鴉枕
嫌煙者の言い分は分かる。
臭い、とか。煙い、とか。気分が悪くなる、とか。肺が汚れる、とか。飯が不味くなる、とか。格好付けていて馬鹿みたい、とか。なんかもう嫌、とか。
JTがマナーだエチケットだと、CMだ広告張り紙であたかも嫌煙者の味方をするかのように口うるさく謳っているのが、喫煙者の立場を守るためだというのも分かる。
喫煙が理由で身体に障害を来した人間もたくさん見てきた。結果命を落とした人間も見てきた。
マールボロマンことウェイン・マクラレンの主張や人生を考えると怖気が走る。
仲間内でもよく言われる。
臭い。やめろ。よそで吸え。ガンになるぞ。バタコ。
煙草を吸うことで周りの人間が少なからず迷惑に思うことも分かる。
しかし俺は一般的に見て、社会的に見て、悪人であるのだから――犯罪者であるのだから、実際この手で人を殴り潰し殺しているのだから。煙で回りくどく殺したところで、今更反省するつもりもない。
とは言え俺も煙草で死にたくはない。
だが吸う。吸い続ける。
死ぬまでは。
「ねえ、煙草っておいしいの?」
興味本位だろう。
煉瓦色の癖っ毛を無垢に無邪気に揺らしながら、余口初古は俺の右手の指先にあるマールボロを見ながら、そう問いかけた。
「うまくはねえよ」
「一本もらってもいい?」
吸いたいのならば吸えばいい。俺にこのガキの健康を守る義務はない。1本だけ煙草を取り出し、初古に差し出した。
嬉々として受けとったものの、すぐに吸おうとはせず、火を点けようとはせず、両手でこねくり回しながら四方八方からマールボロを観察している。
そのうち、口に咥えたかと思うと、これみよがしに俺に向かってその様子を見せ付けて、『どう?』とか『様になってる?』とか、そんな表情をしている。目障りだった。
「どう?様になってる?」
言いやがった。
こいつの考えていることを言い当てた(言ってはいないが)ことで得意になるというよりも、こいつと同じ思考ができてしまった自分を、少しだけ嫌悪した。
「なってねえよ。吸わねえなら返せ」
「え、吸うの?返したら吸うの?これ……」
「問題あるのか」
「だって……その、か、間接……」
俺は今年で42歳、立派な中年になるが、間接の痛みはない。というか特別身体に痛みはない。
これは初古を含む『繁栄派』の連中にも言っていないことだが、『孤独の亡骸』には治癒能力がある。九里古里の『隷属回帰』や外喰の『腐喰の王』ほどの効果はない。元々頑丈なのでその治癒能力を発揮する場面も少ない。が、確かにある。恐らく俺は、喫煙が理由で死ぬことはない。
「間接キスになるじゃない!」
何も言わずに初古の手から煙草を取り上げた。
「ああっ!待って!返して!吸う、吸うから!」
軽く舌打ちして、返した。
「ライター貸してよ」
軽く舌打ちして、コンビニで買った安いライターを手渡した。フリント式の。
「あれ?火、出ないわよ?」
「ガスだけ出してどうする。やすりが見えねえのか」
「やつり?やつりがどうかしたの?」
「憂原は関係ねえ。その……くるくるするヤツだよ」
「あ、ああ、これ。これね。回すタイプね!」
くるくるだなどと、不覚にも腑抜けた言葉を遣ってしまった気がするが、誰も気にしていないので、俺も気にしないことにした。
ジッ。ジッ。ジッ。ジッ。
「枕ぁ、点かない……」
「貸せ」
初古の手から、今度はライターを取り上げた。
「咥えろ」
「こ、こう……?」
「歯を立てるな」
立てても問題はないが。
「ほうかひら?」
間抜け面になった初古の口先にある煙草の、更に先端。ライターの火を接触させた。
「吸え」
「あっつぅ!」
「何で鼻から吸うんだよボケが。何のために煙草咥えてんだ」
鼻に熱を感じたのだろう。思い切り仰け反った。火傷はしていないみたいで何よりではあるが。
「仕方ないじゃない!初めてなんだから!……もっと優しく教えてよ」
「丁寧に教えてるつもりなんだけどな」
