018
「え?何で今、私の胸を触ったの?」
私が目覚めた部屋から出て、少し歩いた。今このアジトに『繁栄派』の人間が何人程滞在しているのか知らないけれど、その間にすれ違った人数と言えば、たったの1人だけだ。千切さんが軽く会釈をして、私はわざとらしくそれらしく、嫌々ながら嫌々そうに沈痛な面持ちを浮かべていた。相手の方は特にどうという様子もなく、通り過ぎた。
懐未ちゃんが拘束されている部屋へと向かっているのだ。
その道中、私が千切さんのおっぱいに触ってしまったことにより、千切さんが困惑している。
「何でと聞かれても…。柔らかそうだったから」
「ホームセンターの寝具売り場で羽毛布団を触るかのような動機で私の胸を触らないでほしい……」
「嫌なのか?」
「嫌だよ。いや、嫌ではないけど。嫌だよ」
どっちだよ。
「私、あんまり人に触られるの好きじゃないんだ。自分で触るのはいいけど」
「自分で自分の胸を?」
「違う。そうじゃない。胸に限定した話はしてない」
「自分で自分のどこを触るって言うんだよ千切さん。はっきり言ってくれよ」
「何だかつい最近似たような羞恥プレイを誰かに強いられた気がするよ…」
「ん?誰だそいつは。私が許さないぜ」
「兄妹共々許されざるよ」
何だあいつか。あの、あれか。兄貴か。
「おいおい千切さん。こんな所で無駄話してる場合じゃないぜ。また人が来たら今度は怪しまれちゃうかも知れないだろ。さっさと懐未ちゃんのいる部屋に行こうぜ」
「……君達兄妹は私に何か恨みでもあるの…?」
「ないよ」
千切さんが、私の服の袖を摘んだまま歩みを速める。
「流石に広いんだな。『繁栄派』のアジトって」
「うん。そうだね。部屋がたくさんあるんだ。会議室とか遊技場とか喫煙室とか禁煙室とか。卓球場もあったっけ」
「楽しそうだなっ」
ホテルか。いや、旅館か。
「私は入ったことないけど、賭博場とかもあるんだ。それより何より場所をとってるのが寮施設だね」
「寮?『繁栄派』の構成員が住んでるのか?」
「そうだよ。私もここに住んでる」
「え?家は?」
「家なんて持ってるわけないじゃない。私はしがない専門学生だよ」
「いや、千切さんが一軒所有してるとは思ってねえよ」
ブルジョワジーかよ。
「家族は、どうしてるんだ?」
「家族はいない。もういない。詳しいことは言いたくないから言わないけど、私は『繁栄派』にしか居場所がない」
『繁栄派』に縛られているのか。それとも『繁栄派』に縋っているのか。
鴉が言っていたが、こういった千切さんみたいな、身寄りのない人間も、『繁栄派』には多くいるらしい。『繁栄派』というのは、孤児院みたいなものも兼ねているのか?
「そんな慈善的なものじゃないよ。異能を持たない人間には目もくれないし。異能力者を確保しておきたいからそういう形をとっているだけさ。慈善でも偽善でもない、自分達の利益のための、ただのビジネスの一環だ」
「ふうん。色々あるんだな。『繁栄派』にも、千切さんにも」
「色々ない人間なんていないよ。たぶん」
………………。
「色といえば千切さん。今日の下着は何色だ?」
「…真面目な話してなかった?今」
「私は真面目に聞いているんだが」
真顔。
「答える必要、ある?」
「必要はないが需要はある。義務はないが義理はある」
「需要も義理もない」
「あるよ。需要ならここにある」
「教えない」
「じゃんけんで私が勝ったら、もしくは負けたら、あるいはあいこだったら教えてくれよ」
「何その不条理…」
「何だよケチだなあ。教えてくれてもいいだろ?女同士じゃないか」
「女同士だから何だっていうのさ。同性だからって下着の色を教え合うような国に生まれた覚えはないよ」
「んんん?千切さん、外国の生まれなのか?」
「日本はそんな国じゃない!」
マジかよ…。勘違いしてたの私だけかよ…。
「大体、その理論だと男子だって男同士で下着の色を教え合うことになるよ?」
「いいじゃんべつに」
「なんて気持ち悪い国だよ…信じられないよ…」
「『ヘイ忠勝ゥー、お前今日赤?俺はサーモンピンクだけどー』『俺はモスグリーンだよ家康。サーモンピンクとかパネェー!』みたいな会話、あってもおかしくはないだろ?男子なんてこんなもんだよ」
「いつの男子なんだよ。というか何でカラーリングが横文字なんだよ気持ち悪い。馬鹿か君は」
へへっ。
すんません。馬鹿ですんません。へへっ。
私は視線を逸らして、ふう、と一息。
「私がこうして場をもたせているっていうのに、千切さんはいつになったらパンツカラーを発表するんだ?」
「いつになってもしないよ。というかパンツカラーって何さ」
「ああ、ごめんごめん。私としたことが気配りが足りてなかったな。英語駄目だった?」
「意味は分かってるけどね?そういうことじゃないんだよね」
「そういうことじゃない?ほう、じゃあ、ああいうことか」
「何も考えてないのに意味深な言い方をしないでもらえるかな」
ありゃ、バレた?
