第7話 情報戦と氷の令嬢
カイル・ヴェスターマンとの遭遇から、一晩が過ぎた。
翌朝。S級特待生専用の広大な自室で目を覚ました俺は、天蓋付きベッドの中で仰向けのまま、しばらくの間、天井をぼんやりと眺めていた。
昨夜は興奮で、ほとんど眠れなかった。
夢の中でも、カイルの全力の魔法が俺に向かってくる光景が繰り返し再生されていた。夢の中の俺は、両手を広げて満面の笑みでそれを迎えていた。
最高に気持ちの悪い夢だ。
【現在の猶予期限:91時間 32分 07秒】
だが、目が覚めた途端に現実が牙を剥く。
視界の端に張り付いた、無慈悲なカウントダウン。
昨夜から七時間ほど寝ている間にも、容赦なく時間は削られ続けていた。
残り九十一時間。日数に直せば、およそ三日と十九時間。
カイルが宣戦布告した「全学年合同・ランク対抗戦」は来週の金曜日。つまり、あと六日後だ。
(……タイミングがギリギリすぎる。本当にギリギリだ)
俺は天蓋のカーテンを乱暴にめくり、ベッドから転がり出た。
洗面台の鏡に映った自分の顔は、寝不足で目の下に薄い隈ができている。
冷水で顔を洗い、頭を叩くようにして思考を切り替える。
(整理しろ。冷静になれ、アルト。ランク対抗戦まであと六日。俺のリミットは残り約九十一時間。六日は百四十四時間だから——対抗戦の三日前に俺の命は尽きる計算だ。つまり、対抗戦本番まで持たない)
思わず、鏡に映る自分に向かって乾いた笑いが漏れた。
待望の大チャンスは目の前にぶら下がっているのに、そこに辿り着く前に借金取りが先に来る。
最悪のタイミングだ。
いつだってそうだ。スラムで生きてきた十六年間、運命は常に俺を一番嫌なタイミングで蹴り飛ばしてくる。
(対抗戦まで命を繋ぐために、それまでの間に何とかして小規模でもいいから魔力を稼がないといけない。利息の支払いさえ凌げれば、対抗戦のカイルの全力魔法で一気に元本をぶっ飛ばせる。問題は——この六日間をどう食いつなぐか)
朝食のワゴンが届くまでの間、俺はベッドの上に座り込み、ローブのポケットから例の錆びた短剣を取り出した。
刃はとうの昔にボロボロに欠けている。柄には、かすかにレーエン家の紋章が刻まれているが、長年の風雨で輪郭すら判別が難しい。
だが、この短剣こそがシステムへの唯一の「ログインキー」であり、俺の命綱そのものだ。
握りしめると、指先にかすかな痺れが走る。因果律の糸が、世界の裏側で微かに震えるのを感じる。
(小さな前借りで時間を稼ぐか? ——いや、これ以上借金を増やすのは自殺行為だ。利息が利息を呼んで、雪だるま式に膨れ上がる。そうなったらカイルの全力魔法でも返しきれなくなる)
短剣をポケットに戻し、代わりに学園の案内冊子を引っ張り出した。
対抗戦のルールを、一語一句、見落としなく叩き込む必要がある。
朝食のフルコースを——今日もまた、味わう余裕のない贅沢を——機械的に胃に流し込みながら、俺は案内冊子の該当ページに目を通した。
『全学年合同・ランク対抗戦』
王立魔術学園が誇る、年に二度の大規模公式行事。
S級からD級まで、各階級の代表選手が大闘技場に集結し、トーナメント形式で対戦を行う。
上位階級の代表が下位階級に敗れた場合、即座にランクの入れ替え(降格・昇格)が発生する。
使用魔法に制限なし。ただし致命傷を避けるための結界が闘技場に張られており、審判の判断で試合を停止できる。
S級代表は——出場辞退不可。学園の最高戦力として、その実力を公に示す義務がある。
(つまり、俺は絶対に出なきゃいけない。逃げ道なし。結構。望むところだ)
問題は、カイルとの対戦がトーナメントのどの段階で組まれるか。
初戦で当たるなら最高だが、トーナメントの組み合わせは大会当日の朝に発表される。もし決勝まで当たらないとなると、それまでの対戦相手から魔法を受ける機会が増える——が、下位ランクの生徒の魔法など、利息の足しにもならない。
(いや、待て。トーナメントだから、途中の試合でも魔法は飛んでくる。小粒でも数を稼げば、利息分くらいは……いや、やっぱり焼け石に水か。カイルの全力以外に本命はない)
