第9話 予定外の取引
三日目の朝。
目を覚ました瞬間、俺が最初に確認したのは——天蓋の装飾でも、窓から差し込む朝日でもなく、視界の端に張り付いた冷酷な数字だった。
【現在の猶予期限:62時間 11分 33秒】
六十二時間。
二日と十四時間。
ランク対抗戦は四日後の金曜日。
つまり、対抗戦の一日半前に——俺は消滅する。
(マズい。本格的にマズい。昨日までの二日間で稼げた魔力は合計1.4C。一方、同じ二日間で発生した利息は推定四百C以上。焼け石にスポイトどころじゃない。火事場にため息を吹きかけている程度だ)
洗面台に向かい、冷水を顔に叩きつけた。
鏡の中の自分は、昨日よりさらに顔色が悪い。
目の下の隈が濃くなり、頬がわずかにこけている。
リミットが迫ると、身体にも影響が出始める。システムが「返済の見込みなし」と判定し始めると、まず体力から削られていく。存在コストの予備徴収——いわば、差し押さえ前の財産凍結のようなものだ。
(もう猶予がない。流れ弾戦法は完全に破綻した。別の手段を、今日中に、何としても見つけなければ——)
思考がぐるぐると回る。
だが、打てる手が見つからない。
自分から誰かに魔法を撃たせようとすれば、俺の「S級のハッタリ」が崩壊するリスクがある。
かといって、新たに前借りをすれば借金が雪だるま式に膨れ上がる。
詰んでいる。
完璧に、八方塞がりだ。
歯を食いしばりながら朝食を流し込み、午前の講義に向かう。
足取りが重い。いつもなら完璧に制御している「歩き方」すら、今日はわずかに精彩を欠いている気がする。
廊下を歩く俺の周囲を、相変わらず生徒たちが怯えた目で避けていく。
(……こいつら全員が、一人ずつ俺に火の玉でも投げてくれれば、利息分くらいは稼げるんだがな。百人で百発。一発あたり0.5Cとしても、五十C。利息の八分の一にしかならないが、ゼロよりは──)
馬鹿な妄想だ。ありえない。
誰がS級の怪物に自分から魔法を撃ち込むというのか。
午前の魔法実技——今日は個人演習だった。
各自が訓練用のダミー人形を相手に、一人ずつ攻撃魔法の精度を高める訓練。
俺の番が来ると、教官は露骨に腰が引けた声で「アルト殿、ど、どうぞ」と促してきた。
当然、俺は何もできない。
だが、ここで「できません」と言うわけにもいかない。
「——つまらん。ダミー人形ごときに全力を出す意味がない。見学させてもらう」
腕組みをしたまま言い切ると、教官は安堵したように「は、はい、もちろんです」と即座に引き下がった。
周囲の生徒たちもまた、「さすがS級は格が違う」と畏怖混じりに囁き合う。
(全力を出す以前に、そもそも一ミリの魔力も持っていないんだが。ダミー人形にすら勝てない世界最弱の男が、ここにいる)
自嘲が胃の底でくすぶる。
だが、表情は一切崩さない。鉄の仮面。傲慢の鎧。
それだけが、俺の命綱だ。
午前の訓練が終わった。
昼食を取るために中庭のベンチに腰を下ろし、配給所から受け取った高級サンドイッチを無心で齧る。
味がしない。リミットが迫るにつれて、五感が鈍り始めているのか——それとも、単純に精神的な余裕がないだけか。
その時だった。
「——向かいに座っても、構いませんか」
聞き覚えのある声。
静かで、凛として、一切の感情的な抑揚を排除した——だがその奥に、かすかな意志の芯が通った声。
サンドイッチを齧る手が、一瞬止まった。
顔を上げると——リーゼ・フォン・クラインハイムが、中庭のベンチの反対側に、すでに腰を下ろしかけていた。
銀色の髪が、柔らかな春の風に揺れている。
白磁の指先には、小さなティーカップが一つ。
「……好きにしろ。公爵令嬢にベンチの使用許可を出す権限は、俺にはないからな」
俺はいつもの冷淡な声色を装って答えた。
だが内心は——警戒レベル最大まで引き上がっていた。
昨日までは遠巻きの監視だったこの女が、今日は自分から俺のテリトリーに入ってきた。
何かの意図がある。確実に。
リーゼはベンチに腰を下ろすと、しばらく無言で自分のティーカップに口をつけていた。
俺もまた、何食わぬ顔でサンドイッチの残りを齧り続ける。
沈黙が流れた。三十秒。一分。二分。
中庭を横切る生徒たちが、「S級のアルトとA級のリーゼが一緒にいる」という光景に凍りつき、遠巻きにひそひそと囁き合っている。
先に口を開いたのは、リーゼだった。
「——あなたは、対抗戦でカイル殿に勝つつもりですか」
直球だ。前置きもクッション言葉も何もない。
この女のこのスタイルは、嫌いではない。回りくどい交渉よりも、よほどやりやすい。
「勝つつもりがなかったら、署名はしていない」
「では、勝てる自信は」
「お前にそれを答える理由があるとでも?」
リーゼは一瞬だけ、かすかに目を細めた。
それが微笑みなのか、観察なのか、判別がつかない。
「理由なら、あります」
彼女はティーカップをベンチの端に静かに置いた。
そして、真正面から俺の目を見つめた。
藍色の瞳の奥に、昨日とは違う光が宿っている。
冷たい好奇心ではない。もっと温度のある、切迫した何かだ。
「あなたに——提案があります」
(提案? 公爵令嬢が、俺に?)