「大した洞察眼だな、千切さん。そんなことよりパンツの色を教えてくれ」
「どうしてそこまで引っ張るの?」
「まだ引っ張らせてもらってはないけど…?」
「パンツの話じゃないよ」
「パンツの話だろ?」
「ややこしい…。どうしてそんなに必死なの?」
「千切さんが言い渋るもんだから、負けず嫌いな私としては、ちょっともう引き下がれなくなっちまってね」
「私の負けでいいからこの話題はもうやめようか」
「潔く負けを認める態度!これは人間の器で負けている気がする!」
そもそも人間の器とかそういうレベルじゃない次元で完敗を喫している気がするが。
「しょうがねえな。私のパンツの色も教えるから。だから千切さんのパンツの色も教えてくれよ」
「しょうがないというかしょうもない等価交換だね。その提案は却下するね」
「んんんー。じゃあ、兄貴のパンツの色も教えるから」
「黒」
………………うん?
「黒だよ。聞こえなかったの?黒。私の今穿いてる下着の色は黒。英語で言うとブラック。フランス語で言うとノワール。ドイツ語で言うとシュヴァルツ。他に色はない。黒一色。べつに勝負下着でも何でもなく黒。さあ、外喰くんのパンツの色を教えてもらおうか」
「あ、うん……」
何か、この人、怖い…。
「兄貴の今日のパンツの色は――」
と、そこまで言って、千切さんの歩みが止まった。
とある部屋の扉の前である。
「この部屋なのか?懐未ちゃんが拘束されてるのは」
「うん。ここだよ。ここだけど、そんなことより外喰くんのパンツの色を――」
「ここまで来たらおふざけはやめにしようぜ千切さん。懐未ちゃんを助けないとな」
「私はふざけてなんかいないよ。何のために恥を捨てて拾って忍んで自分の下着の色を公言したと思ってるの?外喰くんのパンツの色を知るためだよ」
この人、やっぱり変態だあ……。
「青いチェックのトランクスだよ」
朝、シャツとパンツのみでトイレから出て来た兄貴を見たので間違いはない。
今が何時か分からないから、もしかしたらもう変わっているかもしれないけど。
「えっへへ…。そう。青いチェックのトランクス。外喰くんの。そう。ふへへ…」
「ちょ、ちょっとマジに大丈夫か?精神科行く?」
「大丈夫だよ。私は情緒安定してるから。さ、伊久川さんとご対面だよ」
「お、おう…」
千切さんがその、懐未ちゃんが拘束されているという部屋のドアノブに手をかけた。
「いや、まあ」
よかったけどさ。
両手の指を折られてるとか。
両手の指を切り落とされているとか。
両手足の爪を剥がされてるとか。
両腕両足を切断されてるとか。
両目を繰り抜かれてるとか。
両の瞼を縫い付けられてるとか。
両の――いや、全ての歯を抜かれているとか。
そういった、いわば最悪の事態というのも想像していなくはなかった。想像していなくはなかったと言っても、そうではないという希望や願望が当然あって、むしろその最悪の場合という考えを思考の隅へと追いやっていたから、私は案外、冷静だったのかもしれないが。しかしとは言え、何らかの危害を加えられている可能性は高いと考えていた。千切さんがさっき、彼女は――つまり懐未ちゃんは無事だと言っていたが、敵か味方かも分からない人間の、頭のおかしい集団の行動の予想なんてものは、到底常人の考えの及ぶところではないだろうと、私はそう踏んでいた。
以上のことがあって、私は、五体満足にして至って健康そうな伊久川懐未の姿を見て、心底安心したのだった。
だった、が。
「何くつろいでんだよ懐未ちゃん」
「い、いや、違うの。これはね、楔ちゃん」
スイートルーム張りの内装の部屋でシャンデリアの優雅な照明に照らされて、ふかふかのソファに座り、福島県の銘菓で知られるままどおるをほおばっている懐未ちゃんを見て、私は少なからず――少なからずとはまた遠回りな言い方になってしまうが、ここでは誰に気を遣う必要も特にないので言ってしまうと、いらついた。
私はいつになく不遜な態度で、仰々しく、肩幅同等に足を広げて仁王立ちし、言い放つ。
「ふざけるんじゃねえよ懐未ちゃん。私がどれだけ心配したと思ってるんだ?心を痛め身すらも痛め、嘆きに嘆き挙句の果てには身投げも考えたってのに、蓋を開けてみりゃ――というよりドアを開けてみりゃこの通りかよ。がっかりだぜ」
