第三話 よだかの星空①
鼻のガーゼが取れた翌日に移動したリハビリ病棟は、前と似た間取りの、またしても自分しかいない四人部屋だった。
窓から見える池の水面はきらきらと輝き、巻雲が青い空を掃くように横切る。群れで飛ぶ鳥をベッドの上から眺めていると、廊下を行き交う人々の足音や話し声が聞こえてきた。
静かな病室で過ごす時間というのは想像以上に遅く感じるが、かといって誰かがいるのも気を使う。ままならなさに息を吐きながら、俺は机の脇にある時計へと目を向けた。
あと三十分ほどで、異頭さんが来る。
半ば強引に決まったお茶会ではあるが、行くからには和やかに終わりたい。せめて地獄のような時間だけは避けたいが……考えれば考えるほどに気持ちは泥のように重く沈み、胃にもたれる。いくら溜め息を吐いても、一向に軽くなりそうにない。
次からは断ろう。
一度行けば彼女も断りやすくなるだろうし、俺なんかのために無理をさせるのは本意ではない。お互いのためだ。
そう心に決めて、車椅子へ手を伸ばす。わざわざ人を呼ばなくても、時間をかければ何とかなるだろう、なんて甘く考えて腰を浮かせた俺は、ずるっと尻から床に落ちた。
「いってぇ……」
骨から伝わる衝撃に息を呑み、呻きながら首を動かす。強かに打った背中と尾てい骨には痺れるような痛みが走り、右手は体の下でジンジンと熱を持っているようだ。ベッドの縁に乗せたままの両足が、痛みでピクピクと震えている。
とりあえず人を呼んでみるも、返事はない。頼みの綱のナースコールが枕元にあるのを見た俺は、頭から血の気が引いていくのを感じた。
「だ、大丈夫ですか?」
入り口付近から声が聞こえて、ハッとする。めいっぱい首を捻ると、立ちすくむ銀色の靴と夜空色の着物が見えた。
あの靴には見覚えがある。異頭さんだ。
「すみません。ちょっと車椅子に移り損ねてしまって」
「落ちたんですか? えっ、大丈夫ですか?」
銀色の靴が音を立てて近付いてくる。情けなさから咄嗟に俯きそうになるのを耐え、礼を言おうと彼女を見上げる。
そこにいたのは、あの大輪の白バラではなかった。
平らな頭部、耳まで裂けた大きな口。びっしりと生えた羽毛は見るからにごわついていて、所々に味噌でもつけたような模様をしている。ぎょろりと大きくて丸いプラスチック細工みたいな目を見れば、呆然と見上げる自分自身と目が合った。
「うぎゃあああああ!?」
腹の底から出た叫びは病室中に響き渡り、廊下からバタバタと部屋に人が駆け込んでくる。
「お、落ち着いてください! 私です、イトウです!!」
プラスチック細工の目が慌てて俺から離れる。代わりに現れた看護師が、俺の脇を抱え上げて車椅子へと乗せてくれた。
……ん? いま、異頭って言った?
ようやく落ち着いた俺は、一人で車椅子に移ろうとしたことがバレて、看護師から懇々と叱られる羽目になった。今日は車椅子を漕ぐことすら禁止だという。
看護師が去ると、俺は頭を抱えて項垂れた。
もはや恥なんて言葉では表しきれない。
穴があったら飛び込みたい。
そんな状態でも、異頭さんは約束を違えるつもりはないらしい。あれよあれよという間にカフェへ連れていかれ、あっという間に会計まで済ませてしまった。俺がしたのは、せいぜいメニューを指差すことだけ。
番号札を手にした俺は、彼女に再び車椅子を押されながら、入口からほど近い隅のテーブル席へと着いた。店内奥には大きな窓に沿ってカウンター席が並び、親子連れがいるテーブルの斜め後ろでは、入院着姿のおっさんが一人で新聞を広げている。
なにが『入院患者は付き添いがいないと利用できない』だ、冴木のやつ適当なこと言いやがって……。
舌打ち代わりに体が揺らせば、肘が廊下とカフェとを区切るポールに軽く当たって音がした。それを慌てて押さえ、俺は向かいに腰を下ろした彼女へ深々と頭を下げる。
「先程は申し訳ありませんでした。その、お顔が違ったので少しビックリして」
「ああ、これは被り物なんですよ」
それはそうだろうが、そういう意味ではない。
「なんというか……頭は日替わりなんですか?」
「日替わりって、なんだか定食みたいですね」
抑えたような笑い声を漏らし、異頭さんが体を震わせる。彼女の頭が揺れるたびに、プラスチック細工の目に映る俺も楽しげに揺れる。
絶叫しておいて言える立場ではないが、よく見れば愛嬌のある顔だ。
「えっと……」
「笑っちゃって、すみません。なかなかない反応で、つい」
彼女は笑いを堪えるように嘴の下へ手を当てると、わざとらしく咳をしてから話し続けた。
「えっと、日替わりではないですが、何種類かはありますよ。自分の心情に合わせて作るので、そんなに多くはないんですが」
「まさか自分で作ってるんですか?」
思わず前のめりになる俺を制するように、彼女がすっと手を上げる。慌てて身を引いたところで、お盆を持った店員が現れた。
「三番のお客様、お待たせしました。アイスコーヒーと焼き芋フラペチーノのキャラメルソース追加です〜」
店員は慣れた様子で商品名を読み上げると、迷うことなく俺の前にアイスコーヒーを、彼女の前にフラペチーノを置く。
注文が、逆――!
