014
今まで、自分が一番よく知っていると思っていた事がある。
『今まで』、とそうは言っても、全く言葉の通りというわけではなく、今の今までというわけではなく、わりと近いという意味での『最近』というのと、よく似た遣い方をした。
わりと最近まで自分が一番よく知っていると思っていた事があったのだが、それはべつにそんなことはなかった。それが何についてなのかというところ、声を大にして言うのは流石に憚られるような、少し恥ずかしい話なのだが、私の実の兄の事である。
生まれてから18年余り。同じ屋根の下で育ってきた私の兄には、私の知らないトンデモ能力が備わっていた。
異能の力。
異能の力というらしい。
よくは知らないが、聞いた話ではそんなことを言っていた。
私は兄の全てを知っているというわけではもちろんないが、それでも、兄以外では、一番兄の事を知っている人間だと自負している。兄の集めている漫画も、手持ちポケモン6体も、好きなフォントだって知っている。
両親は、私より兄の事をよく分かっているのかも知れないが、私は両親よりも兄の事をよく知っている。
私のよく知る兄が、私の知らない重大な秘密を持っていたというのが、私としては少々気に食わなかったのだ。かと言って、何がどうという事もないのだけれど。まして、私は兄のことが好きなわけでもないし(ここでいう好きは、異性としての好き)、気の触れた妹でもない。
ただ本当に、少々気に食わなかっただけの事だ。気に食わなかったから気にしなければいいだけの、そんな些細な事なのだ。
「ようおじさん。探したぜ」
「ああん?お前は確か――」
私、外喰楔は、地元の高等学校の制服を着ている。が、しかし、その高等学校の生徒ではない。というか高校生ですらない。
職種は何かと問われればさも当然の如く学生と答えるが、実際のところ、まあ一言で言ってしまえばフリーターである。
午前中のバイトを終えた私は、ある人物を探していた。
私はその人物を過去に2度、見たことがある。
1度目は家の前の道で。
2度目は兄の部屋で。
「外喰妹」
「いかにも。おじさんは、えっと…」
名前は確か――
「パラス・アテネ」
「俺は8発の大型ミサイルを積んだティターンズのモビルスーツではない」
「濡らす枕?」
「ニュアンス的には大きく違うが概ね合ってるよ」
確か、鴉枕。
隣町の駅前にあるケーキ屋で、ケーキを買っているこの男を目撃した私は、男がケーキを買い終えて店から出てくるのを待った。
出待ちである。
先程私は『探したぜ』と、そう言ったのだが、結果的に、探すまでもなく見つけてしまったことになる。そのおかげでこちらとしても何の準備もないままだが、まあ、わざわざチャンスを逃すこともないだろう。
「俺に何か用か。探した、ということは用があるんだろうな。何だ。言え」
「聞いてくれるのか?相手にもされないと思ってたよ」
「相手してやってる内に言え」
兄と同じく異能の力を持つ人間で。
危険思想の組織の組員。
私の知り合いにはもう一人異能の力を持つと思われる人物がいるのだが。その人は。私から見て15歳年上のその女の人は、私が聞いたところであんまり話してもくれなさそうだから、この男を選んだ。
用事というのは。
私が知りたい事というのはもちろん。
「異能について教えてくれよ」
「ほう。まあ、教える理由も、隠す理由もありはしない。教えてやっても構わんが、何か俺にメリットはあるのか?」
「……貸しでひとつ」
「まあ、いいだろう」
………いいんだ?