丁寧であることと優しいことが同義であるとは、思っちゃいない。いいように言葉をすり替えて俺は反論した。
「今度はお願いね」
落とした煙草を咥えなおして馬鹿が言う。
こっちの台詞だ。
「落ちたヤツじゃねえか。もう1本やるよ」
「いいわよ、これで」
本人がいいと言うのならいいのだろう。それ以上は干渉しないことにした。
「点けるぞ」
「うん」
「吸え」
「うっ」
案の定。
「うぅぉぇっほぉ!げっほげほおええっ!」
汚え。
季節はもう夏に入った。窓を開ければ蝉の声がうるさい。耳障りな時期だ。暑いと言えば暑いのだが、異能の力の効果により寒暖に強い俺は毎度のようにワイシャツベストスラックススタイルを変えることはない。世間はもう夏服ムード、なのだろうか。『繁栄派』アジト内部、寮棟最上階の鴉枕の自室で、余口初古は涙と煙を振り撒いた。
「あー……。おえー……」
「大丈夫か。だからやめとけと言ったんだ」
言ってないけど。
「……お、おいしいわね」
「うまくはねえだろ」
「私も煙草吸い始めようかしら」
「好きにしろ。煙草吸ってる女は、好きじゃねえけどな」
「やめるわ」
初古が口から落とした着火済みの煙草を、よく燃えそうな羽毛カーペットに着地する前に素手で受け止め握り潰した俺は、座っていた椅子から部屋の入り口近くにある冷蔵庫へと歩み寄る。そのまま中からカフェオレを取り出す。俺は無糖もしくは微糖のコーヒーしか飲まない。だというのにも関わらず、俺の部屋の冷蔵庫にはカフェオレが常備されている。残念ながら毎回毎回買い足しているのは、他ならぬ俺である。『コーヒーとミルクのやさしいハーモニー』でお馴染みのあのカフェオレを、涙目の初古に投げ渡した。
「これでも飲んでろ」
そしてそのまま外へ出た。
「ねえねえ、鴉さん。何か私にしてほしいことないっすか?」
「寝てろ」
部屋から出て修復中のロビーを避け、非常口から外へ出ようとしたそのタイミングで、麻柄々に捕まった。どこかで聞くような聞かないような、そんな台詞を吐き出しながら、麻柄々はニヤついている。
何が目的だ。
「寝てろと言われても、まだ昼過ぎだよ鴉さん。鴉さんは若者に怠惰に過ごせなんて、そんなことを言う大人だったっけ?」
「好きに過ごせばいい。俺は何も止めやしねえ。何か用か」
「そうそう、そうなんだよ。鴉さんにお礼がしたいなーと思ってさ」
「覚えがない」
何かこいつに礼をされるようなことをしただろうか。最近の出来事をぼんやりと思い出そうとしてみるが、歳のせいもあるのだろうか。いまいち出てこない。
「悪者振ってるわりに人助けをしちゃうのが鴉さんなんだなー。そのうえ助けたことを忘れちゃうのも鴉さんなんだなー。鴉さんって、案外ヒーロー気質なのかもしんないね。初古ちゃんはこういうところに惹かれたんじゃないの?」
「何言ってんだ。ぶん殴るぞ」
「ごめんなさい。冗談っす。許してください」
ふざけたことを言う奴だ。
「あの、つまりさ、要ちゃんが特攻かけてきた時に、助けてくれたじゃないっすか。だから、その時のお礼」
思い出した。
麻柄々は外喰の『腐喰の王』が生み出した大量の蝿に内臓を食い破られていたのだ。とは言え、あの時俺は侵入者――というか外喰の様子を見に行っただけで、麻柄々を助けに行ったわけではない。そもそも麻柄々を頼む――と、(癪ではあるが)外喰に言われたのだ。俺は九里古里の所までこいつを運んだに過ぎない。
「思い出したが。お前、治った時に礼なら言ってたじゃねえか」
「鴉さん……。私がお礼を言ったのちゃんと覚えてるんすね」
「殺すぞ」
「ごめんなさい。何か私悪いこと言ったでしょうか」
「黙ってろ」
麻柄々は黙った。3秒ほどのことである。
「まあ鴉さんがお礼はいらないって言うんなら仕方ないね。それじゃあ遠慮なく私のお願いを聞いてほしいんすけど」
「何でだよ」
