013
「グッモーニン、外喰くん。今日はいい天気だね」
月曜日。
朝起きて、溜め息を吐く月曜日。
一週間で最も嫌悪すべき朝。
地獄の夜明け。
始まりにして終わり。
ゲロ以下のゴミカス。
「ちょ、ちょっと……月曜日のことをそこまで悪く言うことはないんじゃない?というか、私が話しかけて来たことに関して、少しでいいから触れてほしい」
「触れてほしい?その豊満な胸にか?少しと言わずいくらでも」
「え?ここで?どうしてもって言うなら、仕方がない。服の上から触るだけだよ…?」
「拒否しろや。盛り上がってんじゃねえ」
月曜日。
余裕を持って学校に到着し、自分の教室に鞄を置いてきた俺は、階段の踊り場にて、違う学科の(細かく言うとイラスト科)の九里古里千切に話しかけられていた。
ちなみに、話をするのは、宮方と戦ったあの夜――九里古里に告白されたあの夜以来である。
「しかし、お前が話しかけてくるなんてどうしたんだ?何かあったのか?」
「まるで何もなかったかのような口ぶりだね…。何かあったんだよ。何かあったでしょ?学校でも話しかけてくれていいって言ったじゃん」
「そう言ったのはお前の方だけどな」
「いや、よかったよ。私、学校で男の子の友達いなかったから」
「友達になった覚えはねえけど?」
「………………」
友達が少ないくせに――いや、友達が少ないからこそ、こういう線引きには異常に厳しい、悲しいぼっちの生態だった。
「私と友達になってほしいな」
「今後ともよろしく」
自分からは言わない。恥ずかしいから。
「ねえ、外喰くんって案外、器が小さいよね?」
「うん?それは聞き捨てならないな。おいお前、いつ俺の入浴シーンを覗いたんだ」
「私が言ってるのはその器のことじゃないんだけど…」
「その器って?どんな器なんだ?はっきり言ってくれないと分からないだろ?」
「その、つまり…何だ。言えないよ。恥ずかしくて。男性器のことだなんて」
「言った!!」
言わせるプレイだった。
朝から俺は何をやっているんだろうか。よく分からない。
「ああ、そうだ。話が下品になったからついでに言わせてもらうけど、私の異能は、私自身には使えないから」
「ん?お前の異能は下品ってこと?」
「あっ、ごめん。今の言い方は語弊がある。非常にある。語弊だらけ。私の異能を説明した時、外喰くんが変なことを言うからいけないんだよ」
「何か言ったっけ?なあ、俺何か変なこと言った?覚えてないんだけど」
「言ったよ。私は言われたもん」
「覚えてないんだよ。それが分からないと話がスムーズに進まないから、俺がお前に何て言ったのか、教えてくれないか?」
「ええ…何それ…。嫌だよ。覚えてないの?本当は覚えてるでしょ?ほら、私が『隷属回帰』はあらゆる異常を直してしまうとか何とか言った後」
「その時の俺の返事がキーになるわけか。なるほど。で、何て言ったんだ?」
「いや、だからさあ……。べつに思い出せないなら思い出せないでいいよ。そこまでして言うことでもないし」
「そんなことはないだろ。お前は『繁栄派』でも俺と敵対するつもりはないみたいだし、同じ異能力者同士、情報は交換しておくべきだぜ」
「何を真面目な顔して言ってるんだよ。いいってば。この話は終わりにしよう」
「終わりにさせるわけにはいかない。俺が何て言ったのか教えないと、うちのクラスにお前が何度も処女として再生してることを漏洩するぞ」
「それだよ!それだよ外喰くん!」
「え?は?俺はこんなこと言ってないけど」
当を得ない会話だ。
意味が分からない。
どうせ言うつもりもないのでどうでもいいが、そんなことを言いふらしても、俺一人が非難されるだけの結果に終わることは明白なのだった。
「正確には『驚いたな。それでお前は何回でも処女だと言い張れるわけか』と言ったわけだけど。いや、そもそも私はそんなことはしてないわけだけども」