意外な答えだった。
いやまあ、それはもちろん聞くつもりで聞いたんだけど。
もう少し粘るかな、というか、渋るかな。くらいには考えていたんだけど。何か代償でも要求されるかと考えていたんだけど。
具体的には、金とか。――あるいは、指とか。
この貸しが悪い方向に利用される可能性は十分大いにあり過ぎるくらいだったが、来年の話をすると鬼が笑うとも言うし。
今を生きる私だった。
「さて、ではどんな話からするか。簡潔に言えば異能というのはな、超能力だ」
「じゃあ超能力でいいんじゃないの?」
「それ以上言うとお前の命はない」
「何で!?」
ややこしくないか。
それに、超能力に名前を付けるならまだしも、異能だなんて、未だ漠然としているような気がする。言い方を変えただけじゃないのか。
「そう思うか外喰妹。何ならお前が付けてみるか。異能力の総称を」
「え、いいの?」
「いいかどうかは知らんがな。語感がよかったら俺が上に申し立ててやるよ。通るかどうかも分からんし、通ったとしても、浸透するかは分からねえけどな」
「あ、でも待って。先に異能の力というものについてもうちょっと聞いておかないと。和風なイメージで行けばいいのか洋風でもいいのかよく分かってないからさ」
「俺の異能力は全身が硬化する『孤独の亡骸』」
「自分で考えたの?」
「そう感じたか?この俺がそのように見えたのならまあそれはそれで仕方がない。まずはお前の両目を潰すところから説明を開始しよう」
「ごめんなさいごめんなさい!」
右手の人差し指と中指を二股にして一歩踏み出す鴉というおじさんに、私は必死で謝罪した。
「今の失言の代償として、お前の考えたさいきょうの通称の件はなしにしよう」
「えー」
「話に聞くより体験した方が早い。まずは俺の異能を感じてみろ」
「何も来ません」
「電波を感じ取れと言ってるんじゃあねえよ。お前、刃物か何か持ってるか?」
「うーん……、生憎今は…。ああでも、強いて言えば、私の心はナイフの如し」
「とりあえずこのボールペンでいい。俺を刺してみろ」
「………………」
鴉が咥えた煙草に火を点けて、私にボールペンを手渡す。
「人の往来が激しい駅前で殺傷事件を起こせと言うのかよ」
「殺傷事件は起きないが、場所は変えた方がよさそうだな」
そう言うと鴉は、私に付いて来るよう促して、歩き始めた。
数十メートル歩いて着いたそこは、駅前の道路を跨いで掛かっている歩道橋の上である。歩道橋とだけ聞くと、それこそ人がよく通りそうな名前をしているが、それが案外、そうでもない。
その理由としては、劣化していて使用禁止になっているからなのだが。
「なに、崩れはせん。それより、やってみろ」
「……。どこ狙ってもいいの?急所はない?」
「秘孔」
「………………」
どこだよ。
「じゃあちょっと屈んでよ。どこでも狙えるようにさあ」
鴉が私の言う通りに屈む。
ボールペンを握る手に力を込める。思い切り。
「恨むなよな!」
ボディブローでも打つかのような勢いである。そんな勢いで、ボールペンによる突きを放つ。
ガリ、という音と、パキ、という音が、混じって聞こえた。
全力で突き出したボールペンは、プラスチック部分は割れ、先端の金属部分はひん曲がってしまっていた。
「恨みはしないが、お前も容赦のない奴だな」
鴉は無事だ。傷一つない。
全力で、眼球を狙ったというのに。
胸や腹、腕なんかでは場合によっては筋肉で誤魔化せんるんじゃあないかと思い、鍛えようのない、加えて小細工も仕込みにくそうな眼球を狙ったのだ。
しかし、結局、予想していたものとは違う感触を、ボールペンを通じて味わうことになった。
柔らかい、肉の玉を貫く感触ではなく、硬い、鉄の球にぶつかったような感触を。
「へえー。本当にめちゃくちゃ硬いんだな。削岩機とかでも削れない?」
「長時間やったら削れるんじゃないか」
「肩とか凝らないの?揉めないでしょ」
「自分では揉める」
「そういうもんなのか…」
「そういうもんだ」
うーん。なるほど。
こんな感じで超常的なパワーを発揮できると。
説明がつかない事は説明しなければいい。何だか凄いパワーとでも言っておけばいい。理論や構造を考えても時間を無駄にするだけだ。
「異能の力って、どうしたら出てくるのさ?私にはないの?」
「そうだな。例えばお前の兄の場合、虫刺されから発現したらしい」
