第五話 でんでん虫を撫でる手は④
「なんというか、実感が持てないんです。言葉に救われたって言われても、現実は何も変わらないんだし……」
――場を白けさせる天才ね。
母の嘲笑が脳裏によぎり、恐る恐る異頭さんを見る。だが、彼女は俺を笑うことも呆れることもなく、ただまっすぐに俺を見ていた。
「それは、パグさんが私のかなしみを撫でてくれたからですよ」
「撫でるって、かなしみを? えっ、俺が?」
実体もないのに?
首を捻る俺に、異頭さんが頷きを返す。
「パグさんと話していると、息がしやすくなるんです。心にわだかまっていたものは消えなくても、収まりが良くなるというか……」
「えっと、気持ちが整理できるってことですか?」
「う〜ん……普段は些細なことで顔を真っ赤にして泣きながら睨んできて、もう限界だって思うのに、寝顔を見たら少しだけ許せる……みたいな感じかなぁ。うまく言えないんですが」
何とか言語化しようと頭を捻る彼女には申し訳ないが、例え話が俺にはさっぱり分からない。だが、よくよく考えると、過去に冴木も似たようなことを言っていた時期があった気がする。いつ頃だったか、もう何年も前だった気がするが——あれだ、娘さんがイヤイヤ期だった頃だ。
……いや、そんな可愛いものじゃないだろ!
そう思いはしたが、彼女のかなしみは彼女のものだ。どう接するかは人によって違うんだし、口を挟めるようなことでもない。
俺は自分のかなしみから目を逸らしながら、曖昧に返事をする。
……少なくとも、俺のかなしみには似合わない。
「なんというか、俺と異頭さんのかなしみは全然違うんでしょうね。撫でるのは少し難しそうだ」
俺は自分のかなしみと異頭さんのかなしみを頭の中で並べてみる。なんというか、根本的に違い過ぎて、分かり合える気がしない。
顔を顰める俺を見て、異頭さんが不思議そうに呟く。
「違ったらダメなんですか?」
予想外の返事に、思わず口が開いた。
「ダメに決まってるじゃないですか。何もかもが違うのに、何が分かるって言うんですか?」
「分からなくたって、否定しないことはできるでしょう?」
「それは」
意味があるのか?
「それに、パグさんは背守りについて調べてくれたじゃないですか。私のために何かしようと思ってくれた、その気持ちも含めて、私は嬉しかったんです」
ほんのりと首を赤らめて話す異頭さんは可愛らしいが、随分と買い被られている気がする。俺は首を横に振ると、まっすぐ彼女を見つめて言った。
「そんなの、ただのきっかけにすぎませんよ。異頭さんを救ったのは、お母さんと向き合うと決めた異頭さん自身だ。俺じゃない」
これには異頭さんも納得してくれるだろう。そう思ったのに、異頭さんは肩をすぼめるばかりで頷く気配が全くない。それどころか、首を少し傾げてすらいる。
「パグさんらしいですね」
「なにが?」
「私を救ってくれたのが、パグさんの言葉で良かった」
言葉の意味がわからず、俺は無駄に目を瞬かせる。
「ど、どういう意味ですか?」
「そのままの意味です」
「いやいやいや! ただ事実を言っただけで、誰が言っても同じですよ!」
「パグさんにとってはそうでも、私には違うんです。案外、そういう人は他にもいるかもしれませんよ?」
異頭さんが体を揺らして笑う。その声があまりに楽しそうなので、俺は溜め息を吐いて疑問を飲み込んだ。
納得はできないが、彼女が笑っているならまぁ、なんだっていい。
「とにかく、異頭さんが辛い記憶を乗り越えられて良かったです」
「乗り越えてはいません」
異頭さんの答えに、空気が固まる。
俺は顔が強張るのを感じながら、恐る恐る聞き返した。
「……ああ! かなしみが消えたって意味ですか? 今が辛くないなら良かった」
「そうじゃありません。どうしたって消したり捨てたりできないから“かなしみ”って言うんですよ、きっと」
なんだよ、それ。
かなしみを消すことも乗り越えることもできないなら、なにが救われたというんだ。
……ああ、そうか。
「異頭さんは、かなしみを受け入れたんですね」
随分とお強いことだ。
俺はそんな風には思えないし、思いたくもない。そう思っていたら、異頭さんが鼻を鳴らした。
「そんな訳ないじゃないですか。叶うなら遡及して速やかに存在丸ごと跡形もなく消し去りたいですよ、今すぐ」
忌々しそうに吐き捨てる彼女の反応は予想外すぎて、ぽかんと口を開けて固まってしまう。
異頭さんも、強い言葉を使うことがあるんだ……。
そんな場違いな感想が脳裏をよぎり、ようやく俺は正気に戻った。
「全然救われてないじゃないですか! かなしみを糧に前を向く話かと思ったのに」
俺の必死の訴えに、異頭さんが軽く苦笑する。
「捨てられないだけです。私のかなしみは、でんでん虫の殻みたいに私と一体化しているから」
そう言って肩をすくめる彼女の仕草はコミカルだが、纏う空気は曇天のようだ。
「だったら、なおのこと消す方法を探すべきでは?」
「うーん、どうでしょうね」
「……」
「私が私を捨てたら、あまりにも報われないでしょう?」
苦笑まじりに呟く声には、どこか諦めが滲んでいる。
見たくもないのに捨てられない。そんな相反する気持ちに、心当たりがないわけじゃない。でも、本当にそれでいいのか?