確かにいらつきはしたが、ここまで責め立てることだとは思っていないし、無事だったというだけでべつに私の心配などどうでもいい。なのにどうしてここまで執拗にねちっこくなじるのかといえば、ちょっとしたおふざけである。
「ご、ごめん楔ちゃん……本当にごめん……。謝るから、許して」
「許してやってもいいが、その代わり、これから私が両手を叩いてパンと鳴らしたら、その場でストリップな」
「え、う…。そ、それは…あの…2人きりの時だけなら……」
2人きりならいいのかよ。
どこかおかしいぞ、この子。
「まったく、本当に顔だけじゃなくて中身までよく似た兄妹だね。くだらない茶番はこの辺りでやめにしてもらおうか。時間が押してるわけじゃないけど、焦る必要はないけど、急ぐに越したことはないんだからね。第三者――というより、私が見てる前で気味の悪い痴話喧嘩はやめてよ、もう」
千切さんが私の後方から突っ込みなのか仕切りなのかよく分からないが、発言した。
「き、聞かれてた!」
懐未ちゃんが慌てふためく。
私しかいないと思っていたのか。そもそも、聞かれてまずいような内容だっただろうか。懐未ちゃんが、私と2人きりの時なら強制ストリップを受け入れる(強制なのに、受け入れる、というのも変な話だが)変態痴女だということが千切さんに判明してしまって、この先の人生が生きにくくなったりするのだろうか。
するだろうよ。そりゃあ。
「そうだな千切さん。とりあえずは様子を見に来たんだが、ここまで警備が手薄なんだったら、今の内に脱出も図れそうじゃないか?」
「そうだね。脱出するなら今かもしれない。脱出するなら、だけどね」
「脱出?逃げるの?帰れるの?楔ちゃん」
懐未ちゃんが目を輝かせて身を乗り出して、喜びを隠そうともせずそう言った。
「帰れる。帰ることはできる。だけど、それだけじゃどうやら終わらないらしい」
「どういうこと?」
二度も同じことを書くのは――違った。言うのは面倒くさいので、ここは省略するが、私は先ほど千切さんから受けた説明を、噛み砕いて懐未ちゃんへと説明した。
「む、無理だよ…。そんなの無理。仕宮を倒すなんて、できっこないよ」
だよな。
私もそう思うよ。
「そうは言うけどな懐未ちゃん。それができなきゃどうするんだ。国外逃亡か?資金はあるのか?住まいは?食は?外国語をどれか一つでも話せるのか?それができなきゃ仕宮を倒すしかないぜ」
もちろん私も仕宮を倒す方法など思いついていないんだけど。
それでも強く、懐未ちゃんに、何も対処せず逃げれば終わりだというそんな甘い考えを捨てさせるために、嫌味っぽく、そう私は言ってやった。
「で、でもその、『繁栄派』の反対組織の人達に匿ってもらうのは…?」
ああ。
そっか。
そういえばいたね。そんなのも。
『粛正派』。
今ここから脱出して、また捕まらないうちに、『粛正派』に助けを求めれば、守ってくれるんじゃあないか。
それはそうだ。確かにそうだ。何で私が思いつかなかったのか、自分でもよく分からないが、その通りだ。『粛正派』を頼ればいい。味方を作ればいい。盾を設ければいい。
「そうだな。確かにそれは有力な案だ。どうだろう千切さん。『粛正派』を頼るっていうのは、無難な策じゃないか?」
「うん。そうだね。私にとっては敵だから――いや、敵といっても『繁栄派』に所属する上でそういう態度をとってるってだけで私自身は確執とかはないんだけどね。ともかく私にとっては敵対組織だから『粛正派』に頼るという選択肢はなかったけど、それは大いにありなんじゃないかな。いいと思うよ。無難無難」
「だよな。そうと決まれば善は磯辺焼き」
「つまんない」
懐未ちゃんと千切さんが同時に言った。ハモった。
そんなにつまらなかっただろうか。唐突に思いついたからぶっこんでみたけど、やはり駄目だったか?試運転もまだだったからな。それはそれで仕方がない。
「善は急げだ。早いとこアジトはおさらばして、『粛正派』に駆け込もう」
「うん、そうだね!そうしよう!」
私のギャグにしれっとした対応を見せた懐未ちゃんだったが、今度は賛同してきた。
変わり身早え。まあ、女心と秋の空っていうしな。
