第四話 空の鳥籠は揺れて④
「俺も、昔は沢山読みました。当時を思い出すので、今はあまり見なくなりましたが」
「当時?」
マグカップを両手で包むように握り、小さく息を整える。昔の話を人にするのは、随分と久しぶり……いや、初めてかもしれない。
「子供の頃、読書なんて止めろと何度も怒られて。母は特にフィクションが嫌いなようで、友達がいないみたいだとか、カビ臭いとか、もう散々な言われようで……他にも色々なことがあったので、あまり良い思い出がないんです」
舌が鉛のように重い。誤魔化すようにマグカップを口に運んだが、先ほどの火傷が尾を引いているのか、味がよく分からない。それでも香りと色味から美味しいココアを想像する。自分を誤魔化すのは、昔から得意だから。
「……それで、物語を読まなくなったんですか?」
恐る恐る尋ねる声に、ゆっくりと首を横に振る。
「逆です。隠れて読み漁ったし、読めない時は話を思い出したり続きを想像したりしていました」
「えっ」
心底驚いた声が胸を貫き、空いた穴を風が通りぬけていく。
分からないのも無理はない。異頭さんなら、きっと母親を優先しただろう。
彼女は母親に愛されていたのだから。
――俺と違って。
口の端から乾いた笑いが漏れる。
「俺は、異頭さんが思うような人間じゃないんです」
背後でスチーマーの音が轟き、異頭さんが体を震わせる。
「それは、読むのを止められないほど物語が好きということじゃないですか?」
「どうでしょう。板に全く興味がなくても、溺れたときに目の前で浮いてたら、しがみつきませんか?」
「それは……でも」
不自然に切れた言葉の先を、異頭さんが必死に探している。けれど、きっと見つからないだろう。
「俺にとって物語は、冬を凌ぐ布団であり、夜海の終わりを指す灯台であり、駆け込み寺だった」
あの頃は辛くて、苦しくて、その瞬間を生き延びることに必死だった。
「俺は物語がないと生きられなかった。だから、純粋に物語が好きだったのか、ただ助かりたかったのか、もう自分でも分からないんです」
重い空気を誤魔化すようにヘラっと笑ってみせるも、異頭さんは黙ったまま反応がない。
背後では長々と椅子を引く音が響き、労るような囁き声が聞こえてきた。ちらりと様子を伺えば、年配の女性が自分と同年代の人から飲み物を受け取っているのが見える。母親だろうか? その信頼しきった柔らかな表情から目を逸らすように、俺は窓の外へと視線を向けた。
あれが普通の家族なんだろう。
だったら俺にとっての普通は何と言えばいい?
そんな考えを振り切るように、ココアを口に含む。
叶わない願いなど星と同じ。見上げ続けていても、首が痛くなるだけ。
分かっているのに、一体いつになれば見上げずにいられるようになるんだろう。
「……その、お母様とはどうなったんですか?」
「随分前に縁を切って、それっきりです」
異頭さんは机の上で手を揉みながら、おずおずと俺を見た。
「会いたいとか、連絡をとりたいとかは」
「思いません、全く」
思いのほか強く響いた言葉に、彼女の肩が跳ねる。
「……すみません、余計なことを」
「いえ。誤解しないでほしいんですが、縁を切ったことは後悔していないんです。だから気にしないでください」
重い空気を払うように両手を振る。
彼女は俯いて何やら考えている様子であったが、おもむろに姿勢を正して俺を見た。
「パグさんが背中を押してくれたから、私は母と向き合うことができました」
「いや、向き合えたのは異頭さんが勇気を出したからです。俺がいなくても、いずれは向き合えていたと思いますよ」
「いずれなんて、待ってるだけじゃ来ませんよ。私は、パグさんの言葉に背中を押してもらったんです」
「そんな大袈裟な」
思わず肩をすくめる俺を咎めるように、異頭さんが体を前に傾ける。
「大袈裟でも何でも良い。私はパグさんに、そんな諦めたような顔をしてほしくないんです!」
熱の入った言葉に圧倒され、呆然と彼女を見上げた。窓から差し込む光や蛍光灯がマジックミラーに反射して、鳥籠が内側から輝いて見える。
「……俺に?」
「人に優しい言葉をかけるひとが言葉に囚われているなんて、あんまりじゃないですか」
異頭さんの声が、机上の拳が、震えている。
まるで物語の主人公のようだ。
優しくて、献身的で――正しさで何かが変わると信じている。
「そのお気持ちだけで十分ですよ」
「それじゃ何も変わらないじゃないですか」
「いいんです」
「良くありません。何も良くない。良いことなんて一つもない!」
はっきりと言い切った彼女の勢いに、頬が引き攣る。まっすぐ響く言葉からは彼女なりの真心が痛いほど伝わってきて、だからこそ余計に心が波立った。
「だったら何とかしてくれるんですか? もう何十年も前に終わったことを、今さら」
ハッとしたときには遅かった。
彼女は頭を俯かせ、指が白くなるほど拳を握りしめている。
「……それは」
「今のは八つ当たりです。申し訳ない」
「いえ、私の発言が無神経でした。……申し訳ありません」
お互いに頭を下げ合いながら、俺は唇を結んだ。
これ以上口を開かないほうがいい。
みっともない姿を見せてどうする。
そう思って顔を上げたのに、彼女が短く鼻を啜る音を聞いて、すべて吹っ飛んでしまった。
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