第五話 でんでん虫を撫でる手は②
松葉杖を握り直し、異頭さんと距離を取りながら体勢を整える。俺を気遣う気配がくすぐったくて、誤魔化すように頬の内側を噛んだ。
どこまでも廊下が続いていけばいいのに。
そんな思いも虚しく、あっという間に病室が見えてきた。異頭さんがの扉を開けると、雨音と椋鳥の鳴き声が一気に弾ける。
「わっ、すごい音ですね」
驚く彼女に続いて病室に入った俺は、そのままベッドに腰を下ろした。転んだときにぶつけたのだろう膝や腕が地味に痛い。
青あざにでもなったら、また看護師に叱られてしまう。淡々としてて怖いんだよなぁ。
思わず溜め息を吐くと、異頭さんが傍からそろそろとお見舞いの品を差し出してくれた。今更こんなものを戴くのは申し訳ないと思ったが、断るわけにもいかず、ありがたく頂戴する。その重みに改めて驚いていると、彼女は「お大事になさってください」と踵を返した。
異頭さんが帰ってしまう。
――もう会えないかもしれない。
「お、お菓子! いりませんか!?」
咄嗟に絞り出した言葉が病室に響き、異頭さんが勢いよく振り向く。
「もしや洋菓子はお嫌いでしたか!? 出直します、明日にでも必ず」
――来てくれるのか、明日も。
思わず頷きかけた己の浅ましさに、自然と視線が落ちる。
紙袋から取り出した熨斗付きの箱は想像以上に大きく、どう考えても独身男性へのお見舞いのサイズ感ではない。それでも、これに異頭さんの誠意が表れているのだろうと思うと、不思議と腑に落ちた。
――大袈裟と言うか、意外と抜けているというか。
そんなところも彼女らしくて、頬が緩む。
「洋菓子は好きですよ。でも一人では食べきれないですし、美味しいからこそお裾分けしたいんです」
「ご迷惑でしたか?」
「嬉しいですよ。だから早く開けたくて、ほら」
「……では、お言葉に甘えて」
遠慮がちに近づいてくる足音に合わせて、包装紙をとめるテープを剥がし、箱を抜き取る。蓋を開けると、様々な焼き菓子が天の川のように美しく並んでいた。
どれも本当に美味しそうだ。うきうきと異頭さんの手に菓子を乗せていたら、あっという間に溢れてしまった。
「こんなに貰ったら、パグさんの分がなくなっちゃいますよ」なんて苦笑する声にときめいて、誤魔化すように体を捻って床頭台へ腕を伸ばす。
「この前買った手提げ袋があるので、良かったら……いだっ」
右脇腹に緊張が走り、体がびたりと硬直する。どっと冷や汗が噴き出し、息をするのも儘ならない。
やばい。やばいやばいやばい。
「大丈夫ですか?」
「ふ、袋……」
床頭台を指差す振動に、右脇腹がひくつく。
ここで脇腹が攣ったら、確実に会話どころではなくなる。彼女だって流石に呆れて帰ってしまうかもしれない。
それだけは絶対に、絶対に嫌だ!
慎重に息を整え、恐る恐る体を動かす。脇腹の強張りがほぐれたところで、ゆっくりと振り向いた。
異頭さんは、なぜか床頭台の引き出し前で固まっていた。手に何か握っている。
――紙?
それが溜めに溜めた俺のメモ書きのうちの一枚だと気付いて、喉から悲鳴のような音が漏れた。
「ち、違うんです! すれ違ったらご迷惑かと思っただけで、他意はなくて」
「……これ、全部私に?」
「枚数に意味はありません! 待ち構えていたわけじゃないんです!」
言葉を重ねるほどに、墓穴の深さが増していく気がする。それでも彼女はメモを手離さない。
「私が来ることは、ご迷惑ではなかったんですね」
ぽつりと呟かれた言葉の意味が分からず呆けた俺は、すぐにハッとして彼女へと近付いた。
「すみません、すぐに捨てますから!」
そう言って伸ばした俺の腕を避けるように、異頭さんが俊敏に体を捩る。
「どうして捨てるんですか?」
――どうして?
そんな分かりきったことを、どうして聞くんだ?
「だって、気持ち悪いでしょ? 異頭さんの優しさに甘えて足を運ばせて、挙げ句に傷つけて、なのにこんなメモまで用意してたなんて」
「そんなことないです」
「気が緩んだんです。話していると楽しくて、分かり合えたような気になって、つい……申し訳ありませんでした」
何かを見定めるような沈黙が、記憶の中の母と重なる。面影から逃げるように深々と頭を下げると、異頭さんが絞り出すように話し始めた。
「なんで私が嫌々来ているみたいに言うんですか? 会いに来ているのは私なのに」
「それは怪我の詫びとして、ですよね」
「私が来るのは怪我だけが理由だって思ってるんですか? 本当に?」
もちろん他にもあるだろう。でも、これ以上迷惑をかけたくない一心で、俺は顔を上げて宣誓した。
「大丈夫です。異頭さんが優しくて責任感と行動力のある方だって、知ってますから」
「……本気で言ってます?」
「そうじゃなきゃ、わざわざ俺なんかに会いに来ないでしょ。大丈夫、勘違いしたりしませんよ」
これで安心してもらえる。そう思ったのに、彼女は絆創膏まみれの手を強く握りこんだ。
「随分と酷いことを仰るんですね」
ハッと鼻で笑われて、俺は瞬きを繰り返す。
「異頭さん?」
「私だって、パグさんが思うような人になりたかったですよ。なれるものならね」
遠くで車のクラクションが鳴る。バサバサと雑音がして、椋鳥たちの声が瞬間的に消えた。
「――え?」
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