私達のやりとりを見ながら、千切さんが腕組みをして言う。
「ふむ。『粛正派』を頼るなら、アジトの脱出は手助けできると思うけど、そこまででお別れだね。そこから先は頑張って」
「おう。色々ありがとう。そこまで頼むぜ」
「そこまで頼まれるよ。脱出作戦はまだ始まってもいないし、成功するかどうかも分からないから、お礼を言われる筋合いはないけどね」
「………………」
そういえば先ほどから一度も千切さんと会話をしていない懐未ちゃんが、凝視している。千切さんを凝視している。その後やっと、恐る恐るといった様子で、千切さんにコンタクトを図った。一緒に買い物に来たお母さんが、ご近所さんと世間話をしているのをお母さんの陰で聞きながら、ひょこっと顔を出して挨拶する子どもみたいな感じで。
「えっと…千切さん…?」
「うん。私は千切。挨拶をしてなかったね。ごめんごめん。君のことは知ってるよ。よくは知らないけど。伊久川さん。私に何か用?」
「あなたは誰…?というか何者…?」
ああ、ああ。
それもそうか。
犯罪組織に拉致されて、その構成員がよくしてくれるなんて、ありがちにして怪しい話だ。私は何故か完全に信用し切っているが、懐未ちゃんが千切さんを警戒するのは無理もない。むしろ当然のことだ。至って普通だ。常識だ。
その名の通り、仲介役で本領を発揮する楔ちゃんだ。ここは人肌脱いでやろう。
「私から紹介するよ懐未ちゃん。この人は九里古里千切。訳あって『繁栄派』に属している、私のお義姉さんだ」
「あ、そうなんだ…?あれ、でも楔ちゃん。上はお兄ちゃん1人だって言ってなかった?」
「んあー、違う違う。字が違う。義理の姉だ」
「お兄ちゃん結婚してるの!?」
「まだ」
「うん?将来的な話?」
さあ。どうなんだろうね。
警戒は解けそうなものだが、いかんせん後々面倒くさい誤解が発生しそうだし、やはり訂正しておこうか?
どうしよう。
顔が緩みっぱなしの千切さんに振ってみる。
「妹さん。私はこう見えて結構単純だから、そういうことを言われるとその気になっちゃうよ。嬉しいよ。私のことお義姉ちゃんって呼んでもいいんだよ?」
ノリノリだった。
「そうだな。そうしようか。お義姉ちゃんこそ、妹さんなんて堅苦しい呼び方はやめて、楔ちゃんと呼んでくれて構わないんだぜ」
「く、くっく……くすぁ…」
「壊れた毛むくじゃらの電動玩具みたいになってるぞお義姉ちゃん。言ってしまえばファービーみたいになってるぞ」
「む、無理っ…。外喰くんのことだってまだ名前で呼んでいないのに…!」
何を照れているんだろうか。この人の基準はよく分からない。
やっぱり『繁栄派』は頭のおかしい人ばかりである。世も末。
「ようし、じゃあ行くか。懐未ちゃん。千切さん」
「私は準備オッケーだよ!」
「それじゃ、私について来てね。妹さん、伊久川さん」
2人は――私と懐未ちゃんは、言われるがままに千切さんの後をついて歩いた。
通路をしばらく歩いて、階段を降りる。
それからまた少し歩いて、開けた場所に出た。固定された椅子がたくさん並んでいて、病院のロビーみたいな、そんな雰囲気だ。通路を歩いてきた道中では、誰にも会わなかった。まあ、今深夜みたいだしな。寝てるよな。
道中では誰にも会わなかったが、ここで一つの人影が。人影というか、照明も健全に機能しているので、はっきりくっきり、誰かも分かった。
鴉枕である。
並んだ椅子に腰掛けて、足を組んで、雑誌を読みながら、煙草を吸っている。煙草を吸いながら雑誌を読んでいる、と言った方がいいのだろうか。
どこにでもいるなこのおっさん。
懐未ちゃんは鴉の存在に気付き顔が強張っている。千切さんも表情は見えないので分からないが、歩くペースが若干早くなったような気がする。私はというと、夕方講習を受けた直後(でもない)だというのもあって、特に緊張はしなかった。
しかし鴉の読んでいる雑誌、よく見たら表紙がグラビアだ。どこの誰だかは分からないが、表紙の枠に箱詰めされたような、窮屈かつ扇情的なポーズで写っている。グラビアが表紙の少年誌って買いづらい。お前のことだよマガジン。
「………」
うん?おかしい。よく見たら表紙の女性が身に付けているのは水着じゃあなくて下着ではないだろうか。もっとよく見れば見出しの淫猥な文字列。
