。それは、今君がしようとしてるから、私はしないでいるけど、君がそうやって手を止めているなら、私が救急車を呼ぼう。か、と、思ったんだけど。既に呼んでる人がいるから、やめとこうか。事情聴取とか、面倒だしね」


 何故だ。

 人に見られるのが嫌なら、集まる前にすぐ直してやればよかった。

 見知らぬ他人のために使うのが嫌なら、どうして俺の妹を助けた。

 九里古里千切は、そこまで冷徹な人間だったのか。


「冷徹かあ。君に言われると、胸に刺さる言葉だけど。まあ、そう思うならそれでいいよ。君の妹さんを助けたのは、君の妹だからだよ。見知らぬ他人ではないから。ただの点数稼ぎ」


 わざと冷徹振ってそう言った。


「手の届く範囲だけでも助けたいだなんて、甘くて優しい主人公みたいなことを、私は言わない。これまでの私がどうしてきたか君に語る必要もつもりもないから何も言わないけど、『繁栄派』にいたってことが、今の私が出来上がった要因にはならないかな」


 血生臭い使われ方しか、しなかったのだろう。『隷属回帰バニッシャー』は。

 俺が知る限りでも、九里古里は宮方由紀次朗と組んでいたのだ。宮方の標的の傷を直し、万全の状態で殺させるとか、負傷した宮方の傷を直すとか、とにかく、戦うために使われてきたのだろう。

 今自由に『隷属回帰バニッシャー』の力を使うことができたとして、九里古里は、その力を好むのだろうか。


「君や、君の家族、私の友達のために使うなら、全然構わない。でも私は、日常を生きる上で、この異能に頼りたいとは思わない」


 九里古里の考え方は、限りなく『粛正派』のそれに近い。

 『繁栄派』に入らざるを得ない状況だったのだとは、聞いている。詳しいことは知らないが、九里古里に選択の余地がなかったということだけは、俺でも分かる。

 嫌いなのだ。

 自分の異能が。

 自分が『繁栄派』に利用され続けた理由だから。

 半ば、というよりほぼ完全に『繁栄派』を受け入れていたようにも見えた九里古里だけれど、いざこうして離れて数ヶ月。『繁栄派』の外での日常を知れば、そんな過去の自分を忌むこともあるのだろう。

 溶け込んでいたようにも見えたのだが、人間、そう単純なものでもない、ということなのだろうか。


「あの子、助かるといいね。これは本心だよ」

「そうだな」


 俺には、ただのわがままにしか思えなかったが。

 これは、俺の経験不足なのか。思慮不足なのか。

 確かに、事故現場に居合わせても、見て見ぬ振り。精々心中お気の毒。救急車だって、誰かしら呼ぶだろう。今回だって、俺以外の誰かしらが呼んでいる。それが、俺のやり方だ。生き方と言ってもいい。

 だけれど今。さっき、俺が被害者の少女を助けようと、少しでも思ったのは、異能の力があったからなのだ。得たからなのだ。

 俺にでも、誰かを助ける力があると分かったからなのだ。

 それを証明してくれたのは、他ならぬ、九里古里千切だったのだけれど。


「あんまり深く考えない方がいいよ。そのうち君が潰れてしまう。君にとって異能の力はまだ、非日常で、超常だ。それが日常になるには、君はまだ経験が足りない。凄惨が足りない。さっきの事故も、君にはどうしようもなかった。考えていても辛いだけ。見て見ぬ振りして、忘れた方が、言われはどうあれ君は楽だよ」


