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「遺小説」と題された父の小説は父のデスクトップのパソコンの中に収められていた。
「遺言書」は生前からその場所を伝えられていた。父の机の上の小箱に納められていた。
「遺言書」に「遺小説」のことが次のように書かれていた。
「遺小説、生きているうちに、どうしても書きたかった、書かねばならなかった小説。読むも自由、読まぬも自由」
不愉快極まりない小説だった。志穂の母を父が殺害した、そう読むしかない内容だからだ。
義母にこの存在を知らせなかった。内容に不安を感じたからかもしれない。知らせたら間違いなく義母は読む。義母に知らせなかった、このことだけは良かったと心から思う。
しかし、父は何を考えているのか。
これを残して、そして「真実」を語って父は満足かもしれない。
私はいい。しかし、志穂はどうなる。志穂を幸せにすることこそ父が考えるべきことなのではないのか。これを読んで志穂が幸せになるとでも思ったのか?
志穂には読ませるべきではなかった。しかし、それは不可能なことだ。志穂はもう家族だ。遺言書を見せないなどという選択肢はなかった。
志穂は小説の存在を知ると、「お義父さん、きっと本当のこと、書いてる。すぐに読ませて」と言って、嬉々として読み始めてしまったのだ。私が読むよりも前に……。
志穂としては、当然の行動だった。
読後の志穂の様子は不思議なものだった。いや、当然のことか。志穂はまるで、小説のことを意に介さぬかのように、読む以前と変わらぬ生活を送った。私が読んでいるのを見ても、小説のことには一切触れなかった。
父の死から1か月ほど経ったある休日、私は志穂から質問を受けた。その時、私は志穂との食事を終え、テレビのニュースを茫として見ていた。義母はもう梨園に出かけていた。
「お義父さんは母を本当に殺めたと思う?」
私は返答に戸惑う。私も本当は父の殺害を認めたくない。しかし、父は小説に自分は殺人者だと明確に書いているのだ。
志穂は続けた。
志穂の表情が明るいのが不思議だった。
「安心して。お義父さんは母を殺してなんかいない。父と同じように、お義父さんも二度目の殺人者だったの。間違いないわ。お義父さんは子どもを抱えた母を見て、許せないと思った。お義父さんは母を深く愛していたからこの裏切りは耐えられなかった。おかあさん(太田邦夫の母)の不倫のことで、苦しみ続けたお義父さんだから、殊更そう思ったに違いないわ。お義父さんにとって母は聖女そのものだった。きっとそうよ。だから、私を産んだ母を殺したいほど憎んでしまったんだわ。そして、そんなお義父さんの気持ちをまるで誰かが汲んだかのように、内ゲバで母は亡くなった。お義父さんは殺人者にならずに済んだ。でも、若し、内ゲバがなかったら、殺していたかもしれない……。いいえ、違う。そんなことは絶対ない。一度でも殺したいと思った自分が許せなかっただけだわ。深く愛していたから。お義父さんが小説の中で自分を殺人者と表現したのはお義父さんにとってはそれは本当の殺人と同じことだったからよ。そう同じこと。きっとそれだけ。だから、私の父と同じ。ただの二度目の殺人者。お義父さんは絶対母を殺してなんかいない。よく考えてみて。この小説で、殺したなどとお義父さんはどこにも書いてないのよ。それに、内ゲバ偽装など荒唐無稽でとても可能とは思えないわ。お義父さんは一体何個のヘルメットと何本の鉄パイプやバールを持って母のところへでかけたの?そんなの不可能よ。無理よ」
志穂はそう思いたいだけだろう。私のことも考えた末の志穂の読み方なのかもしれない。いや、志穂のような読み方もできるのかもしれない。が、とてもそれを肯定できない自分がいた。志穂に申し訳ないと思う気持ちが私を濃く深く覆っていた。
いつまでも暗い顔を変えない私に焦れるように志穂は更に力を込めて言葉を繋いだ。
「邦之さんはお義父さんを悪く見すぎよ。お義父さんは私の父と全く同じ。尊敬できる人よ。いいえ、父より立派です。覚えている?邦之さんが宮澤賢治の雨ニモマケズで二人を比較したこと。私の父は献身的な生き方、お義父さんはデクノボウのような生き方をしたって邦之さんは言ったのよ。その話をお義父さんにしたら、否定しなかったわ。それが、お義父さんの良心からの、心からの生き方なのよ。邦之さんはそれを知るべきだわ。それにね。決定的なのはお義父さんが教師の道を選んだこと。お義父さんが本当に母を殺めたのなら、絶対教師は選ばない。あのお義父さんに選べるわけがない。第二の殺人者だから、だからこそ、だからこそ教師の道を選んだんだわ。お義父さんはそういう人よ」
最後には私への捨て台詞のように言い残して、いつものように小型のヘッドフォンを着けて志穂は出て行った。義母の手伝いに行くために。
ヘッドフォンから流れているのはジャニス・ジョプリンの「チープ・スリル」というアルバムだろう。志穂から頼まれて、苦労して手に入れたCDだ。志穂の実母の思い出のアルバムだからだろうか、それとも、志穂も気に入ったのだろうか、志穂は応接室でもステレオで一人で聴くことも多い。聞きながら、志穂はよく泣いていた。志穂にとって実母が今もどういう存在であるかがよく分かる。
では、私にとって「父」は?
私は父を想う。
「真実とは何だろう。父が語りたかった真実はどこにあるのだろう。父は本当に義母を殺めたのか?第二の殺人者に過ぎないのか?」
私にとっての「父」は、どのように見る角度を変えても、時間や場所を置き換えても、どんなに悲痛であろうとも、ここからしか生まれないのだ。
父に尋ねる。
父の返答はない。
でくのぼうの、無意味なあの笑顔だけが浮かぶ。
いつだって、そうだった。私にとって父は存在しないに等しい、無益、無害な愚物だった。しかし、あんな小説を残してなお、愚物で居続けるのか。
涙が止まらない。
この何の涙なのか。
答は見つからない。
ただ、滴り落ちる涙に身を任す。
そのうちに私は声を上げて泣く。
漸く、漸く、父が言葉を発した。
邦之。邦之……。と。
そのあとの言葉は茫漠として聞こえない。
-あとがきー
この小説では、神奈川県大和市に遺る歴史的資料、「姥山伝説」「優婆尊尼像」「福田開発九人衆」「田辺家系譜」「相定候一札之事」が小説を展開するうえで重要な構成要素として用いられています。但し、人物名は勿論(いとは想うところがあり、実名のまま使用しています。)、小説の内容に合わせて、資料の一部に手を加えており、真の資料ではありません。しかしながら、この小説が大和市に関わりのある方々はじめ、全国の、一人でも多くの方々に読まれることを通し、これらの史料の存在が更に認知され、インターネットや「大和市史」等で、最大級の関心をもって真の資料に触れていただけたらと願っております。
また、大和市に遺る前記の史料と同様、全国各地に遺る、真に歴史を支えた人々の史料がより注目され、その価値がより高まることを願って止みません。




