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第8話 流れ弾と計算された偶然

 午後の実技演習が始まって、もう一時間が経っていた。

 グラウンドの片隅で老木にもたれかかったまま、俺は腕を組み、目を閉じて泰然とした姿勢を保っていた。

 傍から見れば、退屈を持て余した最強のS級が瞑想でもしているように映るだろう。


 だが実際には——俺の全神経は、グラウンドの全方位に向けて、全開で研ぎ澄まされていた。

 ローブの下で握った錆びた短剣が、微かな痺れを指先に伝え続けている。

 システムの吸収受信、スタンバイ状態。

 来い。頼むから来てくれ。蚊の一刺しでもいい、俺に「魔力」をくれ。


 新入生たちが、グラウンドの中央で懸命に模擬戦を繰り広げている。

 炎の矢が飛び交い、土壁がせり上がり、風の刃が空気を切り裂く。

 だがその魔法のいずれも、俺から何十メートルも離れた場所で完結している。

 流れ弾すら、俺のいる方向には一発も飛んでこない。


(マジかよ……。こいつら、俺がいる方角だけ異常なほど正確に避けて撃ってやがる。どれだけ俺を恐がってんだ)


 地面に敷いたローブの端を、苛立ちを抑えてぎゅっと握りしめた。

 グランヴィルの件がここまで尾を引いているとは。

 あの「無傷の圧勝」が、完全にトラウマに化けている。

 俺の周囲半径三十メートルは、もはや学園内で「禁域」扱いだ。


 演習が続く中、俺はさりげなく位置を変えていった。

 休憩を装って立ち上がり、グラウンドの別の端へ移動する。

 そこはちょうど二つのチームの交差点に近い場所で、流れ弾が飛びやすい位置のはずだ。

 だが、俺が腰を下ろした瞬間——。


「ひっ! アルト様がこっちに……!」

「全員、あっち側に向けて撃て! 絶対にあの方の方角には撃つなよ、いいな!」


 新入生たちが即座に、全ての魔法の軌道を補正する。

 まるで磁石のN極同士が反発するかのように、俺のいる方向だけ完璧に攻撃が避けていく。


(……詰んでる。完璧に詰んでる。これが皮肉でなくて何だ。「最強」を演じたせいで、誰も攻撃してこない。攻撃してこないから、借金が返せない。借金が返せないから、死ぬ。死因:平和すぎて死亡。墓石にそう刻まれるのか、俺は)


 額に手を当て、深いため息をつく。

 このままでは、対抗戦の前に利息の支払いが追いつかなくなる。

 何か——何か別の手を打たないと。


 その時、不意に——グラウンドの空気が変わった。


「おい、見ろよ。あれ——」

「マジか……あの人がグラウンドに来たぞ」


 ざわめきが波のように広がる。

 俺が視線を上げると、グラウンドの正門側から、真紅のローブを翻した長身の人影が歩み入ってきた。

 金色の髪が春の日差しに煌めく。取り巻きの上級生を数人だけ従えた——カイル・ヴェスターマンだった。


(おいおい。わざわざ一年生の演習場に来たのか、あいつ)


 カイルは悠然と、だが明確な意図を持った足取りでグラウンドを横切っていく。

 その進行方向は——疑いようもなく、俺のいる老木の方だ。


 俺は即座に、心の中でスイッチを切り替えた。

 内心の焦りと疲労を、表層の「傲慢で退屈な超越者」の仮面の下に叩き込む。

 姿勢を正し、腕を組み直し、口角をわずかに上げる。

 完璧な「余裕」の形を、全身で作り上げた。


「——また来たのか。暇な生徒会長だな、ヴェスターマン」


 俺は彼が近づくのを待たず、先手を打って声を飛ばした。

 挑発は先手必勝。相手に主導権を握らせてはならない。


 カイルが立ち止まった。

 その冷たい碧眼が、射抜くように俺を捉える。

 だが、昨日の怒気とは違う。今日の彼には——計算がある。

 俺にはそれがわかった。同じ「計算する側」の人間だからこそ。


「暇ではないさ。むしろ忙しいからこそ、来た。対抗戦の運営委員長としてな」


 カイルは取り巻きの一人から受け取った書類の束を、俺の前にすっと差し出した。


「ランク対抗戦の出場確認書だ。S級代表——アルト・レーエン。署名をしろ。出場辞退は認められない。それは昨日伝えた通りだ」


 書類に目を通す。

 正式な学園の書式だ。出場選手の署名欄、使用魔法の事前申告欄(未記入でも可)、負傷時の責任免除条項。

 ——そして、最後のページに。


『S級代表の対戦は、トーナメント最終戦(決勝)に固定。対戦相手はA級トップランカーとする。なお、現在のA級トップランカーはカイル・ヴェスターマンである』


(……決勝固定。つまり、俺はトーナメントの下位試合を全部すっ飛ばして、いきなりカイルとの一騎打ちか。ありがたい。途中の小物との試合で偽装がバレるリスクがゼロになる)


