第五話 でんでん虫を撫でる手は①
病室の窓が開かないと知ったのは、松葉杖の練習を始めたばかりの頃だった。転落防止や衛生上の問題と言われれば無理も言えず、消毒液のにおいに包まれながら窓際から外を眺める。目を伏せれば、黄色い遊歩道を色とりどりの傘が星のようにゆっくりと移動していくのが見えた。
雨が激しく窓を打つ。
あれから異頭さんは病室に来ていない。
俺はベッドへ戻ると、リハビリ前に書いたメモを床頭台の浅い引き出しに押し込み、耳を澄ませる。ここからは見えないが、近くの大樹では今日も椋鳥の大群が羽を休めているらしい。雨音に負けず劣らず響き渡るその声が、俺は存外嫌いじゃない。
だが、先日見舞いに来た冴木は違うらしい。なんでも、終末感があって怖いのだそうだ。だったら早く帰るように促すと、あいつは眉を曇らせた。
「パグは本当に煩くないのか?」
「それ、看護師さんにも言われたな。ちょっと賑やかだけど、別に平気だよ」
「……大丈夫か?」
「何が?」
リハビリは順調だと説明しても、冴木は浮かない顔をするばかりで、なんだか居た堪れない。結局、冴木が帰るまで俺があいつを心配するはめになった。
残された俺は、病室に一人しかいないのをいいことにベッドの上で頭を抱えてうずくまる。
あの時は彼女の優しさに甘えきっていた。
そもそも、おっさんが傷を語ること自体が痛々しいと、なぜ思い至らなかったんだろう。
ふいに腕の隙間から銀色の光が見えた気がして、俺は勢いよく頭を上げた。
異頭さんは、いつも銀色の靴を履いていた。
廊下へと身を乗り出し、目を凝らす。廊下を行き交う看護師の影でステンレス製のワゴンが光を反射するのを見て、力が抜けた。
――あの日、異頭さんはどう思っただろう。
彼女のことを考えると、ざわざわと心が逆毛立つ。じっとしていられなくて松葉杖を掴もうと身を捩った瞬間、右脇腹がひくついた。
「〜〜っ!」
ゆっくりと体勢を戻し、慎重に溜め息を吐く。前にベッドから落ちた時もそうだった。あの時は異頭さんとカフェへ行くのは一回だけのつもりだったのに、気付けば二回も行っていたな。
俺が余計なことを言わなければ、彼女は今もここに来ていたのだろうか?
「……」
ベッドから足を下ろし、ゆっくりと松葉杖へ腕を伸ばす。腕にグッと力を込め、病室を出た。
廊下は広く、見通しがいい。角から医師や看護師が現れるたびに、白い制服に白いバラの被り物を重ねそうになり、俯きがちに歩を進める。チン、とエレベーターの音がして、異頭さんの声が脳裏をよぎった。
『パグには古い英語で“優しく愛されるもの”という意味もあると何かで読んだことがあって、良いあだ名だと思っていたんです』
今思えば、あれは雑談の一話題でしかなかったのかもしれない。それでも俺は嬉しかった。
嬉しかったんだ。
俯いたままエレベーターに乗り込み、普段より雑にボタンを押す。
扉が開くと、辺り一面から雨のにおいがした。気分転換に何か飲もうとカフェへ向かいながら、異頭さんからもらったロングストローを思い出した。
『母が入院している間は週に何度か来てるんです。栗がお好きなら、期間限定のモンブランフラペチーノもオススメですよ』
彼女はそう言ってくぐもった笑い声をあげていたっけ。懐かしさに目を細め、レジでモンブランフラペチーノを指差す。
「申し訳ありません。そちら本日分は完売しておりまして」
「えっ」
慌ててメニューを見返したが、咄嗟のことに頭が回らない。もたもたするうちに後ろの客の視線が気になってきて、結局何も買わずに店を出た。
病室前で不貞腐れるみたいに足を振ったら、勢いにつられた松葉杖が滑って、俺は潰れたカエルみたいに顎から廊下に倒れ込んだ。
「いっ……」
衝撃に声もろくに出せず、廊下で腹這いになる。
踏んだり蹴ったりだ。
このまま廊下で寝てやろうか。
そんなことを考えていると、ふと誰かが目の前で立ち止まった。唇を尖らせ、八つ当たりでもするように視線を前に向ける。
銀色の靴。
ドッと心臓が跳ねる。
異頭さんだ。
期待で胸が膨らみ、すぐに萎む。
どんな顔で会えばいい?