あわあわとしている間に店員はいなくなり、沈黙が降りる。左手で慎重にアイスコーヒーを掴んで異頭さんへ差し出すと、彼女も俺にフラペチーノを差し出してくれていた。
「あ、ありがとうございます」
「このフラペチーノ美味しいですよね。さつまいもの甘さにキャラメルソースが合って」
そう言って、異頭さんは左手でアイスコーヒーを受け取ると、右手に持ったままのフラペチーノを俺の前に優しく置いた。
こっくりとした黄土色に、キャラメルソースの甘く香ばしい香り。なんとも秋らしい一杯に、思わず頬が緩む。
ふいに、くぐもった笑い声が目の前から聞こえてきて、俺は慌てて空咳をした。
とにかく、何か話さないと。
「えっと、お詳しいんですね」
「この病院に母が入院しているので、週に何度かは通っていて。栗がお好きなら、期間限定のモンブランフラペチーノもオススメですよ 」
そう言って、彼女は袖の下から三十センチはありそうな個包装のロングストローを取り出すと、アイスコーヒーに躊躇いなく突き刺し、嘴の端で咥えた。
アイスコーヒーが物凄いスピードで減り、プラスチックのカップがベコっと鳴る。
「もしや、そのストローもご自分で?」
「……へっ?」
異頭さんは一瞬首を傾げたが、すぐに納得したように頷いた。
「ああ、これはパーティー用のロングストローです。くねくね曲がる部分を全部伸ばすと、長さが丁度良くて。良ければ一本いります? 」
「えっ」
「肺活量のトレーニングになりますよ」なんて、本気なのか冗談なのか分からないことを言いながら差し出された個包装のロングストローを、しずしずと受け取る。
気持ちは嬉しいが、これでフラペチーノを飲むほど肺活量に自信はない。
俺は曖昧に笑うと、受け取ったストローを笑顔でポケットへと突っ込んだ。半分ほどはみ出ているが、まぁ大丈夫だろう。
そんなことを考えていると、異頭さんが嘴からストローを抜いて話し始めた。
「被り物の話が途中でしたね。意外と難しくないんですよ。不器用な私でも、簡易なものなら二週間くらいで作れますし」
俺は感嘆を漏らしながら、改めて彼女の被り物を見る。裁縫のことは分からないが、随分と器用なんだろう。
「二週間で、これが……。前回の白バラも凄かったですが、今日のは一段と凝ってますね。思わず叫ぶくらい」
「よだかは私が初めて作った被り物なんです。当時は本当に大変だったから……なんというか、思い入れも一入で」
懐かしむような口調には、どこか後ろめたさが滲んでいる。励ましの言葉をかけようとした瞬間、ふと頭に疑問が浮かんだ。
「……もしかして、宮沢賢治の‘’よだかの星”? だからお着物が星空柄なんですか?」
ぽろっと口をついて出た言葉に、彼女の肩が僅かに跳ねる。慌てて口を覆ったが、もう遅い。
その質問、今じゃない!