「受け入れられないものを、抱え続けるんですか?」
そんなの耐えられない。
そう言ってほしいと願う俺の気持ちを見透かしたように、異頭さんは首を横に振った。
「言ったでしょ? パグさんの言葉に救われたって」
「かなしみが残っているのに?」
「抱える辛さは和らぎましたから」
——辛くないとは言わないのか。
俺は胸が急き立てられるような息苦しさを覚えて、小さく唇を噛んだ。
抱えることを彼女が選んだのなら、それを尊重するべきなのかもしれない。傷の形が違うなら、彼女の選んだ答えが最適解の可能性だってある。
頭では分かってる。でも心が追いつかない。
俺も、同じだったから。
「俺は、異頭さんのようには思えません」
「……」
異頭さんが無言で頷く。そのまま俯きそうになる彼女の頭に、俺は声をかけた。
「だから、せめて辛さを和らげる方法を一緒に考えませんか?」
「……えっ?」
間の抜けた返事に笑みが漏れる。
「俺だって、異頭さんのかなしみを否定したいわけじゃないんですよ」
「そうなんですか?」
「だって、かなしみは異頭さんの一部なんでしょう?」
そう言って話を振るも、返事がない。内心焦り始めた頃に、彼女は噛み締めるように呟いた。
「…………うん」
その声にほっと胸を撫で下ろし、俺は天井を眺めながら頭をひねる。白い天井に蛍光灯の光が反射して、目に眩しい。
「どうしたものでしょうねぇ。撫でたら和らぐなら、撫で続けるとか?」
「ずっとですか?」
「無理ですかね? 実体のないものを撫でるっていうのが、よく分からなくて……子守唄なら録音できて便利なんですけど」
「そんな、子供の寝かしつけみたいに」
嗜めるように響いた彼女の声に、思わず手を打つ。
「なるほど。倒せない敵を眠らせるのは物語の鉄板ですし、撫で続けていれば、いつかは眠ってくれるかも」
俺は名案だとばかりに身を乗り出したが、異頭さんは銀色の靴を擦り合わせている。
「でも、自分で自分のかなしみを撫でるのは、ちょっと」
「まぁそうですよね。あ、俺でよければ手伝いますよ」
「……なんでそこまで?」
怪訝そうな声に、笑いが漏れる。
「俺が嫌なんです。異頭さんに、辛いままでいてほしくない。それだけです」
本心からそう言うと、彼女は少しだけ身を乗り出して俺を見た。
「私もパグさんが辛いのは嫌だって言ったら、その優しさをご自身に向けてくれますか?」
「……どうでしょうね」
無理だろうな。
そう思ったが、異頭さんの優しさを無碍にすることもできず、曖昧に笑う。
そんな俺を、彼女はじっと見ていた。
「頑なですね。まるで幸せを怖がっているみたい」
「それは、異頭さんだって同じでしょう?」
やんわりと身を引く俺を見て、彼女が寂しそうに呟く。
「やっぱり私じゃ、パグさんのかなしみを撫でられないんですね」
「……」
異頭さんが悪いわけじゃない。
でも、今の俺が何を言ったとしても上滑りするだけだ。
黙りこむ俺の前で、彼女の手に力がこもる。
「いつか、パグさんのかなしみを撫でる手が現れます。きっと、絶対に」
「……」
「そのときは……どうか拒まないでください」
祈るように言葉を紡ぐ彼女の姿に、胸が締め付けられる。
ここで彼女の思いに応えられたなら、どんなにいいだろう。
そう心から思うのに、どうしても最後の一歩を踏み出せない。そんな俺から返せるものは何もなくて、誤魔化すように頭を掻いた。
「そんな都合のいい手が現れるとは思えませんが」
「私も、同じように思っていましたよ」
「異頭さんも?」
「ええ、パグさんに出会うまでは」
そう言って頷く異頭さんを直視できずに、逃げるように目を伏せる。彼女が何度もさすっていた指の絆創膏が、じんわりと赤くなっている。