「いやねいやね、私は元々鴉さんにお願いがあったのよ。でねでね、ものはついでと思ってお礼をしに参りましたよ」
ついでかよ。
「鴉さん。煙草、1本ちょうだい」
「これか?べつにうまいもんじゃねえぞ」
「知ってるよ。私吸ったことあるし。たまーに。たまーにね、吸いたくなるの。まずいけど。でもね、時々悪ぶりたくなるんすよー」
「煙草を吸うことで悪ぶれてると思ってるうちは可愛いもんだな」
「鴉さん今私のこと可愛いって言った?初古ちゃんが怒るっすよ?」
麻柄々の顔面目掛けて拳を突き出した。つまりはパンチをした。
もちろん、当てるわけはない。寸止めである。
「っはあああー……!びっくりしたー!死ぬかと思ったー!」
「まあ、当たれば死ぬだろうな。お前なら」
「全身凶器みたいな人っすねーもおー」
「細かく言うなら全身鈍器かな」
「鴉さんパンチで人体貫通するもんね。鉄骨落下事故かよって思ったもんすよ」
「悪気なく人から事故と呼ばれるのはなかなか辛いものがあるな」
俺の戦闘スタイルに関しては色々と言われることがある。
外道極道修羅道等。
これは言う必要も価値もないくだらないことだが、若い奴にお仕置きをしている最中、喰らいながら『鴉さんのアイアンクロー、ガチでアイアンクローじゃないですか』と言った奴がいたので、少し血が出るまで握撃しておいた。そんな過去の話。
「ほらよ」
「ありがとー」
差し向けた箱から、麻柄々が一本の煙草を取り出す。俺はようやくアジトの敷地外へと歩き出す。
「いやいやちょっと鴉さん」
麻柄々を振り返らずに足を止めた。
「火、頂戴よ」
「『高圧縮衝撃炸裂弾甘美』使え」
「あの炸裂弾、火は出ないし、私の腕ごと煙草が弾け飛ぶんすけど」
100円ライターを後ろへ放り投げ、俺は再び歩き出すことにした。
「あら?あらあら?あらららら?」
耳障りな声が聞こえた気がしたが、それは言葉の通り気がしただけで、またも言葉の通り気のせいだったようだ。
街灯に照らされた駅前の大通りを俺は闊歩する。
夜中というほどではないが、最近大分伸びてきた日も今ではすっかり落ち切っている。そんな時間帯だ。言ってしまえば9時前だ。
用もなくこんな中途半端な時間に外へ出たわけではない。仕事というか、仕事に関係することなので、つまりは仕事でいいのか。仕事である。
「あららららららららー!!」
「うるせえな。どこの蛮族だお前は」
気のせいではなかった騒音に――騒音の主である仕宮環瑚玖に、俺は苛立つ風でもなく自然に対応した。
「蛮族じゃありません。淑女です」
「おう仕宮。これやるよ」
ポケットから財布を取り出し、仕宮に一万円札を差し出した。
「お金?くれるんですの?何で?どうして?」
「広辞苑で淑女の意味を調べてこい」
「一万円くらい持ってるし広辞苑も持ってるし淑女の意味を調べるのにわざわざ広辞苑を買う必要もないし淑女の意味くらい知ってます」
「だったら二度と誤用するな。言葉に失礼だ」
「あなたこそ失礼の意味を調べ直した方がいいんじゃありません……?」
「その必要はねえよ。馬鹿に馬鹿と言って失礼になるというのか」
「なりますよ。失礼と言うのはですね、礼を失うと書いて失礼なのです。清く美しい日本の文化では、虚飾も礼儀の一つなんですのよ」
「なら日本人らしい格好しろよ」
「見た目をどう飾り立てようと、日本人の心は忘れていませんわ」
「すっぴんはベタベタな日本人顔だもんな」
「すっぴんの話はやめてください!」
「髪色が目に痛過ぎる。化粧濃過ぎる。香水つけ過ぎてる。全体的にきつ過ぎる」
「メイクのことを悪く言うのもやめてください!」
「褒める所ねえな」
「あなたに褒められても嬉しくありませんし……」
「胸がでかい」
「セクハラですわ」
自覚はある。
あればいいというものでもない。
「仕宮」
「何ですの鴉さん」
「何の用だよ」