これは。
「エロ本じゃねーか!」
「何だ。誰かと思えば外喰妹か。どうした、こんな時間にこんな所で。家出か」
しまった。鴉に気付かれてしまった。
私が声を上げさえしなければあの男は私達が通り過ぎることを認識しなかったかもしれない。
懐未ちゃんと千切さんが、信じられないものを見るような目を、視線を私に向けてくる。痛い。視線が痛い。ごめん。ごめんってば。
私の不始末は私で片付けよう。そういう女だ私は。
「いや、私は通りすがりの女子高生だぜ。エロ本鑑賞に勤しんでいてくれて構いませんよ」
「そうはいかんな。そういえばお前、仕宮に狙われていた女を助けて、助けようとして助けられなくて、捕まったらしいな」
「よく知ってらっしゃいますねえ」
本当に。
『繁栄派』は噂好きだなあ。
「知ってるさ。『勧誘班』もここのところ手詰まりというか膠着状態でな。新しい勧誘の話題が入っていたから聞いてみれば、お前が関わっていたということだ」
「へえ、そりゃまた奇遇だね。世間は狭いよな、まったく」
「さあて、仕事するか」
「見逃してください」
私は綺麗な土下座をした。
自分で言うのもなんだが、全国区でお手本見本にされてもいいくらいに清く正しい土下座が決まっていたと思う。
鴉はそんな私の土下座を無視したのでした。
「何をやってんだ九里古里。その2人を外に連れ出そうというのか?つまり、逃がそうと画策しているのか?」
「違うよ。連行してるだけ」
「そうか。ご苦労なことだな。若い女学生にこんな深夜まで働かせるような俺ではない。どれ、代わりに引き受けよう」
「気を遣ってもらわなくても大丈夫。簡単な仕事だから。鴉さんこそ、こんな所でエロ本読んでないで、部屋で読みなよ」
「あん?これか?」
鴉がエロ本をビラビラさせる。あ、いや、違う。ビラビラってそういうんじゃなくて。
ブラブラ。ブラブラさせた。ブラもブラじゃないから。擬音だから。
「これはな、そこで土下座している馬鹿の兄から没収した物だ。どんな趣味かと思ってな」
「聞きたくなかった…」
私も聞きたくなかった。
「なんならお前にやるよ九里古里。お前がこれを部屋で読んでろ。そいつらは俺が連れて行く」
「その本はもらうけど、この子達は私が責任を持って連れて行くから」
もらうのかよ。
「剛情だな、お前も。それが若さか」
「何を悟ったの鴉さん……?」
「何一つ悟っちゃいねえよ。九里古里。それは『繁栄派』への裏切りと見なしていいのか?」
「言ってる意味か分からないよ鴉さん」
「いい加減薄っぺらいコンドームみたいな嘘はやめろよな。無表情キャラのつもりか知らねえが、お前結構顔に出るタイプだぞ」
「そんなキャラを気取ったつもりはないけど…」
鴉がエロ本を床に放り投げ、組んでいた足を解き、煙草は咥えたままでこちらに近づいてくる。
「ロビーにいたのはたまたまだったが、いてみるもんだな。非行に走る少女を止められる」
「『繁栄派』に名を連ねておいて非行うんぬん言うことでもないでしょ」
「その2人を置いていけ。俺の目が黒いうちにな」
放っておいたら死ぬのか、こいつ。
「間違えた。俺が手を出さんうちにな」
どんな間違いだ。
「駄目。無理。それはできない。どうにか見逃してもらう方法はないかな?」
「駄目だ。無理だ。それはできない。俺も組織に属する身としてな。ルールには従うのが大人だ」
「お願い。お金あげるから」
「俺はある程度まで金で動くがそれ以上は動かん。参考までに聞いておくがいくら用意するつもりだ?」
「3000円」
「ふざけているのかマジなのか知らんがどちらにせよお前、けっこう大物かもな」
「4000円」
千切さんは鴉を挑発しているんだろうか。
危険な仕事で裏金を動かしているその人である鴉に対して、その額はいくら何でも冗談きついんじゃないかと思うんだが。
そんな千切さんのおふざけ(本人は真面目かもしれない)を見ている間に、鴉に大分近付かれた。射程圏内――つまり、一歩踏み出せば腕と足が届く距離まで接近された。
「うわっ。やめてよ鴉さん」
「俺をおちょくった代償だ。こいつはもらっておく」
鴉が千切さんの眼鏡を奪った!セクハラだ!