「虫刺され?何それスパイダーマンみたいじゃん」
「そうだな。奴の右腕は実際、虫のように見える。蜘蛛ではないがな」
「おじさんは虫刺されが原因じゃないのか?ある虫が持ってるウイルスが原因で発現するみたいな、そういうバイオクライシス的な話じゃあ」
「俺は物心ついた時には既にこうだったな。単に生まれてすぐ虫に刺されたというのなら、虫刺されが原因なんだろうが。ただ他の連中の話を聞くと、虫刺されは原因ではないみたいだぞ」
「あっそう。……人工的に、というか人為的に発現させる事はできないのか?」
「無理だな。無理かは知らんが、前例がない」
「一族の宿敵が異能に目覚めたから、外喰家も覚醒するみたいなのは…」
「お前ん家は紳士の血統か何かか」
唐突な話になるが、私はジョジョ3部ならポルナレフが好き。
「そうだ外喰妹。お前の兄に、『繁栄派』に入れと伝えておけ」
「肺炎杯?」
「何だその病人だらけの大会は。『繁栄派』だ」
「聞いたことないな。教えてよ」
「説明すれば長くなる。場所を変えようか。そうだ、お前に貸しがあったな。喫茶店でコーヒーでも飲みながら話そうぜ」
「お、おう……」
意外としょぼい事に使われた私の貸しだった。
何か、目的があったわけではない。
異能の力の事を聞いて、何をしようとしたわけではない。
兄の力になりたいだとか、そんな事も考えたわけでもない。
ただ知っておこうと思っただけなのだ。
知ってしまえば、何のことはない。中高生が巻き込まれがちな異能バトルである。
『繁栄派』と『粛正派』。
鴉の口から聞いたので実態とは少々ずれがあるかもしれないけれど、大体の具合は理解できた。
過激派と穏健派だ。
言ってしまえばそういう事だ。何故わざわざ言い換える必要があるのかと思うところもあったが、たぶん、格好いいからだろう。他に理由は見当たらない。
しかしともあれ異能とは。なるほど、なるほど、なるほど。
「美少女になる異能が発言しねーかなあ……」
時刻は夕方である。
鴉の説明にいちいちボケを挟んでいたら、思ったよりも時間を食ってしまった。
コーヒーを飲みすぎたせいか、店から出た途端に尿意に襲われ、駅のトイレへと駆け込んだ私は、小綺麗にされている便座に座り込み、鴉の教えを反復していた。
流石に公共のトイレでいつまでもくつろぐのは悪いので、そろそろ出ようと思う。
いつも思うのだが、腰辺りまで伸ばした私のこのツインテール、急いで用を足す際には怖いものであ る。
個室を出る。
「うおっ」
思わず、声が出てしまった。
私がトイレの個室から出た時、洗面台の前に一人の少女が立っていた。私はその少女の顔を鏡越しに拝見することとなったのだが、それがまあ、えらい美少女だった。どのくらい美少女かというと、アイドル顔負けと称されるAV女優くらい美少女(AV女優を『少女』と言ってよいのかはまた別の話になる)だった。下衆な例えをしてしまったが、まあとにかく、可愛い女の子だった。
「ん?」
眩しい橙色の長髪で、頭にはキャスケット帽を被っている。柔らかそうな生地の上着を着ていて、ふわふわミニスカートにオーバーニーハイソックス(絶対領域である)。コテコテのカワイコちゃん(古い)は、鏡越しに私の方を見た。
しまった。ガン見してるのがバレたか。
「…何?」
少女の方から声をかけて来た。
ま、まずい。何か言い返さなくては。自然に、ナチュラルに、オーガニックに。
「君、可愛いね」
何故か。安いナンパみたいな事を口走ってしまった。
その上何故だか、今の私はかなりニヒルな笑みを浮かべている。
いかん。
仮にも女子高生の肩書きを背負っている私が、少女をナンパしてしまった。
「ありがとう…?」
「今夜私と一緒に風呂に入らないか?」
「やだよ!?」
ええい。ナンパしてしまったらナンパしてしまっただ。
こうなったら落としてやろう。
乗りかかった船というやつである。
いやしかし、ナンパナンパと言っておいて、縁起でもないことわざである。
「髪綺麗だね、触ってもいいかい?」
「え、まあ、べつに…」
私はそっと少女の胸に触れた。
「…それは髪じゃないんだけど……」
「柔らけえ。何だか私のより全然柔らかい気がする」
「そろそろ離してほしいんだけど」
「おっと」
『隣の芝は青い』。『人のおっぱいは柔らかい』。これらは同義である。
「さらさらだね、髪」
「胸しか触ってないじゃんか!」
