店の客
職場につくと、俺はワイヤレスイヤホンを外した。
「おっ、新しいワイヤレスイヤホン買ったのか」
職場の先輩が声をかけてきた。
「おはようございます。そうなんです、前のやつ、変な音がし始めたと思ったら壊れちゃって」
「ああ、そんなことSNSで書いてたな」
教えたのではないが、先輩には俺のSNSはバレていた。
「あれ、覚えてたんですか」
「今日は朝から大変だったようだな」
「そうなんですよ、もううるさくて」
苦笑いして見せると、先輩は軽く肩を叩いてくれた。
「気晴らしに、帰り、飲みいくか?」
俺は頷いた。
仕事が終わり、俺と先輩は職場近くの居酒屋で飲み始めた。
安い店のせいか、席と席の間隔が狭かった。
「今朝は災難だったな」
「本当にあの爺さんにはまいりましたよ」
「もう秋だからいいけどよ。ウチは窓も壁も薄くて早朝から『セミ』の声がうるさくて、寝てられないんだよ」
俺は首を傾げた。
「うちも窓も壁も薄いんですけど、セミの鳴き声は聞こえないです」
「ああ、あれって、鳴く時の気温の範囲があるんだ。きっとお前んとこは『暑すぎる』か『涼しすぎる』んだろう」
何かあったような。
セミ…… そういえば、セミもうるさかったな。
そうだ、うるさかったんだ。
「思い出した。お前んとこもセミうるさいだろ。SNSに書いてたもんな」
そうだ、あの時SNSに書いてからセミがおとなしくなったのだ。
俺は背中に汗を感じながら、不快な気持ちで目覚めた。
セミがうるさい。
どうして朝から鳴くんだ。
俺はSNSに書き込む。
『なぜか朝からセミが全力で鳴いて目が覚めた。本当にやめてほしい』
リプが入って、俺はそれを読んだ。
『しかないですね。なんとかしましょうか?』
いや、住所を教える訳にもいかない。
俺はリプを無視していたのだ。
だが、あの時も、あのパチパチ言う音を聞いた。
今日も見た、あの消えてしまう煙も……
それだけじゃない。
へんな書き込みも見た。
『どうです? 静かになったでしょう』
俺は気持ち悪くてそのメッセージも無視した。
思い出しながら、俺は先輩の顔をじっと見ていた。
「どうしたんだよ。なんか俺の顔に気になることがあるか?」
「先輩、ウチのセミ対策をしに来てないですよね?」
「は!? いきなり何を言うんだよ。なんか食いたいものあったら頼んどけ。ちょっとトイレ行ってくる」
先輩は立ち上がると、そのままトイレに行ってしまった。
複数のアカウントを持っているならともかく、あれが先輩のリプではないのは確かだった。
俺は先輩に言われるまま料理を選び、スマホで注文をした。
ふと、気づくと、隣の席のおじさんが目に入った。
二人席に一人で座って飲んでいるようだった。
同じようにスマホで注文をしているのか、舐めるような距離でスマホを見ながら、食事をとっている。
『クチャクチャ』
うわっ……
俺は引いた。
そう言えば、食べたり先輩と話している時は気が付かなかったが、変な音は聞こえていた。
こいつがその音源だったのだ。
隣のおじさんは、口を開いて咀嚼する人。いわゆる、クチャラーだ。
俺はスマホ注文の続きのフリをしてSNSに書き込んだ。
『めっちゃキモいおっさんが、クチャクチャ食ってやがって吐き気する』
先輩がトイレでスマホを見てたら、このメッセージに気づくだろうな。
俺はその程度の気持ちだった。
先輩が帰ってこないので、スマホを見ていると、リプがついた。
『いますね。キモい人が。こっちも好きくないんでやっちゃいましょう』
なんだろう。
共感してもらえればいいのに、『やっちゃいましょう』というのは……
パチパチ。
焚き火が爆ぜる音がした。
朝の音は、夢で見た音が頭の中で繰り返されたのだと思っていた。
今は、かなりはっきりと聞こえた。
このパチパチと言う音は、いったい何なのだろう。
目の前を、煙のようなものが通り過ぎ、店の奥へ消えた。
先輩、早く戻ってきてください。
このままでいるのが、不安でしかたない。
そんなことを考えていると、店員たちが騒ぎ出した。
「店長、店長!」
「店長、危ないから包丁置いてください!」
「店長!?」
俺の視界にも『店長』らしきエプロンをしたおじさんが入ってきた。
おじさんは、先の尖った刺身包丁を握っている。
恐ろしいことに目つきが『イッテ』しまっていた。
「やべっ!」
俺は店長と呼ばれるおじさんと目があった。
店長は俺の顔を見てニヤリと笑う。
逃げ遅れた。
俺は完全にやられた、と思った。
その時、店長は急に後ろを振り返った。
「クチャラーは許せねぇ」
俺はこの隙に逃げようと立ち上がった。
「死ね!」
隣の席でクチャクチャ食事をしていたおじさんの胸に、刺身包丁が突き刺さった。
人が刺されるのを見てしまった。
俺は腰が抜けて、尻もちをついてしまった。
刺して抉り、刺して抉り。男は何度も包丁を刺した。
吹き出す血が、周囲を赤くする。
悲鳴や叫び、驚いた人が食器を落として割る…… そんな騒ぎになっていた。
混乱の中で、俺は自分の鼓動が聞こえるかのような錯覚に陥っていた。
息が…… 出来ない……
血で顔や服が赤くなった俺は、気が遠くなっていった。