 だが同時に——それは、カイル以外から魔力を稼ぐチャンスもゼロということだ。

 まあ、もとより下位ランクの連中の魔法など、利息の足しにもならないと思っていたから、そこは割り切れる。


「ずいぶんと入念にルールを確認するじゃないか。まさか——逃げ口を探しているのか?」


 カイルの声に、わずかな挑発が混じっていた。

 俺は書類から目を上げ、にやりと笑う。


「逃げる? 冗談がキツいな。俺はただ、お前がどれだけの覚悟でこの書類を持ってきたのかを——文面から味わっていただけだ」


 ペンを取り、署名欄にサインを叩きつけた。

 「アルト・レーエン」——流麗とは程遠い、だが力強い筆跡。

 スラムで覚えた、野犬のような荒々しい文字だ。


 書類をカイルに突き返す。

 カイルは俺のサインを一瞥し——その整った眉が、ほんの一瞬だけ、不愉快そうに歪んだ。


「——ヴェスターマン。ついでにもう一つだけ聞いておく」


 俺は立ったまま、カイルと正面から向き合った。

 ここからが、本番だ。

 対抗戦でカイルの怒りを最大化するための、布石の第一手。


「お前、対抗戦で何を使うつもりだ? 氷か? 風か? それとも、両方の複合技か?」


 あえて、相手の手札を見透かしたかのような質問を投げる。

 カイルの目が、かすかに細まった。


「……なぜ俺の属性を知っている。教師からのリークか?」

「誰かに聞くまでもない。お前の立ち振る舞い、話し方、怒りの質、周囲の空気の揺れ方。それだけで十分だ。——お前の魔法の型は、氷を基盤にした精密制御型。一撃の効率を極限まで追求するスタイル。違うか?」


 嘘だ。全部ハッタリだ。

 俺は魔力のことなど何も感じ取れない。カイルの属性情報は、今朝の朝食時にこっそり学園の過去の対戦記録を読み漁って調べただけだ。

 だが、まるで「一目見ただけで全てを見抜いた」かのように演じることで——カイルの「格上に見透かされた」という屈辱感を最大限に刺激する。


 案の定。

 カイルの表情に、制御された怒りの亀裂が走った。

 碧い瞳の奥で、氷の下の溶岩のようなプライドの炎が、めらりと揺れるのが見えた。


「……一目で見抜いた、と? そんなことがお前のような——」


 カイルは言葉を途中で飲み込んだ。

 「お前のような素性不明の怪しい奴に」と言いかけて、それが相手を逆に持ち上げることになると気づいたのだろう。聡い男だ。


「面白い男だな、お前は」


 だがカイルの声には、もはや侮蔑だけではない——明確な闘争心が、煮えたぎるように乗っていた。


「ならば教えてやろう。対抗戦の当日、俺がお前に向けて放つのは——お前がいま分析したような、生易しいものではない。見透かしたつもりでいるなら、それこそが命取りになるぞ」


 マントを翻し、カイルは背を向けた。

 取り巻きたちが慌てて後を追う。

 彼の金色の髪が遠ざかっていく間、俺は微動だにせず——だが内心では、拳を強く握りしめていた。


(よし……食いついた。怒りの種は、確実に育っている。あと五日間で、この種を殺意の花に咲かせるぞ)


 取り巻きの最後尾が視界から消えた瞬間、俺はどっと肩の力を抜いた。

 老木の幹にもたれかかり、長い息を吐く。


 同時に——グラウンドの模擬戦が再開された。

 カイルの登場で一時的に凍りついていた新入生たちが、恐る恐る魔法の応酬を再開していく。


 その時だった。


 ヒュッ——と。

 風を切る甲高い音。

 一発の炎の弾丸が、明らかに軌道を逸れて、俺のすぐ横を掠めた。

 老木の幹をかすめ、焦げた木の匂いが鼻腔に届く。


 ——そして、俺の短剣が微かに熱を帯びた。


【——微小魔力検知。吸収量:0.3C。利息残高より差し引き】


 ほんの一瞬、視界の端にシステムの無機質な通知が点滅した。

 0.3クレジット。蚊に刺されたほどの微量だ。

 だがそれでも——ゼロではない。


(……来た。やっと一発来た。0.3Cか。雀の涙にも満たないが、今日最初の収入だ)


 流れ弾を放った新入生の方を見ると、青い顔をした赤毛の少年が、今にも泣き出しそうな表情でこちらに向かって深々と頭を下げていた。


「も、申し訳ありません! アルト様! 手元が、その、風の影響で……!」

「——別に構わない。その程度で騒ぎ立てるな。S級の俺に、たかが流れ弾の一つが影響すると思っているのか」


 俺は冷淡に手を振って彼を下がらせた。

 だが内心では——。


(もう一発! 頼むからもう一発! いやできれば十発! 二十発! 遠慮なくバンバン俺の方に流れ弾をよこしてくれ! 手元が狂ったフリでもいいから!)


