謎の広がり
俺は目覚ましの音で目が覚めた。
妙にその音に恐怖して、いつもより早く目覚まし時計に反応していた。
俺の目覚まし時計の音を聞いて、俺に殺意を持つやつがいたら。
心の隅で、そんなことを考えたからかもしれない。
とにかく、顔を洗い、髪を整え、会社に向かった。
普通にしていればあんなことは起こらない。
絶対にだ。
俺は会社に着くと、いつも以上に業務に集中した。
昼飯を食べて、再びオフィスで仕事を始めた。
平和だ。
大した意味はないが、昨日のようなことがないと考えるだけで、平和で幸せなのだ、と俺は思った。
『カシャン!』
キーボードを叩いたり、マウスをクリックする程度の音しかない職場で、不釣り合いに大きな音。
その音に、俺はイラッとしてしまった。
だが、俺は昨日のことがあったために、胸に手を当てて三秒耐えた。
うん、別にこんなもので怒る方が損だ。
俺は冷静になって、自分の業務に戻った。
再び、部屋が静かになった時、それは起こった。
『カシャン!』
俺は音の出所を見てしまった。
課長が、キーボードの上で『ペン回し』をしていたのだ。
ペン回しとは、人差し指、中指、親指でペンをもち、中指で弾くようにして親指を中心にしてペンを回し、人差し指と親指でキャッチすると言うものだ。
だが、うまくキャッチ出来ない為、そのまま下にあるキーボードに落ちて『カシャン!』と言う音が出ている。
キーボードもキーボードで、音が立ちやすいフルキーボードで、ペンは如何にも高級で重そうな金属製のやつだ。
俺はもう一度、胸に手を当てて三秒耐えた。
気持ちが収まり、このことで課長を責める必要はない、と思った。
「課長!」
先輩が突然、課長のところに向かって歩いていった。
「ペン回し、やめてください。異常に気になります」
「別に良いだろう。話し合っている声の方が大きい」
「気になるから、やめて欲しいんです」
俺は先輩の様子がおかしい、と思った。
「警告しましたよ」
先輩はそういうと、自席に戻って行った。
しばらく何もなく、勤務は続いた。
俺は気分転換に、廊下に出た。
先輩がスマホに何か入力しているようだった。
そして俺と入れ違いにオフィスに戻っていく。
「……」
俺は気になったので、スマホを取り出して、SNSを見た。
先輩のアカウントで、新しい書き込みがあった。
『ペン回し課長。イラつく。ふざけんな』
なんだろう、いつもの書き込みと雰囲気が違う。
俺は先輩の投稿に変はリプ…… 例の「@」しかないアカウント…… が書き込んでいないかチェックした。
ない。
……いや待て、俺は何を考えてるんだろう。
何かヤバいことが起こることを期待しているのか?
「ちょっとあなた」
声に反応して俺は振り返った。
そして振り返った時に「ぐいっ」と服を引っ張られた。
鼻と鼻がくっつきそうなくらい顔が近づく。
近すぎて、よく顔が見えない。
「生活に乱れがあるみたいね。注意なさい」
言葉より、かかる息に気が取られてしまった。
言ったと思うと、引っ張っていた服を押し返された。
後ろ姿が廊下を進んでいく。
グレーのジャケットとスラックス。長い髪を括っているところから、神社の白い紙が垂れていた。
「君、うちの社員?」
女性は軽く手を上げて応えた。
俺は廊下を追いかけたが、曲がった角で見失った。
時刻を確認し、それ以上追いかけることはしなかった。
休み時間を長くとってしまったからだ。
俺は慌ててオフィスに戻った。
椅子に座り、業務を続けると、何か雰囲気が変だった。
いつもより静かな気がした。
キーボードやマウスのクリック音が、気を使っているのか、小さく少ない気がする。
俺は周囲に目を向けたが、目が合うことはなかった。
何かあったのかもしれない。
あるいは、さっきの先輩の発言が影響したのかも。
俺は椅子を調整した際に、少し音を立ててしまった。
「チッ」
どこからか舌打ちが聞こえた。
俺は誰とは分からないが、謝るように頭を下げた。
静かすぎて、妙に気が散る。
なるべく音を立てないようにしていた。
『カシャン!』
課長が、また『出来もしない』ペン回しに挑み、失敗し、キーボードにペンを落とした。