声を(執拗に)かけてきたのはこいつだ。世間話をするという間柄でもないし、そもそも顔はしょっちゅう合わせるし。今何らかの用件があって、俺にちょっかいをかけてきたのだと、そう判断した。
「…………何でしたっけ?」
「おいババア」
「ばっ、ババア!?ババアって!あなたが話を逸らすから忘れちゃっただけじゃありませんか!というかあなたにババア呼ばわりされたくないですわ!私まだピチピチの24歳ですから!」
「厚化粧は肌の老化を促進させるぞ」
「うるさいですわね!それこそあなたに言われたくありません!どうせお肌ガッサガサでしょうに!」
仕宮が俺の顔に向かって手を伸ばす。俺はその手を叩き落す。
「痛い!」
「許可なく触るな。殺すぞ」
「流石鋼鉄の男ですわね……。油断も隙もあったもんじゃありませんわ……」
そんな通り名は聞いたことがないが。それに、油断も隙もあったものじゃない、というそれ。お前が油断もできない隙も作れないではなく、俺に油断もない隙もない、という意味で言ったのか?
「あなたの肌なんてべつに触りたくもないけれど、触らせてください」
「許可する」
「ありがとうございます」
「礼はいらん」
仕宮の細指が、俺の頬に触れる。触れる。触れる。
次第に仕宮の表情が、驚愕のものへと変化していく。
「な、何ですの……この張り……!本当に酒と煙草と喧嘩に溺れた40代男性のお肌……!?物凄い剛弾力……!」
「そろそろ離せ」
剛弾力。何だそれは。勝手に言葉を作るな。
「うわ……うわあ……負けた……。完敗です。私の負けです。どうぞお好きにババア呼ばわりしてくださいませ……」
「ババア。騒音ババア。『地獄々落』おばさん」
「やっぱりやめてください……。泣きそうになって参りました……。あとババアよりおばさんって言われる方が傷付きます」
などと言いつつも、俺にとっちゃあこいつも背伸びしたガキにしか見えねえんだが。
「仕宮よ。俺も暇じゃあねえんだよ。用件があるならさっさと思い出せ。そしてさっさと言え。時間がかかるなら場所を変えようぜ」
「待ってくださいな。今のは完全に私が話を逸らしましたし、お肌の張りで完敗しましたので強く言うことはできませんけれど、ちょっとお待ちくださいな。場所、移しましょうか。どこかお店でいいですか?」
「任せる」
「禁煙でいいですわね?」
「ふざけるな」
「真面目に言っています。煙草の臭い嫌いなんです」
「知ってるよ」
「性格悪いですわね」
「自覚はある」
「というか、べつに煙草が吸いたいなら今ここで吸えばいいじゃありませんか」
「灰皿がねえだろ」
「エチケットを弁えた男性みたいなこと言ってますけれど、あなたアジトで平然と歩き煙草されてますわよね?」
「アジトは俺の灰皿だ」
「スケールの大きなクズ!」
『繁栄派』はクズの集まりだ。クズにクズと言われたところで何も思うことはない。
クズ共が副流煙で健康に害をきたしたところで、何も思うことはない。
「あ、そうそうそうでした。クズで思い出しましたわ。今度の任務のことなんですけれど」
「どんな任務だ」
クズから連想されるのか。碌な内容じゃねえな。
「『粛正派』強襲の件なんですけれど」
「お前が『粛正派』の連中をどう思っているかは分かった」
『繁栄派』がクズなら『粛正派』もクズ。どっちもどっち。似たもの同士。同じ穴の狢。
「ほら、私ったら先行隊じゃありませんか」
「先行隊というか、お前一人だけどな」
「じゃありませんか。向こう方の幹部の情報を聞きたいんですの」
「資料に載ってるだろ」
「あの資料、誰が作ったのか知りませんけれど、余計な情報ばかりだったじゃありませんか。好きなブランドとか、プレイしているMMORPGのキャラクター名とか、母親の旧姓とか」
「スリーサイズなんかも載ってたな」
「それは必要ですわ」
「男のは載せる必要ねえだろ」
それは確かに、と頷く仕宮。
「『縁結び影縫い』の流班銀色と『火葬大焦』の三竺叉門は私も戦ったことがありますの。というか勝ちました。のしてやりました。あなたも数人、交戦経験がありましたよね?」