 まあ。

 と、九里古里。


「そういうヘタレで中途半端に優しいところも、好きなんだけどね」


 今言うな、そんなこと。


「さて。救急車はすぐに来るだろうし、いつまでいたって邪魔になる。私達は帰ろうよ。というか、私んちにおいでよ。もてなすからさ」


 急にすとんと、(変わらないようにも思えるが)軽い口調になった九里古里。俺の緊張も、何となくほぐれた。


「よせ、九里古里。お前はそうやって俺を自室に招き、自慢の胸や足を見せ付けて俺を魅了しようって作戦なんだろうが甘いぞ。俺はそんな罠にはかからん」

「しないしないしないって。自慢でもないって。だけど、その言い分だと、効く?その作戦」

「効かない効かない」

「効かないの?」


 そっと俺の手を取る九里古里。


「効かない」


 そっと俺の手を自分の胸に弱く押し当てる九里古里。


「効いてない?」


 だんだんと押し当てる力が強くなる。


「効いてない」


 俺はしっとりと腰を落とした。


「何でしゃがむの?」

「足を挫いた」

「歩いてないよね?」

「さっき挫いてた」

「治してあげる」


 その場にしゃがみ込んだ俺を――俺の顔をか。覗き込むように屈む九里古里。

 あー谷間見えるー。がっつり見えるー。

 顔前に。いや眼前に。九里古里の豊満な乳房が、豊かなお胸が、ツインクションIラインが。


「お前、お前っ!こんな公衆の面前でっ!」

「今は人通りそんなに多くないし、誰も見てないよ。そんなに変なことをしているわけでもないし」

「いやさっき思い切り俺におっぱい触らせてただろ」


 無視である。

 屈み、そして九里古里もしゃがみ込む。片膝は地面に着き、もう片膝は身体の前で折り畳む。その膝の上に丁度、おっぱいが乗っかる。


「何してんだおっぱい星人!」

「わざとじゃないよ」

「じゃあ膝から乳を降ろせえ!」

「騒がないでよ、恥ずかしいから」

「お前の羞恥心はどうなってんだ!」


 無視である。

 しばらく膝おっぱいしていたと思ったら(もちろんガン見していた)、そういえば俺の挫いた(挫いてない)足を治していたらしく、そうしてそれも終わったらしい。


「……見た目には分からないけど、治った?もう痛くない?」

「お、おう。悪いな」

「どういたしまして」


 すっく。

 九里古里が立ち上がる際に。

 彼女の胸の谷間が服越しに、俺の顔面を舐めていった。

 すっく。たるるん。

 そんな感じ。


「どうしたの外喰くん。もう大丈夫でしょ?立たないの?」


 何だよこいつ。発情期か。

 完全に分かっててやってるし、言ってるよな。故意だよな。計画スケベだよな。


「ええと、急に腹が痛くなってな。姿勢を起こすと痛み出す」

「この間も盲腸とか言ってたよね。それに確か、救急車に乗ると四散して死ぬんだっけ」

「何だそのスプラッターギミック」

「君が言ったんだよ」


 そうだっけ?


「だったら、私んちで休んでく?痛みが引くまで」


 もしくは――と、続けて九里古里は言う。


「すっきりするまで」


 夕焼けに照らされ火照ったように赤い九里古里の頬が、妙に――真っ当に色っぽく見えた。

 こんなところで誘惑に負ける俺では。

 同級生の好意につけ込んで行為に至る俺では。

 ない筈だ。

 母さんの裸、母さんの裸、母さんの裸、母さんの裸、母さんの裸、母さんの裸、母さんの裸…………。


「いや、そんなことはしない。俺はこの足で、家に帰る」


 大地を踏み締め、俺はそう言った。

 二本の足で、直立したまま。股間はもう、大人しくなっていた。











「ちょ、何ですかぁ……?何なんですかぁ外喰さぁん……」

「危なかった。本当に危ないところだった」


 憂原の胸を凝視しながら、俺はそんなことを口走った。

 最後方から二番目の車両内、他の乗客はなし(夏の時期にこうも空いているのは珍しい)。揺られる電車の中で、俺は揺れない胸を拝んでいた。

 九里古里と分かれた後のことである。


「あのぉ……何かあったんです?」


 案の定俺を待っていた憂原と合流し、一緒に空いてる車両を探して乗り込んだのだ。


「俺は巨乳に対抗するすべを身に付けなくてはいけないかもしれん。今まで味方だと思っていた巨乳に対してだ。愛すべき存在であった巨乳に対して、だ」

「はあ。巨乳にですか」

「かと言ってそれは巨乳と敵対するという意味ではないからな。愛すべき存在であることに代わりはないが、俺もなす術なしの無担保安心コースじゃいられないってことだ」

「それとあたしの胸をガン見するのに何の関係があるんでしょう」

「ああ、さっきまでがそう、でか過ぎた……!」


 俺の真剣な悪ふざけに構うことなく、何故か憂原は不機嫌そうに。


「誰の胸をそんなに見てきたんですか」

「誰の胸ってお前……。日常でそうそう言わないような台詞を吐きやがって」

「そんなにおっきかったんですか」

「そりゃもう」

「…………あの、あのね……?あたし、そこまで小さくはないですよ?」

「……あ?」


 突然意味の分からないことを言い出す憂原。猛暑が引いて油断したところ、残暑に頭をやられたか。かわいそうに。


「だから、そこそこありますよって」

「あのなあ憂原、こういうのは自己申告制度でやってないから。公正委員会が取り締まってるもんだから、お前がいくら妄言垂れようと、お前のA判定は覆らないんだぜ?」

「A判定って、聞こえはいいんですけど。いや、あの、外喰さん。マジで。自慢じゃないけどあたし、結構ありますからね?たぶん、男の人には分からないでしょうけど、ましてや制服の上から見てるだけだし」