「ちょ、ちょっと…。そういうのは本気でやめてほしい。私の眼鏡は伊達じゃないんだよ」
何か凄い眼鏡かのように。ここぞという時にやってくれる眼鏡かのように聞こえるが、べつにそんなことはない。度が入っているという意味だ。
「それに鴉さんをおちょくったつもりはないし。私は鴉さんみたいにお金持ちじゃないんだよ」
「天秤にかけてその程度の額しか出ない連中なら、助けるのはやめておけ。今後お前の得にもならんぞ」
「鴉さんはこの程度の額でも見逃してくれるかなと思っただけだよ。案外女子に優しいし」
「ほう。俺が。この俺がそんな風に見えるか」
鴉が千切さんを、ついでに私と懐未ちゃんを見下す。
「本当に俺が優しいかどうか、その身で確かめてみるんだなあ九里古里」
千切さんの身体が一瞬浮いた。浮かれてつい小ジャンプしてしまった訳ではない。どうやら鴉に、殴られたようだ。
着地した後、崩れ落ちて両の手を床に着いた。
「おっ……うおええ………」
「せっかく眼鏡を外したんだ。顔にすればよかったか。まあ、顔にしろ腹にしろ、お前が動けなくなるまで続ける。その後ゆっくりそいつらを捕まえるよ」
ロビーで盛大にゲロ吐いた千切さん。
「千切さん!大丈夫か!?」
大丈夫じゃねえだろ、私。ゲロ吐いてんじゃねえか。
まずい。まずい状況だ。鴉がここまで敵対してくるとは思わなかった。考えが甘かった。
やべえー。私の突っ込みが原因だったのだろうか。
「気付かない訳ねえだろう。お前ら揃って世の中を甘く見てるんじゃないのか?ここは一つ大人として、痛い目を見せてやった方がよさそうだな」
「待ちなよ。私を動けなくしてからじゃなかったの?その子達を変質者よろしく追い掛け回すのは」
千切さんの豊満な胸をかいくぐって鳩尾に一発。
再び崩れ落ちそうになる千切さんの下腹部に極道キックが炸裂した。
千切さんは数メートル転がって、動かなくなった。
元より標的は私達――というか懐未ちゃんなのだが、いよいよもって攻撃対象にまでされてしまったみたい。
ちくしょう。こうなったら仕方がない。戦闘は絶対に避けたかったが、助けてくれようとした千切さんがやられて、私が黙って見てるわけにはいかない。
「はん。いいぜ。返り討ちにしてやる。かかって来な」
私は指をこう、くいくいっとやって、鴉を挑発した。
鴉の異能は『孤独の亡骸』。全身の皮膚、というか表面が超硬質化する異能力。銃弾も刃も通らない。彼の身体がひどく頑丈であることは、私もよく知っている。彼自身のボールペンがそれを証明してくれた。
だけど硬いだけだ。運動能力が上がるわけでも、パンチが爆発するわけでもない。動きそのものは全くの常人だ。
年齢は42歳。外的要因でのダメージはなくとも、肩こりや腰痛での内的要因でのダメージはあるかもしれない。あることを願う。
私は高校三年の夏まで運動部に所属していたし、その後もある程度体は動かしていた。運動能力にはそこそこ自信があるつもりだ。
鴉枕は硬いだけ。頭部を強く打っても、痛みはないのだろうが、脳は揺れる筈だ。上手いことヘッドショットを決められれば、脳震盪を起こす可能性がある筈だ。
勝算は、ある。
「いい度胸だ外喰妹。その度胸に免じて遺体は遺族に返してやるよ」
「縁起でもねえっ!」
駆け出した直後にフェイント!