意表を突かれた。だが表情には出さない。
俺は片眉だけをわずかに上げ、「聞いてやろう」という態度を取った。
「明日の放課後。実技演習場の裏手に、教師の監視が届かない旧練習場があります。そこで——あなたの相手をさせてもらえませんか」
「相手?」
「模擬戦です。非公式の。誰にも知られない、二人だけの」
俺の思考回路が、一瞬で加速した。
リーゼ・フォン・クラインハイムが——俺に模擬戦を申し込んでいる。
非公式で。二人きりで。
それが意味するところは——。
(待て。落ち着け。この女がなぜ、わざわざ俺に模擬戦を持ちかける? 俺を試すため? 正体を暴くため? ——いや。もしそれが目的なら、こんな回りくどいことをする必要はない。学園の教師に報告すれば済む話だ。ということは、彼女には別の、もっと個人的な動機がある)
「なぜ俺に? お前ほどの実力があれば、練習相手などいくらでもいるだろう」
「いません」
即答だった。一切の逡巡なく。
「私の魔力に耐えられる相手が、この学園には——あなた以外にいないんです」
その一言に、俺は——不意を打たれた。
リーゼの声には、初めて聞くような、かすかな苦みが混じっていた。
「孤独」の色だ。
自分の力が強すぎるがゆえに、誰も対等に向き合ってくれない——という、俺とは逆の方向の、だが根本的には同じ種類の孤立。
(……なるほど。こいつは、俺みたいな「最強の化け物」だからこそ、本気でぶつかれる相手が欲しいのか。あのグランヴィルの全力魔法を無傷で受けた俺なら、自分の全力にも耐えられるだろうと——そう考えたわけだ)
皮肉な話だ。
俺は「最強」を演じているだけの空っぽの詐欺師。
耐えたのではなく、全て借金返済に横流ししただけ。
リーゼの全力を、本当の意味で受け止められる実力など、俺にはない。
だが——。
俺の脳裏に、電光のような閃きが走った。
(待て。待て待て待て。リーゼの全力——リーゼ・フォン・クラインハイムの、S級上位とすら噂される、化け物級の全力魔法を——俺に向かって撃ってくれるのか?)
心臓が、跳ね上がった。
興奮を押し殺すのに、全身の筋肉を総動員する必要があった。
顔が崩れそうになるのを、必死で堪えた。
(もしリーゼの全力魔法の出力がカイル以上だとしたら——いや、噂通りなら軽く倍はある——その魔力を全部、システムで吸収した場合——利息どころか、元本の一部すら吹き飛ばせるかもしれない。対抗戦前の利息問題が、一発で解決する!)
これは——千載一遇のチャンスだ。
流れ弾を拾い集めるみすぼらしい作戦ではない。
リーゼ・フォン・クラインハイムという「超特大の火力源」が、自分から俺に魔法を撃ちたいと言ってきた。
しかも非公式で、人目につかない場所で。
リスクを最小限に抑えながら、最大限の魔力を獲得できる、理想的すぎる状況。
だが。
冷静な部分が、ブレーキをかける。
(待て。完璧すぎる。こんな都合のいい話が、何の裏もなく転がり込んでくるわけがない。彼女が模擬戦の中で俺の正体——魔力ゼロを看破するリスクは?)
考えろ。
リーゼが全力で魔法を撃つ。俺はそれを「受けて無傷で立っている」ことで、S級の化け物を演じ続ける必要がある。
実際には、システムで全て吸収して相殺しているだけだが——その瞬間、「反撃」を求められたら?