「いやいやいやいや、見栄張んなって。ミハエルかって。そりゃお前の願望を語るのは勝手だが、今はそんな夢の話をしてるんじゃねえよ。俺は真剣に巨乳対策を考えているんだ」

「いやいやいやいや、外喰さんってば。さっきまでどこのどいつの胸を見てたのか知りませんけど、その人がそんなにでかかったからって、何であたしの胸を見るんです?」

「上手く言えないけど箸休めだよ」

「一息で言い切らないでください。じゃあ何ですか。ちっぱい見て落ち着いてるって感じですか」

「分かるかね」

「えい」


 実は憂原の制服のネクタイに、鼻が触れるほどの至近距離でこれまで会話を続けていたこの外喰要だが、なんとこの時『えい』という馬鹿みたいな掛け声と共に、憂原っぱいとの距離が布地のみとなった。つまりこう、ぎゅって感じ。


「どぉですかぁ?案外ありますよね?着痩せするタイプ?みたいな?」


 着ても脱いでも痩せてるよ。

 しかしまあなんだ。膨らみが分かる程度には。確かにそこには双丘が、存在しているのであった。

 だが、いくら他に乗客がいないとは言え、他の車両から空いているこの車両へ移ってくる人がいないとは言い切れないし、流石にこの体勢はまずい。

 言わなくては。

 離すんだ憂原。一旦落ち着け。


「むほぉぉぉぉぉぉ……んはぁぁぁああああ……」


 密着していたがために、上手く発音できなかっただけです。息苦しかったから、呼吸が深くなってしまっただけです。


「あはっ……外喰さん、駄目ですよぉ?こんな所でぇ……」


 何だ?

 柔らかい?

 左の頬に、柔らかい感触。

 俺の頭部を押さえつける憂原の腕の拘束が、一つ減ったことは分かっていた。奴は左腕で俺の頭部を抱え込み、右腕で。どうしたというのか。

 あろうことか、自らの右乳を腋の方から肉寄せ皺寄せかき集め、俺の左頬へと白波のごとく押し当てたのだ。

 乳房のコントロール?

 もちろん知っていた。胸が揺れることは知っていた。何らかの映像作品や、日常でも服越しであれば、その揺れを目の当たりにしたことがある。だから知っていた。

 妹の胸を揉んだこともある。揉める程度にはある。だが、妹の胸にさほどの興味がなかったばかりに、その機動性、駆動性、可動性について俺は追究しなかった。ただ揉んだだけ。ただ、それだけ。

 だから知らなかった。

 貧乳の動力について、俺は知らなかったのだ。

 貧乳は――動く。


「あのさあ」

「んうっ、外喰さん、何ですかぁ……?」


 俺が唇を動かすと、息を吐くと。びくんと一つ、小さな体が震えた。


「憂原、お前、何カップ?」

「……Bですけど」


 B……って、どうなんだ?でかいのか?小さいのか?というか何だ?

 それすらも、もう分からなかった。


「え、いやいや、お前そんなこと言うけどさ、Bカップってこんぐらいだろ?」


 俺は手でお椀を作る。虚空を揉む。


「だからぁ」


 圧迫貧乳が終わったと思うと、右手首を掴まれる。そろりそのまま、右手は憂原の左乳へと移動された。


「このくらい」


 ……楔と同じか、やや小さい……?うん、小さい。楔の胸も服越しにしか揉んだことはないから、イーブンの筈。誤差はそこまでないと考える。してこの評価。

 B?これがB?じゃあ楔もB?クソッ、楔のサイズはどうでもいい!

 というか俺は何をしてるんだ。

 電車内で女子高生の胸に顔を埋めながら揉まずともその胸をしかと掴んでいる。

 何をしているかは分かってるんだけど!そうじゃないんだけど!何でこんなことを!