冊子を閉じ、俺は深くため息をついた。
結局のところ、すべてはカイル・ヴェスターマン一人にかかっている。
あの男が、対抗戦の舞台で、心の底から俺を憎み、殺す気で、持てる全ての魔力を注ぎ込んだ一撃を放ってくれるかどうか。
それだけが、俺の生死を分ける。
(なら、やることは一つだ。対抗戦までの六日間で、カイルの怒りを限界まで煮詰めてやる。あいつが「もう我慢ならない、こいつだけは必ず俺のこの手で消す」と、骨の髄まで確信するくらいに)
俺は残っていたコーヒーを一気に飲み干し、唇の端を吊り上げた。
煽りと挑発は、スラムで十六年間磨き続けた俺の生存技術だ。
※ ※ ※
午前の講義は、魔法理論の座学だった。
階段教室の最上段、誰にも見下ろされない最も高い位置の席。
それが、S級特待生たる俺の指定席だ。
実際のところ、この席は「周囲の生徒が怖がって近寄らないから結果的に空いている」だけなのだが、外から見れば「超越者が高みから見下ろしている」という見事な絵面になる。
講義内容は、魔力の属性変換理論。
俺には一ミリも関係のない話だが、ノートを取る振りはしなければならない。
ペンを走らせながら実際に書いているのは、カイル・ヴェスターマンの戦闘データの分析メモだった。
『カイル・ヴェスターマン 分析ノート——非公開』
・属性:氷(主)+風(副)の複合型。
・戦闘スタイル:精密制御型。グランヴィルのような火力任せの暴走ではなく、極限まで無駄を削ぎ落とした効率的な魔法運用。一撃必殺を好む。
・弱点(推定):プライドが異常に高い。「自分が正しい」という信念が揺らいだ時に冷静さを失う可能性あり。
・最大火力(推定):A級上位〜準S級相当。全力を出せば、グランヴィルの倍以上のエネルギー量を叩き込める可能性。
・結論:最高のカモ。ただし絶対に初撃で全力を引き出すこと。長期戦は俺の偽装が崩壊するリスクが高い。
ペンが止まる。
最後の一行を読み返して、俺は小さく舌打ちをした。
(問題は「初撃で全力を引き出す」方法だ。カイルは賢い。グランヴィルみたいに感情だけで動く馬鹿じゃない。最初から全力を出すのは、あいつの流儀に反する。まず小手調べから入って、こちらの反応を見て、それから徐々に出力を上げていく——そういうタイプだ)
つまり、普通にやれば長引く。
長引けば長引くほど、俺が「魔法を一切使わずに回避だけしている」という不自然さが際立ってくる。
これが一番まずい。
(だから、開始直後に一発で、カイルの理性を完全に吹き飛ばすくらいの煽りをかまさないといけない。あいつが「小手調べなんて悠長なことをしている場合じゃない、いますぐ全力でこいつを消さないと」と判断するような——限界を超えた怒りだ)
講義が終わり、生徒たちがぞろぞろと教室を出ていく。
俺はノートを閉じ、ゆっくりと立ち上がった。
階段教室の出口に向かう途中、不意に——。
「——少し、よろしいですか」
静かで、よく通る、凛とした声。
教室の出口の近く、柱の影からスッと一歩踏み出してきた人物が、俺の前に立ちはだかった。
背は俺より頭半分ほど低い。
だが、その存在感は——柱の影に隠れていたにもかかわらず——教室全体の空気をピンと張り詰めさせるほどに強烈だった。
白磁のような肌。
月光を溶かしたような、淡い銀色の長い髪。
そして、宝石を削り出したような深い藍色の瞳が、真っ直ぐに、微動だにせず、俺の目を射抜くように見つめている。
制服の上から羽織ったA級のローブは、これ見よがしに高い品質のものだが、本人はそんなことに興味がないかのように無造作に纏っている。
(——リーゼ・フォン・クラインハイム。王国筆頭公爵家の令嬢にして、学園のA級上位。そのくせ本来はS級クラスの化け物級の魔力持ちだって噂の……)
5話で遠巻きに俺を観察していた、あの少女だ。
あの時は直接的な会話はなく、ただ不可解な興味の視線を感じただけだった。
だが今日は違う。明確に、俺を待ち伏せしていた。