模擬戦なのだから、当然「お前も撃て」と言われる可能性がある。
そうなったら——終わりだ。
魔力ゼロの俺には、そよ風一つ起こすことすらできない。
(……いや。リーゼの目的が「本気の練習相手」なら、俺の攻撃よりも、俺が「彼女の全力を受け止められるかどうか」のほうが本命だ。受けに回ることを正当化する理由さえ作れれば——)
「——リーゼ」
俺は彼女の名を初めて呼んだ。
リーゼの銀色の睫毛が、かすかに揺れた。
「条件が一つある。俺が相手をしてやるのは——お前の攻撃を俺が受けるだけの、一方通行の模擬戦だ」
「……一方通行?」
「お前は全力で撃て。俺は受ける。だが俺からは——一切手を出さない。この条件で良ければ、相手をしてやろう」
リーゼが目を見開いた。
明らかに予想外の条件だったようだ。
だが俺は、自信たっぷりに——内心の冷や汗を完全に隠して——言い放った。
「お前の全力を受けてやるのに、俺が反撃する必要がどこにある? お前が求めているのは「全力を出せる相手」であって、「対等な試合」ではないはずだ。——そうだろう?」
沈黙が落ちた。
リーゼは数秒の間、じっと俺の目を見つめていた。
あの底知れない藍色の瞳が、俺の奥底までを覗き込もうとしている気がした。
だが、俺のハッタリは揺るがない。
「全力を受けてなお反撃の必要すらない」という、異常な自信。
それこそが俺の仮面の核心であり、この世界で唯一の武器だ。
「……わかりました」
リーゼはゆっくりと頷いた。
その無表情の奥に、何か——安堵のような、あるいはかすかな──期待のようなものが、一瞬だけ横切った気がした。
「明日の放課後、旧練習場で。では——よろしくお願いします」
彼女は立ち上がり、空になったティーカップを両手で持ち直すと、小さく頭を下げた。
そして、中庭の石畳の上を、足音もなく去っていった。
俺は彼女の姿が完全に見えなくなるまで、微動だにしなかった。
冷酷なS級の超越者。余裕の塊。
そして——リーゼの気配がこの中庭から完全に消えた瞬間。
(ッッッッシャアアアアアアアアアアアッッ!!!!)
声なき絶叫が、脳内で炸裂した。
両手で顔を覆い、ベンチの上で前のめりに崩れ落ちる。
肩が震えている。嬉しすぎて。
唇を噛み締めなければ、笑い声が漏れ出してしまいそうだった。
(来た! 来た来た来た! あの公爵令嬢が——S級超えの化け物が——自分から俺に魔法を撃ちたいって言ってきた! しかも全力で! しかも非公式の、二人きりの、密室で! これはもう、高級レストランの食べ放題に招待されたようなものだ! しかも最高に高密度の、とびきり上等な魔力のフルコースを!)
泣きそうだった。本当に。
三日間、蚊ほどの流れ弾を乞食のように拾い集めてきた俺に、こんな超大盤振る舞いが転がり込んでくるとは。
だが、冷静な部分が即座に警告を発する。
(浮かれるな。まだ確定じゃない。明日の模擬戦で、リーゼの魔法を無事に全て吸収できなければ意味がない。そしてもし吸収の瞬間に何か不自然な挙動を見せれば、リーゼに正体がバレるリスクもある。——最大のチャンスは、同時に最大のリスクでもある。綱渡りの精度を、これまで以上に上げなければならない)
俺は深呼吸をして、ゆっくりと顔を上げた。
中庭の空は、高く、青く、どこまでも澄み切っている。
今日の空は——不思議なことに、少しだけ優しく見えた。
【現在の猶予期限:60時間 48分 09秒】
六十時間。
明日の放課後、旧練習場で。
リーゼ・フォン・クラインハイムの全力を、一発残らず——。
俺は握りしめた拳を、静かにローブのポケットの中で開いた。
短剣の柄が、体温で少しだけ温まっている。
(頼んだぞ、ボロ短剣。明日がお前にとっても俺にとっても、正念場だ。あの公爵令嬢の馬鹿みたいにデカい魔力を、一滴残らず吸い尽くしてくれよ)
昼休みの鐘が鳴る。
俺は力強く立ち上がり、午後の講義に向かう足取りに——久しぶりに、ほんのわずかな力強さが戻っていた。
明日が来るのが、今、心の底から待ち遠しい。
それは——入学以来、初めての感覚だった。