「そうなのか。知らなかった」
「もしかして私との会話、全部忘れてる?……まあ、そうなんだよ。だから、私が処女と非処女を延々とクラスチェンジしてるみたいに言うのはやめてね。最悪言うのはいいけど、思うのはやめてね」
「言う方が問題あるだろ…」
「ついでに言うと66分66秒66前までの状態にしか戻せないから、仮に私自身に使えたとしても長時間のプレイだと取り返しはつかないね」
「ちょ、ちょっと待った!つまりお前には×××し放題なのか!?」
「だから私自身には使えないってば」
「いやいや、お前自身にじゃなくて出したそれに使えば…」
「そうだね。出したそれに使えばあるいは…」
2人して、真面目な顔をして黙り込んだ。
顎に手を当て、肘を抱いて。
ひょっとしたら、2人とも馬鹿なのかもしれない。
「……なあ、お前さっきから、自分のことを天然の処女だと言い張っているようだが、そんなことをして一体何の得があるんだよ」
「天然の処女って凄い単語だね」
自分でも言ってから、面白い言葉だな、と思った。
面白くはなかった。
「でも、私は事実外喰くんが言うところの天然処女だし。得はないけど、損もしたくないからね。男の人は、処女の方が好きなんでしょ?」
「おいおい、それは聞き捨てならないな。その言い方だと、まるで非処女がマイナス要素みたいじゃねえか」
「べつに私はそうは思ってないけど、男の人はそう思うんでしょ?外喰くんだって例外ではない筈」
「決め付けるんじゃねえよ。俺が処女厨かどうかというのはまた別の話になるけど、今は処女がマイナス要素かどうかというところだぜ」
「何で熱くなってるのかよく分からないんだけど、まあ聞くよ」
「ああ聞け。確かに非処女は言ってしまえば中古だ。そう言い捨ててしまえば聞こえは悪い。だけどな、場合によっちゃ処女だってマイナス要素にもなる」
「なるの?どんな場合?」
「例えば、33歳、独身、処女。どう思う?」
「ストイックでいいんじゃない?」
「そういう建前はいいんだよ。話のテンポが悪くなるだろ。仕事や趣味に打ち込んでるとか、そういうんじゃなくて、干物女?っていうわけでもなくて、ただ、それでも処女なんだよ」
「う、うーん……まあ、言わんとすることは分かるよ。売れ残りと言いたいんだね」
「言った!!」
伝わったならそれでよかったのに!
「でもまあ、そういうことだよ。90歳で独身処女とかだったらむしろ、王子様を夢見る素敵なおばあちゃんって感じで、応援したくなるけどな」
「うん、私も応援したい」
「関わりたくはないけどな」
「うん、私も関わりたくはない」
神職なら、そう人もいそうだけど。
いや、王子様は夢見てないだろうけど。
「処女がマイナスになる場合っていうのは分かったけど、非処女がプラスになる場合ってあるの?上手いとか、リードしてくれるとか、そういうんじゃなくてだよ?」
「そうだな。そこが大事だ。ここから先は想像力を働かせろ」
「もう既にドレスを着たおばあちゃんとか想像してたんだけど、分かったよ。着いていくよ」
ここからが本番である。
「まず、ヨーロッパの広大な大地を想像しろ」
「うん」
「町から離れた山に、有名貴族が住む城がある。辺りは川に囲まれていて、窓から小鳥に挨拶ができるような」
「素敵だね。一度でいいから行ってみたい」
「その城の主人は厳格で、髭を生やした痩せ型のナイスミドル」
「おお、格好いいね。何だか雰囲気出てきたよ」
「主人は数年前に妻を亡くし、城には病弱な幼い娘と数人の召し使いしかいない」
「ありがちだけど、やっぱりぐっとくるよね」
「主人は亡き妻を愛していて、その後も妻はとらなかった。そして妻と同様に娘も愛し、召し使い達にも優しかった。召し使い達も、主人とその娘と、そしてこの城を愛していた」