「クラインハイムの令嬢か。随分と高貴な方が、こんな場所で待ち伏せとは——護衛の騎士はどうした?」
俺はいつもの「傲慢で冷淡な超越者」の仮面をかぶり、口角をつり上げた。
だが内心は——警戒で心臓が跳ね上がっていた。
この女が持つ魔力は、カイルを遥かに凌駕するとすら言われている。
もし今この場で彼女が攻撃魔法を放ってくれたなら、借金返済としてはこれ以上ない特大ボーナスだが——残念なことに、この女は決して自分から魔法を使わない。
むしろ自身の過剰な魔力を疎んでいる、という噂まであった。
「護衛は不要です。あなたに聞きたいことがあるだけですから」
リーゼは表情をほとんど変えずに、事務的な口調で言った。
だが、その藍色の瞳の奥には、氷の冷たさとは違う——好奇心のような、かすかな熱が、ちらりと覗いていた。
「あなたは先日、大闘技場でグランヴィル殿の最大火力を無傷で受けました。そして昨日、カイル・ヴェスターマン殿から対抗戦での公式決闘を宣言されましたね」
「耳が早いな。監視でもしているのか?」
「この学園で、あなたの動向を気にしない人間などいません」
それは確かにそうだ。俺は学園中の注目の的——もっとも、大半は「恐怖」という名の注目だが。
「それで? わざわざ出向いてきて、俺に何を聞きたい」
「一つだけ」
リーゼはさらに一歩、俺との距離を詰めた。
その瞬間——俺の全身の毛が、逆立った。
空気が変わった。この女から微かに滲み出す魔力の圧が、それまでの「静かな優等生」から明らかに変質した。
制御された、だが底知れない深さを持つ、冷たい湖のような魔力。
心臓に直接手を突っ込まれたかのような、言いようのない圧迫感が胸を締め付ける。
「——あなたは、何者ですか」
その問いは、カイルが昨日突きつけてきた「お前は何者だ」とは、明確に質が違っていた。
カイルのそれは、敵意と不信から来る「暴いてやる」という宣戦布告だった。
だが、リーゼの問いには——敵意がない。
あるのは純粋な、そして切実なまでの疑問。
まるで、「いままで誰にも聞けなかった、ずっと知りたかったこと」を、ようやく口にしたかのような響きだった。
「何者、ね」
俺は彼女の視線を真正面から受け止めながら、内心で高速に思考を巡らせた。
(この女は味方か、敵か? カイルのように俺を潰しにきたのか、それとも——別の何かを求めているのか)
リーゼの瞳は揺れていなかった。嘘をついている目ではない。
そして同時に、攻撃しようとしている目でもない。
俺のスラム時代に磨き抜かれた「人間を見る目」が告げている。この女は——俺に興味があるだけだ。
だが、ここで「実は俺、魔力ゼロの詐欺師なんです」と正直に告白するわけにもいかない。
俺はゆっくりと、唇の端に薄い笑みを浮かべた。
「お前の質問に答える義理はないな、クラインハイムの令嬢。だが——そうだな、一つだけ教えてやろう」
俺は彼女の耳元に少しだけ顔を寄せ、低い声で囁いた。
「俺は、お前が思っているよりも——遥かに面白い男だ。来週の対抗戦で、その目で確かめるがいい」
リーゼの藍色の瞳が、わずかに見開かれた。
それが驚きなのか、落胆なのか、あるいは期待なのかは——判別がつかなかった。
だが俺の心臓は、別の理由で激しく脈打っていた。
(——危なかった。あいつの魔力の圧がとんでもない。一瞬でも集中が切れたら、俺の中身が「空っぽ」だと直感で見抜かれかねなかった。カイルよりもある意味厄介だぞ、こいつは……)
リーゼは数秒の間、無表情のまま俺をじっと見つめていたが。
やがて小さく、本当にかすかに——唇の端が動いた。
あれは微笑みだったのか、溜め息だったのか。
「……わかりました。では、対抗戦で」
それだけ言い残して、彼女は背を向けた。
銀色の髪が風に揺れ、教室の出口を抜けて廊下へと消えていく。
俺は彼女の気配が完全に消えるまで、泰然とした態度を崩さなかった。
そして——彼女が去った瞬間。
(ああああああクソ! 心臓止まるかと思った! あの圧! あの目! なんであんな底なし沼みたいな魔力を制服の下に平気で隠してやがるんだ、あの公爵令嬢!)