「何してんの?」


 突き飛ばされた。

 憂原にだ。

 ボックス席の背もたれに、勢いよく背中タックルをかましてしまった。


「そ、外喰さんだだい大丈夫ですよ!?何ともなってませんよぉ!?」


 真っ白い顔を真っ赤に染めて、憂原が弁解をしている。

 突如として声をかけてきた――余口初古に対してだ。とは言っても、俺に語りかける形で話しているから、初古に対して、と言うのも何だか変だけれど。

 何ともなってない……って、何だ。


「ほ、ほらっ、ささっきさっきアパートの三階から煉瓦を落とさられられたって言ってたじゃないですかぁ!?」


 噛んでる、噛んでる。


「あっ煉瓦じゃないや!花壇を落とされたってほら!ね!?言ってましたもんね!?」


 俺の頭部に落下物という話か。もちろんそんなのは嘘っぱちだが、俺の頭部を胸に近づけて観察している状況を自然に説明するために、憂原はこんなことをのたまっているのであろうことは、俺にも分かる。

 煉瓦だったらたぶん俺は命を狙われているし、花壇だったらそのアパートの住人はベランダで何をやってんだって感じだが、恐らく憂原が言いたいであろう鉢植えを落とされていたとして、三階の高さじゃ俺死んでるだろ。


「元気ねやつり。こんなに喋ってるの初めて見たわ」

「あ、あれっ?余口さんっ?こんにちはっ?」

「もうこんばんはじゃない?」


 あたかも。

 あたかも今気付いたかのように初古に接する憂原。無理があるよ。


「よう初古。何やってんだ」


 意外と冷静な俺だ。


「買い物帰りだけど。荷物整理するのに、空いてるボックス席ないかなって、探してたの。何、あんた達、仲よかったのね」

「おう。まあ、そこそこな」


 初古は、ドラッグストアの買い物袋を手にぶら下げている。

 俺は、玉袋を股間にぶら下げている。

 後半はどうでもいい。


「ここ、いーい?」


 隣に座ってもいいかしら?という意味である。

 お前空いてるボックス席探してたんじゃねえの?まあいいけど。断る理由もない。


「ありがとねー」


 ぽす、と、初古が憂原の隣に座る。

 仲いいのか?いや、でも、憂原は子ども嫌いっつってたよな。


「ねえ、外喰、怪我したの?大丈夫?」

「うん?ああ、大丈夫大丈夫」


 してないから。


「『腐喰の王コラゼブル』状態だったら屁でもないでしょうけど、素だと流石に危なくない?3階から花壇は」

「花壇じゃなくて鉢植えだよ。信じるなよ」


 一体どんな絵面を想像してるんだよ。大惨事だよ。


「わ!というかやつり、顔真っ赤じゃない!どうしたの!?」


 汗だくで俯いている憂原の顔色に、ようやく気付いた初古だが。


「あ、外喰にセクハラされたのね」

「おい」


 否定はできないけど、どちらかというとセクハラして来たのそいつなんですけど。


「違うの?」

「違うわ」

「よく見たら凄い汗じゃない!大丈夫?熱あるんじゃない?」

「…………」


 構わないで。と言った感じ。


「だ……大丈夫ですよぉ……問題ないですぅ……。あ、あたし、結構汗っかきなのでぇ……あ、暑いなぁー、ここ……」

「冷房の効いた車内でその汗は異常だと思うけど……。タオルとかないの?拭いてあげるわね!」


 初古のお節介。憂原のタオルの有無も確認せずに、ワイシャツの胸ポケットからハンカチを取り出し、憂原の顔に近付ける。


「大丈夫ですって……平気でむんぶっ」

「気にしないで!仲間でしょ!私を頼りなさい!」


 面白い図だ。

 憂原の鬱陶しい前髪が上がったり下がったり。一生懸命初古から目を逸らしているのが見えた。

 それと、初古が動く度に、彼シャツ状態のワイシャツの裾から、パンツが見えそうで見えない。気になってしまうのでした。

 あーあー。年下の女の子に顔拭かれて。恥ずかしいというか羨ましいというか。

 しかし待てよ。医師になれば、合法的に、寧ろ立派に年下の女性に顔を拭いてもらえるのではないだろうか。何てことだ。医師は全員変態か!

 あ、でも、年上のナースっていいなあ。いや、そもそも手術の助手ってナースなのか?よう分からん。

 などと考えている間に、向かいでの作業は終わっていた。


「そういえば、二人で何話してたの?というか何話すの?仲いいんでしょ?」

「何を話すか聞かれてもな。他愛のないことだから説明するのは難しい。強いて言えば今はおっぱ――」

「外喰さぁん!」


 憂原の裏返りシャウト。俺の声はかき消された。


「……とは、あ、死生観とか、語りますよね……?」


 お前とそんなものを語った覚えはない。

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