「ああ、駄目だ。私そういうの弱いんだよ」
「娘は毎日ベッドの上で暮らしている。窓から鳥を眺めて笑い、食事を運びに来る召し使いを引き止めて、よく話をしたがった。もちろん召し使い達も、それを嫌がらなかった」
「寂しいんだね…。もう皆家族だよ…」
「でも娘は非処女」
「この下衆!!」
突然の罵倒。
俺が何をしたというのか。
きょとんとした顔を浮かべていると、九里古里が続けた。
「今の話でどこがどう非処女がプラスっていう証拠だよ!」
「え、興奮しねえ?」
「しないよ!一体誰なのさ?娘に手を出したのは。まさか城の主人?」
「そんなわけないだろ。自分の娘に手を出すような父親がいるかよ。妻と同様に愛したってそういう意味じゃねえよ。いやらしい奴だな、お前は」
「とんだとばっちりを受けているよ私は…。じゃあ誰?使用人?」
「主人がそんな奴を見逃す筈ないだろ。それに使用人達の愛も本物だ。それともお前にとっちゃあ愛は愛欲なのか?とんだ淫乱だな」
「遠回しに私をいじめてるのかと疑うよ…。だったら誰なの?許さない」
「さあ、謎。でも、それが興奮すると思います」
「いや、分かんない」
「和漢じゃないだけに」
「より許せない!」
ぎりぎり歯軋りする九里古里。
こいつ、結構感情移入するタイプなんだろうか。俺のボケをスルーして娘に手を出した奴に怒りをあらわにしている。
「まあ落ち着けよ九里古里。今のは俺の作り話だからさ」
「あ、ああ、そうだったね……つい。でも外喰くん。今のが非処女のプラスポイントだとは、つくづく思えないんだけど」
「そうだな。言ってしまえば、清楚な子がビッチだったら興奮するって話」
「下世話だなあっ!」
分かりやすく極論を言っただけで、その実は違う。
わざわざヨーロッパの古城まで用意したのには、それなりにわけがある。こればっかりは、物語の雰囲気から感じ取れない以上は、伝えきれない。
もちろん、父親が犯人だというルートもあるが、俺は近親相姦モノが苦手なので、そのルートは回避させてもらった。
幸せな家庭でなければならない。環境には恵まれていなければならない。それでいて、陰がなければならない。
背徳感のあるエロス。それすなわちエロス。つまりエロス。
綺麗過ぎる背景を用意して、ドス黒い点を置く。
ギャップ萌えと、意味合い的にはそういっていいのだろうか。
コントラスト。
まるで闇夜に浮かぶ月のような。
「と、まあ。九里古里」
「何?外喰くん」
「散々こんなことを言ったもんだけど、お前、まだ俺のこと好きなの?」
「うん、もちろん」
即答だった。
俺九里古里には告白されている。
振ったけど。
べつに俺のことを嫌いになるように仕向けての下ネタ満載だったわけではないんだけど、まともに会話をするのが3回目だというのにこのトークでは、流石に常人ではドン引きではないかと踏んだのだが、そうでもなかった。
下衆なことを言ったつもりは多少あるけど、だからと言って九里古里が嫌がることを言ったつもりはない。この程度のことは、日常会話の範疇を全く出ないし。
それにしたって、男と女では価値観が違う。人と人では価値観が違う。
ズレが大きくなれば大きくなるほど、擦れて擦れて、千切れてしまう。
「私の愛がその程度のドン引きトークに負けるわけがないじゃない」
「あ、ドン引きはしてんのな」
「百年の恋も冷めるって言葉があるけど、それは流石に温め過ぎだね。もう腐ってるよ。一方私は一年の恋だから。まだ温め始めだからさ。大丈夫なんだ」
「何が大丈夫なのか分からんけど。恋は盲目ってヤツ?」
「それってさらっと自虐が凄まじいけど、そういう謙虚なところも好き」
「………………」
謙虚?謙虚ってこういうことだっけ?