「ああ。お前の言う流班銀色と、あとは伐山跋沙、新国相次とかいうヤツだな」
「新国さんというのが噂の新入りですわね。何だか覇気のないっていう」
「確かに覇気はなかったように感じたが、覇気がなくとも異能が強力な例はあるからな。外喰とかよ」
「楔さんは異能使いではありませんでしたけど、可愛いですわね」
「外喰妹の話はしてねえ。外喰要だ」
「むう。この間まんまと遅れを取りましたからね。鴉さんも。鴉さんもね。私だけじゃなくてですね。悔しいですが、強力なことは認めましょう」
「新国の奴がどういった異能持ちなのかはさっぱり分からんがな」
「それより、伐山さんは、女の子でしたわよね?どうでした?どうですか?可愛かったですか?」
「いやべつに」
「そうですか……」
こいつの好みがいまいち分からないが。
「まあいいでしょう。詳しい話は署で聞きますわ」
「あ?」
「間違えましたわ。お店。お店で聞きます」
「喫煙な」
「嫌です。煙い。臭い」
「俺から話を聞きたいんだろう。譲歩すべきだと俺は思う」
「お金は私が出しますったら」
「金の問題ではない。それにお前、吸ったことあるだろうが」
「その話はやめてください。と言いますかね、その事実を出すのならばこちらも言わせて頂きますけれど、吸ったうえで嫌いなんです。吸ったからこそ嫌いなんです。分かります?お分かり?お分かりにならない?馬鹿?」
仕宮の頭を少々強めに掴み上げた。俺の親指と小指が、丁度仕宮のこめかみに来るように。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
仕宮が口を開く――と、同時に、俺の頭の中に甲高い轟音が響く。
陳腐な表現をすれば、キーンとした。
手を離し、頭を抑えて蹲る仕宮に文句を垂れる。
「うるせえな、おい。俺でなければ鼓膜が破れるどころかショック死していた」
「いや、大声で謝った方がいいかと思いまして……」
「何言ってんのか聞こえねえ」
大声にも限度がある。くだらないことに異能の力を使うんじゃねえ。
「聞こえない?聞こえませんの?」
「あ?何だって?」
下唇にのみ黒い口紅を塗りたくった口元をにんまりと、仕宮は笑った。
「ばーか。ばーか。煙草やめろっ」
仕宮が何を言ったのか正確に理解したわけではないが、とりあえず拳を握って右腕を振り上げることにした。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
「謝れば何でも許してもらえるほど世の中は甘くはない。大人になり切れないお前を、どれ、俺が大人にしてやろう」
「え?嫌です。一体どうして何が悲しくてあなたなんかに私の純潔を捧げなければなら――」
殴った。
「つうっ…………!」
と、俺に殴られた箇所を両手で押さえながらその場に蹲る仕宮。その頭を膝で軽く押してやると、抵抗もなく背後に転がった。こてん。少々常軌を逸して間抜けな様子である。
腹筋運動に飽きて変な体勢で遊び始めた奴みたいな格好のままで、仕宮が何か言う。
「絶対禁煙のお店にします」
「分かったから早く立て。俺まで恥ずかしいだろ」
人の往来がそれほど多いわけでもない。というか既にこいつが騒いでいる時点で俺まで恥ずかしいのだが。
仕宮がゆっくりと立ち上がる。
「今度から私の傍で煙草吸ったらスーパーソニックキャノン撃ちますからね」
「すーぱーそにっこ?何だそれは」
「何だかずいぶん作為的な聞き違いですわね……。スーパーソニックキャノンですわ。私の必殺技です」
「ほう。見せてみろ」
「音なので見えませんけれど。というかあなたも見たことあるじゃありませんか。いや見えませんけれど。私が使う音の大砲のことです」
「あれのことか。そんな大層な名前があるとは知らなかったな」
「私がつけました。格好いいでしょう?」