何と声をかければいい?
躊躇う俺を残し、銀色の靴が動く。
行ってしまう。
俺は反射的に頭を上げた。
ラフな格好で大きな紙袋を手にした彼女の首には、渦巻き模様をした茶褐色の切り株のぬいぐるみのようなものが乗っていた。右の側面からは、殻と同じ高さの白い親指のようなものが飛び出している。
……えっ、何?
俺は異頭さんの頭を見上げたまま暫し固まり、おもむろに首を傾げてみた。念のため、反対側にも首を傾げてみる。
だめだ、何も分からない。
「こ……」
「こ?」
生唾を飲み、異頭さんの頭を見つめる。
「焦げた、バームクーヘン?」
「でんでん虫です」
間違えた。しかも食べ物ですらない。
やってしまった。
もう終わりだ。
病院の廊下に伏せたまま、俺は頭ごと肩を落とした。頭上から衣擦れの音がして、視界の上部にすっと異頭さんの手が映る。
「ありがとうござ……手、大丈夫ですか⁉︎」
彼女の指には、大量に絆創膏が貼られていた。
ハッとしたように異頭さんが両手を背中へ隠す。もう片方の手も隠したということは、恐らくそちらも似たような状況なのだろう。
口を開こうとした俺に気付き、彼女が気まずそうに手を揉む。
「あの、お気持ちは嬉しいですが、パグさんの方が……」
「へ?」
何のことだろうと首を捻り、ハッとした。
俺、廊下に倒れ込んだままだ――!
慌てて床に腕と膝をつき、壁に這い寄る。踏ん張りが効かない下半身は重く、手すりに向かって伸ばした指先が震える。
すると、俺の隣に異頭さんがしゃがみこんで、腕を差し出してくれた。
「私で良ければ、つかまってください」
「いやいやいや」
俺は勢いよく首を振ると、カタツムリのように壁と手すりに張りつきながら気合いで体を起こす。腕をブルブルと震わせながら看護師らに軽く会釈をしていると、異頭さんが松葉杖を差し出してくれた。
「どうぞ」
そういえば、彼女と並んで立つのは初めてだ。ベッドや車椅子から見上げていたときは気にならなかったが、彼女は俺よりも背が低い。それに、車椅子で移動していたときよりも顔が近い。
俺は熱くなる顔を誤魔化すように、松葉杖を脇の下に押し当て、腕に力を入れる。
「すみません、お恥ずかしい限りで……」
「パグさんはいつも床にいらっしゃいますね」
「うっ」
「冗談です」
異頭さんが肩を揺らす。その様子を見ているうちに、なんだか俺まで面白くなってきて、二人して廊下で控えめに笑いあった。
心がふっと和らぐ。
もう少しだけ、彼女の声を聞いていたい。
「異頭さんは、どうしてここに?」
そう尋ねると、異頭さんは大袈裟なほど肩を跳ねさせた。カタツムリの頭が斜め下へとゆっくり這い、か細い声が微かに耳に届く。
「あの、お見舞いに……」
「お母様の?」
「いえ、その……今まで手ぶらで伺っていたので、遅ればせながらお見舞いの品を持参しました。受け取っていただけますか?」
ずいっと差し出された大きな紙袋には、見覚えのある高級洋菓子店の名前が書かれている。この近くに店はなかったはずだが、わざわざ買いに行ったんだろうか?
「いやいや、お気遣いなく……うおっ」
「危ないっ!」
バランスを崩した俺の腕と背中を、咄嗟に異頭さんが掴んで支えてくれた。
彼女の柔らかな手は力強く、熱い。
視界には彼女の白い頸が映り、キャラメルのような花の香りが漂う。スンッと鼻が鳴って、慌てて壁に張り付いた。
「す、すみません! わざとじゃないんです!」
「私こそ、気が利かなくてすみません。えっと、お部屋までご一緒しても?」
おずおずと申し出てくれた彼女と精一杯距離を取るために、俺は壁に縋り付いた。手すりが体にめり込んでいるが、そんなことはどうでもいい。
息が苦しい。
いい匂いだった。
……だめだ、思考がまとまらない。
「お、お願いします」
絞り出した返事は弱々しくて、妙に上擦っていた。
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