検挙って言ったのか?
おいおい、流石に法はまだ犯してないって。
「とは言っても外喰くんも困るだろうね。私が外喰くんを好きなのは、長い時間を一緒に過ごして得た感情ではないから。遠目に見ていて、なんとなく好きになっただけだから」
そうはっきり言われると傷付くんだが……。
「前にも言った通り、こうして話すようになってみても好きだっていうことに変わりはないけど、どうなんだろうね。もっと深く接していれば、幻滅することもあるのかな?」
「幻滅されるようなことは全くないつもりだけど、そんなものは俺個人の観点でしかないからな。そうだ九里古里、お前、逆立ちって得意?」
「得意じゃないよ。壁がないとできない。でも何で?」
「女の子が逆立ちしてる姿にときめくんだけど、至って普通だよな?」
「変わってるよ」
「ああ、分かってるぜ俺は」
「変だよ」
変なのだろうか。このことを他人に話すのは初めてだから、どういう反応が返ってくるのか試したところもあるんだけど、そういうものなのだろうか。ひとえに胸が好きと言っても、でっかいのとちっさいのと、その他もろもろ好みがあるんだし、少数派の意見なんてものはこの世にいくらでもあるんだし、変であることが変だとは思わない。
「参考までに聞きたいんだけど、どういうところにときめくの?」
「おう。まず断っておきたいんだけれど、俺が好きなのは逆さに直立する倒立じゃなくて、ブレがあるあくまで遊んだ印象のある逆立ちなんだよ」
「特に何の誤解もしてなかったけど。うん」
「逆立ちをすると、否が応にも筋肉が引き締まって、綺麗な腹筋が見えるんだ。そこがまず一つおいしい。次に、あんまり上手くでき過ぎても問題だな。ちょっとふらつくくらいがいい。何というか、必死さみたいなものが感じられるとなおいい。逆立ち歩きをすると、体を弓なりにさせて、足をぶらぶらするだろ?その足の動きも、見とれてしまうんだよな。ほら、俺って足フェチだから」
「君は足フェチと一言で言い捨ててしまっていい存在なのだろうか…」
「べつにパンツが見えるから逆立ちってんじゃないんだぜ。俺はミニスカートが好きだし、もちろんスカートで逆立ちをしてもいいんだけど、やっぱりベストは膝上くらいの短パンだな。健康的で、しなやかな足の動きが見えればそれでいいんだ。足って眺めるものだし」
「熱弁をありがとう。とんでもない変態だったんだね」
「よせよ。照れるぜ」
「好意的な解釈をされたっ!」
年頃だから、人と同じはつまらないと感じるのだ。年頃だから。年頃だからね。
「というか外喰くん、下ネタトークはさっきまでで終わって、私の恋愛相談に乗ってくれる流れじゃなかったの?」
「本人に恋愛相談をする奴がどこにいるんだよ。まあでも確かに、恋愛相談とまでは行かなくとも、それに似た何かをしているつもりではあったぜ」
「じゃあ下ネタトークは打ち切ったつもりでいたのは私だけじゃなかったんだね」
「うん」
「口を開けば下ネタしか出ないのかよ君は」
いや。
待ってほしい。
講義したい。
非難される理由は分かっているが。言いたいことは分かっているが。
それでも俺にだって譲れないものがある。
「今のはべつに下ネタじゃないだろ!」
「そこ食い付くんだ…。だって、外喰くんの性癖の話でしょ?」
「それは確かにそうだけど!私、男の人の無骨な手が好きなのぉ。とかいうのも下ネタだと言うのかお前は!」
「それは下ネタじゃないでしょ。私は外喰くんのほっぺ、ぷにぷにそうで好きだな」
「え、九里古里さん。それは下の意味でですか……?」
「どう捉えたら下になるの!?私は外喰くんのほっぺに何をしようとしてるの!?」
「それはお前にしか分からないだろ」
「私にも分からないよ!」
何て奴だ。