鴉は体質柄か、姿勢を高く保ったまま――つまり棒立ちのまま構えるスタイルのようだ。鴉の頭部を低い位置に誘導するために、下段から攻める。振りをする。下段の私を潰しにかかって来たところを。
渾身の膝!
「俺は体質柄、あまり相手の攻撃を避けない」
あ。
「避ける必要がないからな」
ああ。
「だからというか、相手の動きを余裕を持って観察出来るんだよな」
あああ。
「無駄に鍛えられた動体視力とでも言えばいいだろう」
ああああああああああああ。
「お前、素手のやり合いなら俺と渡り合えると思ったんだろう?そうだな確かに、俺の運動能力は一般成人男性並みだ。ただまあ、場数ってものもあるんだよ外喰妹。喧嘩慣れって言葉、知ってるか?」
「いっでえええええええええええええええ!」
「楔ちゃん!」
何だ懐未ちゃんいたのか!それどころじゃねえんだよ!
私の渾身の膝は、あえなく受け止められた。受け止められて、硬直した私の脛に、鴉の膝がクリーンヒットしたのだ。
階段にぶつけたどころの痛みじゃねえ。間接が一つ増えてる。というか脛が折れ曲がってる。
「ああぐううううう…!」
やばい痛い泣きそう。
「もう泣いてるぞ外喰妹。先ほどは否定したが、やはり俺は優しいんでな。その痛み、取っ払ってやろう」
くっそ。くっそ。
くっそ痛え。
左のツインテールを掴まれ、無理やり体勢を起こされる。
「ついでに言うと、でかさは重さ。重さは強さだ。この体格差で、お前に勝ち目があると思ったのか?」
「……思ったよ。ほら…漫画とかで、小柄な美少女がムキムキの大男を圧倒するのって、よくあるじゃん」
右のツインテールも掴まれる。
「そうだな。それにそういった展開、一部では叩かれがちだが、漫画だからこそ出来ることであって、漫画だから出来ることをしているのに、わざわざ現実論を持ち出して否定する馬鹿は、どこにでもいるもんだな」
両のツインテールで固定された私の顔面に、鴉の膝がクリティカルヒット。
「…っ……!」
熱い。鼻が熱い。熱いし痛いし熱い。
「あっ…?」
こつん、と、音がした。眼球だけ動かして下を見る。何か落ちたみたいだ。
赤い液体にまみれた白くて小さい物体。
私の――前歯か。
マジかよ。永久歯に生え変わってから、ちゃんと綺麗に磨いてたのに。
あーあ。
鏡見たくねえな。
「やだやだやだやだやだやだ……」
懐未ちゃんの声だ。
完全に戦意を喪失している。
まあ、仕方ないよな。こんなだもんな。
かくいう私も、戦意というか、勝機は失っている。
鼻が熱いとは言ったが、そうピンポイントでもないようだ。
鼻骨上顎骨、その周辺まるっと砕けている。…っぽい。
こりゃ万が一つに帰れたとしても、志々雄真みてーなことになるんじゃないか。
「外喰妹。お前元々可愛くないが、今に至っちゃ恐ろしくひでえ面だぜ」
「うるせえよ鴉」
喋ると痛い。
喋らなくても足は痛い。
「私の取り得は健康だったのによ。台無しにしてくれやがって」
「胸は発育不良なのにか」
「黙れ」
何で今言われなくちゃならないんだ。
殺されるかもって時に。
たぶんこれから殺されるであろう時に。
自分じゃ大して気にしていないつもりだったのに。
貧乳なんて。
死に際に出た本音ってやつなんだろうか。
ここへきてようやく自分の本当の気持ちに気付けたんだろうか。
豆乳飲んどきゃよかったな。摂っときゃよかったイソフラボン。
人生最期に考えることがこれかよ。
「ヘイ。帰って来てみりゃ何だァ?この騒ぎは。楽しそうじゃねェーか。俺も混ぜろよ」
どこかで男の声がした。