「そうだな。だが俺が煙草を吸う度に撃つのはやめろ。周りに迷惑がかかる」
「初古さんには当てませんから大丈夫ですわ」
「直撃じゃなくてもきついだろうが」
「だったらあなたもいちいち硬い腕で私を殴るのやめてくださいまし」
「今度からは火の点いた紙製の筒でそっとつつくだけにしてやろう」
「慈悲はありませんの」
「肘でいいか」
肘鉄。を。避けられる。
「会話の途中に攻撃挟むのやめてください本当に。当たったらどうするんですか」
「慰謝料払ってやるよ」
「うわクズ」
「まあそう言うな。冗談だ。今のも、会話中の攻撃もな」
「洒落になってませんけれど」
「洒落のつもりが洒落にならんとは。これは一つのジェネレーションギャップの形と言えるかもな」
「いや関係ないと思います。言うほど私とあなた、歳変わらないじゃありませんか」
「お前、俺の半分くらいだろうが」
「馬鹿にしないでくださる?半分以上あります」
馬鹿にはしていない。
「私だってね、もう大人なんですよ。そりゃあもう大人ったら大人なんですのよ。ひょっとしたら中年のあなたには分からないかもしれませんけれど、私はいつまでもあなたの知っている私ではありませんのですことよ」
「どんな語尾だ」
まだピチピチだと言ったり、もう大人だと言ったり、忙しない奴だ。結局どう扱えばいいのか分からない。難しい年齢だ。それを言うと女はいつでも難しい年齢だな。面倒くせえ。
こいつと会ったのはこいつが女子高生だった頃だ。当時はまだ黒髪(地毛)で、化粧もしておらず(俺に分からないだけでうっすらとしていたのかも知れないが、何にせよここまで厚化粧ではなかった)、そして何より――
「お前が言う大人というのはその意味の分からない上品を勘違いした喋り方のことか?そいつをマスターしてお前は成長できたのか?」
口調が普通だった。
「意味の分からない上品を勘違いした喋り方というのがどんな喋り方なのか見当もつきませんけれど、べつに私の口調に意味はありませんわ。これはただの趣味です」
悪趣味だ。
「異能の扱いにも慣れ、戦闘技能も身に着け、今ではあなたより高ランクになりました。状況判断力にも長け、たくさんの可愛い後輩に囲まれる私はもはや大大人と言っても過言ではないでしょう!?」
大大人とは何だ。超と似たような強調の意味があるのか分からんが読み辛えんだよ。
俺は仕宮に冷たい視線を送った。
「……まあお前がどう道を踏み外そうと俺の知ることではねえが、俺の知れる範囲で死ぬんじゃねえよ。迷惑だ。だから今日は付き合ってやろう。お前の奢りでな」
『粛正派』強襲時にへまをしないように、ということだ。知っている情報は教えてやる。そのつもりだ。
「鴉さん……あなた、ツンデレなんですの?はっきり言って気持ち悪いですわ。ちょっと冷や汗かくくらい気持ち悪い。そんなこと言って自分だけ格好いい大人を演出したつもりでした?残念、私には通用しないのです」
せっかくなので、景気付けの意味も込めて先日(一人で)行った手羽先の美味い店に連れて行ってやることにした。
「痛たたたた鴉さん痛い痛い痛い!指がっ!指が食い込んでます痛いです!ごめんなさい調子に乗りました私が悪かったです!生意気こいてすいませんでした!もう言いません!離してください!あっおっ違う!そうじゃない!掴み方を変えろとは言ってない!これじゃあ肩を組むというか首を決めてます!いや決まってませんけど!あっ、決まった!決まってます!死ぬ!死んじゃう!」
その後、手羽先をつまみながらみっちりと30分程対『粛正派』について話し、さらには4時間程の雑談を終えた。
俺としたことが当初の目的を見失い、結局その日は(日付は変わっている)職務を遂行することを諦めた。アジトの部屋に戻った際には、珍しく起きていた初古に何故か怒られ、不機嫌なままに、煙草を吸うことも許されずベッドに押し込められたのだった。