心の中で絶叫しても、口から出た言葉は戻らない。俺が無言で固まっていると、異頭さんは顔の前で人差し指を立て、まるで答え合わせでもするみたいに軽く振った。
「正解です! よだかの星、お好きなんですか?」
「すみません」
「なんで謝るんですか? 私は好きですよ、よだか。醜いと蔑まれて、明日までの命と脅されて……それでも灼けて小さく光るために死力を尽くせるのが凄いと思うんです。私も、よだかみたいに生きられたらいいのになって」
作り物の目が、すっと上を向く。蛍光灯が映り込んだ目は、爛々と輝いているようにも決して届きはしないと諦めているようにも感じられる。
まるで、よだかの最後のように。
なんだか胸がざわついて、俺は強引に話題を変えた。
「そのお着物、夜空みたいで綺麗ですね。もしかして星座柄ですか?」
露骨すぎただろうか?
そう思ったが、異頭さんは小さく頷いた。
「母が刺繍してくれたんです。目も良くないのに、作中の星座を丁寧に散りばめてくれて」
そう言って、彼女は夜空を指差すように、刺繍を一つずつ指先で辿っていく。
「この右袖にあるのがオリオン座で、胸元のが大熊座、左袖にある一回り大きな白い星が特徴的なのが鷲座。肩甲骨のあたりにカシオペア座があって、その横――」
彼女は正面の星座を粗方指し終えると、椅子の背もたれに腕を置き、体を捻りながら頸に手を当てた。
「――ほら、これ。ちょうど後ろ襟の下あたりには、燐の火のように青くて小さな六芒星の刺繍がしてあるんです」
するりと指先が六芒星をなぞる。
カシオペア座の隣で燃える青い星といえば、思い当たるものは一つしかない。
「もしかして、よだかの星?」
「そう思いますよね!?」
ずいっと身を乗り出す彼女の声は興奮で上擦り、体の揺れに合わせて被り物の羽が小刻みに羽ばたく。その勢いに圧倒されながら、俺は少しだけ首を傾げた。
「でも、なんで六芒星なんでしょう? 他の星は違う形をしているのに」
彼女が体を戻し、スッと顔を逸らす。弾んでいた声が曇り、よろよろと頭が落ちた。
「他の星は星座だから、でしょうか?」
「今度、確認されてみては?」
「それは、ちょっと……」
「……まさか」
息を呑む俺に、彼女が急いで首を振る。
「いえ、母は元気です。ただ、どんな思いで刺繍をしたのかを知るのは、どうしても……怖くて」
アイスコーヒーの氷が溶け、音を立てて崩れる。異頭さんは落ち着かない様子で指をいじると、何かに堪えるように柔く握り込んだ。
俺は彼女から自然に目を逸らそうと、無言でフラペチーノを啜った。季節外れな冷たさに、顎が痛む。
「俺も、よだかの星は好きです。でも、読むと胸が苦しくなるから、所々うろ覚えかもしれません」
「……よだかが可哀想で?」
「それもありますが……よだかが星になって、弟のカワセミはひとりぼっちになったでしょう? 自分を見て、必要としてくれる相手を置き去りにするしか方法はなかったのかと思うと、やるせなくなるんです」
ぐるぐるとフラペチーノを混ぜる。異頭さんが顔を上げる気配がして、俺も視線を戻す。
彼女は顎下の羽を撫でながら小首を傾げ、何やら考えこんでいるようだ。
「うーん。よだかは今も燃えているから、夜空を見上げるように伝えられたら、カワセミも辛くなくなるんでしょうか?」
「どんなに望んでも叶わないものを見続けるのは、辛いですから……。それに、上ばかり見ていたら首が痛くなっちゃいますし」
愛想笑いを浮かべながらストローを回す。溶けはじめてきたフラペチーノが、液体のように渦を巻きはじめている。
願いは叶わないと諦観を抱えて生きるのと、叶わなくても見上げ続けて生きるのとでは、果たしてどちらが幸福なのだろう。
中途半端な希望は、手のひらで掬う水のようだ。そこにあり続けることでしか、今を保てない。
「……優しいんですね」
異頭さんの呟きに、口角が歪んで自嘲が漏れる。
これが優しさであれたら良かったのに。
そんな綺麗なものじゃないことは、自分が一番よく分かっている。
「そんなんじゃないんですよ、本当に」
思いのほか低くなった声を止めるように、プラスチック細工の目が光を反射して揺れる。
優しさと弱さは違う。届かないものから目を逸らすことを優しさと言うのなら、俺は随分と優しい男になれるだろうが。
目を伏せる俺を見て、異頭さんは静かにアイスコーヒーを置いた。
「パグさんは優しいですよ。無闇やたらに聞いてこないじゃないですか」
「何を?」
「私が被り物をする理由、とか」
二人の間に沈黙が落ちる。院内のヒーリングミュージックが、はるか遠く聞こえた。
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