第五話 でんでん虫を撫でる手は③
「お忘れかもしれませんが、私は被り物がないと外にも出られないんです。引きこもって、親も泣かせて、自分も苦しくて……それなのに、責任感と行動力がある? 優しい? 笑わせないでください」
「それは……」
「明るく話してるからって、辛くないわけじゃないんです。苦しみを全て言葉にするわけじゃないって、言わなくたって分かるでしょ?」
そう言われて、腹の底が重くなる。
忘れていた訳じゃない。ただ、彼女があまりに明るく話すから、そんなに深刻に受け止めなくても折り合いはついているものだと思って——いや、そうなのだろうと決めつけていた。
ろくに聞きもせず。
「ずっと、普通になりたいって思ってました。立派じゃなくていい。ただ普通に、みんなと同じように、当たり前のことを当たり前にできたらって、ずっと……今だって思ってます。でも、できない」
異頭さんは指に巻いた絆創膏を引っ掻きながら息を乱すと、吐き捨てるように囁いた。
「私は、私になんて、なりたくなかった」
静まり返った病室に、廊下を通るカートの音が微かに響く。
「俺は……その……」
言葉が出てこない。
彼女の気持ちを汲み取ろうとしても、でんでん虫の被り物は凹凸が少なく、過去の被り物以上に彼女の感情が読みにくい。
まるで顔が塗りつぶされているみたいだ。
「パグさんは、新美南吉の“デンデンムシノ カナシミ”をご存知ですか?」
「え、いや……」
急な話題変更についていけずに首を捻る。そんな俺を気にすることなく、彼女は淡々と話し続ける。
「でんでん虫が、自分の殻にかなしみが詰まっていることを、他のでんでん虫に相談するんです。でんでん虫、どうなると思います?」
戸惑う俺の頭の中に、彼女の被り物とよく似たカタツムリが浮かぶ。フラフラと体を揺らすそのカタツムリから、かなしみが殻に詰まっていると相談されたら、俺が望む結末は――。
「かなしみが無くなって、救われる?」
そうであってほしい。
そんな思いを込めて答えると、彼女は小さく首を振った。
「誰の殻にもかなしみが詰まっていると知るんです」
「……えっ、終わり?」
異頭さんは頷くと、メモをポケットへと仕舞い、ベッドサイドの丸椅子に腰を下ろした。殻の横から飛び出した白い部分が、ひょこりと揺れる。
「私ね、パグさんもかなしみを抱えていると知ったとき、嬉しかったんです」
それは、かなしんでいるのを喜ばれるくらい嫌われていたということか?
逃げ腰になる俺を引き留めるように、異頭さんが頷く。
「最低でしょ? でも、辛いのは私だけじゃないんだって思って、ようやく地に足がついたような気がしたんです」
「……物語のでんでん虫みたいに?」
彼女は首を横に振ると、所在なさげに足先を揺らした。彷徨う指先は何か悩んでいるようでもあったが、暫くすると懺悔でもするみたいに膝の上で指を組んだ。
「思い上がったんです。物語のでんでん虫と違って、私がパグさんの支えになれたらって息巻いて、パグさんの気持ちも聞かないままに踏み込んだ。申し訳ありませんでした」
異頭さんの頭が、深々と下げられる。
俺は身を捩りながら、必死に手を横に振った。あまりの勢いに脇腹が軽く引き攣ったが、そんなことを気にかける余裕はない。
「頭を上げてください。助けになりたいと思われて怒ったりしませんよ。むしろ嬉しいくらいだ」
「でも、あの日は怒ってらっしゃったじゃないですか。もうカフェへ行くのは止めると仰って、振り返らなかった」
「それは……」
嫌な記憶が蘇って八つ当たりをしました、なんて言えるわけがない。
無言で背中に汗をかいていると、異頭さんが顔を背けた。
「すみません、取り乱して」
蛍光灯の白く無機質な光が、凹凸のない被り物に影を落とす。何か、言わないと。
「謝らないでください。俺にそんな価値はないんです。そもそも……いや、忘れてください」
「聞かせてください」
「いいんです。よく母にも『お前は場を白けさせる天才だ』って言われてましたし、言わぬが花ってやつですよ」
誤魔化すように笑い、唇を軽く噛む。
すると、異頭さんが立ち上がらんばかりの勢いで身を乗り出してきた。のっぺりとした殻の被り物の圧に負け、腰が引ける。
「聞いているのは私です。私が、パグさんの気持ちを知りたいんです。ここにいない方のことは知りません」
「それは……」
そうかもしれない。
納得できたことに自分でも驚きながら、彼女を見る。冷静に考えれば否定の言葉がいくらでも浮かぶのに、異頭さんがあまりにもキッパリと言い切るから、そんな気がするのだろうか。
こんなこと初めてだ。半ば呆然とする俺に畳み掛けるように、彼女は話し続ける。
「パグさん、言ってましたよね。『大人は傷を抱えて生きていくしかない』『一人で耐えるのには慣れてる』って」
「言いましたっけ?」
「なんで疑問系なんですか。言いましたよ、多分」
「すみません」
……今、多分って言ったな。
「まぁいいです。パグさんの言う“大人”って、どんな人のことですか?」
「えっ、大人は大人じゃないですか?」
他になんと言えばいいか分からず、俺は斜め上を見上げる。
母の溜め息が頭の中に響く。
とにかく謝罪しようとした俺の前で、異頭さんが服の裾を握りこんだ。
「私が母の話をした時も、一人で耐えろって思ってたんですか?」
血の気が引いた。
「ありえません!」
「私も大人なのに?」
「それは……」
指先で布団を手繰り寄せ、言葉を探す。のろのろと目を泳がせても、何も見つからない。
「パグさんの持論は、自分を押し殺すものばっかり。私も昔はそうでした。耐えて、耐えて、耐えることが普通になって……ある日、立てなくなった」
「……」
「パグさんには、そうなってほしくないんです」
異頭さんの声が段々とすぼまり、いつの間にか戻ってきた椋鳥の声に掻き消されていく。切実な言葉が胸に響いて、俺は礼を言うために口を開いた。
——本心かどうかは別にして。
「……俺だって、好きで耐えてるわけじゃない」
ぽろっと溢れた言葉を否定するように、俺は慌てて手を振った。
「すみません、せっかく俺のことを思って言ってくださったのに」
「いえ、聞かせてください」
「でも……」
躊躇う俺に、異頭さんが椅子を寄せる。視界の隅で、銀色の靴が小さく光った気がした。
「私、聞きたいんです」
「……なにを?」
「パグさんの気持ちを」
そう言い切った異頭さんに、俺は僅かに目を細める。ここまでして俺なんかの話を聞きたがるなんて、何か裏があるんじゃないかと、普段なら疑っていただろう。
それなのに、相手が異頭さんだというだけで、固く閉ざした唇から不思議と力が抜けていく。
「別に、面白いことなんて何もないですよ。それでも俺の話なんか聞きたいんですか? なんで?」
「だって、パグさんも私の話を聞いてくれたじゃないですか。面白くもない話を、今もずっと」
思わず笑みが漏れる。そんなの当然だ。
「それは、異頭さんが俺のことを思って言ってくれてるって分かるから」
「私を救ったパグさんの言葉だって、同じくらい真剣に感じましたよ?」
「それは、まぁ」
そうだけども。
「一緒じゃないですか。良かった、否定されたらどうしようかと思った」
異頭さんが笑い声を漏らし、でんでん虫の殻が少しだけ傾いて、白い部分が小刻みに揺れた。なんだか気の抜ける動きに、舌の強張りが少しだけ緩む。
言うなら、きっと今しかない。
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