 だが、さすがにその「事故」の一発以降、新入生たちはさらに萎縮してしまい。

 残りの演習時間で、俺の近くを掠めた魔法は——たったの二発だった。


【本日の累計吸収量:0.8C】

【現在の猶予期限リミット:89時間 44分 21秒】


(0.8C……。今日一日の利息は何百Cの単位なのに、収穫がこれだけか。焼け石に水どころじゃない。焼け石にスポイトで一滴垂らした程度だ)


 演習が終わり、夕暮れ。

 新入生たちがぞろぞろとグラウンドを引き上げていく中、俺は一人、老木の下に残っていた。


 オレンジ色の夕日が、広大なグラウンドを染め上げている。

 長い影が芝生の上に伸びる。

 美しい光景だ。だが、その美しさが今の俺にはひどく残酷に映る。

 あと何回、この夕日を見られるのか——そんな感傷的な思考が、不意に脳裏を掠めた。


(やめろ。弱気な思考は毒だ。弱気は覚悟を揺るがせ、覚悟が揺らげば与信枠が縮む。与信枠が縮めば、前借りの上限が下がる。そうなったら、対抗戦でカイルの全力を受け止めることすらできなくなる。——悪循環だ)


 俺は頭を大きく振り、弱気を物理的に追い出した。

 立ち上がり、ローブの土を払う。


 その瞬間——背後の気配に気づいた。

 振り返ると、グラウンドの隅に、一人だけ残っている人影がある。

 銀色の長い髪が、夕日にオレンジ色に染まっていた。


 リーゼ・フォン・クラインハイム。

 グラウンドのフェンスに背をもたれ、腕を組み、こちらをじっと——観察するように見つめている。

 いつからそこにいたのか。

 少なくとも、カイルが来た時にはいなかった。つまり、その後から来て、ずっと俺を——。


(……あの女、またか。何を見ている? 何を考えている?)


 俺は彼女に向かって、軽く片手を挙げた。

 それは「こちらに気づいているぞ」というサインであり、同時に「近づくな」という牽制でもあった。


 リーゼは数秒間、こちらを見つめ続けた後。

 無表情のまま、フェンスから背を離し、グラウンドの反対側の出口へと去っていった。


 足音もなく消えた彼女の残像を見送りながら、俺は小さく唸った。


(リーゼ・フォン・クラインハイム。あいつは何を見極めようとしている。俺の「嘘」か? それとも「本当の姿」か? ……どっちにしろ、放置は危険だ。対抗戦の前に、あの女の意図だけは確実に把握しておかないと——)


 夕日が山の端に沈みかけている。

 空はオレンジから紫に、そして藍色へとグラデーションを描いていく。

 リーゼの瞳と、同じ色だ。


 俺はその空に背を向け、寮への帰路についた。


 ※ ※ ※


 夜。S級特待生専用の自室。

 専属シェフが運んできた豪華なフルコースを、今夜もまた味わう余裕なく平らげた後。

 俺はデスクに向かい、ランプの灯りの下で、昼間に書いたカイルの分析ノートを広げていた。


 ペンを手に取り、新しいページを開く。

 今度のメモは、カイルではなく——リーゼの分析だ。


『リーゼ・フォン・クラインハイム 分析ノート——非公開』

・属性:不明(公式戦で本気を出した記録がほぼない)。

・推定魔力:S級上位〜超S級。学園の誰よりも上の可能性。

・性格:無口、無表情。だが感情がないわけではない。目の奥に好奇心の炎がちらつく。

・動機(推定):俺に対する敵意はゼロ。攻撃してくる気配もゼロ。だが「知りたい」という欲求が極めて強い。

・危険度:最大。もし俺の「魔力ゼロ」に完全に気づかれた場合、状況次第では最悪の爆弾になりうる。

・活用可能性:……不明。味方になるとは限らない。だが、敵にしないための対策は必要。


 ペンが止まった。

 「活用可能性」の欄を見つめながら、俺は自分が書いたものに——微かな嫌悪感を覚えた。


(俺は今、あの女を「使えるかどうか」で判断している。人間を道具として測っている。——スラムの野犬らしい、実に合理的で、実に醜い思考回路だな)


 だが、感傷に浸っている余裕はない。

 ノートを閉じ、ベッドに身を投げ出した。


【現在の猶予期限リミット:86時間 02分 55秒】


 残り八十六時間。

 明日もまた、同じような一日が始まる。

 流れ弾を乞食のように拾い集め、カイルの怒りをちまちまと煽り、リーゼの視線を警戒しながら、一秒一秒を生き延びる。


 ——だが。

 その「同じような一日」が、明日、想定外の方向に大きく動くことになるとは。

 この時の俺には、まだ知るよしもなかった。


 暗闇の中で、短剣の冷たい柄を握りしめながら。

 俺は泥のような眠りの底へと、ゆっくりと沈んでいった。


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