「今のやりとりで見抜いたのか?大した洞察力だ」
「馬鹿にしてるの?…変なのに捕まったなー…」
ごもっともだった。
強姦まがいのことをしていた私は、ふと我に帰った。
当初の目的を忘れていた。私はこの少女をお持ち帰りするんだった。
「今夜、家来ない?」
相変わらずのぶっ放しである。
本当に落とす気があるのかと問われれば、首を傾げて半笑いを浮かべる程度には本気なのだが。
「いいの?行きたい」
「えっ」
マジか。
「え、いいの……?家来ていいの…?」
「というか、むしろ…駄目なの…?」
「いや、いいけど…」
何だか要領を得ない会話だった。
「私、いわゆる家出中なの」
なるほど。
いや、それにしたって、いくら同性といえど、初対面の変態の家に来ようというのは無用心には変わりないが。
自暴自棄みたいなところもあるのだろう。家出というのはそういうものだ。
私は家出したことないけど。
「じゃあ私の家に来いよ」
「へえー、見てみたいんだけど。お兄ちゃん」
「私の知り合いが兄貴を見るのと、兄貴の知り合いが私を見るのとで、印象はどう違うんだろうな」
私と先ほど出会った少女――伊久川懐未は駅のホームで、電車を待っている。
私の町へ、帰るのである。私の家へ、帰るのである。
「ねー、楔ちゃんって高校生だよね。その制服、うちのと同じ。私今高3なんだけど、楔ちゃんは何年生?もしかして、年下?」
「確かに私は高校生だがな懐未ちゃん、私は学年だとかそういうしがらみには捕らわれない」
「いくつなの?」
「くっ」
おのれ。やってくれる。
「…18だよ。私は18歳だ」
「早生まれなんだね?でも、同じ学年?外喰なんて苗字、いたら覚えてると思うんだけど」
「懐未ちゃんは、一昨年と去年の卒業式で、その苗字を聞いたことがあると思うぜ」
「………。どういうこと?」
「私は卒業したんだよ。去年の3月でな」
「え…?じゃあ何で制服を…」
「これは制服だ。学校や規則に縛られるためにあるんじゃない。自分の――私の心を律するためにあるのさ」
「コスプレだあ……」
ばっさりだった。
「懐未ちゃんも卒業したら分かるよ。女子高生という肩書きの意味と価値がな。今回は相手が悪かった。私の負けだ」
「何の勝負をしてたんだろ…」
「そんなことより懐未ちゃん。お前めちゃくちゃ可愛いな」
「唐突に何だこの人…全然分かんない」
「いや、こうして隣に立たれると、軽く優越感がある。あ、周りに対してな。私自身は劣等感でいっぱいだよ!」
「キレないでよ…」
「これ、私の彼女ですけど、何か?みたいな。懐未ちゃん、すげえモテるだろ」
「自分で言うのもなんだけど、まあ…」
「だよなー、だろうなー。放っておかないよなーこんな美少女」
「美少女って言うのやめてほしいんだけど…」
「なあ、今まで何人と付き合った?3桁?」
「1桁。なんかさあ、2人きりになると、凄いキョドられるんだよね。クラスでは明るくて人気者の男子でも、なんか、私に気を遣ってるみたいで」
「おい、私に喧嘩を売ってるのか?本当の美少女のエピソードを語られているのか?」
「自分で聞いてきたんじゃん…。違うよ。これも自分で言うのもなんだけど、下手に見た目がいいと、そこしか見てもらえないっていうか、何ていうか」
「自分の可愛さは才能だと言いたいのか…。懐未…恐ろしい子…」
ピアノの才能がある子供の、ピアノの才能だけを伸ばそうとする、そんな親がいるみたいな。
ひとつ際立つ強力な長所というのは、輝きすぎて、眩しすぎて、他人を盲目にしてしまう。長所の持ち主を、ただそれだけの人間にしてしまう。
「違うってば…。さっきの男子の話に戻すけど、その人はまあ、コテコテの人気者でね?ふざけてクラス中を笑わせたり、スポーツやらせれば凄かったり、文化祭では指揮を取ってイベントの主役を張るような人だったんだよ」
「そんな男を手玉にとって捨てる私…なんて罪な女なの…」
「……おりゃ」
「いっでぇ!!生爪を剥がそうとするのはやめてください懐未さん!」
「ちゃんと、話、聞いて」
「き、聞きます。ごめんなさい。聞きます」
血が出てるよ…。怖いよこの子…。
「でもね。そんな人でも、私を前にして、いつもと違ってた。教室では他の皆と同じように話して筈なのに。それはたぶん、好きだから、とかじゃなくて、何て言うんだろうな…。つくづく自分で言うのもなんだけど、アイドルとセックスできる、みたいな。そんな程度に考えられてたんだと思う」
