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第四話 空の鳥籠は揺れて③

「うぐっ、げほっ! あっつ⁉︎」


 びちゃっと喉奥へダイレクトに流れ込んだ熱に、体が跳ねる。


「大丈夫ですか⁉︎」

「げほっ、だ、大丈夫です。すみません」


 俺は咽せこみながら返事をすると、ヒリヒリと痛む唇を紙ナプキンで押さえながら彼女から顔を逸らした。

 エアコンの生ぬるい風が首筋を撫で下ろす。

 耳の奥で、あの人の息遣いが蘇る。


『そんなものしか好きじゃないの? だって、他の子はもっと……』


 ひゅっ、と短く息を吸う。あの日と同じように、喉の奥が狭まって上手に息ができない。

 背後のテーブル席で赤ん坊が泣いている。しばらくして、子供をあやす母親の声が聞こえてきた。


 よしよし、泣かないで。

 ママはここよ。

 ママはここよ。


「私は好きですよ、物語」


 穏やかな声に顔を向ける。彼女はどら焼きの袋をやんわりと揉みながら、ゆっくりと話し続けた。


「励まされたり、身につまされたり、背を押されたり……物語を通して心が動くたびに、胸の奥がじんわりと重くなって、地に足がつく気がするんです」

「地に足がつく感じ、ですか」

「ええ。しかも、物語で体験した優しさや後悔があるから変われることや、物語を通して初めて理解できることもあるんですよ」


 彼女の右手の人差し指が、まるで子供の背をあやすように、どら焼きを優しく叩く。


「物語はお守りであり、私の一部なんです」


 視線を上げると、鳥籠の中のミラーに映り込んでいる俺と目が合った。


「自分の、一部……」


 目の奥をじっと覗きこむ。

 子供の頃、目の前で破られて舞った本のページが、音を立てて脳裏に降り注ぐ。


 お前はおかしいと罵られ、母が望む言葉と顔色を読むことばかりに長けていた、あの頃。隠れてかき集めた紙片をセロテープで貼り合わせた夜は、息を殺して泣いたっけ。

 指先で縋ったページはテープのつぎはぎと皺だらけで、所々が涙で滲んでいた。それでも、その触感と本の重みを忘れたくなくて、縋るように何度も指先でなぞった。


 底冷えする朝日の中で、いつか俺にも仲間ができると自分に言い聞かせ、歯を食いしばるしかなかった日々。

 あの頃の俺にとって、物語は唯一の寄る辺だった。


「……なんて。いつまでもフィクションから抜け出せなくて、みっともないですよね」


 彼女の頭が下を向き、先ほどまで動いていた人差し指が止まる。

 その瞬間、記憶の奥で子供の俺が立ち上がる気配がした。


「物語に心動かされることに年齢は関係ないし、どんな物語かも関係ないですよ」

「本当に? 現実見ろとか思わないんですか?」


 俺なら、そう言われても仕方がない。

 でも異頭さんは違う。

 衝動のままに体を前に出し、語気を強める。


「物語を糧にしている時点で、現実を見れていますよ」

「でも……」

「何をお守りにするかは、人によって違う。度を越さなければいい。それだけのことでしょう?」


 ただそれだけのことが、どうして許されないんだろう。

 無意識のうちに噛んだ唇が火傷のせいで普段よりも強く痛んで、眉間に皺が寄る。


「……そうですよね」

「え?」

「私もパグさんに対して、同じように思っています」

「何を……」

「試すような真似をしてごめんなさい。ご自身のことも労わってほしくて」


 そう言って頭を下げる彼女を、呆然と眺める。


「嘘、だったんですか?」

「いえ、すべて私の本心です。でも、パグさんなら分かってくれるって、ちょっと期待しながら話していました」


 彼女の言葉に、肩の力が抜ける。

 なんだ、嘘ではないのか。

 良かった。


 ――良かった?


 自分の思考回路に愕然《がくぜん》として、咄嗟に口を押さえる。彼女の傷が嘘じゃないことに、俺は今、安堵したのか。

 なぜ?

 否定される苦しみを知っているのに。

 彼女に掛けた言葉に嘘はないのに。


『自分さえ良ければいいと思ってるんでしょ』


 あの人の蔑むような声と眼差しが蘇り、肌が粟立《あわだ》つ。


「俺は――」


 口を開くも、喉が張り付いて言葉が出ない。

 すると、急に背中を軽く叩かれ、車椅子ごと体が前に押し出された。どうやら走り回る子供がぶつかったらしい。出入り口付近で母親が「いい加減にしないと置いていくよ!」と声を張り上げ、子供が一目散に駆けていく。

 誰だって、置いていかれたくないよな。

 そんな風に思いながら体を戻す。ふと隣を見れば、異頭さんの顔が目の前にあった。驚く俺が、マジックミラーに映り込んでいる。


「ね。夢を見るって、悪いことじゃないと思うんです。少なくとも、私はそうやって生きてきました」


 カタカタと鳥籠の金具を鳴らしながら、異頭さんが茶目っ気たっぷりに笑って姿勢を戻す。急に近づいて俺を驚かせようとでもしていたのだろう。背後からはコーヒーの良い香りが漂ってきて、胸の奥に湯気のような熱がじんわりと広がっていく。

 ぬくもりを眩しいと思ったのは初めてだ。


 この時間をもう少しだけ続けていたくて、俺はゆっくりと口を開いた。



本作に登場する既存作品への言及および解釈は、作者個人のものです。原作者・権利者の公式見解を示すものではありません。


気になる作品がございましたら、ぜひ参考文献を直接お読みください。参考文献はエピソードタイトル「参考文献」にまとめて記載しています。

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