あちこちから舌打ちする声が聞こえた。
「……」
誰が舌打ちしたとかは関係ない。
俺は立ち上がって、課長のところに行った。
「まずいですよ」
「何がだ」
俺には「パチパチ」という焚き火の木が爆ぜる音が聞こえてきた。
「ペン回しが、ですよ」
「仕方ないだろう。練習中なんだ」
会社で、しかも業務時間中にペン回しの練習…… それが大人のやることか。
抑えていた怒りが、俺の中で渦巻いてきた。
その時、目の前を煙!? が流れた。
「!」
……ない。いや、確かに煙が流れたように見えた。
過去の事例と、条件が一致しすぎている。
俺は課長を廊下に連れ出した。
「いいから引っ張るな。思い出した。確かにさっき言われてた。うるさいからペン回しをするなと」
「そんなことより、ヤバいです。殺されちゃいますよ」
「はぁ? 何言ってんだ、お前」
課長は一つ間を置いてから、思い出したように手を叩いた。
「昨日、事件に巻き込まれたって言ってたな。会社で決めた医師がいるからそこに相談するとか、しばらくテレワークするとか。何か対応した方がいい。心が病んでるんだ」
「ひ、否定はしませんが、けど、万一」
俺はスマホを開いてSNSをチェックした。
先輩の書き込みがある。
『業務中にペン回しなんかしやがって』
リプを追っていく。
違う、リプは『消された』後に書き込まれるんだ。
「俺はやることがあるんだよ」
「課長、待っ……」
課長はIDカードを扉傍のカードリーダーにかざし、部屋に戻ろうとする。
その時、エレベーターが到着し、エレベーターの扉が開いた。
「!」
そこにいたのは包丁を持って、ニヤリと笑う男。
俺はその瞬間、こいつが課長を殺すに違いない、と思った。
咄嗟に、カードリーダーの近くのボタンを押した。
確か、このボタンは警報装置だった…… はず。
警報音が鳴り響く。
流石にこの警報音がなれば、男も慌てるだろう。
だが、その男は口を軽く開いたまま、こちらに近づいてくる。
扉は閉まった。
IDカードを操作しない限り、オフィスの扉は開かない。
「開けろ。そこにいるだろ『ペン回し男』が」
なんでそんなことを知っているんだ。
男は包丁を俺に向けて脅した。
そのまま扉を開けるため、俺が首にかけていたIDカードの紐を引っ張った。
「やめろ!」
俺が男の手を握った瞬間、互いの体に電気が流れた。
いや、本当に流れたのかは分からないのだが、コンセントに触れてしまった時のような、ビリビリとした感覚が俺の体を走った。
「!」
その時間は、数十秒、いや数分に思えた。
俺は動けないまま、天井を向いて倒れてしまった。
よく見えなかったが、包丁を持った男も、俺と同じように倒れてしまった。
俺の手がスタンガンのような役割をしたと思われた。
「大丈夫ですか!?」
そこへ警報に駆けつけたビルの警備員がやってきた。
俺は体が痺れたように動かない。
「こっちの男、包丁を持ってる」
警備員が無線を使って、警備室へ連絡する。
「警察に連絡を! それと、救急車」
俺は昨日に引き続き、病院に運ばれた。
そして警察がやってきて、状況を説明させられた。
警察の人は、昨日とは別の人だったが、何か情報は共有されていたようだ。
「昨日も、今日も、あなたが刃物男の一番近くにいたことになります。何かあなただけがしていることがあるのではないですか」
警察は、そう訊いてきた。
俺はSNSのことを話そうか迷った。
それに今回は未遂に終わったわけだから、例のリプはないはずだ。
それでは弱すぎる。
「……特にないです」
警察は何か言いたげではあったが、帰って行った。
警察が帰った後、俺はトイレに行った。
鏡に映る自分の姿に、違和感があった。
その違和感は、服の胸ポケットだった。
手を突っ込んでみると、焦げた紙が出てきた。
「……」
紙は四角く折りたたんであり、梵字のようなものが書いてある。
「お守り?」
俺は、廊下で会った女性のことが頭によぎった。
こんなものが胸ポケットに入るなんて、あの時しかない。
この小さな紙切れが、包丁男を痺れさせ、動けなくした。
そう考えるのが自然に思えた。
「あの人は何者なんだ」