俺は柱にもたれかかり、額の冷や汗を手の甲でぬぐい取った。
息が荒い。膝がかすかに震えている。
(しかし……リーゼ・フォン・クラインハイム、か。あいつは俺を攻撃する気はなさそうだ。つまり——カモにはならない。だが、もし仮に、万が一にも「共闘者」として俺に好意的な関心を持ってくれるなら……対抗戦で何かの役に立つ可能性もゼロじゃない)
いや、甘い考えは捨てろ。
この世界で、無条件で他人を信じた瞬間に、スラムの野犬は死ぬ。
それは十六年間で嫌というほど学んだ、俺の第一の教訓だ。
(使えるものは何でも使え。だが、信じるな。頼るな。最後の最後に、自分を守れるのは——自分のハッタリだけだ)
俺はもう一度、深く息を整えた。
そしてローブの下で、錆びた短剣の柄をぎゅっと握りしめる。
【現在の猶予期限:90時間 58分 41秒】
残り時間は、一秒ごとに確実に減り続けている。
だが、やるべきことは明確になった。
この六日間の作戦目標は三つ。
一つ——カイル・ヴェスターマンの怒りを、限界を超えるまで煮詰めること。
二つ——対抗戦までの利息を賄うための、小規模な魔力供給源を確保すること。
三つ——リーゼ・フォン・クラインハイムの真意を探ること。
三つ目は保険だ。彼女が味方になるとは思っていない。だが、敵になるリスクだけは排除しておきたい。
あの底知れない魔力が、もし俺を「暴いてやる」という方向に向いたら——カイル以上に致命的だ。
(……さて、まずは二番だ。今日中に、利息の足しになるくらいの魔力を稼がなきゃならない。でないと明後日の午前中あたりでリミットが来る)
俺は教室を出て、午後の実技演習場へと向かった。
太陽はまだ高い。春の日差しが、グラウンドの芝生を明るく照らしている。
だがその光の暖かさとは正反対に、俺の背中にはいつも、凍てつくような時間の重圧がべったりと張り付いている。
午後の実技演習。ここが、今日の勝負どころだ。
グランヴィルの件以降、誰もが俺を避けて通るこの学園で——唯一の狙い目がある。
新入生たちの実技演習は、チーム対抗で行われる。
そして、チーム対抗の「事故的な流れ弾」であれば——たとえ俺の近くを掠めたとしても、「わざと当てた」ことにはならない。
つまり、誰も処罰されない。
問題は、グラウンド上を飛び交う流れ弾程度の微弱な魔力で、俺の利息がどれだけ相殺できるか。
(微々たるものだろうが、ゼロよりマシだ。蚊のような吸い取りでも、数をこなせば一日分くらいの利息は稼げるかもしれない)
俺はグラウンドの端、例の大きな老木の近くに腰を下ろした。
そしてわざと——退屈そうに頬杖をつきながら、流れ弾が飛んでき易い位置を計算して陣取った。
ローブの下で短剣を握り、システムの受信感度を最大まで上げる。
微かな痺れが指先に走った。吸収準備完了。
あとは待つだけだ。
S級の怪物が退屈そうに座っている横で、新入生たちが恐る恐る魔法を撃ち合う。
そのうちの何発かが、偶然を装って俺のそばを掠めてくれることを祈りながら。
まるで、道端で施しを待つ乞食みたいだな。
スラム時代と、結局やっていることは変わらない。
ただ一つだけ違うのは——今の俺は、最高級のローブを着て、最高級の芝生の上に座り、見かけだけは学園最強のS級特待生として君臨しているという、笑えない現実だけだ。
(……頼むから、誰か一発くらい流れ弾を寄こしてくれ。チョロっとでいいからさ)
心の中で、これ以上ないほどにみっともなく哀願しながら。
俺は泰然自若とした顔で——その実、まばたきすら忘れるほどに必死の目つきで——グラウンドの模擬戦をじっと睨みつけていた。