自分で振っといて投げ出しやがった。
最近の若者は突貫力に欠けている。
「それを言うなら一貫性じゃないかな。今は戦国時代か何かかよ」
「人の間違いを指摘して得意になるなよ。お里が知れるぜ」
「と言われた手前非常に言いにくいんだけど、知れるのは器じゃない?」
「べ、べつに…そういう土地の出身かもしれないだろ。人の間違いを指摘して得意になる集落の出身かもしれないだろっ」
「卑屈な民族だね」
たぶん、全員目の下に隈があって、爪をよく噛んでる。
そんな民族。
「とまあ、日本語力が不十分なところをあえて見せ付けた俺だけど」
「………」
九里古里は人を疑った目をしている。
荒んでいるな。
「それでも、好きなのかよ」
「好き。逆立ちの練習しようと思うくらいには好き」
「マジか」
べつに諦めてほしいわけじゃないけど。
諦めさせようっていうわけじゃないけど。
ただ、付き合って幻滅させるのも悪いし、幻滅されるのは俺が嫌だし。
保身だった。
「でもさあ、まだ振ってまだ2日だぜ。告白を一大イベントと捉えてる俺にとっちゃ、そう頻発されるとありがたみっていうか、感動が薄れる気がするんだけど」
「乙女の勇気を振り絞った告白をお祭りか何かのように言ってくれるね。むしろ軽く考えてるのは外喰くんの方だよ。私は必死なんだよ。いや、必死とまでは言わないまでも、気持ちだけ見れば本気だよ」
「そこは盛れよ。誇張しろよ。謙虚になるなよ」
「私が今まで見ていたところ、外喰くんはあんまりモテる方ではないと思うけど、それでも誰かが掻っ攫っていってしまうかもしれないじゃないか」
「怖い世の中になったよな」
「いや、拉致被害の話はしてない」
「してないの?」
「茶化さないで。ご両親に挨拶に行くよ」
「ごめんなさい。許してください」
何て脅しだ。効き目抜群。恐ろしい。
「かと言って、外喰くんが付き合ってくれれば何でもいいわけじゃないんだよ」
「俺はお前が突き合ってくれれば何でも」
「死ねっ!」
こいつは淡々と話をするし、あまり表情を崩さないのでそういうキャラなのかと思っていたが、結構感情が表に出やすいタイプのようだ。
「冗談冗談。マイケルジョーダン」
「ああ、でも、そういうところも好きかも」
「忙しねえなお前」
「限りある人生だからね。焦って損はないよ」
「得もないだろ」
「ゆっくりしてるとスーパーの特売に間に合わないよ」
「出費しなくて済むだろ」
「捻くれてるね。そんなのも好き」
「無敵かこいつ!」
ちょっと怖くなるくらい。
「でもね。私ばっかり好きじゃしょうがないんだよ。外喰くんが私のことを好きになってくれなくちゃ意味ないんだよ」
「そうか。頑張れよ」
「うん。頑張る。差し当たって外喰くんの目を引くように地味な努力をするよ。外喰くん、さっき足フェチだとか宣ってたよね?ひょっとしてひょっとしなくても、生足が好き?」
「そりゃあ好きか嫌いかで言えば大好きだけど、でも、タイツも好きだぜ。特に初めて意識したカラータイツがお前のだということも手伝って、お前のカラータイツは好印象だよ」
「そう。よかった。明日もはいてくるね」
「おう。期待してる」
「期待してて」
そう言って九里古里は、階段を降りていった。
階段の下まで降りて、廊下を曲がる寸前で歩みを止め、こちらを向く。
「外喰くん。授業、もうとっくに始まってるよ」
「えっ?」
朝の小話のつもりが、少々冗長過ぎたようだ。
遅れて教室に入るのは恥ずかしいから、1限はサボるとしよう。
授業を終えて、学校を出て(教室の外にいた九里古里に、一緒に帰ろうと誘われたが、月曜日を理由にして断った)、電車に乗り降り帰宅途中、コンビニに立ち寄った時のことである。
「あーっ!」
甲高い声が店内に響く!