「また血が滲んで…… 」
「大丈夫です、大した傷じゃありませんから」
「でも、そんなに傷だらけになって……何かあったんですか?」
「そんなに深刻そうな顔しなくても。曲線がうまく縫えなくて怪我しただけですから」
丸い頭を揺らす彼女に、絆創膏を差し出す。彼女は少し躊躇っていたが、俺に引く気がないと察して、そろそろと絆創膏を受け取った。
そういえば、でんでん虫の縫い目が心なしかカクカクしている。
「もしかして、でんでん虫を?」
「“焦げたバームクーヘン”って言われたときは、どうしようかと思いましたけどね。せっかく頑張って作ったのに」
「すみませんでした」
「冗談ですよ。少しでも気持ちが伝わるようにって思ったんですが、二週間では厳しくて」
異頭さんが血のついた絆創膏を剥がす。白くふやけた皮膚には針の跡らしきものが何個も残っていて、なんとも痛々しい。
傷だらけの手をさする彼女を慰めようとして、俺はぴたりと動きを止めた。
―― せっかく頑張って作ったのに?
「まさか、今日のために作ったんですか? 話すのが下手だから?」
「……まぁ」
「被り物は心情を表しているって言ってたじゃないですか」
「一応は心情も表してます! 殻の中には私のかなしみが詰まった頭があるので!」
言い訳のように言葉を重ねる異頭さんを見ながら、俺は改めて彼女の手を見た。すぐに両手とも背中に隠されてしまったが、今更だ。なのに、理由も聞かずに俺は――。
「なんで、そこまで」
胸がいっぱいで言葉が出ない。すると、異頭さんは何かを思い出すように笑い出した。
「今日久しぶりにお会いしたとき、パグさん少し笑ってたでしょ? だから、いいんです。頑張って良かった」
嬉しそうに胸を張る姿に、胸と目頭が急に熱くなる。情けない声が漏れそうになって、抵抗するみたいに唇を噛む。
「パグさん?」
異頭さんが心配そうに俺を――“優しく愛されるもの”という意味のこもった名前を、呼ぶ。
俺は大きく息を吸うと、込み上げるものを誤魔化すように、おちょけた声を出した。
「前は『簡易なものなら二週間くらいで作れます』って言ってたじゃないですか」
「あれは、その……見栄を張って」
「見栄?」
「パグさんがキラキラした目で私を見るから、つい……格好、つけたくて」
異頭さんの声はどんどん窄まり、首が真っ赤に染まっていく。よく見れば、体もぷるぷると震えている。恥ずかしいのだろう。
その姿を見ていると、急に笑いが込み上げてきた。堪えきれず声を漏らしながら、自分の顔を手で覆う。
涙が滲む。
こんな人、初めてだ。
だから、もういいと思った。
俺は彼女のようにはなれない。かなしみの扱い方が違うように、他にも違うところが沢山あって、俺たちは全く同じにはきっとなれない。それは少し寂しいし、そのせいで傷つくことや苛立つことだって、あるかもしれない。
それでもいい。
――いつか後悔したとしても、彼女を信じた結果なら、それでいい。
「やっぱり、異頭さんは俺が思っていた通りの人だ」
濡れた目元を拭い、手を退ける。涙に気付かれていないか不安だったが、彼女は普段と何ら変わらない様子で俺を見ていた。
「パグさんだって、私が思う通りのひとですよ。初めてお話したときから、ずっと」
優しい声に、閉ざしてきた胸の奥がじんわりと熱を持つ。まるで真冬に握った手の温もりのような淡い感触に、俺の中で蹲っていたかなしみが微笑む。
なんだ。
案外、撫でられたがりなんだな。
肩の力を抜き、異頭さんと顔を見合わせて笑い合う。
再び目尻に浮かんだ涙に気付かないふりをしながら、今だけは自分を認めてもいいような気持ちになった。