「最高やん」
「は?」
「いや、嘘。ごめん。私の手を見ないでくれ」
「楔ちゃん。手、貸して」
「生爪は勘弁してください。生爪は本当に勘弁してください」
「剥がさないって。……ほら」
手を握られた。
白くて細くて、産毛も生えてない、綺麗な指。暖かくて、柔らかくて、まるで天使のようだ。
「真面目に聞いてね?」
「聞く聞く。聞き上手の楔って知らねえの?」
「………。憧れっていうと聞こえはいいかもしれないんだけど、私にとってはそんなのプレッシャーだし、妄信的になってるだけだよね。私は普通でよかったのに。対等な立場でいたかったのに」
「つまり、超絶イケメンな彼氏が欲しかった…と」
「楔ちゃあん……」
「いだだだだだだだだだ!!いだいいだい!待ってごめんなさい!何でも言うこと聞くからあ!」
「…なんかもうね、疲れちゃった」
危ねえ。あっぶねえ。
いくら美少女でも生爪剥がしは拷問だわ。
「おいおい、何大女優みたいなこと言ってんだよ。聞いた限りじゃ行為には及んでないんだろ?そういう発言は大人になってからぼやけよな。何なら家で大根でも食べる?もちろん下のく――」
「ここ駅のホームだから!人いるから!」
大衆(と言っても20人程度)の前で生爪剥がそうとしといて今更何言ってんだ、この子。
と、そうこうしている内に、電車が到着した。
ここから1駅。時間にしておよそ20分。
「ほら、行こうぜ懐未ちゃん」
「うん」
さっきから両手でずっと私の手を握っている懐未ちゃん。柔らかくて気持ちいいのだが、春も中盤、こうも暖かい陽気の中では。手汗をかいてきた。
「人多いな…。あ、でも懐未ちゃん。あそこ空いてる」
出入り口付近の端の席に、2人分の空きがある。
そこに座ろうと思っていたのだが。
入ってきた男の子が座ってしまった。
「しょうがないな。懐未ちゃん、座れよ」
「いいの?ありがと」
私は、懐未ちゃんに片手を握られたまま、もう片方の手はブレザーのポケットに突っ込み、懐未ちゃんが座っている席の手すりに寄りかかった。
「おい、そこの小僧。このお姉ちゃんすげえいい匂いするぞ」
「ねえぼく、このお姉ちゃんの爪あげよっか」
「ひい!許してください懐未さん!」
ドアが閉まり、電車が出発する。
ぽつ、と呟く。
「ダァ、シエリエィス」
「え?何?何か言った?楔ちゃん」
「いや、何でもない。気のせい」
気のせい気のせい。
懐未ちゃんの隣の子供は、私たちに構うことなく、携帯ゲーム機でゲームをしている。
もう少し細かく言うと、ワンダースワンでデジモンをしている。
チョイス古いな。何で持ってんだ。
「ねえ、楔ちゃん」
「――」
懐未ちゃんの呼びかけに応えようとして、ひどい耳鳴りに襲われた。
耳鳴りと言っていいのかもよく分からない感じだが、まるで針が鼓膜を突き破って脳まで突き刺さったかのような。
「いっつ…」
「く、楔ちゃん…。移動しよう。前の方に行こう」
「うん……?」
見回すと、周りの人も私と同じように顔をしかめている。
車両が曲がる時に聞こえる、車輪と線路の擦れる不快な金属音ではなかった。
全員が耳鳴り、というのも、おかしな話だ。
たまたま全員体調不良を起こしたのだろうか。
それはそれで怖いけど。というかそっちの方が怖いけど。
「なあ懐未ちゃん。懐未ちゃんも耳鳴りした?」
「うん、したよ。いいから前の方に行こうってば」
懐未ちゃんに手を引かれ、なされるがままに前方車両へと移動する。
揺れる電車の中を、ふらふらと。進んでいく。
「何をそんなに焦ってるんだ?知り合いでもいた?町でばったり知り合いに会っちゃうと気まずいタイプ?」
「べつにそういうんじゃないけど…」
「あ、親?見つかったの?」
「ううん。そうでもない」
「じゃあ何だよ。運転手さんの所に行っても入れちゃあもらえないぞ?」
そう言い終えて。
懐未ちゃんに握られた左手。反対の右手に――正しくは右手首に、掴まれた感触。
私の歩みが止まる。
こう言うと勝手に止まったかのようだけど、そんなことはなくて、『やばい懐未ちゃん、なんか後ろから手を掴まれたよこのままじゃ腕がちぎれちゃう止まってえ』という意味合いを込めて私の判断で立ち止まった。
「楔ちゃん?」
こちらを振り返った懐未ちゃんの大きな目が、さらに大きく見開かれた。栗色の瞳は、私の背後を見つめていた。