迷惑な客がいたもんだ。関わり合いになりたくないので、俺はそっと声のした方から離れる。そそっと。
「いや、いやいやちょっと。待ちなさい。あんたよあんた。外喰要」
実は聞き覚えのある声だった。
『繁栄派』『戦闘班』『魔獣』の異能を持つ少女――余口初古に絡まれていた。
「よう、初古じゃねえか。どうかしたか」
「どうかしたかじゃないわよ!あ、外喰。よく宮方に殺されなかったわね。まずはおめでとう」
「どうもありがとう」
「でもね、私が今回呈したいのはそんなことじゃないわけよ」
「と、言いますと?」
「何で黙って帰ったの」
初古と最後に会ったのは、先週の土曜。先週と言っても2日前である。2日前の出来事くらいは簡単に思い出せる。たぶんこの少女が言いたいことというのは、俺がトイレに行くと行ったまま店を出て行ったことだろう。
「何でと言われましても」
「私、待ってたのよ?トイレに行ったきり戻って来ないなーと思って、ずっと待ってたのよ?1人で何も注文しないで、店員の視線に耐えながら、ずっとよ。ずっと。最終的には、店員と一緒にあんたのこと探し回ったんだからね?」
「マジで?お前、察しが悪いなあ」
「そりゃ帰ったのかなとも思ったけど!でも、ずっとトイレにこもってて、私1人で帰っちゃったら悪いなと思って…」
「いい子いい子」
「わーい!ぶち殺すわよ」
「すいません」
「店員に声かける前に、1人で男子トイレ探しに行ったんだから」
「襲われなかったか?」
「ちょっと表出なさい」
「すいません」
「パッと見てもいないし、お腹痛いのかと思って、個室を一つずつノックして回ったのよ?」
「お前はトイレの幽霊か」
「ふん!」
足を踏まれた。
いや、全然痛くないんだけど。
初古は、俺の足を、自らの足で踏みつけたままの体勢で続ける。
「知らない人がね、個室から出てきたのよ。私は身構えたわ。通報される!と思ってね」
「すげえ小物……」
「案の定怒られたわ。まあ、注意を受けた程度だったけど。そんなことがあってね。だから外喰、私はあんたから一言頂きたい」
「はあ……そうすか…」
「そういう態度やめて。何だか1人で熱くなってるみたいでみっともないじゃない」
1人で熱くなってるのは事実なんだけど。
「何だよ初古。何て言ってほしいんだ?ほら言えよ、何でも言ってやるからさ」
「分かんないの?今の流れで。謝罪がほしいのよ私は。一言ごめんって言えば、許してあげるわ」
「一言ごめん」
「一言はいらないってば」
「じゃあ一言も言わねえ」
「あんた意地が悪いわよ!」
「何だよそれしきのことでカッカカッカと。それでも『繁栄派』最強かよ」
「そ、そうよ。最強であるためには繊細でないといけないのよ」
「最強にごめん」
「とうとう最強まで馬鹿にしたわね!」
「馬鹿にはしてねえよ。ところで最強って何?」
「知らないんだ!?」
こいつを茶化すのは楽しいなあ。
「細かいなあいつまでも。お代は払ってやったんだからいいじゃねえか」
「時は金なりって言うでしょうが。私の3時間を返してよ」
「3時間も1人ドリンクバーで粘ったのかよ…」
「3時間22分よ。ねえ外喰、私も正直もうどうでもよくなりつつあるけど、それだと今後の私の扱いのぞんざいさに拍車が掛かりそうな気がするから、形だけでも謝ってよ」
「サーセンっしたぁ」
「もうちょっと気持ち込められないの?」
「これ以上はちょっと……」
「不屈ねこいつ…」
俺の足から足をどけ、腕組みをする初古。
「まあいいわ。許してあげる」
「これはこれは。光栄の至りであります」
「むかつくから敬語やめなさい」
「お前こそむかつくから溜め口やめろよ」
「え、あ、ごめん…。そんなこと気にするような人だと思ってなかったから……」
メンタル弱ぇ。
「いや冗談だよ。気にすんなよ。べそかきそうな顔になってるぞ」
「なってないわよ!……よかった。これからもあんたには溜め口で偉そうに話していいのね?」
「偉そうに話してる自覚あったのかよ」
「まあ、なくはないわ。最強たるプレッシャーが、私にそうさせているのかも」
「ごめんよく聞こえなかった」
「何でもないわよ……」
しょんぼり。
そんな擬音が目に見えた。
「あ、そうだ。外喰」
「何だよ初古。水臭いな。苗字で呼ぶなよ」
「え?何いきなり。どうしたの?」
「どうもこうもねえよ。俺ばっかり名前で呼ぶのも変だろ。あと余口って言いにくいんだよ」
「外喰の方が言いにくいんだけど…。じゃあ。か、かな…かかかっ…」
「アシュラマンかお前は」
「違うわよ。何か、意識すると呼びづらいっていうか何ていうか」
「無意識でいいよ」
「いいよと言われても!」
「何だよ、べつにいいじゃねえか。子供なんだから、相手のことを苗字で呼ぶような習慣まだないだろ」
「それは偏見だと思うけど。私、学校とか行ってないから、周りのことはよく分からないわ」
「学校行ってねえの?」
「うん。行く必要もないし。保護者いないし。住民票もないし」
「ふうん。大変だな」
「べつに。学校行ってる方が大変だと思うわよ」
「じゃあ今度、セーラー服買ってきてやるよ」
「………………意味が分からないけど」
「分からないなら分からないでいいよ。無理すんな」
「うん。無理しない」
ドンキで3000円程度だった筈。
俺が制服のチョイスを考えていると、初古が何やら思いついたような顔をした。したり顔をしたりした。
「かなちゃん」
「は?」
「あだ名なら呼べそう。ねえ、かなちゃん」
「おい、やめろ。せめて『め』までちゃんと言え」
「いや、下の名前はちょっと恥ずかしいのよ。かなちゃん」
「それは俺が恥ずかしい!」
「何で?可愛いじゃない。かなちゃん」
「やめろー!」
いじり側といじられ側が逆転してしまった。
初古が外ハメとか言い出さなくて本当によかったけれど、でも、とはいえ、かなちゃんはない。かなちゃんはないわ。
女の子の名前みたいになっているじゃないか。
過去にも苗字は例の通り、名前の方でもウィスパードだのグリジャル・グリージョだのと言われたものである。
「そんなに嫌がることないじゃない。あ、そうだ。携帯の番号教えてよかなちゃん」
「はあ?嫌だよ。俺かなちゃんじゃないし」
「ガキかあんたは…。この前みたいに勝手にいなくなられると困るから。ねえ、教えてよ。教えなさいよ」
「かなちゃんって呼ばないなら教えてやるよ」
「呼ばない呼ばない」
初古に携帯の番号を教えてやった。
「オッケー。ありがとね、かなちゃん」
「あ、お前この野郎!」
「じゃーねー!」
別の客が自動ドアを開けたタイミングを見計らって、ダッシュでコンビニから出て行く初古。買う物はなかったのだろうか。コンビニに何しに来たのだろうか、あいつ。もしかして買い物を忘れてしまったんじゃないだろうか。馬鹿である。
と、そこまで考えて、気が付いた。
この間もやらかしたミスだというのに。
電話帳に登録する際に困るのである。
「あいつの字、知らねーや」




